愛しき古里:いせさき明治館100年物語
2012年7月10日火曜日
昨日は晴れたり曇ったり。雨後なのでパソコン環境の手入れをする事にした。たまたま、安価になってきたので買った8GのUSBメモリーがWIN MEで使える仕様と表記されていた。WIN MEで安心して使えるのは2Gまでと思っていた。一応8Gを認識したのでデジカメデータをそちらに移すようにした。余ったHDDを転用した自作のUSB HDDにパソコン本体から追い出されたデジカメデータが入っているので、そのデータを8GのUSBメモリーにコピーして活用したいと、コピーを開始した。数Gbのデータ量なので、残り時間数十分と出た。ちょっと一服。なかなかコピーが終わらない。そのうちに、カウントダウンタイマーの桁数が8桁、1000万分台を表示して表示が不安定になったが、コピーは続行している模様。暴走してデータが壊れたら悲惨だ。何とかコピーは終わったが、パソコンに釘付けされてしまった。調べてみるとコピー残りが1フォールダー分あったので追加でコピー。しばし懐かしい画像を眺めた。
2012年7月9日の天気
TAVE= | 24.6 | |
TMAX= | 29.5 | 最高気温(℃) 30.1 17:04 |
TMIN= | 19.9 | 最低気温(℃) 19.9 05:05 |
DIFF= | 9.6 | |
WMAX= | 2.9 | 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 6.7(東北東) 16:49 |
SUNS= | 4.9 | |
RAIN= | 0 |
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愛しき古里:いせさき明治館100年物語
「いせさき明治館」が今年で建築後100年を迎えるので、それを記念してイベントが計画されている。元々は、明治45年に、伊勢崎藩医であった今村家が建てた、和洋折衷の二階屋である。左右対称で均整がとれて、当時としては近代化の象徴であったと思う。振り返ると、明治100年を迎えたのが丁度45年前の事になる。
「明治百年記念式典
。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%99%BE%E5%B9%B4%E8%A8%98%E5%BF%B5%E5%BC%8F%E5%85%B8。(最終更新 2012年5月26日 (土) 12:12 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「明治百年記念式典(めいじひゃくねんきねんしきてん)は、日本の元号が明治へ改められた1868年10月23日(慶応4年9月8日、明治元年9月8日)から満100年を記念して、1968年(昭和43年)10月23日に挙行された日本政府主催の式典。概要 [編集]
明治改元100年を記念して、1968年(昭和43年)10月23日午前10時半から日本武道館で、政府主催の「明治百年記念式典」が開かれた。昭和天皇・香淳皇后をはじめ常陸宮正仁親王・正仁親王妃華子、閣僚、国会議員、在日外交団、各界代表、青少年代表ら約1万人が出席した[1]。 式典は、田中総理府総務長官の開会のことばで始まり、全員が国歌を合唱したあと、佐藤栄作内閣総理大臣が式辞を述べた。天皇のことばに続いて、小平久雄衆議院副議長、重宗雄三参議院議長、横田正俊最高裁判所長官、フレーチャ・トーレス在日外交団長の順序で祝辞があり、このあと近衛秀麿指揮のNHK交響楽団がワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲を演奏、続いて青少年代表が「若人の誓い」を述べた[1]。 次いで、明治100年頌歌「のぞみあらたに」の合唱が行なわれる中、日本体育大学の男女学生約130人による体育演技「若人の躍動」がくり広げられ、再びNHK交響楽団がヘンデルの「王宮の花火の音楽」を演奏。佐藤総理大臣の音頭により万歳を三唱。午前11時20分に終了した[1]。」
我々、戦後世代は、この明治時代と同じ長さを生き、明治百年と明治が終わって百年という時の流れを体験・評価できる世代だろう。振り返ってみると、この明治時代の45年間と明治100年後からの45年間は、文明の進歩という点で極めて類似しているように感じる。物質文明と言う点での進歩はその両期間で著しかった。しかし、精神文明という点ではどうだろうと考えると、明治時代は和魂洋才という自負心があった。物質のため精神は売らないというやせ我慢をした。そういう、先人のやせ我慢のおかげで、日本は精神的には、西洋の属国にならずに済んだ。一方、そのやせ我慢が高じて暴走してしまった苦い経験もしてきた。西洋の物質文明の下層には底知れない精神文明が潜んでいるのではないか。その部分を自家薬籠中にしなければ、文化の両輪は揃わないのではないか。
いつか、「いせさき明治館」を見学して、そこに展示されていた棟札に感動を覚えた。家を建てる仕事の全責任を持つのが棟梁。施主はその棟梁にすべてを任せる。棟梁と施主の位相がぴったり合った時に理想的な建築ができる。それは、現代でも変わらないと信じたいが、現実はそれほど、理想的な状態でもないようだ。今村医院邸は後に黒羽根内科医院邸となり、現役だったが、医院新築に伴い、旧邸は伊勢崎市に寄贈され、現在位置に曳き家移転された。この曳き家移転や文化財としての保存には多くの市民や団体が関わったと聞いている。この曳き家移転の時に、棟札が発見され、この建物の由来が判明したとの事だ。そう言えば、我が家にもどこかに棟札があるかもしれない。棟札ではなくとも、技術者、芸術家は会心の作品ができた時は、自分の名前をどこかに残そうとするだろう。
「マイクロコンピュータの誕生 わが青春の4004」 嶋正利著 (1987年 株式会社岩波書店)に、著者が8080のチップに家紋を入れた記事を読んで感銘を受けた事を思い出す。こういう心意気を、今村医院邸の棟札にも感じる。自分が小学校4年の時、ブラジルへ移住した同級生がいる。彼が、息子を連れて、日本に仕事に来ていた時、ひょっこり我が家を訪問した。当時は、もう二度と会えないだろうと悲しんだ。その息子に、どんな仕事をしたいか聞いた。彼は、それをブラジル語で通訳して息子に聞いた。技術の仕事をしたいと答えが返ってきた。それを聞いて、前記の嶋氏の本を記念に渡して、自分はもう一冊買い求めた。
「いせさき明治館」を見学して、確かに、洋間だけでなく、和室もあり和洋折衷という表現もあながち、外れてはいないだろう。しかし、もう一度、デジカメ画像を眺めると、和魂洋才という精神面もこの建物に込められているのではないかと思った。
☆☆⇒いせさき明治館の画像はここをクリック(撮影2009年夏頃)
meijikan_munafuda_v.jpgをダウンロード (明治館の棟札)