04B_学生時代追想

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2010年2月20日 (土)

身体髪膚:いとしきもの

2010/2/20

身体髪膚

身体髪膚これを父母に受く。年齢を重ねるとあなたは父親にそっくりだといわれる事がある。

同じ事を身内の者から言われると返答に窮してしまう。確かに、顔や風貌が似てくるのは

DNAのつながりで否定できない。しかし、しぐさや性格も似てきたとなると自分もそうかなーと

思わざるをえない。身体髪膚これを父母に受くという言葉は小学校の男性教師が教えてくれ

た。女性教師はこういう言葉を教えたがるのだろうか。女性から見ると産んだ子供は99%位

私のものよという意識ならば、父親の存在感は乏しくなり、身体髪膚これを父母に受くと言葉

が出にくくなるのではないか。ともかく幼少時に得難い教育を受けていたのかも知れない。出

典は孝経にあり、「~あえて毀傷せざるは孝の始めなり(身体髪膚、受之父母、不敢毀傷、

孝之始也)」と続くらしい。たぶん、その先生は皆の身体は父母から受け継いだのだから大

切にしなさいとさとしたのかもしれない。当時としては、昔の修身のようで、進歩的な先生にと

っては言いにくかった言葉かもしれない。学校の先生にはいろいろ幅広い先生がいて欲しい

と思うのは自分だけではないだろう。ところで、「あえて毀傷せざる」とは何を意味するのだろ

うか。身体髪膚を傷つけ損なうような場面・事態になってもそういうことをしないように踏みとど

まると言うことであろう。最大の身体の毀傷と言えば死に至る事故や自殺もそれに該当する

だろう。死んでしまいたいと誰でも思った事はあろう。しかし、大抵はその思いは何かの不安

を呼び起こし、その対策を自分でやれよという前向きのサインと受け止める事ができるので

はないか。意識に現れた死にたいという願望が増幅され正帰還状態になるとそれが押さえら

れなくなるのではないか。そんなときに、身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の

始めなりという言葉を思い出せば、ふとした迷いをうち消し、救いになる場合もあるのではな

いか。「身を立て道を行ひ、名を後世に揚げ、以て父母を顕はすは、孝の終りなり。」と続くら

しい。確かに、こういう価値観はどこかで現在も続いているだろう。凡人は別だが、政治家に

はその期待やチャンスもあるだろう。しかし、今日はどこかにブラックホールができてしまった

ようだ。やはり、第一ステップ、第二ステップでつまづいてしまうのではないか。自分を大切に

することは当然他人を大切にすることに通じてゆくべきだろうが。

2010年1月29日 (金)

だるま落とし

2010/1/29

だるま落とし

幼少の頃だるま落としという遊びをした記憶がある。木製の円盤を数段積み上げてその上に

円盤の数倍の高さのだるまを置いて、横から円盤を木の槌で叩いて飛び出させる。円盤が

崩れたりだるまが落ちたりしないようきれいに叩いた円盤をはじき出す遊びである。当然コツ

がある。高校では物理という学科があり、中学の理科より理論的になる。そこで運動量保存

の法則とか、ニュートンの運動の基本法則と言うのを習う。法則とは現象という樹木の姿から

枝葉を除いた幹のよううにも見える。ある条件が整えば例外なくあてはまる現象である。実は

ある条件が無数にあるので現象も無限に多くあるように見えてしまう。物理の授業の時、ある

学生が十円玉を二個机の上に取り出して並べ、おはじきのように一方の十円玉をはじいて

他方の十円玉に当てた。すると、当てられた十円玉が飛び出して、はじかれた十円玉は飛び

出した十円玉の所に止まっていた。これは、素晴らしい実験だと思った。それにも増して、こ

の実験がひらめいてすぐに試してみた同級生に感服したのであった。やはり、彼は物理が好

きであったのだろう。運動量の保存の法則を目で見える形で示してくれたのであった。なにげ

なく遊ぶ遊びのなかにも力学の法則が潜んでいる。小さな実験でそれを確かめる。遊びも小

さな実験も同じ様なことに見えるが本質的な違いがある。現象や遊びでも抽象的な法則とい

う概念を把握すればその法則を逆にいろいろな現象に適用できるようになるのだ。霧箱の中

に描かれた衝突した素粒子の軌跡からその素粒子の性質をつきとめることができるという事

もこの法則性を理解できて初めて納得できるのである。

2009年12月 5日 (土)

