学生時代追想:おまけに受講した統計学
2012年7月23日月曜日
昨日は曇り。動かないとやや寒く感じる気温だ。枝豆の収穫と草むしり。枝豆は莢をもいで水洗まで。何とか夕食の食卓に上がった。大豆のプリン体が心配なのだが程々に食べる。少しお裾分けできる程度の収穫があったので今年の自己採点は「可」のレベルだろう。丹波の黒豆の方は、既に害虫被害で、葉が穴だらけ。枝豆の方もタイミングが遅れたら悲惨な結果になっていたかも知れない。枝豆は最初に密播きしたので、間引き苗を別区画に移植。移植無し区画と移植区画の実入りを比較すると移植区画の方が若干三粒莢の率が大きいように感じた。大学時代に統計概論という講義を聞いた。社会人になってからは実験計画法等も学んだ。二つの統計集団に優位差があるのか。フィッシャーという統計学者の事を思い出した。この学者は、農業の中に統計現象を見ていた。遺伝現象を見事に解明したのがメンデル。
2012年7月22日の天気
C-TEMP | 20.9 | |
TMAX= | 23.9 | 最高気温(℃) 24.6 14:53 |
TMIN= | 18.1 | 最低気温(℃) 18.0 05:56 |
DIFF= | 5.8 | |
WMAX= | 2.8 | 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 5.2(東南東) 15:50 |
SUNS= | 0 | |
RAIN= | 0.5 |
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学生時代追想:おまけに受講した統計学
大学卒業には専門学科の単位取得が条件だが、選択で受講できる一般科目もあった。中学卒業時に、農業高校へ行ったらどうかと、父から暗に言われた。それが、「青空大学」だった。進路相談で担任の先生と相談した結果か、父の希望と異なる進路が選べた。何しろ、大学では初めてホテルのバイキングメニューに出くわしたようで、腹一杯詰め込めるものは詰め込まにゃあという飢餓感が支配していた。当時は、「でもしか先生」と言われたが、就職できない時も考えて教員資格も貰った。まさに、バイキング精神があった。以下のWIKIPEDIAのフィッシャーに関する記事を読むと改めて統計学の歴史がレビューできる。
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追記(2023/07/23):WIKIPEDIAへのリンクミスで開けない。末尾にurlが誤挿入?⇒削除。効果無し。
下記サイトをリンク先に設定する必要がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ロナルド・フィッシャー
「https://ja.wikipedia.org/wiki/ロナルド・フィッシャー」。リンク先指定無し⇒リンクミスでNG。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BCurl
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「ロナルド・フィッシャー。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC(最終更新 2012年1月16日 (月) 12:22 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「サー・ロナルド・エイルマー・フィッシャー Sir Ronald Aylmer Fisher(1890年2月17日 ? 1962年7月29日)はイギリスの統計学者、進化生物学者、遺伝学者で優生学者である。現代の推計統計学の確立者であるとともに、集団遺伝学の創始者の1人であり、またネオダーウィニズムを代表する遺伝学者・進化生物学者でもあった。 ~少年・青年期:少年時代から数学の才能を発揮するとともに生物学にも興味を持った。1909年、ケンブリッジ大学に進み、数学を学ぶとともにジョン・メイナード・ケインズやホレース・ダーウィン(チャールズ・ダーウィンの息子)とともに優生学研究会を組織した。 卒業後まもなく第一次世界大戦が始まるが、この時期は会社の統計係やパブリックスクールの教職などをしながら、遺伝学と統計学の研究を続けた。この時期に彼は論文『The Correlation to be Expected Between Relatives on the Supposition of Mendalian Inheritance(メンデル遺伝を仮定した場合に血縁者間に期待される相関)』を書いたが、この論文は連続変数的遺伝がメンデルの法則と両立することを示すものであるとともに、当時すでにカール・ピアソンらによって用いられていた相関分析の方法に、分散分析という非常に重要な方法を導入するものでもあった。1917年にはアイリーン・ギネスと結婚し、その後8人もの子をもうけた(自らの家庭生活に関しても優生学的な考察を行ったといわれている)。 終戦とともに新しい職探しを始め、ピアソンに招かれたものの、彼に反感を抱いてこれを断り、1919年、ハートフォードシャー州のロザムステッド農事試験場(Rothamsted Experimental Station)の統計研究員に就職した。ピアソンや息子のエゴン・ピアソンらとは、のちに統計学に関して大論争を起こすことになる。 [編集] 研究生活:ここでは大量のデータに関する研究を行い、結果は『Studies in Crop Variation(穀物量の変動に関する研究)』という一連の報告となった。その後の数年間がフィッシャーの全盛期であり、実験計画法・分散分析・小標本の統計理論といった革新的な業績を生み出す。実際的なデータの研究から始まって新しい統計学理論へと進むのが彼の仕事の特徴であった。この仕事は1925年に最初の成書『Statistical Methods for Research Workers(研究者のための統計学的方法)』として実を結ぶ。これはその後の長きにわたり様々な分野の研究者のスタンダードとなった。1935年には『The Design of Experiments(実験計画法)』を出版しこれもスタンダードとなる。 フィッシャーは分散分析や最尤法の手法を編み出し、統計学的十分性、フィッシャーの線形判別関数、フィッシャー情報行列などの概念を産んだ。彼の1924年の論文『On a distribution yielding the error functions of several well known statistics(よく知られた統計集団の誤差関数を与える分布について)』では、統計学全体の枠組みの中に、ピアソンのカイ二乗分布や、スチューデントのt分布を、正規分布や、彼自身の成果である分散分析やZ分布とともに位置付けた。これで20世紀の統計学の大家と呼ばれるに十分であった。 フィッシャーの集団遺伝学理論に関する業績もまた、彼をシーウォル・ライトとJ・B・S・ホールデンに並ぶこの分野の大家とした。『The Genetical Theory of Natural Selection (自然選択の遺伝学的理論 1930年)』は、対立するものと見られていた突然変異説と自然選択説を初めて融合させたもので、本書の刊行をもってネオダーウィニズム、総合説の成立とすることが多い。 またフィッシャーは「フィッシャー情報行列」の概念を1925年に導入したが、これはクロード・シャノンによる情報理論のエントロピー概念に20年以上先立つものである。フィッシャーの情報理論はここ数年、人工知能におけるベイズ推計学の発展などによって再び注目されている。」
統計学は集団の特性を数量的に分析・記述する学問だろう。物理的な粒子の運動に適用すれば統計物理となる。フィッシャーでふと思い出したのが、農事試験場での研究。漫然と見ていては何も分からない現象の裏にも、統計的な手法の適用で、その集団の特性が分析できる。その集団を分割して、ある操作をした集団と別の集団で優位さ差があるかという研究は、大きな実用性を伴う。そういう視点を持って、農事研究をした人物がいたという事が新しい発見であった。しかし、集団という概念も明らかに抽象概念だ。個別は捨てられてしまう。当世の統計学適用の最大の弊害の一つに、偏差値等に捕らわれてしまう事があるだろう。かつては「優生学」も流行った。1914年第一次世界大戦。民族の優位性を学問的に裏付けようとする動きもあったようだ。学問も杓子定規になっては弊害をばらまくだけではなかろうか。