読みかじりの記:帝王学 「貞観政要」の読み方 山本七平 著 (1983年 日本経済新聞社):20110721。
2011/7/21
昨日は台風6号の影響で断続的に雨。19日と20日の総雨量は60㎜。AMEDAS最高気温(℃)=28.3(16:04)。XPパソコン順調かと思っていたが昨日もダウン。早速イベントビューアーを見たら、ダウン直前の情報が残っている事が分かった。Mini072011-01.dmp。このファイルは専用ソフトで読む必要があるらしいが、バグかエラーでウイルスとは違うようなのでとりあえず静観する以外にない。
2011/7/20の天気
TAVE= | 25.2 |
TMAX= | 28.3 |
TMIN= | 21 |
DIFF= | 7.3 |
WMAX= | 4.6 |
SUNS= | 0.1 |
RAIN= | 13.5 |
紀伊民報は、「古座川町西川で積算雨量784ミリ 台風6号;url=http://www.agara.co.jp/modules/dailynews/article.php?storyid=214431(2011年07月20日更新)」というタイトルで、「台風6号は20日未明に徳島県南部へ上陸した後、午前10時ごろ、和歌山県串本町潮岬を通過して東へと進んだ。接近に伴って県南部では激しい雨が降り、西川(古座川町)では7月雨量平年値の1・7倍に当たる積算雨量784・5ミリを観測した。各地で土砂災害が発生、道路の通行止めが相次いでいる。」と報じた。
大型でゆっくり進む台風で気象庁の予測も狂ったようだ。以下の図はAMEDASの台風情報より。
群馬県ホームページを見ていたら知事の臨時記者会見の記事が出ていた。群馬県ホームページは、「臨時知事記者会見要旨(7月13日);url=http://www.pref.gunma.jp/chiji/z9000035.html(平成23年7月13日)」というタイトルで、知事の発言を、「本日発売の週刊誌の記事について、忙しい中、急な記者会見のお願いをしました。大変恐縮に存じています。
まず、本日発売の週刊誌に、私の行動が取り上げられ、県民の皆さまの信頼を傷つけることになったことに対しまして、深くお詫びを申し上げます。~(以下略)」と報じた。
その後、新聞が関連の動きを伝える記事をまだ見ていない。県民にもショックが余りにも大きすぎたのか。とはいえ、憂慮すべき事態であることには変わりがない。沈黙だけでは群馬の県民性まで疑われる。県政は地方自治という原点からは、本来生粋の県民が命をかけて行うべきではないか。
「群馬県知事一覧http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A4%E9%A6%AC%E7%9C%8C%E7%9F%A5%E4%BA%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7(最終更新 2011年7月15日 (金) 13:48)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「官選知事 群馬県令(第二次群馬県)、初代 楫取素彦」の名前が見える。
このWIKIPEDIAの記事によると、官選では群馬県出身の知事は一人だけである。民選知事でも他都府県出身の任期の方が多い。総理を何人出そうが自前で知事を出すのが地方自治の原点ではないか。その点、県民の二期目となる現知事への期待は少なからぬものがあった筈だ。
尚、楫取素彦に関しては、「楫取素彦http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AB%E5%8F%96%E7%B4%A0%E5%BD%A6(最終更新 2011年6月7日 (火) 05:24)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「楫取 素彦(かとり もとひこ、文政12年3月15日(1829年4月18日) - 大正元年(1912年)8月14日)は、日本の官僚、政治家。正二位勲一等男爵。通称は久米次郎または内蔵次郎。小田村氏の養嗣となって伊之助と改め、後に文助・素太郎と言い、慶応3年(1867年)9月、楫取素彦と改めた。諱は希哲、字は士毅、号は耕堂彜堂・晩稼・棋山・不如帰耕堂等。吉田松陰とは深い仲であり、松陰の妹二人が楫取の妻であった。最初の妻は早く死に、次の妹を再び妻にしたのである。」とある。
更に「楫取素彦 - G-TaK.NET_BBhttp://www2.g-tak.gsn.ed.jp/es/sougou/ijin/00ijinpdf/katori.pdf」、「楫取素彦 ─ 野村望東尼〝ゆかり〟の 人 http://www.geocities.jp/kawatoshi3174/boutouni/katori.html」も参考になった。
群馬県民は他県出身の知事と言えどもこのような志の高い人物は快く迎えたのではないか。
以下は、嘆かわしい国政を念頭に読んだ本の読後感である。国政、県政だけでなく広くその分野の指導者たらん人に読んで貰う価値があるかもしれない。そのキーワードは「志」ではないか。
追記(2019/02/28):タイトル強調。ページ内リンク設定。ここにアンカーを設定。
読みかじりの記:帝王学 「貞観政要」の読み方 山本七平 著 (1983年 日本経済新聞社)
本書の腰巻きに「今問われる指導者(リーダー)の資質!!」とある。
戦後昭和史(http://shouwashi.com/1983.html)によると、「1982年:
01/26 ロッキード事件全日空ルートで同社幹部6人に執行猶予つき有罪判決.
