愛しき古里:夕陽に浮かぶ丸塚山古墳
2012年8月30日木曜日
ざっそう句:喪服見て 道を譲られ 南無阿弥陀仏。最高気温(℃) 34.7 14:01。猛暑日は脱したが真夏日。灌水と草刈り。ピラカンサの徒長枝剪定。実付きの枝は残す。枯れた初代の株のこぼれ種から育った二代目。トゲがあるが、ガマン。葬儀。斎場に向かうT字路で、優先車が道を譲ってくれた。故人の功徳か。
2012年8月29日の天気(AMEDAS)
TAVE= | 29.2 | |
TMAX= | 34.7 | 最高気温(℃) 34.7 14:01 |
TMIN= | 23.9 | 最低気温(℃) 23.7 06:08 |
DIFF= | 10.8 | |
WMAX= | 2.9 | 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 7.1(東南東) 14:34 |
SUNS= | 8.8 | |
RAIN= | 0 |
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愛しき古里:夕陽に浮かぶ丸塚山古墳
連日の暑さで、用事は朝夕にする、昔流のサマータイムのような生活をしている。先日、近所へ自転車で、お使いに出かけた帰りに、暮れそめた田園風景をそれとなく見ながらペダルを踏んでいた。夕陽に浮かぶ丸塚山古墳をいい風景だとそれとなく感じていた。こんな風景は二度と見られないかもと思って、Uターンしてデジカメに納めた。
伊勢崎市ホームページに、「丸塚山古墳(市指定史跡)http://www.city.isesaki.lg.jp/pcp_portal/PortalServlet;jsessionid=953827AF1E69DD9D5C8D149EF3222F7C?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=8009」というタイトルで、「(まるづかやまこふん) 丸塚山古墳は、主軸を南北におく墳丘の全長が81メートルの帆立貝式古墳で、5世紀後半に築造されたと考えられる。昭和30年(1955)に群馬大学史学研究室による発掘調査が行われ、後円部に墳丘主軸とほぼ平行して3基の組み合わせ式箱形石棺が発見され、葺石や埴輪片の存在も確認される。」と紹介されている。
自分も、幼少の頃、丸塚山古墳の発掘調査の見物に行ったかすかな記憶が残っているが、いつ頃の事かはっきり思い出せない。上記の記事から、昭和30年と分かったが、その頃は考古学の事など何も知らなかった。また、当時は考古学の意義も歴史遺産への関心も余りなっかったようだ。ただ、叔父さんに、既にそこを掘った人がいたという昔話を聞いた記憶の方が鮮明に残っている。学術的な発掘ではなく、墳墓からの出土品が目的だったらしい。何も出なかったとの事で、既に当人より先に掘った人がいた事になるだろう。そうなら、最低でも3回以上掘られていると推定できる。
先日、殖蓮史談会で行われた斎藤聡先生の講演を聴いた。殖蓮小学校南東部の両毛線踏切周辺には幾つもの道が集まっている。三軒屋遺跡の正倉は既に発見されているが、郡庁は未検出である。なぜ、ここに道が集まっているのか。そこに古代佐位郡の郡庁があると仮定するとその謎が解けるという仮説である。また、その道も古代の道と重なって、現在もその役割を果たしているとの事だ。丸塚山古墳の被葬者は三軒屋遺跡に関する有力者ではないかという話しもあった。遺跡も、点から線、線から面へ広げると新しい見方や発見が可能なようだ。ところで、古墳の被葬者は生前に、自分が眠る古墳の頂上に立って、四方八方を見渡したのだろうか。