読みかじりの記:千利休 無言の前衛 赤瀬川原平 著 (1990年 株式会社岩波書店)
2011/8/23
昨日は雨後曇り。機嫌が悪いXP機をだましだまし使っている。おかげで、電源を入れてからWINDOWSが立ち上がるまでの様子がおぼろげながら分かってきた。起動の不調はイベントビューアに記録されていない。パソコンをいじるツールはドライバーとテスター程度しかないのでお手上げだ。
2011/8/22の天気
TAVE= | 21.9 |
TMAX= | 25 |
TMIN= | 19.3 |
DIFF= | 5.7 |
WMAX= | 2.7 |
SUNS= | 0.1 |
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YOMIURI ONLINEは、「34億年前の岩石から最古の化石?硫黄えさに;url=http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110822-OYT1T00959.htm?from=main7(2011年8月22日22時17分 読売新聞)」というタイトルで、「西オーストラリアの約34億年前の岩石から、地球最古の微生物化石が見つかったと、西オーストラリア大と英オックスフォード大の研究チームが発表した。」、「当時の地球は、酸素がほとんどなく、表面の多くは水温40~50度の海で覆われていた。発見された微生物は、直径約10マイクロ・メートル。グループを作って生息していたとみられる。」と報じた。
生命の起源には謎が多い。その謎解も証拠がなければ科学にならない。地球上の生物が地球上の環境から生まれてきたとする説の他に宇宙から飛来したという説もある。後者は隕石に含まれる有機物質を根拠としている。海で生まれた生命が陸に上がってきたというのが進化の筋道である。海水温が40~50℃とすれば、陸上の温度は更に高いだろう。WIKIPEDIA地球史年表によると地球の誕生が46億年前との事。それから12億年後には初期の生命が生まれたことになりそうだ。40億年前に原始海ができた。意外に速いピッチで生命が現れているように感じる。
読みかじりの記:千利休 無言の前衛 赤瀬川原平 著 (1990年 株式会社岩波書店)
もうふた昔前の本である。お茶などとは生涯関係ないだろう思っていたがとっさの時にどう対応するのだろうとふと考えて手にした。茶と言えば、「茶の本」BOOK OF TEAを高校時代の先生が紹介していたのを思い出す。こちらは岡倉天心の著作。WIKIPEDIAによれば、「岡倉 天心(おかくら てんしん、1863年2月14日(文久2年12月26日) - 1913年(大正2年)9月2日)は、明治期に活躍した思想家で文人、哲学者。本名は覚三(かくぞう)。幼名は角蔵。」、「人物:横浜生まれ。東京美術学校(現・東京藝術大学)の設立に大きく貢献し、日本美術院の創設者としても著名。近代日本における美学研究の開拓者で、英文著作での美術史、美術評論家としての活動、美術家養成といった多岐に渡る啓蒙活動を行い、明治以降に於ける日本美術概念の成立に寄与した。」とあり、美術との関係が深い。
赤瀬川原平も最近「老人力」で知ったが、かつての前衛芸術家とは知らなかった。そのような著者が「利休」という映画のシナリオを書いたのが本書執筆の契機になったようだ。今日の茶道はその名の通り稽古事になっている。田舎物は素性がばれないように作法で身を隠せれば上々だと言う程度の積もりで読み流した。利休と秀吉等は別世界の人物だ。そんの事を思いつつ読むと面白く読めた。特にⅢの「利休の沈黙」が本書の山のようだ。そこには著者が辿ってきた視点が生きているようだ。人間がやること全てに表現者・パフォーマーとしての要素があるだろう。能力を一つの事に集中してパフォーマンスの質を高めるのが表現者の手段の一つだろう。ところが、著者はそのような方式で突っ張っても全然面白くなくなって、色々な方面に活路を求めたのだろうか。利休は魚問屋との事でまさに商人、こちらが本業だったのか。色々な仕事をこなすマルチタレントはなかなか評価が難しそうだ。芸術も文芸も表現も目的とする対象者がいるだろう。そう言う分野は饒舌性は付き物ではないか。無言は一種のパラドックスになる。阿吽の見えないルールが支配する世界。広いようで狭い。「ディーテールへの愛」、「縮小のベクトル」という項も面白い。日本人の縮嗜好を指摘した外国人もいたと思う。茶室をどんどん小さくする。そうすると収容人数も少なくなる。その処理のためパラレルからシリアルに変換する。誰が先に入るのか、誰がどこに座るのか。そこに必然的に序列が生じる。本書もWIKIPEDIAも利休はがっしりとした大男として描いている。また利休は禅にも関係があるらしい。それが小さな茶室で茶事を阿吽の呼吸でやるのだから、茶室はまさにパフォーマンスの式場に見える。自分も集積回路というミクロな世界を相手に仕事をした。回路を結ぶ配線を鉛筆の線に喩えればまさにミクロンの世界だ。しかし、現実に作業しているのは、紙やモニターの上に表されたバーチャルなシンボルを使っていた。数㎜角の集積回路チップの中の世界まで入り込む機会は少ない。不良解析の時は顕微鏡下にミクロンの針先を立てて探った。実はこれも本当の世界ではなさそうだ。回路の動きは電子の動きを見なければ掴めない。でも現実にはそんな暇なことはできない。いま、同じ事を外国人もやっているだろう。物理的に入れ物を小さくすれば入る量も少なくなる。入れる物の大きさが一定ならば。砂や水等を容器に入れる場合は、誰が入れても同じように入るだろう。形が異なる物を一定の容器に入れるのは工夫が要る。こんなところにも個性が出てしまう。部屋という容器、枠に人間を閉じこめてそこでお互いを観察するような事をチンパンジーが見たら本当に驚くだろうか。否、チンパンジーもその程度の事はやっているのかもしれない。茶道や茶の作法にはそれなりの仕来りやルールがあるのだろうが、残念ながらそのような世界にはほとんど馴染んでいない。茶室も見方を変えればバーチャルな空間なのかもしれない。近代文明により日常がバーチャルになりきっている。禅には不立文字、以心伝心という言葉があるという。以心伝心は使い古されて新鮮みを失っているようだ。不立文字は意味を伝えにくく敬遠されてほとんど使われいないのが実状だろう。「不肖の弟子」という項も参考になる。沈黙。この語も矛盾と危険性を含む。その例は至る所に満ちているだろう。本書の中に「貧乏性」という言葉が度々出てきた。SMALL IS BEAUTIFULという言葉もある。ユトリをもってこの「貧乏性」を堪能したいところだが、それがむずかしい。