身辺雑記:田舎老人つれづれ草:進駐軍が太田はどこだと聞いた?!;神国に 神風吹かぬ 理不尽さ。1508。
2015年8月14日(金)
昨日は曇り一時雨。ざっそう句;神国に 神風吹かぬ 理不尽さ。朝から昼過ぎまで用事外出。お盆に入るが、まだ盆棚はできていなかった。帰宅後、盆棚を組み立てた。支柱に沿って竹を立て、茅の縄で棚の上部を一周囲む。前面の縄に畑の隅の草の中から探し出したホウズキ数個をつるした。前面の支柱に萩の枝と鉄砲百合を結束。仏壇から位牌を出して、ゴザを敷いた棚に並べる。これで、何とか格好がついた。塔婆を立てて終了。
2015年8月13日の天気(AMEDAS)
TAVE= | 26.7 | NO DATA |
TMAX= | 30.4 | 最高気温(℃) 31.0 12:39 |
TMIN= | 24 | 最低気温(℃) 23.8 06:37 |
DIFF= | 6.4 | NO DATA |
WMAX= | 3.9 | 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 7.8(東南東) 14:32 |
SUNS= | 0.6 | NO DATA |
RAIN= | 2 | NO DATA |
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身辺雑記:田舎老人つれづれ草:進駐軍が太田はどこだと聞いた?!
終戦の前日、伊勢崎に米軍のB29が飛来し、伊勢崎も大きな被害を受けた。親たちからは、当時の事は余り詳しい話を聞いた記憶がないが、進駐軍の米兵に初めて遭遇した時の話を聞いた記憶がある。
竹藪の下に穴を掘り、防空壕にしていた。子供の頃、まだそれが残っていたが、一時サツマイモの貯蔵庫に使った程度で、その後は消失してしまった。
先日の、上毛新聞にもう少し、日本の降伏が米軍の行動に反映されていれば空襲を受けずに済んだ可能性もあったというような記事が出ていた。
共同通信(LIVEDOOR ニュース)は、「米、対日空襲の中止模索 司令官、報道で降伏予想。;http://blogos.com/article/127905/。( 共同通信:2015年08月12日 17:31))」というタイトルで、「【ワシントン共同】終戦前夜の1945年8月14日夜から15日未明にかけて、秋田市や埼玉県熊谷市、群馬県伊勢崎市を標的に実行された米軍の「最後の空襲」を前に、米軍司令官がぎりぎりまで作戦の中止を模索していたことが機密指定を解かれた米公文書から12日分かった。」と報じた。(このサイトへのリンク)
ともかく、伊勢崎空襲も米国の日本攻撃の計画通り実施されたのだ。以来、米軍は日本に進駐し、子供たちは、ギブミーチョコレートと、米兵に手を差し出したのだ。成人してから、このような話を知ったが、無邪気な子供なら仕方ないと思った事もあった。
親たちが、進駐軍と初めて接した場面はもう少し緊迫していたようだ。その、昔話を採録しておこう。
「老人の寝言:1945年8月15日の天気は日本の未来を語ってくれるか(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/08/2011-4.html)。(2011年8月15日 (月))」
:「ここで、敗戦直後の親たちから聞いた昔話を思い出した。数人のアメリカ兵がある家に来て「ワォ~タ」と叫んだそうだ。どうも「太田」に違いないと思い、「太田はあっちだ」と東の方角を指さしたが、米兵は納得せず、何かを物色していたとの事。ようやく井戸を見つけて水をがぶがぶ飲んで帰ったらしく、事なきを得た。今、思うと太田には、軍需工場の中島飛行機の工場があったので、家人は「太田」と直感したのかもしれない。「ワォ~タ」とは「WATER」だったが、平和になってからは笑い話で済んだが、敗戦直後にジープか何かの軍用車に乗り付けられ、「ワォ~タ」と叫ばれれば怖くなるに違いない。」(この記事へのリンク)