東北の海よ:道中で出合った芭蕉句碑、句碑が叫ぶ先人達のメッセージ
2012/3/7(水)
昨日は晴れ。好天で気温も上がった。3/6は二十四節気の啓蟄で、虫が這いだして活動を始める日とされる。人間の方も何となく浮き浮きしてくる。老人モードで外出したので、帰りは一人弥次喜多道中。自分が弥次さんなら、喜多さんという連れ合いは自分の影というところだろうか。温泉街から下の駅までぶらりと歩いた。バスが通る道路なので、歩けなくなったらいつでもバスに乗れるという安心感が何よりも一人道中の支えになった。
2012/3/6(火)の天気
TAVE= | 10.7 | |
TMAX= | 17.9 | 最高気温(℃) 18.2 14:48 |
TMIN= | 4.4 | 最低気温(℃) 4.0 03:42 |
DIFF= | 13.5 | |
WMAX= | 3.5 | 最大瞬間風速(m/s) 6.3(東南東) 15:57 |
SUNS= | 6.8 | |
RAIN= | 0.5 |
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東北の海よ:道中で出合った芭蕉句碑、句碑が叫ぶ先人達のメッセージ
一昨日は、縁あって、「大震災のもたらしたもの 気仙沼からの報告」という、気仙沼市の観音寺住職の講演を聞かせて頂いた。あの大震災、大津波からやがて一年になり、現地で大震災への対応をされてきた僧侶による、大きな被害を受けた気仙沼からの報告は、マスコミを通じて知る事のできない切実さを感じた。そうして、震災直後と現在では支援活動のニーズも変わってきていると話された。希望と未来が描ける心の支援が今一番必要なのですと話された。
そんな、講演の事など思い出しながら、一人で県道を下った所で、「八九間 空で雨ふる 柳かな」という芭蕉の句碑に出合った。既にこの句碑に関しては、WEB上に情報がある(url=http://homepage1.nifty.com/tsoutaro/basyou/07.htm)。この記事によると、荻原井泉水の碑の再建記が碑の別面に彫られているようだ。元の碑は文化十四年(一八一七)の建立。その別面に新しい句碑が彫られているようで珍しい碑であった。そうして、句碑の中から、荻原井泉水は「其の石は存して其句亡ぶといふ理あらんや」と問いかけている。石碑は残ってもその句の精神が亡んでしまっては道理がないではないかという自省を込めているのだろう。
そんな、俳人の気持を汲んで、この句を味わってみると、「八九間」に視点がありそうだ。季節は柳が芽を吹く春。無窮の大空から雨が降っても何の風情もない。柳の若芽の薄い緑を目で辿ると柳の木の先端あたりの空から雨が降ってきたように見えるところを描写しているのだろう。大自然の摂理とともに、小さな人間の営為を捉えよと諭しているが如くである。
芭蕉が奥の細道への旅に出たとき、同行したのが、河合 曾良(かわい そら 慶安2年(1649年) - 宝永7年5月22日(1710年6月18日):WIKIPEDIA)との事だ。観音寺住職は講演で、震災の伝承も、親から子へという風に、次代の親しい者へ、口伝えのようにして伝える事の大切さを語っていた。碑は「いしぶみ」とも読まれる。まさに、建碑当時の人々が、後世のために石に書き残してくれたメッセージなのだが、そこから何を読みとるべきかは、後世の人々のありかたが決めるのだろう。また、芭蕉が奥の細道への旅に出かけられたのも、同行者という、バックアップ(支援)があったから可能になったのかも知れない。やはり、万が一の時、支援が受けられるというほど心強いことはないのではないか。駅に着いてようやく長靴の重さから解放された。