02A5_三軒屋遺跡シンポジウム2011/11/13

02A5_三軒屋遺跡シンポジウム2011/11/13

1.開催概要(シンポジウム資料)
会場:赤堀芸術文化プラザ
日時:平成23年11月13日(日曜日)
     午前10時から午後3時30分まで
内容:調査報告「三軒屋遺跡の調査成果」         伊勢崎市教育委員会     出浦 崇氏
     講演 「考古学的にみた三軒屋遺跡の評価」   奈良文化財研究所       山中敏史氏
         「文献史学からみた三軒屋遺跡の評価」 市文化財調査委員       前澤和之氏
         「三軒屋遺跡の評価と保存・活用」     文化庁記念物課         近江俊秀氏
     討論 「佐位郡衙正倉と八角形建物」 司会   群馬県教育委員会       洞口正史氏
                       パネラー                報告者、講師                   各氏
                                               群馬県教育委員会       深澤敦仁氏
                                               勢崎市立殖蓮小学校      亀山幸弘氏
                                               伊勢崎市立第二中学校   齋藤 聡氏

2.三軒屋遺跡シンポジウム印象雑記  ~思いつくまま~
当日は秋の深まりを感じさせる晴天。自転車で粕川の東岸を通り会場に向かった。赤堀の粕川周辺はあの昔懐かしいパルビゾンに匹敵する田園風景を色濃く残している。稲の刈り取りが終わった水田が広がっている。正倉とは律令時代の国税であるコメを保管する倉庫。古代も現代も川と水田と米は三位一体であることに変わりがないと思った。我々の祖先達は、千数百年も昔から粕川周辺で米を作ってきたのだ。ところが、農業従事者は高齢化して、後継者も定かでない。TPPで安い外国産の米が農家を更に追いつめようとしている。今年亡くなったある人が言った。一緒に歴史話をした人だ。八幡沼の碑のような立派な碑を作っても、百姓はそんな碑を読むことも出来ず、汗水垂らして働くだけだ。その人は百姓。自分も百姓のせがれだ。その人は生きていれば、シンポジウムに行っても何の足しにもなるまいと言ったかもしれない。それでも三軒屋遺跡シンポジウムに向かった。三軒屋遺跡は自分にとってどんな意義があるのか。三軒屋遺跡は地中に刻まれた地域の歴史を語る記念碑ではないか。

伊勢崎市文化財調査報告書第79号 「三軒屋遺跡 Ⅰ」のⅠの「調査に到る経緯」によると、「三軒屋遺跡は伊勢崎市に上植木本町に所在し、古墳、奈良、平安時代の遺跡として認定されていた。しかし、これまで発掘調査が実施されたことはなく、遺跡の性格等、不明であった。」と記されている。いわば、遺跡としては三軒屋遺跡は雑魚扱いにされていたのだろう。一方、上植木廃寺遺跡は、出土物も多く、発掘調査が行われて、その調査報告書も作成されていた。また、上武道、北関東自動車道の建設に伴い、戦後の遺跡発掘は数多く行われている。見方を変えれば遺跡破壊が急速に進んだ事になる。発掘調査があるから、金もかかり、工期も遅れるという批判も少なからずある。果たしてそうだろうか。遺跡こそ多くの世代を越えた世代をつなぐタイムカプセルではないか。過去の事が分からなければ、現在も未来も分からない。そんな事を考えながら会場に入った。

調査担当の出浦氏の報告からは、数次の発掘を通して見えてきた三軒屋遺跡が雑魚どころか、地域の古代史を塗り替える予想外の大物であり、それを必死に追いつめようとする姿が伝わってきた。三軒屋遺跡の周辺には上植木廃寺遺跡や古代道路遺跡である、南久保遺跡、大道西遺跡等がある。この南久保遺跡、大道西遺跡については、群馬県埋蔵文化財調査事業団勤務から殖蓮中学校教諭になった齋藤氏の報告があった。出土したモモ核の年代測定から三軒屋遺跡と大道西遺跡の時代は重なるとの事だ。三軒屋遺跡と周辺遺跡との関係はまだ状況証拠段階で、いくつも点が点在しているが、それを結ぶ線が謎でまだ完全に解けていないと自分なりに受け止めた。

