方丈記切読9:いとしきもの
2010/3/10
方丈記切読9
「それ三界は、たゞ心一つなり。心もし安からずば、牛馬七珍もよしなく、宮殿樓閣も望なし。今さびしきすまひ、ひとまの庵、みづからこれを愛す。おのづから都に出でゝは、乞食となれることをはづといへども、かへりてこゝに居る時は、他の俗塵に着することをあはれぶ。もし人このいへることをうたがはゞ、魚と鳥との分野を見よ。魚は水に飽かず、魚にあらざればその心をいかでか知らむ。鳥は林をねがふ、鳥にあらざればその心をしらず。閑居の氣味もまたかくの如し。住まずしてたれかさとらむ。』そもそも一期の月影かたぶきて餘算山のはに近し。忽に三途のやみにむかはむ時、何のわざをかかこたむとする。佛の人を教へ給ふおもむきは、ことにふれて執心なかれとなり。今草の庵を愛するもとがとす、閑寂に着するもさはりなるべし。いかゞ用なきたのしみをのべて、むなしくあたら時を過さむ。』」
バラモン教には人生の四住期という考えがあるようだ。その第三が臨終期ではなく林住期。
馬鹿なATOK?ともかく隠棲の動機や効用も時代、国等により様々なようだ。今日、日本で
隠棲すれば死んだも同然になってしまうのではないか。実力を持ちながら惜しまれて引退に
は拍手を送りたい。働き盛りに数年間充電の為の隠棲。理想だ。ワークシェアにもなるので
は。仏陀の出家の動機は深い。覚りも深い。結局、仏陀はその悟りを広めるためにまた人界
に戻ってきた。四住期の最後が遊行期。WIKIPEDIAによると一定の住所をもたず乞食遊行
する時期とある。興味ある生き方だ。そういえば、終戦直後は乞食が家を回って来たのを覚
えている。腹一杯食っている訳ではないが祖母等は一握りの米を恵んでやった。確かに執着
心を絶てば怖い物も無くなるのだろう。今日はまわりは、怖い物ばかり。「乞食となれることを
はづといへども、」という一言に長明さんの自尊心がのぞく。しかし、無言で頭を垂れて、差し
出されたわずかな物を頂く姿には崇高ささえ感じるのが今日の実状だ。