読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(7)
20010/12/25
クリスマスは無縁のものと思っていたが、ケーキとチキンが巡ってきた。感謝。寒いが、外に新聞を取りに出たついでに温度計を見ら-4℃であった。同じ時間帯のアメダスの今朝7時の気温は-1.7℃であった。気象予報で山間部は雪と伝えていた通り寒い朝となった。気温の違いは我が家の温度計がXなのか?この温度計は養蚕をしていた時に使用した湿度計付きの物だが湿球は割れていて年代物だ。大体の気温を知るためにずっとぶら下げている。
以下本題。
読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(7)
○「林子平との出会い」の章
彦九郎は祖母の喪が終わると上京し、この翌年の寛政二年の夏に、ロシア船のしばしば侵すことのあるという蝦夷地踏査の旅に上った。著者須永義夫は「この旅は長途の旅であったが、蝦夷地への渡航は禁止され、空しく引き上げる途中で同じく外夷侵略の危機を訴えていた林子平に逢う。」記し、「子平は寛政五年不遇のうちに没したが、この年は彦九郎自刃の年でもあったのである。」と振り返る。蝦夷地へ入ることが出来なかったが、岐路仙台の林子平の家に十日程泊まり親交を深めた時の歌が「北行日記」見えると、その歌を引用している。彦九郎と林子平は互いに共鳴する思想を持って行動したのでだろうが、十一月下旬雪籠もりして、酒を酌み交わしつつ何を語り合ったのか知りたい所である。
■陸奥の林に生ひし三国草 いつか雲井に実を結びけり
■伝へては我が日の本の兵(つはもの)の 法の花さけ五百年の後
■五百年の末の松山外(そと)の浜 波風立たじ蝦夷か千島も
著者は「一首目は子平の家に集まる志を持った幾人かの友が、結束固く実を結んだことを賞賛しているのだろう。」と述べている。広辞苑によると林子平は江戸の人、仙台に移住、長崎に遊学、海外事情に注目、海防に心を注ぐ云々とある。WIKIPEDIAによると「元文3年(1738年)、幕臣岡村良通の次男として江戸に生まれる。宝暦7年(1757年)、姉が仙台藩主伊達宗村の側室に上がった縁で兄とともに仙台藩の禄を受ける。」とある。「陸奥の林」と、江戸から仙台に居を移した林子平を喩え、「生ひし三国草」とは子平を慕ってあちこちから(三国)集まったきた門下生を表しているようだ。「雲井」も空高いさまとして林子平の志が実を結んだ事を感嘆しているのだろう。
「次の歌は林子平の書『海国兵談』の草稿を見ての感慨である。この啓蒙の書によって日本の目途が明らかになり、この国に花咲く後の世を願っている。」と著者は記す。別記のWIKIPEDIA記載の『海国兵談』上梓の経過を見ると、高山彦九郎に五百年後の日本の姿を思い起こさせるのに十分な衝撃を与えたと思われる。「法の花さけ五百年の後」とは何となく意味は理解はできる。しかし、なぜ五百年後なのか。彦九郎が「法」で何を意味したか定かではないが、道理、人道というような広い意味を考えていたのであろう。その対局が、非法、不法、非道理、非人道という事になるのではないか。「伝へては我が日の本の兵(つはもの)の」解釈は難しい。どこにかかるのだろうか。「我が日の本の兵(つはもの)の 法」と繋がるように思われる。それでは、「伝へては」とはどんな意味か。「伝へては、伝え、...、伝へては、伝え、...」と次から次へと伝える様が思い出される。WIKIPEDIAによると、林子平は幕臣岡村良通の次男とあり、高山彦九郎もその血筋を辿ると数百年前の武士の血を引いている。高山彦九郎も林子平も「我が日の本の兵(つはもの)」という本来の武士精神の自覚の点では共通した意識があったのではないかと思う。武士とは、その発生から武力集団として地位を築いてきた。その支配体制がほころびて来たのが彦九郎の生きてきた時代であった。高山彦九郎も林子平も近世的なな日本という国家と日本人という認識を当時の世界情勢から形成しつつあったように感じる。