三軒屋遺跡を完全に捉えるためにはハードの発掘調査だけでは不十分だ。それを補うのが「文献史学」だ。前澤氏は「上野国交替実録帳(長元3年/1030年)」はパズルのようで、一筋縄では扱えないと蘊蓄を傾ける。その訳はこの文書作成時点で無実(既に存在しない)の物件を記録したものである。正倉が立てられたのは7世紀末~8世紀と推定されているが、その年代特定も調査中というのが実状のようだ。文献と史実は300年程度の隔たりがあるわけだ。山中氏は各地の郡衙、正倉を横断的に研究されており、正倉の構造、成立、発展等の解説があり、三軒屋遺跡を特徴付けるため示唆を与えた。八面甲倉は正倉建設時に最初からあったか否かの議論もあった。これは仏教の伝来と佐位郡での普及活動と連動するダイナミックな動きの中で捉える必要がありそうだ。

深澤氏は多田山古墳の発掘調査を担当したとの事で「伊勢崎地域の終末期古墳」というテーマで報告した。多田山15号墳と上植木廃寺を結ぶ地域有数の豪族の存在が想定できる事を、多田山15号墳の石室の技術から想定されている。地方の豪族が仏教や漢字等の精神文化とどのように関係するのかは興味あるテーマに違いない。近江氏は「三軒屋遺跡の評価と保存・活用」というテーマで講演された。予め「評価」の問題に釘をさして講演に入った。律令国家が出来て、全国に大きな直線道路を張り巡らせたというスケールの大きな話であった。この直線道路が条里制の基準線になっており、田畑を升目に区切ることにより収税を簡素化できるというような話も興味が湧いた。駅路と郡役所は不可分一体が原則だが、群馬はどうかと言う示唆もあった。遺跡の保存・活用は市民が主役ということで、いろいろな取り組みの紹介もあった。その最初のステップが、「歴史を知るよろこび・触れるよろこび・考えるよろこび」と話された。会場に来た聴講者の年齢層を見てなんだ年寄りばかりかと愚痴ることもなく、文化財の保護の重要性をそれとなく伝えてくれたようだ。

亀山氏は自分が学んだ小学校の先生。群馬県埋蔵文化財調査事業団にも在籍したらしい。「地元文化財を利用した小学校での教育 ~学校の校庭が三軒屋遺跡である殖蓮小学校での実践教育を通して~」というテーマで発表があった。母校での地域古代史の展示や授業を様子を聞いて昔から比べたら今の小学生は幸せだなーと感じた。

自分のうまれた地域には、高山、行者山、丸塚山という三つの古墳があった。幼少の頃、高山のふもとで、白い骨らしき物を拾った。膝蓋骨のようだった。それを母に見せると、気味悪がって、線香を立てて置いてきなと言われた。その高山も行者山も現在は見る影もない。丸塚山も一時は土建業者が土を掘り出して山を崩し始めたが、何とか阻止されて元に姿を取り戻した。文化財に指定されれば遺跡の破壊は免れるかもしれないが、それだけでは勿体ない。高山、行者山、丸塚山は自分が幼少の頃は生活や遊びや地域行事の場であった。遡れば行者山、丸塚山には祠があり信仰の場でもあった。開発と遺跡の保護は相反する面があるが、遺跡の保護という意識がなければ、開発は無制限に進んでしまう。

シンポジウムの司会は洞口氏が担当。専門は炭化種実類の調査との事だが、三軒屋遺跡ではまだ出番が無いとのことだ。亀山氏の報告では、小学生は権現山、古墳等には興味があるが、三軒屋遺跡への興味は弱いとの事だ。現代は五感と言えども即物的でないと相手にされない。シンポジウムでは、モデルを作ったり、CGで画像を作ったりと色々アイデアがでた。一層のこと八面甲倉の実物大建物を造ったらどうだろうという提案も出た。八面甲倉は作りも特別だが、その役割も特別にあったとの事。八面甲倉は国が管理する法倉として飢饉等の救荒用の、いわば非常食倉庫の役割があるとのこと。それは律令制度の頂点にいる天皇の思し召しとう意味もあり、仏教という新しい思潮による地方の統治とも関係があるようだ。だが、これは上から目線で、地方が国家統一という流れの中でどのように生きて行くのかという下から目線の見方も面白いのではないかと思った。八面甲倉が仏教に関係があるとしても小学生にはイメージが難しそうだ。

