読みかじりの記:原子力神話からの解放-日本を滅ぼす九つの呪縛 高木仁三郎 著 (2011年 講談社)
2011/8/21
昨日は雨。気温も低くなり体調管理が必要だ。脚立昇降の作業は疲れる。骨休めに起動不安定のパソコンXP機BIOSのUP DATEを試みた。POWER SWオンで12VのCPUファンが回転、キーボードのLEDも点灯。ATX電源は起動している筈。FDはアクセス音無し。CHECK SUMエラー云々という表示が出たりするのでBIOSを疑った。一応現行BINARYデータをコピーで残してから書き換え。BIOS起動画面からUP DATEを確認。結果は?しばらく様子を見る。何とか動いている。(XP)
2011/8/20の天気
TAVE= | 22.1 |
TMAX= | 24.4 |
TMIN= | 20.3 |
DIFF= | 4.1 |
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最低気温(℃) = 20.2 ( 23:56)
読みかじりの記:原子力神話からの解放-日本を滅ぼす九つの呪縛 高木仁三郎 著 (2011年 講談社)
本書は2000年8月に光文社より刊行された同名の書を一部訂正、編注をつけたものと後書きにある。末尾の著者紹介記事に2000年10月没とある。「年譜 高木仁三郎が歩いた道(url=http://cnic.jp/takagi/life/index.html)」によると「2000年10月8日午前0時55分、東京都中央区の聖路加国際病院で死去。」とある。本書の原版出版から2ヶ月後の死去である。また、本書は2011年5月20日第一刷発行とある。東京電力福島第一原子力発電所の事故から2ヶ月後の出版である。著者は最終章の結びに代えての中でパンドラの箱というギリシャ神話に言及している。火と技術(道具)は人類が文明時代に入るシンボルでもある。その文明が人類に幸福をもたらした。その幸福の裏側に厄災があることがパンドラの箱という神話が語る。上記の年譜を読むと「1961;東京大学理学部化学科を卒業(核化学)。日本原子力事業(NAIG)に入社しNAIG総合研究所核化学研究室に勤務。」とある。多分ここで原子力に関して具体的な研究をしたのではないか。更に、「1969;論文「宇宙線ミュー中間子と地球物質との反応生成物の研究」で理学博士号取得(東京大学)。7月、東京都立大学助教授に就任(理学部化学教室)。」高木仁三郎は科学者としての道を歩み始めたようだ。「1973;8月末をもって東京都立大学を退職。主に翻訳で生計を立てつつ雑誌原稿などを執筆。」とある。時代の流れの中でどのような生き方をすべきか。理想と現実を両立させる事は困難が多い。自分が本書を手にしたのは我が群馬県にもこのような先駆者がいたとは知っていたが、いざ福島原発事故が社会的な大事件になっって初めて気持が動いたからである。11年前の7月とある「結びに代えて」で、著者は「しかし、私たちに余分な時間はあまり残っていない事も確かです。」と記している。著者が自己の死を覚悟しつつ、パンドラの箱から希望を取り出し育てて行こうと訴えた本書の出版意図を感じる部分だ。
「高木仁三郎;url=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E4%BB%81%E4%B8%89%E9%83%8E;(最終更新 2011年7月4日 (月) 08:53)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「地震による原子力災害への警鐘 [編集] 1995年、『核施設と非常事態 ―― 地震対策の検証を中心に ――』[1] を、「日本物理学会誌」に寄稿。「地震」とともに、「津波」に襲われた際の「原子力災害」を予見。 「地震によって長期間外部との連絡や外部からの電力や水の供給が断たれた場合には、大事故に発展」[1] するとして、早急な対策を訴えた。
福島第一原発 について、老朽化により耐震性が劣化している「老朽化原発」であり、「廃炉」に向けた議論が必要な時期に来ていると (1995年の時点で) 指摘。 加えて、福島浜通りの「集中立地」についても、「大きな地震が直撃した場合など、どう対処したらよいのか、想像を絶する」と [1]、その危険に警鐘を鳴らしていた。」とある。