最後の授業

2009/12/5

最後の授業

多分、国語の教科書にアルメニア関係の教材があったようなかすかな記憶があった。余り聞

いたことのないアルメニアという地名が幼少であった当時新鮮に思われたのである。要する

に列強国の間で密かに生き残っている小国が自国の日本と重なって愛しく思われた。ひょっ

としたら最後の授業というタイトルであっかと思い、このキーワードを最後に追加して、

Googleで以下のキーワードで検索した。アルメニア 国語教科書 母国語 最後の授業 に

一致する日本語のページ 約 640 件中 1 - 20 件目 (0.37 秒) 。幸い、最後の授業の記事が

WIKIPEDIAにあった。ドーデの最後の授業という教材が多面的に解説されている。おそらく

自分の記憶の片隅に残っているのは母国語の大切さという事ではないかと思う。というのも、

幼いながら戦争により日本語も存亡の危機にあったのではないかという思いが意識のどこか

にあったからであろう。「アメル先生は「ある民族が奴隸となっても、その母語を保っている限

りはその牢獄の鍵を握っているようなもの」とフランス語の優秀さを生徒に語る。」敗戦により

母国語が使えなくなる可能性もある。逆に、外国侵略で他民族に自国語を押しつける事も行

われた。国語の授業で「最後の授業」が行われたのもある特定な期間だけのようだ。それな

りに意義のある授業であったと今になって思う。大方の日本人は日本は単一民族の国と思っ

ているだろうが、アイヌ民族が先住民として暮らしている事を忘れかけている。青年時代にア

イヌ語学者の知里真志保の事を知った。WIKIPEDIAによると:「知里 真志保(ちり ましほ、

1909年2月24日 - 1961年6月9日)は、北海道幌別町字登別町(現在の登別市)出身の、ア

イヌの言語学者。専攻はアイヌ語学。姉は、『アイヌ神謡集』の著者・知里幸恵。大学での指

導教授は、金田一京助。」とある。世界のグローバル化により小さな民族の小さな言語は存

亡の危機にあるようだ。しかし、その言語の中に民族の誇りが蓄えられている事には変わり

がない。一時、日本語のローマ字表示やかな表示、エスペラント語等にも興味を覚えた事が

あった。知里真志保は自らアイヌ民族の一人としてその自覚の上にアイヌ語の研究に打ち込

んだのであろう。文字のないアイヌ語の研究にヤマト民族の日本語を使わざるをえないという

矛盾・葛藤もあったろうとも思う。これは文字を持たなかったヤマト民族が漢字を受け入れた

事態に通じるのかもしれない。ともかく、言葉の多様性は精神文明の豊かさをを支える基本

であるようだ。世界には戦争と国境の問題で言語もその問題に巻き込まれてしまう現実があ

る。日本と言えどもこの現実から逃れられないのであろう。

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以下WIKIPEDIAから一部引用させて頂く。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%8E%88%E6%A5%AD
最終更新 2009年8月28日 (金) 13:51
作品の概要:『最後の授業』(さいごのじゅぎょう、仏: La Derniere Classe)は、フランス第三共和政時代の初期、1873年に出版されたアルフォンス・ドーデの短編小説集『月曜物語』(仏: Les Contes du Lundi)の1編である。副題は『アルザスの少年の話』(Recit d'un petit alsacien)。『月曜物語』は1871年から1873年までフランスの新聞で連載された。

あらすじ:「アメル先生は生徒と教室に集まった大人たちに向かって、自分が授業をするのはこれが最後だと言う。普仏戦争でフランスが負けたため、アルザスはプロイセン王国(ドイツ帝国)領エルザスになって、ドイツ語しか教えてはいけないことになり、アメル先生もこの学校を辞めなければならない。これがフランス語の最後の授業だと語り、生徒も大人も授業に熱心に耳を傾ける。アメル先生は「ある民族が奴隸となっても、その母語を保っている限りはその牢獄の鍵を握っているようなもの」とフランス語の優秀さを生徒に語る。やがて終業の時が来て、プロシア兵の鳴らすラッパの音を聞いた先生は顔面蒼白。挨拶をしようにも言葉が出ず、黒板に「仏: Vive La France!」(フランス万歳!)と書いて「終了。みんな帰ってよろしい」と手で合図、“最後の授業”を終える。

小説の政治的側面:「日本ではこの小説は1927年(昭和2年)に教科書の教材として採用された。

戦後の一時期、『最後の授業』は教科書から消えたが、1952年(昭和27年)に再登場した。しかし、田中克彦の『ことばと国家』や蓮實重彦の『反=日本語論』などによる、「国語」イデオロギーによって言語的多様性を否定する側面を持つ政治的作品であるとの批判もあった。1985年(昭和60年)からは教科書に採用されていない。」
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2009年11月24日 (火)