「また一首は、その五百年を待つ間に、蝦夷、千島に波風の立つことを憂いているのである。こうして二人が願った新しい国家体制が生まれる明治までまだ七十八年を要したのである。」と著者は述べる。三首目は法の花がさいた時を詠ったが、ようだが、彦九郎や林子平の思想が実現されれば、五百年後には波風が立つまいと詠っているようにも思える。「波風立たじ蝦夷か千島も」の「か」については意味がよくとれない。「も」の誤植か。その場合は、内陸の「松山」と沿海部の「外(そと)の浜」という対比と、「蝦夷」と「千島」の対比として理解しやすいと思うが。最近の国境問題を見るにつけ、五百年後に法の花が咲くのか。「伝へては、伝え、...、伝へては、伝え、...」と次から次へ努力を重ねて行かない限りついにその花を咲かせるDNAはとぎれてしまうのではないか。改めて、高山彦九郎の時間スケール感覚を見直した。因縁を辿ると、この世界には新しいことは無いようにも見えてしまう。
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尚、WIKIPEDIAの林子平の行を以下に引用しておく(最終更新 2010年11月2日 (火) 06:56 )。:林 子平(はやし しへい、元文3年6月21日(1738年8月6日) - 寛政5年6月21日(1793年7月28日))は、江戸時代後期の経世論家。
高山彦九郎・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人。名は友直。のちに六無齋主人と号した。
経歴・人物
元文3年(1738年)、幕臣岡村良通の次男として江戸に生まれる。宝暦7年(1757年)、姉が仙台藩主伊達宗村の側室に上がった縁で兄とともに仙台藩の禄を受ける。
仙台藩でみずからの教育政策や経済政策を進言するも聞き入れられず、禄を返上して藩医であった兄の部屋住みとなり、北は松前から南は長崎まで全国を行脚する。長崎や江戸で学び、大槻玄沢、宇田川玄随(げんすい)、桂川甫周(ほしゅう)、工藤平助らと交友する。ロシアの脅威(きょうい)を説き、『三国通覧図説』『海国兵談』などの著作を著す。『海国兵談』の序を書いたのは、仙台藩医工藤平助であった。また『富国策』では藩の家老佐藤伊賀にあて藩政について説いたが、採用はされなかった。
『海国兵談』は海防の必要性を説く軍事書であったため、出版に協力してくれる版元を見つけることができなかった。そこで子平は、16巻・3分冊もの大著を自ら版木を彫っての自費出版にて世に問う決意をする。『海国兵談』は寛政3年(1791年)、仙台で上梓された。しかし、老中松平定信の寛政の改革がはじまると政治への口出しを嫌い、消極的外交策に立つ幕閣に目を付けられ、『三国通覧図説』も幕府の危険視するところとなり、両著はともに発禁処分が下され、『海国兵談』は版木没収の処分を受けることとなった。しかしその後も自ら書写本を作り、それがさらに書写本を生むなどして後に伝えられた。
最終的に、仙台の兄の下へと強制的に帰郷させられた上に禁固刑(蟄居・ちっきょ)に処され、そのまま死去する。蟄居中、その心境を「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」と嘆き、自ら六無斎(ろくむさい)と号した。
『三国通覧図説』はその後、長崎よりオランダ、ドイツへと渡り、ロシアでヨーロッパ各国語版に翻訳された。それは地図の正確性には乏しく、特に本州・四国・九州以外の地域はかなり杜撰に描かれているものであったが、後にペリー提督との小笠原諸島領有に関する日米交渉の際に、同諸島の日本領有権を示す証拠となった。
林子平の墓は仙台市青葉区にある龍雲院にあるが、その龍雲院の所在地は1967年(昭和42年)の住居表示の際にそれまでの半子町から、墓があることに因み子平町と改称されている。
高山彦九郎・蒲生君平ともに「寛政の三奇人」と称された。
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