寝言老人が幼少の頃:学校給食の思いで;貧乏を 知らずに遊ぶ 裸の子。20190723。

2019年7月23日(火)
昨日は曇り後雨。ざっそう句;貧乏を 知らずに遊ぶ 裸の子。午前、宅内閑居。携帯に知らない番号から着信があった。インターネットで調べると少し怪しそうなので削除。幾つか用事が溜まったので午後から用事外出。郵便局でハガキ投函2件。支払い1件。次に車検の処理。暇なので、雑談が長くなった。次にスーパー二軒を回った。価格が安めの、大根、キャベツ、タマゴ等を購入。他に依頼1件。次に米穀店。ここでも少し油を売る。次に書店。外は小雨になっていた。ほぼ予定時刻に帰宅。最近、子供の貧困という言葉を良く聞く。貧困とは社会・経済的な概念だろう。そう思うと、「子供の貧困」という言葉の使い方に何か違和感を感じる。貧困の本質に迫って根本解決をしようという迫力を「子供の貧困」という言葉の使い方から感じないのだ。感じるのは現象論・諦念程度だ。ともかく、社会の歪みを言葉で切り刻んでも掬いきれない現実が残る。それが、最近多発している各種事件の温床になっているのでは無いか。終戦直後にも貧富の差はあったと思うが、物が無いのはほぼ平等だった。苛めもあったが、現代のように陰湿では無かったと思う。水遊びをする幼児はフルチン・フリチンだった。さすがに高学年になるとサルマタを着用した。水泳パンツをはいたのは学校でプールに行った頃からだろう。伊勢崎市民プールは、昭和46年の開設だったらしい。幼少の頃プールで泳いだ記憶は無い。

「ハトよ 鳴いておくれ:愛しき古里:鯉沼の古木は残るか?(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2014/05/2014-246d.html)。(2014年5月 7日 (水))」

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寝言老人が幼少の頃:学校給食の思いで

1947年に伊勢崎市の学校給食が始まったようだ。多分、午前中で授業が終わる低学年では給食は不要で無かったと思う。はっきり記憶していないが、小学校4学年頃からだろうか...。

「学校給食の思い出(改題):日々食べて生きる:給食は永遠の課題。081230。(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2008/12/post-8516.html)。(2008年12月30日 (火))」

最近では、給食費の公費負担が話題になっている。当時の給食費は、専用の紙袋に入れて毎月支払ったと思う。金額は覚えていないが、子供が多いと親の負担も大変だと今になって思う。今日でも、給食費未納問題という話を聞く。昔は、給食費補助という制度があったのか知らないが、貧困の思い出として学校の昼食の時間は外で過ごしたという話を聞く事もある。ともかく、義務教育の小中学校の時は、給食があったおかげでひもじい思いをした記憶は無い。

高校時代は学校給食は無かったので、昼飯は基本的には弁当であった。アルミの弁当箱に飯を詰めて、おかずが海苔や卵焼き程度、家が忙しい時は弁当を持参できず、学校の近くの店でパンを買ったりして空腹を凌いだ。

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項目 日積温 残日 通日 通積温 TA TX TN TD WX SN RN 瞬低T 瞬高T 瞬風
DATA 546.7 162 203 66717.0 22.8 24.3 21.7 2.6 1.9 0 2 21.6 24.8 4.1(東南東)
時刻等℃   D m/s H mm 06:36 14:15 00:06
2019年07月22日 伊勢崎(イセサキ) 1年の 56% 経過       AMEDASへのリンク


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