Zライト

2009/11/24

Zライト

机に長時間向かうときには照明が必要になる。自分の幼少時代の机は食卓であったり、リン

ゴ箱であったりで専用のものはなかった。従って、照明も部屋の照明で勉強した事になる。本

格的に勉強が必要になって買って貰ったのが木製の机と椅子であった。結局社会人になっ

て中古のスチールデスクを買うまでこれを使い通した。これに合わせて買って貰ったのが15

W程度の卓上蛍光灯であった。蛍光灯は交流点灯でわずかでも光がちかちかするのが気に

なり出すと集中できなくなる。この蛍光灯を使わなくなり、代わりに買ったのがZライトであっ

た。「山田照明は、1970年代半ばにテレビCMを打っている。」(後記サイトの記事)とあり、自

分もこのCMをみたのかもしれない。メーカーは忘れていたが、商品名は覚えていた。調べて

みると、山田照明のホームページに1954年の発売以来、愛され続けている山田照明『Z-

LIGHT』とあり、山田照明のものとわかった。薄い青色のガラスを使った白熱電球が使われ

ていた。アームと照明部分が可動式になって光の向きや強度が調整できた。まだZライトは

健在で、同社の新商品にはLED方式の物もあった。類似品を余り見かけないのでひょっとす

ると特許があるのではないかと調べてみると次ぎのサイト名「COMZINE」の記事がヒットし

た。特許も取得されている。『Z-LIGHT』の始まりは作業灯にあり、それを家庭・民生用に売り

込むときに付けた名前が『Z-LIGHT』であったようだ。Zは『Z-LIGHT』の形状を現している。そ

んな『Z-LIGHT』に高校生頃に出合っていたわけである。参考:「COMZINE」のニッポン・ロン

グセラー考VOL.40、Zライト。

http://www.nttcom.co.jp/comzine/no040/long_seller/index.html

2009年11月12日 (木)

高原学校

2009/11/12

高原学校

小学生か中学生の頃か定かでない記憶である。学校行事で榛名高原学校での合宿訓練が

あり、榛名湖でカッターボートを漕いだことを覚えている。何人乗りボートか覚えていないがか

なりの人数が乗れたと思う。広い海や湖に出た経験はほとんど無かったのでこの訓練の記

憶は今でも残っているのだと思う。広さは開放感を与えるが、なんとなく不安も与える。やは

り、船の転覆等で水中に投げ出された時の事をそれとなく心配することも一因である。当時、

湖に漕ぎだしたとき救命胴衣を付けていたのか全く思い出せない。飛行機に乗る時も同じよ

うな不安を味わう。飛行機の場合は乗務員が救命胴衣の使用法等を説明するので尚更危

機感を覚える。自動車のシートベルトの着用も全く同じ目的で着用するのであるがこちらはま

ったく習慣ボケをしているようだ。危険の確率は海や空より陸の方がはるかに高い。級友と

の宿泊も初めての経験であった。皆が寝付く前に枕投げ遊びをして先生にお目玉をくらっ

た。榛名高原学校は集団行動の良き訓練であったのであろう。榛名高原学校を検索してみ

たら「こちら榛名山の榛名湖畔西側には群馬県内の小中学生は必ず一度は学校で「高原学

校」として合宿訓練に連れてこられる「榛名高原学校」こと財団法人榛名高原体育センターが

あります。群馬県教育委員会が指導する教育施設で、児童生徒の合宿・宿泊訓練・研修活

動に使われています。」と紹介されていた。現在も小中学生の課外訓練に使われているよう

だ。そうすると、県民のほとんどがこの訓練を体験しているのではないかと思われる。数十年

の見えざる輝かしい実績を持つ教育企画ではあると思う。どのような契機でこのような企画

が生まれたのか興味が湧いた。

2009年11月10日 (火)

