輪廻のトンネル:田舎老人徒然草:末路が分からない不安

2014年10月13日(月)
昨日は曇り。最高気温(℃) 19.6 14:21。最低気温(℃) 16.3 05:58。ざっそう句:青虫め キャベツの若葉 狙い食い。タマネギとシュンギク灌水。キャベツ2回目播種とサニーレタス苗を定植。両方本葉2枚程度。ササゲの後作。南北畝から東西畝に変更。苗が小さいので植えにくい。キャベツの苗箱の一角が青虫の食害を受けて葉がまばらになっていた。体色が葉色と同じで発見しにくいが6~7匹捕獲。大きさは10~15㎜程度。体長が大きくなると食害も大きくなる。サニーレタスは食害無し。青虫は若葉を食べ、双葉と芽の食害は無し。芽は軟らかそうに感じるが密度が高く固いのか。まだモンシロチョウは飛んでいる。間引き白菜を収穫。日射はほとんど無く、極薄い影が出た程度。それでも、苗は萎れる。一畝植える毎に軽く灌水。

2014年10月12日の天気(AMEDAS)

TAVE= 17.6 NO DATA
TMAX= 19.2 最高気温(℃) 19.6 14:21
TMIN= 16.5 最低気温(℃) 16.3 05:58
DIFF= 2.7
WMAX= 2.2 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 4.0(東北東) 15:54
SUNS= 0 NO DATA
RAIN= 0

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輪廻のトンネル:田舎老人徒然草:末路が分からない不安

人間、自分の末路が分からないと不安を感じるようだ。徒然草で人間の末路・祖先についての記事があったと高校古文の授業を思い出した。その部分を調べると、どうも以下のようだ。

「243:八つになりし年、父〔兼好の父、卜部兼顯、治部少輔〕に問ひていはく、「佛はいかなるものにか候らむ。」といふ。父がいはく、「佛には人のなりたるなり。」と。また問ふ、「人は何として佛にはなり候やらむ。」と、父また、「佛のをしへによりてなるなり。」とこたふ。また問ふ、「教へ候ひける佛をば、何がをしへ候ひける。」と。また答ふ、「それもまた、さきの佛のをしへによりてなり給ふなり。」と。又問ふ、「その教へはじめ候ひける第一の佛は、いかなる佛にか候ひける。」といふとき、父、「空よりや降りけむ、土よりやわきけむ。」といひて笑ふ。「問ひつめられてえ答へずなり侍りつ。」と諸人(しょにん)にかたりて興じき。 」

仏とはどんな者かと、さすが吉田兼好らしい質問を投げかけた。この前提に、人が死ねば仏になるという死生観があったのだろう。仏になる原因が仏だとすると、どこまで遡っても同じ事になってしまう。

Iob_mizukojizou_vs_bokefuujibosatu
それなら、生まれたばかりの嬰児や生まれる前の嬰児は死んだらどうなるか。多分、成人と同じような運命を想定したと思うが、もう一度生まれ変わって欲しいという願望も生じるのではないか。土偶もそのような現実から生まれてきたようだ。水子地蔵尊は、早世した生命の再生を願う対象のようにも見える。地蔵尊の足下に助けを求める嬰児がいる。地蔵尊が、嬰児を抱えている。この抱えられた嬰児は救済の象徴だろう。

写真左は、岡上景能の墓がある国瑞寺の水子地蔵尊である。写真右は世良田の長楽寺で見た「ぼけ封じ観世音菩薩」である。こういう菩薩像は初めて見た。ぼけ封じはまさに、当世庶民の願望である。水子の像に代わって、高齢の男女が救いを求めている像になっている。さすがに、観世音菩薩といえども、救いを求めている高齢者を抱き上げて救済できないようだ。

惚けは、見方によれば、非常に有難い、人間の相互扶助の基本を形成する生理現象と解釈できるのではないか。記憶と判断力が成人並の老人は、それこそ、扱いがたい存在になるのではないか。願わくば、年相応に惚けたいものだ。

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