06/22 ロッキード事件政治家被告に初の判決公判.橋本元運輸相らに有罪判決.
10/18 岡田茂前三越社長を通じ商品納入独占の竹久みち,脱税容疑で逮捕(29日特別背任
容疑で岡田逮捕).
1983年:
10/12 ロッキード事件丸紅ルート判決公判.田中元首相に懲役4年,追徴金5億円の実刑判決.
他4人も有罪判決(控訴).
12/18 第37回総選挙.
12/27 第二次中曽根内閣発足.」等の記事がある。
「貞観政要http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E8%A6%B3%E6%94%BF%E8%A6%81(最終更新 2009年12月30日 (水) 12:04 )」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「貞観政要(じょうがんせいよう)は唐の史官である呉兢が編成したとされる太宗の言行録である。題名の「貞観」は太宗の在位の年号(西暦627年~649年)で、「政要」は「政治の要諦」をいう。全十巻四十篇。中宗の代に上呈したものと玄宗の代にそれを改編したものと二種類があり四巻の内容が異なる。伝本には元の戈直(かちょく)が欧陽脩や司馬光による評を付して整理したものが明代に発刊されてひろまった「戈直本」と唐代に日本に伝わったとされる旧本の二系がある。日本以外にも朝鮮・女真・西夏の周辺諸語に訳されるなど大きな影響を与えた。太宗と魏徴・房玄齢・杜如晦ら重臣の間で行われた政治問答が主な内容である。」
「太宗 (唐)。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%97_%28%E5%94%90%29。(最終更新 2011年6月25日 (土) 05:20 )」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「太宗(たいそう)は唐朝の第2代皇帝(在位:626年9月4日 - 649年7月10日)。兄の李建成を殺害し皇帝に即位した。唐王朝の基礎を固める善政を行い中国史上最高の名君の一人と称えられる。」
著者はなぜ、1300年程前の「貞観政要」かと巻頭で述べる。「だが、見方を変えれば、現代に最も必要なのは「帝王学」かもしれない。」と続ける。巻末に、山本書店主、評論家とある。当時ユニークな見方をする論客というイメージがあった。聖書学に通じていたという背景があるのだろう。聖書を追求すればGODという概念に遭遇するだろう。同じく中国史の中にも天という最高の権威が出てくる。GODでも天でも究極的なPOWERが無ければ絵に描いた餅に終わるだろう。そのPOWERを行使するときの心構えは、生まれつき備わっているのかと言えばNOというのが歴史の教訓なのだろう。著者は「貞観政要」の中心人物である「太宗 (唐)」をその理想的POWER行使者と見て、「貞観政要」について著者の理解を解説したのが本書であろう。このPOWERはそのシステムの最高位にある者は必然的に行使しなければならない責任も生じる。著者の見方では主権在民という政治システムを持つ体制においては国民が広くこのPOWERを行使するので、国民においても「貞観政要」は必要だとの立場を示している。要するに、なんらかの事業を遂行せんとする者に対する指南書、今日風に言えば経営者・指導者実戦マニュアルとも言えるかもしれない。しかし、こういう場合はこうせよという単純なものではない。自分で読んで自分で考えよというのが著者のメッセージではないか。
1.いま、なぜ『貞観政要』なのか
創業と守成いずれが難きや・・・これが本書の基本テーマだが、■「守文」を考えたことがない現代人...と現代人の刹那的な事業意識を指摘している。ここで「しゅ‐ぶん【守文】-日本国語大辞典:始祖の君主は武をもって国を興し、継承の君主は文を守って国を治めるという意から)先祖の遺業を継承して国を治め守ること。君主が先祖の残した制度・法則を守って、武力によらないで国を治めること。」とある。著者は創業は陽性/攻め、守成は陰性/守りと対比しているが、「貞観政要」に記されているのは守成の難しさだと述べている。1300年程前の「貞観政要」など要らないといえばそれまでであろう。だが、参考になるところが多々あるというのも事実だろう。
