水遊びから水泳へ(改題):寝言老人が幼少の頃:悪ガキ共の水泳自習;汗吹いて 流せぬ程の 雑事かな。180725。
2018年7月25日(水)
昨日は晴れ。ざっそう句;汗吹いて 流せぬ程の 雑事かな。午前、ノートパソコンに向かって作業したがボツにした。何となく忖度気味。相変わらず、猛暑日が続いている。畑は雑草に覆われた。畑に乗り込む元気も失せた。それでも、ヒユを一掴み収穫した。かみさんが茹でて食卓にあがる。葉緑素の量から見れば、ヒユがキャベツに圧勝するだろう。葉緑素と血液色素・ヘモグロビンの化学構造式が良く似ている。キャベツよりヒユの方が体に良さそうだと勝手に解釈する。体長2~3mmの小さな赤アリがオレをかじる。痛さと痒さの複合的な感覚がする。その都度捻りつぶすが、その数には勝てそうがない。宅内閑居。昼過ぎ廊下で昼寝。猫の真似をしているようだ。あれこれ古本に手を着けるが熟読できない。9月の自民党総裁選挙が注目を集める中、岸田文雄氏は立候補をしないと決めたようだ。政界は一寸先が闇と言われるようだが、戦わず白旗を掲げては、男を下げるだけで先がないように感じる。
日々農天気(花と実を楽しむ):青島温州みかんの花 :2013年5月25日 (土)の記事のリンク先に化学構造式。
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2008/10/28
水遊びから水泳へ(改題):寝言老人が幼少の頃:悪ガキ共の水泳自習
追記(2018/07/24):この過去記事は、ほぼ10年前に書いたが、読みにくさがあるので、読み易く整形、再読して、印象・コメント等を追記して再利用。この記事は、老年期に達して、幼児から少年へと自分の成長を振り返ったものである。現代では、遊びも親や教師等の指導下に置かれているが、昔は遊びを通して、年長の子供が、年下の子供を指導するという古来からの習わしがあったように感じる。
自分の教育に関する基本的な見方は、自己と他者(指導者・仲間)という存在を前提に、他者⇒自己(レベル差がある場合)、仲間⇒自己(レベル差が無いか少ない場合)、自己⇔自己(指導者無しの場合)の3つ段階があると理解している。あるレベル以上になると指導者はいなくなる・不要になる。このような3つ段階は静的なものではなく動的である。これを言い直せば、人間は時に生徒であり、時には同級生であり、時には先生であり、そのレベルを認識しつつ行動すべきなのかも知れない。以下改造。
今日、川や沼で遊んだり、水泳をしたりしている光景はほとんど見ない。水質の汚濁が水遊びに適さなくなったのが主因であろう。昔は生活にゆとりがなく親は子供の遊びまで手が回らなかった。乳児は子守に預けられて、幼児になると近所の同年輩の友達と遊んだ。遊びも教育も一種の文化であり、文化は経済的・精神的ゆとりが無いと生まれない。
年齢が上がると共に遊びの行動半径も大きくなる。小学生の低学年前後になると近くの小川で水遊びをするようになる。最初の水遊びは水深が20~30㎝の洗い場である。夏になると水田に水を引くので水位は更に上昇する。そうすると何とかばた足で泳げる程度の水深となる。この風景は、当時庚申塚と言った、地域の小川にあった洗い場・洗濯場の風景に重なる。子供だけで遊んだような記憶しか残っていないが、当時の洗濯場は女衆の井戸端会議場でもあったので、幼児の水遊びに大人の目も行き渡っていた可能性もある。
当時は学校にもプールは無かった。水泳は小川で上級生が遊びの中で教えてやるものであった。先ず、水の中での息のつきかたを覚える。これも顔を水につけたり、頭を水の中に押しつけたりの遊びの中で自然に覚えたようだ。
次ぎにばた足で泳ぐ事を覚える。小学生の中学年前後になると水深が1m程度の沼で泳げるようになる。小川の水が流れ出す鯉沼がこれだった。当時は、鯉沼の弁天島の残骸が残っており、水上には見えなかったが、その辺は水深が浅かった。
次ぎに平泳ぎ、背泳ぎ、クロール等を覚える。小学生高学年から中学生の頃になるとかなりの距離を泳げるようになった。あるとき自分の背の立たないかなり水深のある沼の横断に挑戦した。この沼が現在の八幡沼(通称新沼)である。八幡沼で水死事故があったようだが、当時は何も知らなかったし、水泳も禁止されいたような記憶も無い。