算数の教科書

2009/11/10

算数の教科書

小学校時代の算数の教科書について思い出そうとしたが、残念ながらほとんど思い出せな

かった。表紙は極単調で藍色であったように思う。その隅に出版社や著者名が記載されてい

た筈である。数学教育に関しては小倉金之助の著作をかじったことがある。同氏が終戦後の

教科書に関係していたか自分としてはまだ分かっていない。ともかく数学教育の在り方に関し

ては大きな影響を与えているのではないか。次ぎに思い出したのが矢野 健太郎であった。

一般の数学書でもお世話になった。自分が小学生時代の前半にあった期間で算数の教科

書検索をして、数学者として名前を識別できた方々は、辻 正次、 戸田 清、吉田 洋一、弥永

昌吉、矢野 健太郎、清水 辰次郎、末綱 恕一、丸山 儀四郎、森戸 辰男、秋月 康夫等であ

った。森戸 辰男は政治家、教育者としての活動で思い出されたようだ。奨学金制度の日本

育英会の会長であったと知った。この奨学金制度があったので何とか大学を卒業できたので

あった。社会人になってから10年かけて貸与された奨学金の返還が終わってようやく社会へ

のお返しができたと肩の荷を降ろした思いがした。 『零の発見―数学の生い立ち』吉田洋一

著岩波書店は高校時代の必読書の100冊の本の一冊であったと思う。ともかく、戦後の算数

教科書に錚々たる数学者が多数参画されていた事実は、これらの数学者が日本の教育に

大きな夢と期待をかけた事実をも示しているのではないかと思う。理工系の学問には数学の

知識は重要ではあるが、それが絶対に必要であるとも言えないであろう。ようするに何事も

論理的な思考ができるようになればよいのであろう。一般人にとっては、数学も論理的な思

考の訓練になればかなりの役割を果たした事になると思う。

2009年11月 8日 (日)

青田買い

2009/11/8

青田買い

経済の高度成長期に人材の確保が企業の重要課題であった。企業の人事担当者はいかに

優秀な人材を集めるかに苦労したのではないかと思う。青田買いとは卒業前の学生を就職

予約させる事で、今日では就職内定という事であろう。昭和35年の文部省次官通達による新

卒者の採用試験の解禁日は大卒で10月1日、高卒で11月1日以降と決められたが余り守ら

れなかったようだ。昭和44年3月に大卒理工系で6月1日、文科系系で7月1日、高卒で8月1

日以降と繰り上げたが、これも空文化したとの事である。求人活動がエスカレートしていたの

である。昭和45年の高卒就職希望者の70万7000人に対して求人倍率の推計は約6倍であ

ったとある。今日の高卒就職希望者にとって夢のような時代であった。今思うと、自分もこの

ような時代に社会に巣立っていった訳である。当時は就職活動と言っても今日ほど厳しくなく

おおらかなものであったと思う。求人が掲示板に張り出されたりして、就職担当の先生と相談

して決めたように思う。企業側も求人数を学校側に通知してその企業の人事政策に従って採

用を決めたのではないかと思う。当然、企業の求人数を就職希望者数が上回われば何らか

の調整が行われることになる。自分も都市部の企業に就職希望を出したが希望者が重複し

てしまった。就職担当の先生は、君の場合はこちらの方が良いのではないかとあっさり別の

企業への就職が決まってしまった。就職では会社はある程度自分で選べるが、その後の仕

事と上司は選べない。しかし、今振り返って見ると会社も仕事も上司も何となくマッチングして

いたようでもある。

2009年7月23日 (木)

チャンペラ

2009/7/3

チャンペラ

学習塾には行かなかった。というよりそういうユトリがなかった。そこでお世話になったのが、

教科書の学習ポイントを解説した「トラの巻」であった。当時チャンペラと言っていたと思う。と

もかく、重要な所は赤文字で印刷してあったりでにわか勉強には効率が良かった。勉強の成

績が気になり始めた頃からチャンペラを使い始めてのであろう。自宅から数キロある書店に

買いに行ったのであろう。志望校を決めるには自分の相対的な学力を知る必要があった。

当時は業者が模擬試験を開催して希望者がそれを受けた。模擬試験と言えどもその点数に

はやきもきした。暗記物は嫌いであまりその重要性を評価しなかったが、母が歴代の天皇名

を暗唱していてすらすら言えたのとは対照的であった。日本史は暗記が多いと思いこみ、何

となく日本史は食わず嫌いになってしまった。チャンペラも模擬試験もかっては目先の課題で

お世話になったのだが、今となってはなかなか記憶の表面に現れてきない。そういえば、旺

文社の豆単にもお世話になったことがあったかもしれない。

2009年5月23日 (土)

