心象の足跡:国定忠治義人説は立証できるか?:大塚政義氏の講演を聞いて感じた事
2014年2月20日(木)
昨日は晴れ。最高気温(℃) 5.4 14:27。最低気温(℃) -2.0 06:43。ざっそう句:雪の後 何とか来たよ 引き売り屋。本日の定例行事は雪という予報で早々に中止。落雪で軒下に積みあがった雪を除去した。雪の高さは60㎝ほどだったが、量は相当多かった。一輪車で運んだが、適当な運搬先がない。なんとか全部終了した。暗くなってから馴染みの引き売り屋さんが来た。あちこちから情報も仕入れてくるので話題に事欠かない。契約栽培をしている農家の倒壊ハウスを購入業者が検分に来ていたというような話をして帰った。ハウスは保険に入っているのかね~と心配げだった。農家の損害はその購入業者にも及んでくるわけだ。現役時代、契約業務にも従事した事があるが、大抵、天変地異による損害賠償は不可抗力として免除されるという条項が盛り込まれていた。ただ、天変地異に関しては、具体的な内容は規定されていなかったように記憶している。そういう点では、日本の契約は性善説に立って、おおらかな面があるようだ。実際に「天変地異」条項があてはまる事例に遭遇した事はなかった。
2014年2月19日
TAVE= | 1.6 | NO DATA |
TMAX= | 5.3 | 最高気温(℃) 5.4 14:27 |
TMIN= | -1.6 | 最低気温(℃) -2.0 06:43 |
DIFF= | 6.9 | |
WMAX= | 7 | 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 11.9(西北西) 22:33 |
SUNS= | 9.4 | NO DATA |
RAIN= | 0 | NO DATA |
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心象の足跡:国定忠治義人説は立証できるか?:大塚政義氏の講演を聞いて感じた事
最近、WEB情報として、群馬県の郷土史家として活躍されていた大塚政義氏の死亡記事に出合った。振り返えると、2010年に土屋文明記念館で国定忠治のイベントがあり、その時同氏の講演を聞いた記憶がある。更に、2011年に殖蓮公民館で行われた講演を聞いた。当時のデジカメ画像から、講演のタイトルは「赤城の子守歌のふるさと 上州の風土と人間 忠治 浅太郎の時代」だったようだ。国定忠治に関してては、善人説と悪人説があるが、同氏は国定忠治が二足のわらじをはかなかったという点から善人・義人説を支持しているような印象を受けた。
大塚政義氏は歴史研究家として、自説を述べるだけでなく、ひょっとしたら、自説を裏付ける記録がどこかに眠っているのではないか。ぜひ、皆さんも自分の周辺にある記録に注意して欲しいというような事を講演の最後の方で語っていたのを思い出した。歴史は客観的な資料に語らせるべきだという考えを述べたのかもしれない。
今年は、当地の八幡沼開鑿150年になる。この八幡沼開削の指導者の川端宇兵衛は国定忠治より一年年長で、明治の前半頃まで存命であった。当地の、郷土史家が川端宇兵衛の子孫のお宅へ、何か当時の記録が残っているか調査に行ったそうだが、当主からは一度火事にあったので焼けてしまった筈だという回答があったとか。その話を聞いていた娘さんがこれは何かと持って来たのが、当時の八幡沼開削に関する詳細な記録だったとか。火事に会っても無事救出されていたのだが、その事実が正確に伝わっていなかったようだ。現在、この資料の控えが伊勢崎市図書館に保管されているとの事だ。幾つかの偶然が重ならなければ、この記録が世に出る事はなかったのかもしれない。
同じような話だが、最近おきりこみが群馬県の無形民俗文化財に答申されたとの事だ。今まで、おきりこみが何時頃まで遡れるか歴史がはっきりしなかったようだが、当地伊勢崎で活躍した栗庵似鳩という俳人が残した乙卯之日記に「煮ホウトウ」として記載されているとの事で、その日記が書かれた時期まで遡れる事がはっきりしたようだ。この乙卯之日記も旧家の古文書として残されていたが、幸い伊勢崎市の資料として出版されていた。俳句と余り関係が無いが当時の俳人が残した食事の記録が日記に記載されていた事により、食文化の理解の上でも役立ったようだ。
このように記録として残された資料も、その価値が判らなければ、保管されたまま傷んだり、焼却されたり、ゴミで出されたりという運命を辿ったかもしれない。大塚政義氏が国定忠治の記録や資料がまだどこかに残っているのではないかという言葉の中に、記録を求めかつ自説をより確実にしたいという歴史家の夢を感じるこの頃ではある。