冒頭に書いたとおり、佐位郡の稲作は既に三軒屋遺跡の正倉建造以前からあるのではないか。千数百年の農業業の歴史の中で江戸時代末期の飢饉等は色々な記録が残っている。三軒屋遺跡がある上植木地区も干魃で困った時代がある。江戸末期、この問題を解決するため地域農民は川端宇兵衛という指導者の元で、八幡沼(通称新沼)の開鑿をした。2014年に開鑿150年を迎える。平成22年2月7日に川端宇兵衛 生誕200年記念講演会が開催された時、弁天島の工事をした事がある聴講者は、弁天島には古墳があるという話をした。古墳時代は、粕川東岸と西岸は古墳の集積地だったようだ。いまの八幡沼があった所に、八幡宮という社があったと伝えられられている。現在、その八幡宮は上植木神社に合祀されている。八面甲倉が中央政府の権威や仏教の慈悲の心を領民に示すシンボル的な役割を持つとすれば、八幡沼は地域住民が古代の古墳と知ってか、知らぬ共も崇拝の対象としていた社を残しつつ、干魃や飢饉に備えたより近代的・合理的施設である事は確かである。

更に、権現山にまで時代を遡れば、そこは旧石器時代だが、三軒屋遺跡周辺は、穏やかな岡あり、川あり、林ありとう原始的な生活にも最適な地域であった事が想像される。三軒屋遺跡は丁度、西の粕川と東の男井戸川の間に挟まれた舌状台地の上にある。山の幸、川の幸が豊かな地域であった。終戦後でも、川ではウナギやナマズ、フナ等の川魚が捕れた。郡衙があるとすればこの台地に沿っているだろう。権現山遺跡を調査して旧石器時代の存在を無名の考古学者であった相沢忠洋氏であった。その後、色々な旧石器時代の遺跡が発掘調査されたが、何とその多くが捏造であったと判明したのも記憶に新しい。相沢忠洋の「赤土への執念」を読むとそれがロマンを超えた、まさに人類の歴史の解明を希求して止まない一人の人間の姿に出会うのである。

足元には、誰も振り返らない遺物が数多くあり、それらが声をかけてくれ、発見してくれと相沢忠洋に迫ってきたのではないか。そのメンタリティは、川端宇兵衛や国定忠治とも繋がるのではないか。郷土史家の大塚先生は国定忠治は再評価に値すると講演で述べている。群馬県も伊勢崎市も、限りなく謎も多いが魅力のある歴史の素材という宝庫を豊富に持っている。このような叫び声に耳を傾ける時、遺跡は先人達の生き様、人間として生きる意味も教えてくれるのではないか。このような宝物の存在に気付けば地域の老若男女も目をそちらに向けるのではないか。多くの遺跡をつなぐ元になる点の存在とその内容は徐々に解明が進んでいるが点と点を結ぶ線と線を引き延ばした面の中ではまだまだ謎が多い。おそらくその謎は、学問的には永久に解けないかもしれない。逆に、時代を縦軸に、点と点をつなぎ線を作り、さらに面へと広げて行く作業は知的興味をそそるのである。子供達にも是非地域の歴史に興味をもってもらいたいと願う所以である。

今回の三軒屋遺跡シンポジウムはその謎を解明する手がかりになるのかもしれない。ぜひそうなってほしいものだ。シンポジウム冒頭に、三軒屋遺跡のマスコットキャラクターとして地元小学生が作成した「はっそう君」を選定したと紹介があった。地域の歴史や遺跡に関心を持つ小学生がいることに心強さを感じた。これらの小学生が大きくなってから、更に深く三軒屋遺跡や地域の歴史を知り、愛し、理解できる環境を残してやりたい。尚、今回のシンポジウムに際しては、61ページもある大変立派な「三軒屋遺跡シンポジウム資料集」が、参加者に配布された。三軒屋遺跡に関心がある人には垂涎の資料と思う。有償でも(出来るだけ安価に)希望者に配布していただきたいと希望する。できれば、PDFファイルとして市のホームページで無償配布していただきたい。シンポジウムは有識者が公開で交わした議論でもある。八面甲倉の建てられた時期についても色々議論があったと思う。このような議論の成果も市民が分かる形でまとめて公表し、次の段階の調査等に役立ててもらいたい。(2011/11/21)

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