■「民」が「主」の時代・・・本項の記述は正に今現在の状況そっくりだ。当時のリーダーや国民に与えた警句が、そっくり現代のリーダーや国民に与えた警句のように通用するようで、その点歴史は余り進歩していないのか。
2.「兼聴」--情報を吸い上げる・・・■社稷の大計を忘れるな:しゃ‐しょく【社稷】=1 古代中国で、天子や諸侯が祭った土地の神(社)と五穀の神(稷)。2 朝廷または国家。「―の危機」3 朝廷または国家の尊崇する神。今日で言えば、情報が入ってくるルートや発信元等良くチェックせよと言うことか。特に皇帝レベルになれば情報の取り扱いを誤ることはできない。そこで、最終的な判断基準は国家にとってどういう意味があるかという事だろう。今日のリーダーはその点情報の判断基準を持っているのか。おいしそうな情報しか来ない体質になっていないか。諌言が耳に届くのか云々。現代でも通用するだろう。
3.「十思」、「九徳」--身につけるべき心構え・・・マニュアル的で詳細。著者のタイトルだけで言いたいことは大体通じそうだ。
■「創業的体制」から「守成的体制」への転換。■一族、功臣の処遇。■思い切った権限の移譲。■敵国外患なき者は、国恒に亡ぶ。■上下雷同は危険だ。■和によって亡ぶ。■必要な「十思」「九徳」。■適材適所のすすめ。現政権は前政権から政権を奪取した。しかし、そもそも「創業的体制」はあったのか。烏合の衆に過ぎなかったのか。何を承継して何を追加するかその基本が定まらずに揺れている。「守成的体制」への転換は可能なのか。殿のご乱心もますます盛ん。マニュアルの想定外の事態なのか。
4.「上書」--全能感を捨てる・・・■「全能感」にとらわれるな・・・権力者はしばしば奇妙な「全能感」にとらわれるものである。一方、「太宗には前のような例があるとはいえ、唐という一大帝国の支配者としては、不思議なぐらい全能感なかった。」と書いている。保証のない先物取引を地で行くような全能感的発言だけではだれもついてゆかなくなるだろう。
5.「六正・六邪」--人材を見分ける基本・・・人材発見と登用。組織にとっては永遠の課題である。最適な解は無いだろう。「一定のめどがついた段階で若い世代に責任を引き継ぐ」とは人材発見、登用、禅譲でも何でもないように見える。こんな言葉に浮き足立っているような人物こそ「貞観政要」を一読してみてはどうか。
6.「実需」--虚栄心を捨てる・・・■無限に膨らむ「虚需」。人間には、必ず虚栄心がある。そして、虚栄心の充足だけは限度がない。もともと、「虚」で実態がないのだから、これは無限に膨張しうる。耳が痛い指摘だが、凡人でも理解できる。況や~おやである。■減税こそ唯一の政権維持の道・・・ムム。■「貞観の治」--有終の美を飾るために・・・自分の末期のシナリオが描ききれないのが現代だが。冒頭に、「太宗は直言には怒らなかったが、収賄や不正には激怒した。」日本の各界の意識はどうか。「貞観政要」などもう古すぎるのか。
7.「義」と「志」--忘れてはならぬ部下の心構え・・・この章は深読みが必要なようだが、読み飛ばす。現代は一般的な人間関係と組織の中は一律には扱えない。武家社会ではご恩奉公という身分関係を習った。そういう関係が現在の組織にも色濃く残っていそうだ。本書のこの項でも「義」と「志」の詳しい説明はない。「志」の大体のイメージは理解できる。しかし、「義」のイメージは難解だ。義理人情の「義」ならなんとなくイメージ出来る。昔、辞書を片手に英語の聖書をかじった時、「righteousness 」を引いたら「義」と出てきたのを思い出した。「英辞郎 on the WEB」によると「seek God's righteousness :神の義を求める/Son of Righteousness :イエス・キリスト、義人{ぎじん}、正義{せいぎ}の子/strive for righteousness :正義{せいぎ}[正しさ]のために懸命{けんめい}に努力{どりょく}する/Sun of Righteousness :《the ~》正義の太陽◆イエス・キリストのこと/
