田舎老人徒然草:萩原朔太郎の墓所参拝

2014年12月4日(木)
昨日は晴れ。最高気温(℃) 12.1 14:37。最低気温(℃) 5.1 02:02。ざっそう句:時ならず ウグイス泣かす 大将軍。丹波の黒豆選別品天日乾燥。別区分の選別終了。まだ畑で乾燥中の物が残っている。莢が爆ぜて粒が落ちるのは良品、莢に入ったままの物は良品有り、虫食い有り、未熟有りと様々。この比率も多く、莢を開いて粒を出す作業に相当な時間がかかる。良品が少なく黒いダイヤだ。小豆を翌年用に保管した時、殆どの粒が虫食いになり、廃棄した。粒を食べる虫の蛹や卵が混入していたようだ。保管するにも注意が必要だ。自働蒔きダイコンと白菜を収穫。風に乗って選挙カーの音声が流れてきた。天気は全国的に荒れ模様だったようだ。

2014年12月3日の天気(AMEDAS)

TAVE= 8.3 NO DATA
TMAX= 11.9 最高気温(℃) 12.1 14:37
TMIN= 5.3 最低気温(℃) 5.1 02:02
DIFF= 6.6
WMAX= 8.3 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 14.8(西) 11:34
SUNS= 9 NO DATA
RAIN= 0

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田舎老人徒然草:萩原朔太郎の墓所参拝

先日、地域の歴史グループ主催の史跡巡りに参加した。最初の訪問先が萩原朔太郎の墓所だった。予習もしないでいたので、萩原朔太郎の墓と言われても、さっぱりイメージが湧いてこない。とりあえず、デジカメに納めようとした。その後、デジカメが不調になったので、画像が残っただけでも運が良かったのかも知れない。

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寺は、前橋市田口町にある真宗大谷派の白法山政淳寺(しょうじゅんじ)との事。説明板によると、萩原朔太郎は元榎町にあった政淳寺の萩原家の墓に埋葬されたらしい。政淳寺の移転に伴い、現在の墓になったようだ。青空文庫の萩原朔太郎の作品の中の「墓」を検索すると、萩原朔太郎が墓に抱いたイメージが浮かんでくる。

以下の「墓(http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/395.html#ANK8)」という作品は青空文庫からの引用である。

「墓 : これは墓である。蕭条たる風雨の中で、かなしく黙しながら、孤独に、永遠の土塊(つちくれ)が存在してゐる。   何がこの下に、墓の下にあるのだらう。我我はそれを考へ得ない。おそらくは深い穴が、がらんどうに掘られてゐる。さうして僅(わず)かばかりの物質――人骨や、歯や、瓦(かわら)や――が、蟾蜍(ひきがえる)と一緒に同棲(どうせい)して居る。そこには何もない。何物の生命も、意識も、名誉も。またその名誉について感じ得るであらう存在もない。   尚(な)ほしかしながら我我は、どうしてそんなに悲しく、墓の前を立ち去ることができないだらう。我我はいつでも、死後の「無」について信じてゐる。何物も残りはしない。我我の肉体は解体して、他の物質に変つて行く。思想も、神経も、感情も、そしてこの自我の意識する本体すらも、空無の中に消えてしまふ。どうして今日の常識が、あの古風な迷信――死後の生活――を信じよう。我我は死後を考へ、いつも風にやうに哄笑(こうしよう)するのみ!   しかしながら尚ほ、どうしてそんなに悲しく、墓の前を立ち去ることができないだらう。我我は不運な芸術家で、あらゆる逆境に忍んで居る。我我は孤独に耐へて、ただ後世にまで残さるべき、死後の名誉を考へてゐる。ただそれのみを考へてゐる。けれどもああ、人が墓場の中に葬られて、どうして自分を意識し得るか。我我の一切は終つてしまふ。後世になつてみれば、墓場の上に花環を捧(ささ)げ、数万の人が自分の名作を讃(たた)へるだらう。ああしかし! だれがその時墓場の中で、自分の名誉を意識し得るか? 我我は生きねばならない。死後にも尚ほ且(か)つ、永遠に墓場の中で、生きて居なければならない[#「生きて居なければならない」に二重丸傍点]のだ。   蕭条たる風雨の中で、さびしく永遠に黙しながら、無意味の土塊が実在して居る。何がこの下に、墓の下にあるだらう。我我はそれを知らない。これは墓である! 墓である!(『新文学準備倶楽部』1929年6月号)」

Googleで青空文庫萩原朔太郎作品中のキーワード「墓」を検索(https://www.google.com/webhp?hl=ja&gws_rd=ssl#safe=off&hl=ja&q=%E5%A2%93%E3%80%80site:http:%2F%2Fwww.aozora.gr.jp%2Fcards%2F000067%2F)。

思うに、墓は現世の因縁や生死の象徴にもなっているだろう。萩原朔太郎の墓所を参拝して、人様々な印象を受けたと思う。人類が生死を考えるようになってからこの方、墓制や葬送はずっと存続しているように感じる。墓へ行けば、現世のしがらみから一時でも解放され、自由な思考を許してくれるのではないか。

萩原朔太郎の墓そのものはなかった。萩原朔太郎は萩原家の一員として、萩原家の墓に埋葬されている。萩原朔太郎にとってもそこが安住の地だったに違いない。

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