田舎老人徒然草(環境雑録):田圃に生えるセイタカアワダチソウ
2013年6月16日(日)
昨日は夕方まで曇り後雨。最高気温(℃) 30.2 13:06。ざっそう句:世が世なら 新島襄も 無名武士。昨日は町内行事。心配された天気も何とかもって無事終了。辛うじて真夏日。湿度が高かったのか蒸した。数年前ある国定忠治研究家から頂いた資料を拾い読み。
2013年6月15日の天気(AMEDAS)TAVE=
24.5
NO DATA TMAX=
29.5
最高気温(℃) 30.2 13:06 TMIN=
21.6
最低気温(℃) 21.5 22:54 DIFF=
7.9
WMAX=
3.8
最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 8.5(北西) 18:40 SUNS=
0.7
NO DATA RAIN=
78.5
NO DATA
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「新島襄 - Wikipedia(へのリンク)」によると、「幼少時代[編集]:天保14年(1843年)、江戸の神田にあった上州安中藩江戸屋敷で、安中藩士・新島民治の子として生まれる。本名を七五三太(しめた)という。この名前は、祖父・弁治が女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び「しめた」と言った事から命名されたという説がある。後に敬幹(けいかん)と改名。 元服後、友人から貰い受けたアメリカの地図書から、アメリカの制度に触れ、憧れを持つようになる。その後、幕府の軍艦操練所で洋学を学ぶ。ある日、アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出くわし「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意し、備中松山藩の洋式船「快風丸」に乗船していたこともあり、当時は禁止されていた海外渡航を思い立つ[1]。(最終更新 2013年5月14日 (火) 04:00)」とある。今年が、新島襄生誕170年。
「国定忠治 - Wikipedia(へのリンク)」によれば、「国定 忠治(くにさだ ちゅうじ、忠次とも、文化7年(1810年)(生年は没年からの逆算) - 嘉永3年12月21日(1851年1月22日))は、江戸時代後期の侠客である。「国定」は生地である上野国(上州)佐位郡国定村に由来し、本名は長岡忠次郎。後にも博徒となって上州から信州一帯で活動し、「盗区」として一帯を実質支配する。天保の大飢饉で農民を救済した侠客として脚色された。講談や映画、新国劇などの演劇の題材となる。(最終更新 2013年4月29日 (月) 14:24)」とある。国定忠治は今年生誕203年。
忠治生誕の33年後に新島襄が生まれたようだ。幕末の一世代の差の大きさを感じる。
昨日のGoogleDoodleは、「ゆう然として山を見る蛙かな」小林一茶 生誕 250 周年」。
この写真を見る。(この画像の中に英文字Googleはあるか?ひらがなのみか?)
Googleによる「ゆう然として山を見る蛙かな」の検索。
今日のGoogleDoodleは、「父の日2013」。
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田舎老人徒然草(環境雑録):田圃に生えるセイタカアワダチソウ
先日、田圃と畦の刈払をした。小さな三角形をした田圃なので機械も入らないので休耕田になっている。畦にはチガヤが生えている。これはお盆に盆棚を作るときに使うので一部を刈り残している。昨年は雑菜の種をまいた。今年の刈払で雑菜が継続して生えれば良いがと思う。
雑菜の草丈は1m位になり雑草を抑圧する。秋に発芽して苗が越冬。春に花が咲き初夏に実を付けて枯れる。こういうパターンでは、夏の雑草を抑圧する景観植物があれば良いが。以前、コスモスも植えたが刈払いも手抜きしたいのがホンネだ。コスモスは大きくなると茎も頑丈になる。田圃なので水を入れたらと助言された事もあるが。
刈払する前に、多年草のセイタカアワダチソウやギシギシを引き抜いた。セイタカアワダチソウは地下の根が水平に伸びてそこから発芽する性質があるので、種子と根の両方で繁殖する。引き抜くだけでは完全に根を除去できない。
WIKIPEDIA「セイタカアワダチソウ。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%82%A2%E3%83%AF%E3%83%80%E3%83%81%E3%82%BD%E3%82%A6#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.B8.E3.81.AE.E4.BE.B5.E5.85.A5.E7.B5.8C.E7.B7.AF)」によると「日本国内への移入は、明治時代末期に園芸目的で持ち込まれ[4][5][6]、「昭和の初めには既に帰化が知られている」との記述が牧野日本植物図鑑にある[7]。」とある。
引き抜く前のセイタカアワダチソウと以前近くで見たセイタカアワダチソウが群生している写真をまとめた。観察用に、田圃の中に数本セイタカアワダチソウを残してある。
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