war of righteousness :正義{せいぎ}の戦い」等「正義」を連想させるイメージを「義」ととらえたのではないかと思った。著者が聖書学者ならそういう解釈も不可能ではないだろう。神が絶対なら、「義」を神の子に求める事も可能かもしれない。しかし、「正義」という言葉も日本は忘れかけている。殿のご乱心をおさめるにはどんなツールが必要かと言う段で正義という槍もあると教えようとしたのか。ともかく極端な限度を超える邪悪は正義という槍で懲らしめ・正すという手もありそうだ。部下も理論武装しなければ生き残れない。ご乱心の殿の下にいては部下も危うくなる。これは今も昔も変わらないだろう。
8.「自制」--縁故・情実人事を排す・・・『いわば「リーダーの絶対禁止事項である。」』とその通りだが、現実には相当な実例がありそうだ。
9.「仁孝」--後継者の条件・・・これは経営学方面での関心事であろう。
10.「徳行」--指導者(リーダー)に求められるもの・・・■「栄貴」より「徳行」こそ肝要・・・「その人の死後、人々は何でその人を量るか。それは権力でも、社会的な地位でもなく、いわば「人格的な力」というべきものであることを、太宗は知っていた。」著者は本書で、「『貞観政要』の一読者として、興味を感じた部分、自戒の書として役だった部分、また、私が読んだように読めば、多くの人に役立つであろうと思われる部分の抜粋に、自分の感想を加えたものに過ぎない。」と断っている。
本書出版の時期から間もなく28年になり、時代は大きく変わっているが、余り変わっていない部分もあるようだ。歴史の評価は後世が行うものというのはある点で正しいだろう。現在は、その歴史が刻々と作られている歴史の最前線でもある。そこに、何らかの意識や力が働けば歴史も僅かながら変わるかも知れない。著者はそんなメッセージを発しつつ本書を書いたように読むこともできそうだ。歴史とは所詮小さな出来事の集積に過ぎないという見方も可能だろう。歴史の一場面を盲目的に生きて行くのか、それとも何かに向かって生きて行くのか。色々な設問が可能だ。本書は「貞観政要」という鏡に指導者を照らして見た。照らされた指導者は特に示されていないが、書かれた時代の指導者を読み解こうとする意図もあったように思われる。そいう見方をすれば、本書からさらに現代の指導者を見ることも不可能ではないだろう。思うに、政治家や経営者も二代目、三代目と代を重ねている例が多い。そのような代々の失敗例、成功例も探せば多い。「貞観政要」を古来の経営指南書と見れば、学ぶべき事も多いのではないか。しかし、「貞観政要」と言えども、何か側近政治がうまく行く方法的な面もあるようで、やはり近代的な経営書には及ばない部分もあるように思える。組織論や意志決定論などは現代社会のダイナミズムに対応できないのではないか。しかし、長期的な事業の承継、人材の発見、育成、登用等は近代的な経営論でも及ばない部分がありそうだ。特に、人材の資質、人格、人望等評価が難しい部分は学問的にも理論化が難しいのではないか。やはり、経営という実利的な分野では、先ず白い猫でも、黒い猫でも鼠を捕らなければ評価されないのではないか。ただ、リアルタイムの評価重視システムだけでは、大きな目標が無視される側面がある。各方面から注目された「目標管理」という成果主義は最終的には失敗に終わった。目標設定にお手盛りができたのだから仕方がない。そう言う点で、歴史の評価に耐えるレベルの高い目標への挑戦はリーダー本人がそれを意識して立ち向かう個人としての課題設定になるのではないか。西洋スタンダード方式の経営論も現実的には日本以上の成果を上げている。従って、グローバル化が進んだ現代では日本的経営一本槍で通せるのか。真の歴史的評価とはやはり何を言ったというだけでは全く評価に値せず、何をどこまで実現したかのみが評価の対象になるのであろう。それは政治だけでなく、経済等あらゆる分野に通用するだろう。著者がわざわざ「貞観政要」を出してきたのは、当時の日本に蔓延していた余りにもみすぼらしいリーダーの倫理感メルトダウン現象の赤チン対策であったかもしれない。何とその赤チンが今でも通用しそうなのだから憂いが大きい。