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2012年8月

2012年8月11日 (土)

愛しき古里:屋台の太鼓に関する愚問

2012年8月11日土曜日
昨日は晴れ。最高気温(℃) 33.6 13:47 の真夏日。ざっそう句:子供屋台 練習仕上げ 虫の声。朝飯前に、灌水、トロ箱苗の移植。移植適期ではないが、弱りかけているので決行。地面は砂埃が立つほど乾燥。植え溝に水を流してから移植。更に数回灌水後カンレイシャを二重にかける。一服してから墓の掃除。二人だったので早めに終わった。子供屋台は練習の総仕上げ。気合いが入り本番さながらだった。

2012年8月10日の天気

TAVE= 27.3
TMAX= 33.2 最高気温(℃) 33.6 13:47
TMIN= 21.9 最低気温(℃) 21.6 05:11
DIFF= 11.3
WMAX= 3.8 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 8.2(東) 13:30
SUNS= 9.6
RAIN= 0

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愛しき古里:屋台の太鼓に関する愚問

屋台のベテランに聞くと、昔の本屋台では、屋台を引きながら演奏する。その時の演奏パターンは、相手の屋台の状況に合わせて変わったそうだ。お祭りだが、一種の競演、喧嘩のムードも漂い、それによって祭りが盛り上がる。その状況をリードするのが笛吹役。次に鉦たたき役だそうだ。笛の演奏をマスターするには長い期間がかかり、自然と屋台全体が見渡せるようになるのだろうと勝手に想像した。ところで、太鼓の向きは、毎年変えるのかと愚問を発してしまった。こちらは、太鼓をいかに長持ちさせるかと考えていた。力一杯バチで太鼓をたたけばやがて摩耗してしまうだろうから。喧嘩だから、勝つのが第一。太鼓の皮を張ると時は、ピンピンに張るよう注文するとの事。叩いて良い音が出る面を使うのだ。それでダメになれば張り替えれば良い。躍動する太鼓叩きの動きを見ていると我が愚問も吹き飛んでしまった。
Isesakimaturi_yatai_2006
2006年いせさき祭りの屋台

2012年8月10日 (金)

文化と文明雑感(ちょっとした旅の思い出):「楫取素彦没後100年」を思う

2012年8月10日金曜日
昨日は晴れ。最高気温(℃) 32.6 14:53 。夏日だが、朝冷えてクシャミ連発。夏風邪要注意。雑木の歌:今もなお 偉人の徳を 偲ばせる 楫取素彦 百一回忌。苗に灌水。駐車スペース周辺の刈払。1:25の混合ガソリンを作ってから開始。メーカーは旧タナカ。現在、(株)日工タナカエンジニアリングとなっている。そのホームページには「日立工機グループの一員として設立され、2007年5月1日よりエンジン工具の製造販売の事業をタナカ工業株式会社より譲り受けました。」とある。調べてみると2002年9月に購入したのでもうじき10年になる。小型で馬力がないが、余り無理な使い方をしなかったのが長持ちしている一因かも知れない。

2012年8月9日の天気

TAVE= 26.4
TMAX= 32.3 最高気温(℃) 32.6 14:53
TMIN= 21.8 最低気温(℃) 21.5 05:25
DIFF= 10.5
WMAX= 5.6 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 10.1(東南東) 18:53
SUNS= 8.4
RAIN= 0

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文化と文明雑感(ちょっとした旅の思い出):「楫取素彦没後100年」を思う

もうじき8月15日の終戦記念日となる。「伊勢崎空襲。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%B4%8E%E7%A9%BA%E8%A5%B2(最終更新 2012年7月12日 (木) 07:53 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「伊勢崎空襲(いせさきくうしゅう)とは、1945年(昭和20年)8月14日深夜から翌8月15日未明にかけて群馬県伊勢崎市とその周辺地域が受けた米軍による空襲。太平洋戦争において秋田県秋田市の土崎空襲や神奈川県小田原市の小田原空襲等と並んで米軍最後の日本本土空襲となった。~[編集] 概要:1945年(昭和20年)8月14日深夜、84機の米空軍B24爆撃機・戦闘機が伊勢崎市と周辺の佐波郡3村に飛来し614.1tの焼夷弾、27発の爆弾を投下した。空襲は終戦日となる8月15日未明まで続いた。この空襲で罹災者8,511人(人口罹災率21.3)、死者29人、重軽傷者150余人、1943戸の家屋が焼失(共に伊勢崎市の被害のみ)した。市街地の約40%が焼失したが、空襲当日が無風状態だったことや広大な防空空き地を設置していたために類焼が食い止められ、人的被害は最小限に抑えられた。」とある。