まさに、11年前の著作が、福島原発事故を契機としてよみがえった感じである。自分が知ってしまったこと、自分が信じること、自分が行うこと、知行合一を実践する事は古来の難題であった。本書で著者は「原子力神話」という言葉を使っている。なぜ「原子力神話」なのか。その語法を理解すべく所々読み返した。著者が科学者として原子力の実態を理解し評価できたから、「原子力神話」というタイトルで「脱原子力」をアピールできたのではないか。11年前に直接的に「脱原子力」をアピールできる状況だったか。今なら、脱原発の大合唱に乗っても不思議でもない。しかし、10年後、日本の脱原発がどんな状況になっているか予断を許さない。
その点、阪神淡路大震災が著者に与えた影響は大きいと思う。WIKIPEDIA記事にあるとおり、「『核施設と非常事態 ―― 地震対策の検証を中心に―― 』 「日本物理学会誌」Vol.50 No.10,1995(url=http://ci.nii.ac.jp/els/110002066513.pdf
id=ART0002195281&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=
1313882203&cp=)」はWEB公開されており誰でも読める。
「東海村JCO臨界事故;url=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E6%9D%91JCO%E8%87%A8%E7%95%8C%E4%BA%8B%E6%95%85;(最終更新 2011年7月22日 (金) 18:43 )」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「概要 [編集] 1999年9月30日、JCOの核燃料加工施設内で核燃料を加工中に、ウラン溶液が臨界状態に達し核分裂連鎖反応が発生、この状態が約20時間持続した。これにより、至近距離で中性子線を浴びた作業員3名中、2名が死亡、1名が重症となった他、667名の被曝者を出した。 国際原子力事象評価尺度(INES)でレベル4(事業所外への大きなリスクを伴わない)の事故。」とある。
本書原版の出版が阪神淡路大震災から5年後である。学会誌への論文発表は学者生命にもかかわるだろう(非会員著者として「日本物理学会誌」に紹介されている)。やはり、この「日本物理学会誌」投稿記事や JCO臨界事故が延長に本書があるように感じる。それも著者の人生の集大成として。
更に振り返ると、年譜によると、著者は「1938年7月18日、群馬県前橋市に開業医の子として生まれる。」終戦の時に満7才であり、終戦を自分なりにとらえられる年齢になっていたと思う。湯川秀樹が日本人として初めてノーベル賞を受賞したのが1949年(昭和24年)。著者11才の時。著者も当然湯川秀樹にあこがれをもったのだろうか、「宇宙線ミュー中間子」云々という博士論文のタイトルをみると湯川秀樹の「中間子論」を思い出す。また、著者は「湯川秀樹氏が詩に託した思い」の項で「原子と人間」という詩を紹介し、著者の思いをそれに重ねている。原爆の巨大なエネルギーを原子力発電に使用する夢が語られ、それが現実化する中で、色々な人知で完全に制御しえない危険が明らかになってきた。そのような時代の流れの中で著者は著者独自の航路を進んで来た。
優秀な人材が原子力・電力産業に向かった。彼らにも生活がかかっている。自ら上に立とうとすれば神話を産み、神話を演じ...、矛盾に目覚めた者は職を去り、貝の如く水面化で隠棲する等々脱原発も一歩踏み出そうとすれば、問題は山積みだ。
それでも、著者が指摘した神話という虚構は音を立てて崩れてしまった。今、脱原発を決定して廃炉の放射能物質を完全に無害化するまでには何十年かかるかはっきりしない。著者が指摘している原子炉の老朽化は刻々と進む。少子高齢化が進み、日本の産業も衰退し、廃炉の負担も遅らせれば遅らせるだけ危険と共に重くのしかかってくる。
本書から何を読みとるべきか。確かに各論を追求するとあらゆる呪縛がつきまとう。神話という虚構を見抜く知的意志力と行動の勇気が現在求められているのかもしれない。歴史を見れば各論より感情論が最強なのだ。ともかく、上州という風土に高木仁三郎という希有の人物が生まれた事を再確認したい。