泳ぎ始める前にはちょっと怖い思いがしたが、何とか対岸まで100m位の距離を泳ぎ切った。これで泳ぎに関して自信をつけたのも事実である。また、沼の端の松の木によじ登って、飛び込みをする者もいた。これは怖くてできなかった。沼側に傾いてせり出していた太い松の木があり、それが飛び込み台の役をしていた。
最後に、水が流れる粕川で泳いだ。川の水深や水流は場所により変わり危険が伴うので、余り無理はしなかったと記憶している。また、大人からも注意があった。ともかく、少年時代に一緒に遊んだ連中は、水泳も上手下手はあったが、全員出来た。これも、遊びを通して学んだ実技だ。
今日から見ると危険と背中合わせの遊びのようであったが、親たちも、適宜注意をしたりしていたように思う。幸い子供達の水難事故の記憶も無い。今日の八幡沼は鉄柵作で囲まれ、進入禁止の看板が表示されている。また、小中学校にはプールが設置されているようだ。
水泳に関しては、地域の小川や沼で悪ガキ共と一緒に遊ぶ中で自然に覚えた。危険を伴っていたと思うが、このような少年期の体験は学校教育では得られないものがあったと思う。それは、危険だが遊びたいという少年達のチャレンジ精神を満足させてくれたのかも知れない。
不思議とこの体験には女の子は一人も出てこない。これも当時に文化だったのかも知れない。当時は、水泳パンツも無く、サルマタ一丁だけ。幼児は丸裸が当たり前だった。
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2008/10/28
水遊びから水泳へ
今日、川や沼で遊んだり、水泳をしたりしている光景はほとんど見ない。水質の汚濁が水
遊びに適さなくなったのが主因であろう。昔は生活にゆとりがなく親は子供の遊びまで手
が回らなかった。乳児は子守に預けられて、幼児になると近所の同年輩の友達と遊んだ。
年齢が上がると共に遊びの行動半径も大きくなる。小学生の低学年前後になると近くの小
川で水遊びをするようになる。最初の水遊びは水深が20~30㎝の洗い場である。夏に
なると水田に水を引くので水位は更に上昇する。そうすると何とかばた足で泳げる程度の
水深となる。当時は学校にもプールは無かった。水泳は小川で上級生が遊びの中で教えて
やるものであった。先ず、水の中での息のつきかたを覚える。これも顔を水につけたり、
頭を水の中に押しつけたりの遊びの中で自然に覚えたようだ。次ぎにばた足で泳ぐ事を覚
える。小学生の中学年前後になると水深が1m程度の沼で泳げるようになる。次ぎに平泳
ぎ、背泳ぎ、クロール等を覚える。小学生高学年から中学生の頃になるとかなりの距離を泳
げるようになった。あるとき自分の背の立たないかなり水深のある沼の横断に挑戦した。
泳ぎ始める前にはちょっと怖い思いがしたが、何とか対岸まで100m位の距離を泳ぎ切っ
た。これで泳ぎに関して自信をつけたのも事実である。また、沼の端の松の木によじ登って、
飛び込みをする者もいた。これは怖くてできなかった。今日から見ると危険と背中合わせの
遊びのようであったが、親たちも、適宜注意をしたりしていたように思う。幸い子供達の水難
事故の記憶も無い。
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項目 | 日積温 | 残日 | 通日 | 通積温 | TA | TX | TN | TD | WX | SN | RN | 瞬低T | 瞬高T | 瞬風 |
DATA | 759.4 | 159 | 206 | 73723.8 | 31.6 | 37.2 | 26.6 | 10.6 | 4 | 12.1 | 0 | 26.4 | 37.7 | 8.8(東) |
時刻等℃ | 日 | D | ℃ | ℃ | ℃ | ℃ | ℃ | m/s | H | mm | 05:21 | 15:21 | 20:31 | |
2018年07月24日 伊勢崎(イセサキ) | AMEDASへのリンク |
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