2010/12/19
国定忠治生誕200年(没後160年):国定忠次の処刑
上毛新聞で国定忠次関連の連載が始まった。やはり、国定忠次には人を引きつけるオーラがあるようだ。人間は何事も白黒をつけたがる。しかし、白黒のだけの世界は真実を完全に表しているのか、表すことができるのか。0(ゼロ)と1の間に中間の値があるようなアナログの世界住むことによりにわれわれ人間の気持ちも和むのではないか。国定忠次という人物も自分の意識の中では曖昧な存在ではある。しかし、何かの機会に国定忠次が意識の上がってくる。それを再度、思い出してみようと自分のブログ記事を検索してみた。
国定忠治生誕200年:http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2008/10/post-a263.html
雑草句録:羅漢業:http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2010/11/post-c60f.html
戦時中の病人:http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2009/07/post-6a65.html
栴檀の花:http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2009/04/post-f074.html
古墳盗掘の昔話:http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2008/12/post-3972.html
八幡沼開鑿と川端宇兵衛翁:http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2008/11/post-d6f7.html
先月頃、ある人が国定忠次生誕200年イベントに関する新聞記事のコピーを持ってきてくれた。それを興味深く読んだ。イベントも大々的にやるとなるとその手当が大変である。評価の定まらない人物を中心にしたイベントとなると尚更であろう。実は、上植木水利組合が主催した「川端宇兵衛 生誕200年記念講演」も国定忠次生誕二百年と無縁ではなかった。国定忠次という人物を参照することにより地域の歴史を振り返る事ができた(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/wp06b.html)。国定忠次の磔刑の様子は高橋敏著の本を読んで脳裏に焼き付いていた。この磔の刑で、誰もが思い出すのはイエス・キリストの事であろう。現役時代に、出張先訪問の空き時間にたまたま入った書店で遠藤周作の文庫本を買った。書名はもう忘れている。その中に処刑具としての十字架についての記述があったと思う。十字架上にはりつけられ、力が尽きて身体が緩むと、身体の重みを受けて受刑者の身体を更に痛める仕掛けがあったと記していたと思う。十字架とは受刑者が完全に命が尽きるまで受刑者を苛む装置でもあったという事をあの遠藤周作氏が書いていたので今も忘れることができない。遠藤周作氏は十字架の重さをそれとなく教えてくれたのだろうか。国定忠次磔の様子を高橋敏氏の本で読んだ時も感銘を受けた。国定忠次が処刑されたのは嘉永3(1850)年12月21日である。もうじき命日となる。今年は国定忠次生誕二百年であると共に没後160年であり、国定忠次生誕200年と共に没後160年を振り返るのも意義あることであろう。