先生の笑いの理由

2009/5/23

先生の笑いの理由

高校に入るといろいろユニークな先生に出会った。そのユニークさに応じてニックネームを貰

っていた先生も多かった。ぼっちゃんの世界でもあった。ともかく先生をニックネームで呼べ

るのはそれだけ自由の雰囲気があったからであろう。ニックネームは教師と生徒という関係

を密接にして距離を縮める効果があったようだ。ある先生は、時々はっはっはと笑った。その

先生があるときふともらした。私がこのように笑うのは常に人生を前向きにとらえようとしてい

るからだよというような意味であったと思う。その裏にはつらい事もあったのだろうか。要する

に、いつも苦虫をかみつぶしたような顔をしているより無理してでも笑った方が良いのだと自

分なりに理解した。確かにその先生はいつも穏やかな笑みをたたえていた。今思うと仏像の

顔を連想してしまう。そうして笑うときは高笑いではなくゆっくりとはっはっはと笑った。今ふっ

と、浪越徳治郎の「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」と言う台詞を思い出した。

WIKIPEDIAによると指圧の原点は浪越が「多発性関節リウマチの母の痛みを和らげたいと

いう一心から揉んだり擦ったりするうち、指で押すことで痛みが和らぐことを発見する。」事に

あったようだ。この人の笑いも有名であったようだ。浪越の指圧が母の痛みを和らげるため

に始められたとは知らなかった。ともかく笑いを一つの行として捉えるとそこに人生の深い意

味が込められているように感じる。先生の笑いの真の動機を知る由もないが、諸君くよくよす

るな、笑えば気持ちのゆとりが生まれる。先ず笑おうと呼びかけているようであった。

2009年5月22日 (金)

中三の学級担任

2009/5/22

中三の学級担任

中学三年生の頃は進路で頭を悩ます頃でもある。家が農家であり、長男は農家の後を継ぐ

というのが当時では普通であった。受験向きの学習塾はもちろん、そろばん塾や習字の塾と

も無縁であった。父は息子が青空大学に来ると期待していた。父子ともに自分の期待に対す

る葛藤があった。しかし、学級担任の先生はこの事情をよく理解してくれて、自分の希望する

進路に進めるよう側面から支援してくれた。今考えると、当事者同士では客観的な事が見え

ない。しかし、学級担任としての立場からはいろいろな事が客観的に見えたのであろう。父は

青空大学はあきらめた。その学級担任の先生は、今日では惜しいほど若くして亡くなられ

た。自分の社会人としての進路の方向を決めたのが中学三年の時の学級担任の先生であ

った。教師という職業は一種の天職のようでもある。丁度人間が自己を形成する大事な時に

その自己形成に必要な作用を及ぼす人である。かけがえのない教師に巡り会えた事を有り

難く思う。ともかく、このときは農業から離れた所に自分の理想を描いていたわけである。戦

後の高度成長期は農業の構造変化の時期でもあったようだ。若い人は農業から離れていっ

た。周辺をみると自分の先輩は専業農家が多かったが後輩は農業農家は極少なくなってい

る。時代の流れであった。戦後の高度成長を支えたのは第一次産業から流出した人材であ

ったのかもしれない。

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嗚呼 伊勢崎 非情

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  • 橋本 英文: 刃物雑学事典 図解・刃物のすべて(1986年 株式会社 講談社 ブルーバックス B-659)
    刃物という視点で多くの事例が取り上げられている。刃のある道具の理解にも役立つ。類書が少なく貴重な一冊。「すべり変形が切断の原理」という考え方で説明している。
  • 沼田 真   : 植物たちの生( 1972年 岩波新書(青版 833))
    「ご要望にお応えしてアンコール復刊(1988年岩波新書50年記念復刊) 地球生態系の中で自然を見直す」(腰巻きのフレーズ)。植物の知恵と戦略に人類は勝てるのか。
  • 出町 誠: 14_NHK趣味の園芸:よく分かる栽培12ヶ月  カキ(NHK出版2007年)
    初心者向け柿栽培参考書(新版)。旧版と比較すると楽しい。
  • 中村三夫: 13_NHK趣味の園芸:作業12ヶ月  カキ(NHK出版1996年)
    初心者向け柿栽培参考書(旧版)。新版と比較すると楽しい。
  • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
    細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
  • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
    著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
  • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
    ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
  • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
    やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
  • ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫訳): 08_サイバネティックスはいかにして生まれたか(みすず書房1956)
    情報と通信という現代社会に不可欠の基礎的な学問を作った著者の自伝とそれを通した科学史
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    2010/8/4:MEMO等の表示に使える。 農作業で気になる自戒の言葉 ■畑の石ころはいつまで経ってもても石ころ(早く拾って片づけよという意味か)。 ■同じ石を二度拾うな(やってみると難しい)。 ■手ぶらで歩くな。 ■三つ先のことを読め。 ■適当な観察。 ■空を見よ(気分転換、休憩、天気を読む、腰曲がり防止)