2009/1/6
中江藤樹の母
多分、絵本で読んだのだろう。雪の降る中、若き藤樹は母を思い家に帰る。しかし、藤樹の
母は、一度学問を志し家を出たのだから、その志を遂げるまで家に帰ってはならぬと藤樹を
泣く泣く押し返したという話を絵にしたものだったようだ。孟母三遷のたとえも同じような意義
があるだろう。母が子供の成長にあたえる影響である。こういう逸話は結果が先に生まれて
から生まれてきたのかもしれない。さすが、立派な人物の母は立派であった、いや立派でな
ければならなかったいうべきか。自分の志がくじけそうになった時こういう話を思い出すと励
みになるかもしれない。記憶の片隅にこの絵本の事が残っているのは、それなりの意義があ
ったのだろう。しかし、かなうことならば藤樹や孟子に自分の母の事を語ってもらいたい気も
する。ついでに藤樹や孟子の母に自分の息子の事を語ってもらいたい。子供の動機付けに
関して母親の影響は相当に大きいことに昔も今も変わりはないであろうが。歴史には不案内
であるが、中江藤樹は陽明学者で私塾藤樹書院を開いた民間の教育者であった。また、幕
末の尊皇攘夷運動は陽明学に影響を受けているとのことである。江戸幕府が終焉して、明
治維新を迎え、近代化社会として今日に至っているわけであるが、その流れの源流にこうい
う人がいたのであろう。高等学校 学習指導要領 社会科編 昭和31年度改訂版によると、高
校の社会科は社会・日本史・世界史・人文地理の4科目をもって再構成された。社会を含め
全員に3科目履修させた。今、振り返ると自分は高校の日本史を選択から外していた訳であ
る。日本史は、その気になればいつでも出来るであろうという意識もあった。しかし、社会に
出て学生という身分がいかに貴重であったかに気付くわけだ。目先のことしかできない。よう
やく、時間的なゆとりがとれるようになり、やり残した空白を埋めてみたい思いがする。