読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(5)。20101218。

2010/12/18

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(5)

○「親子の絆を切々と」の章

著者は「彦九郎は生涯正妻を持たなかったが、三十二歳の時に太田大島の天野嘉右衛門の娘しもとの間に長女せいが生まれている。」と述べ、それに続けて隣村藤阿久の名主加村太兵衛の娘さきとの間に次女さと、長男義助、三女りよをもうけたと述べている。高山彦九郎記念館の資料「高山彦九郎親族一覧表(http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/sinzokuitiran.htm)」によれば、しもを正妻、さきを後妻・妾と記している。
著者は、「彦九郎はただ一人の男子である義助に孔子に孝道の書、孝経を読めと奨めている。その時の歌は

■忘るなよ親につかふるその道の 教へにのこす古へのふみ

である。孝の道こそが忠の道に通う大道であるという彦九郎の思想がそこにあったのである。」と述べている。義助八歳の時である。孝経とは知らずに「身体髪膚これを父母に受く」と小学生の頃教えられた事を記したことがある(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2010/02/post-05a8.html)。「身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝の始めなり。身を立て道を行ひ、名を後世に揚げ、以て父母を顕はすは、孝の終りなり。」と徳目を並べると、確かに高山彦九郎の行動の源泉が見えてくるように感じる。たとえ、彦九郎がこの歌を示して、八歳の義助に孝道を教えたとしても、その本当の意味が分かるには余りにも若すぎるように感じてしまう。彦九郎の自刃が四十七歳の時で、義助は十四歳の筈だ。義助は彦九郎の残した歌や書き物から父の姿を学んでいったのではないか。前記、高山彦九郎親族一覧表」によれば、義助は「寛政6年(1794)6月21日、剣持長蔵とともに久留米に行き、遍照院で彦九郎の法要を行う。享和3(1803)6月、再び久留米の彦九郎墓を訪ねる。山田郡桐生新宿(桐生市)常見善五郎へ入り婿。孫の石九郎に高山家を再興させる。 」とあり、孝を自ら実践したように見える。

追記:昨日は又悲惨な通り魔事件があった。「あえて毀傷せざるは孝の始めなり。」という一行を改めて思う。人間関係が余りにも希薄になってしまった現代も気になる。昨日の天気。通常最低気温になるのは早朝である。昨日のアメダスデータでは6時に0.9℃を記録した。未だ氷点下にはならなかったが、一面降霜で白くなり、畑のポリ桶には数㎜の結氷があった。いよいよ本格的な冬の到来である。本日の最高気温の予測も10℃以下。防寒対策が必要だ。

追記(2020/04/24):ランキング3位に入っている。実は当サイトからのアクセスも加算されている様子。いつ頃の記事か分かるようタイトルに投稿期日を追加。ついでに高山彦九郎像もここに追加。



原ファイル名=「IOB_2020_TAKAYAMA_HIKOKUROU_高山彦九郎=2_2_20200424.jpg」
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■朝仕事靴下二枚霜氷

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