東北の海よ:二年前の気仙沼の震災被害を振り返る
2013年2月26日火曜日
昨日は晴れ。最低気温(℃) -2.8 05:57。最高気温(℃) 6.4 12:31。ざっそう句:奥州路 芭蕉に詠ません 気仙沼。朝老人モードで用事外出。僅かな時間だが寒さで指が麻痺しそうな感覚になる。宅内閑居。安倍総理はTPP参加に傾いていると報道されている。国際間通商において物の取引である、第一次産業の農林水産物、第二次産業の工業生産物は大体想像が付きやすい。しかし、第三次産業のサービス部門になると想像が付かない。日本でも第三次産業の比重が高まっているが、その地位は依然低く、国際競争力も脆弱だ。商業流通業界、医療保険業界、弁護士弁理士業界、金融業界等々。国際間通商では、何事も丁々発止英語で交渉する必要がある。価格交渉、契約交渉、口喧嘩すら英語だ。日本人はまともに英語で口喧嘩できるレベルにあるのだろうか。TPPが実現すると、第三次産業が軒並みアメリカの下請けになるような予感すらする。アベノミックスどころか、アベノモウテン、アベノヘルに突き落とされるのではないか。もう、これ以上地獄を見るのはご免こうむりたい。
2013年2月25日の天気(AMEDAS)
TAVE= | 0.9 | |
TMAX= | 5.7 | 最高気温(℃) 6.4 12:31 |
TMIN= | -2.7 | 最低気温(℃) -2.8 05:57 |
DIFF= | 8.4 | |
WMAX= | 8.1 | 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 15.1(北北西) 15:38 |
SUNS= | 10.6 | |
RAIN= | 0 |
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東北の海よ:二年前の気仙沼の震災被害を振り返る
昨年、三月に伊香保である講演を聞いた。「大震災のもたらしたもの 気仙沼からの報告」という題名であった。丁度、東北地方太平洋沖地震から一年になる前の事である。その講演のメモが部屋の片隅から出てきた。当時、気仙沼在住の自分の甥もしばらく消息が確認できなかった。必死に、インターネットで情報を探し、何とか無事だろうと親に伝えた。後で聞いた話では、車は津波にさらわれたとの事だ。もしも、その時車の中にいたなら...。その講演のメモによると、気仙沼では、携帯は7~8日、ソフトバンクは1ヶ月ほどつながらなかったとある。海岸の石油タンクが燃えた大火災の映像は今でも忘れられない。生死を分ける状況が至る所にあった。
講師は寺の住職なので、当時の現地の話に引き込まれた。寺は海岸から離れた場所にあるが、震災避難者の対応に追われたようだ。震災による死亡者も多数あったが、塔婆も花も無い。行方不明で遺体のない死亡者もある。遺体の代わりに念持仏を添えて葬儀をしたとのこと。位牌や仏壇を失った家庭もあり、組立式の段ボール仏壇を使ったとの事。また、火葬も行えず、仮に土葬をして、その後遺体を堀上げて火葬にしてから納骨という初めての事態もあったとの事だ。停電で火葬炉も稼働できなかったので当然だが、便利な電気に頼る文明のもろさが意外なところに現れていた。死者の供養の大切さ・切実さは、その時になって本当に理解できるのだろう。
「仁和寺に、慈尊院の大藏卿隆曉法印といふ人、かくしつゝ、かずしらず死ぬることをかなしみて、ひじりをあまたかたらひつゝ、その死首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁をむすばしむるわざをなむせられける。(方丈記通読:いとしきもの。http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2010/03/post-6601-1.html)(2010/3/20)」を思い出した。この部分は、死者を成仏させるために僧侶が活動した様子を鴨長明が記した記録である。この当時は、地震・旱魃等の災害後に、食料が途絶し、飢餓で死亡した人が多かったようだ。この状況は、現在でも全く変らないのではないか。
震災後、6月頃になると暖かくなり腐敗が始まり、悪臭が発生、ハエも発生するので、ペットボトルに砂糖と酢を入れた、現代版ハエ捕り器も活躍したようだ。終戦後は衛生状態も良くなく、ガラス瓶を使ったハエ捕り器が必需品だったのを思い出す。
途中に余談として、群馬と気仙沼の関係の話もあった。気仙沼の語源は、アイヌ語の「地のはて」という意味との事。古代の気仙沼は金と馬の生産地だったとの事。これが、奥州藤原文化を後ろから支えたとの事だ。群馬県の前橋は古くは厩橋と呼ばれ、馬の産地であった。その昔、奥州藤原文化が栄えた頃、群馬から気仙馬に馬が供給された云々という話もあった。
メモには義経の愛馬の名前もあったが、読めない。WEBで調べると源義経の愛馬の名前が「太夫黒」で、名馬だったらしい。更に調べると、「「太夫黒」生誕の地(源義経公の愛馬:所在地=一関市東山町松川字卯入道平地内)(http://www.hiraizumi-yukari.com/select_genre/more.php?c=3&p=16)」という記事を発見。当地・伊勢崎には義経伝説が多い。忘れられないのが、旧赤堀町の五目牛地区にある、「牛石」。ここを、奥州に向かう義経が通ったという伝説がある。更に、近くに「一ノ関古墳」という古墳がある。奥州一関と当地の「一ノ関古墳」とは何か関係があるのか。近くの粕川にある堰が「一の堰」。「一ノ関」と「一の堰」を混同しかけていた。閑話休題。
大きな被害を受けて、地域の絆である自治会も維持できない状況もあるようだ。「絆」という言葉は意味が深い。切っても切れない因縁も絆の一つかもしれない。人と人のつき合いも多種多様。また、このような大災害で新しい絆が生まれるのも事実だろう。「震災で被害を受けた人の心は容易に開けるものではない。そのような人々に寄り添うような接し方が大切だ」と話された。改めて、昨年の講演を振り返った。
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