方丈記切読5:いとしきもの
2010/3/6
方丈記切読5
「また麓に、一つの柴の庵あり。すなはちこの山もりが居る所なり。かしこに小童あり、時々來りてあひとぶらふ。もしつれづれなる時は、これを友としてあそびありく。かれは十六歳、われは六十、その齡ことの外なれど、心を慰むることはこれおなじ。あるはつばなをぬき、いはなしをとる(りイ)。またぬかごをもり、芹をつむ。或はすそわの田井に至りて、おちほを拾ひてほぐみをつくる。もし日うらゝかなれば、嶺によぢのぼりて、はるかにふるさとの空を望み。木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見る。勝地はぬしなければ、心を慰むるにさはりなし。あゆみわづらひなく、志遠くいたる時は、これより峯つゞき炭山を越え、笠取を過ぎて、岩間にまうで、或は石山ををがむ。もしは粟津の原を分けて、蝉丸翁が迹をとぶらひ、田上川をわたりて、猿丸大夫が墓をたづぬ。歸るさには、をりにつけつゝ櫻をかり、紅葉をもとめ、わらびを折り、木の實を拾ひて、かつは佛に奉りかつは家づとにす。もし夜しづかなれば、窓の月に故人を忍び、猿の聲に袖をうるほす。くさむらの螢は、遠く眞木の島の篝火にまがひ、曉の雨は、おのづから木の葉吹くあらしに似たり。山鳥のほろほろと鳴くを聞きても、父か母かとうたがひ、みねのかせきの近くなれたるにつけても、世にとほざかる程を知る。或は埋火をかきおこして、老の寐覺の友とす。おそろしき山ならねど、ふくろふの聲をあはれむにつけても、山中の景氣、折につけてつくることなし。いはむや深く思ひ、深く知れらむ人のためには、これにしもかぎるべからず。大かた此所に住みそめし時は、あからさまとおもひしかど、今ま(すイ)でに五とせを經たり。」
長明さん60才、還暦の年だ。山里の野外生活を描いている。山守がいる木小屋もあり、少
年達もいるので一緒に遊んだようだ。世間と完全に交流を絶った訳でもない。遊びつつ、山
で食料も採ってくる。この場面は一種の回想のようでもある。一々解釈しても面白くない。長
明さんの目を通して当時の長明さんの生活を追体験できればそれで良いのでは。山の頂上
は地主がいないので見晴らしの良い景勝地だが勝手にふるまえる。景色の展望だけでなく
人生の展望もある。「或は埋火をかきおこして、老の寐覺の友とす。」には老境の一人住まい
のわびしさをつい感じてしまう。あからさまとはほんの一時。仮の庵で一時のつもりで、ここに
住み始めたがもう五年も経ってしまった。こういう生活を長明さんも大いに気に入ったようだ。