老人の寝言:美しい日本語より簡便でまっとうな日本語はないのか
2011/7/8
相変わらずの暑さ。降雨量にならない程度の雨。AMEDAS最高気温(℃) =34.3 (13:13)ポットの除草。畑土を追加。乾燥防止。ギボウシの紫色の花と、ヒオウギのだいだい色の花がさいていた。
昨日の天気
TAVE= | 27.9 |
TMAX= | 33.2 |
TMIN= | 22.4 |
DIFF= | 10.8 |
WMAX= | 5.6 |
SUNS= | 8 |
RAIN= | 0 |
老人の寝言:美しい日本語より簡便でまっとうな日本語はないのか
西日本新聞のコラム春秋は、「芥川竜之介、寺田寅彦… (6/27);url=http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/250573(2011年6月27日 10:56))」というタイトルで、中勘助(1885―1965)の「▼「銀の匙」だけをテキストに使って中学生に国語を教え続けた教師がいた。昭和59年までの50年間、私立灘中学・高校(神戸市)で教えた橋本武さん。戦後間もないころ、黒く塗りつぶされた箇所が多い教科書など使わせたくないと思った。美しい日本語に触れさせたかった▼いま98歳、先日27年ぶりに灘中の教壇に立った。「銀の匙」を題材にした自作プリントを用意し、昔と同じように教えた。「遊ぶのと同じように、楽しく学んでもらいたい」「遊学の意味は分かるかな?」。授業は時折楽しく脇道にそれた」と報じた。
終戦直後は、民主教育というかけ声の下に、教科書の不適切な部分は墨で塗りつぶされて使うのが禁止されたとの事だ。その指示はGHQ→文部省→各自治体→各学校→各教師→各生徒というルートをたどり、生徒自身が最終的には教科書に墨を塗ったようだ。自分は美しい日本語云々には余り興味がない。言葉とは突き詰めれば道具に過ぎない。道具としては実用性が全てであろう。道具が観賞の目的になってしまうともはや道具としての切れ味は失われてしまうのではないか。WIKIPEDIAによると:中 勘助(なか かんすけ、1885年(明治18年)5月22日 - 1965年(昭和40年)5月3日)は東京出身の作家・詩人である。まだ著作権は残っており、青空文庫には収録されていなかった。そのコラムは「▼「銀の匙」は橋本さんが生まれた翌大正2年に発表された。「国語は学ぶ力の背骨」と言う橋本さんは、自分の生年と同じころ生まれた小説を生涯の国語の教科書とした。そんな小説を昭和・平成の日本人はどれくらい持っているだろう。 」と結んでいる。
コラム著者が振り返った言葉がどこかにつきささる。「そんなのあるはずねーじゃん。」それで良いのではないか。言葉は教えられるものかもしれないが、それは人生の一時だ。自分の言葉は自分で獲得しなければならない。
ところで、コラムの冒頭が『「芥川竜之介、寺田寅彦、内田百〓(〓は「門がまえ」に「月」)、鈴木三重吉…。ほかにも何人もいる。夏目漱石の門下生は一大山脈をなす』と、不思議な表記になっている。どうもIMEでの入力に手こずったらしくみえた。WIKIPEDIAで「内田百間:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E7%99%BE%E9%96%93」を検索すると、「本来の表記は「内田百閒」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。」とあった。この記事にも「戦後は筆名を内田 百閒と改めた(読みは同じ。閒は門構えに月、U+9592)。別号は百鬼園(ひゃっきえん)。」とあった。門構えに月とは恐れ入った。当世ではWEBで探しコピペするのが最短入力法のようだ。ともかく、道具としての日本語にはまだまだ改良の余地がありそうだ。