近所のおばさんの話では、その頃学徒動員で、電車で通勤して、中島飛行機で部品の製造に従事していた。空襲があっても家と連絡もとれず、家に帰った時は真夜中になっていたとの事。「中島飛行機株式会社その軌跡(http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/nakajima31.html)」によれば、「小泉製作所への空襲は最初は1945年2月25日で太田製作所と同日に米国海軍艦載機が来襲し、111発の通常爆弾を投下し43発が東半分の建屋を中心に命中し、組立中の銀河43機に損害がでて、更に治工具に被害が及びその後の銀河の生産が極めて困難となった。また死傷者も21名に及んだ。(右写真は米軍機撮影)2回目は4月3日の夜間でB29が通常爆弾24発と焼夷弾4発を投下し、約半数は工場に命中して板金工場が壊滅的損害を受けた。」とある。伊勢崎が終戦の前日に空襲を受けたのと異なり、太田(大泉)は軍用機工場があったので、それより先に何回か空襲の対象になっていたようだ。また、空襲の時、松の木に上ったか、その木の下に逃げて助かったという男性の話を聞いた事もある。空襲体験者は既に80才代だろう。

8月14日は、初代群馬県令楫取素彦の命日で、今年で楫取素彦没後100年となる。今年の3月たまたま楫取素彦が建立した渋川市にある御蔭松の碑に出会って、楫取素彦という人物に興味を覚えた。楫取素彦と有縁の人たちが建てた顕彰碑は、大きく立派なものだった。楫取素彦が建立した御蔭松の碑はその対局にある。自分としては「御蔭松の碑」の謎めいた部分により深い関心があるのだが。

今年の8月14日が楫取素彦の没後100年という情報に接して、一度「前群馬県令楫取君功徳之碑」を見たいと思っていた。たまたま、その近くへ出かける機会があった。事前調査もしないで出かけたので、いざ歩いて探すとなると、猛暑の中かなりきつい苦行となった。前橋公園の中にあるという話も聞いたので、ともかくきょろきょろしながら探す。最初に虎姫観音堂周辺を探したが見あたらなかった。前橋公園に北に向かって歩いていると、右手に小さな公園があった。その奥の方に石碑らしいものがあった。それが、探していた碑であった。見逃して、前橋公園の中に入ってしまったら大変だった。公園も、夏までに伸びた樹木で鬱そうとしている。願わくば、公園入り口に、公園名、碑の存在を示す標識程度は設置して欲しいと思った。

とりあえず、「前群馬県令楫取君功徳之碑」をデジカメに納める。この篆額部分は画像処理してかろうじて、そう読めるだろうと言う画像しか写せなかった。ともかく大きな碑であった。周辺の樹木が邪魔をして碑全体を納めるアングルが制限を受けている。また、樹木の影がと日射がまばらに映り、碑面の明暗のばらつきが大きい。碑文は、楫取素彦の功績である、養蚕振興の部分らしい文字をデジカメに収めた。碑の隣に説明版、その隣に、「楫取君功○(?)碑賛助人名」という建碑者名を記した碑があった。「功徳之碑」の背面には有志者が之を建てたとあり、その有志者が別の碑に記されている。旧伊勢崎町の有志者の部分だけをDSCに納めて合成した。人名の最初に、佐位郡伊勢崎町織物業組合が掲載されており、当時織物業が盛んであった事を如実に示している。伊勢崎町の有志者氏名の中に、町長武孫平、県会議員下条弥一郎等の有力者の名前があった。

賛助人を記した、「楫取君功○(?)碑賛助人名」という碑名の「○」の部分の漢字が電子漢和辞典で調べたが、分からない。偏が「云」作りが「懐古」の「懐」の作りである漢字のように見える。実質的には「功懐」と同じ意味か。当時の「前群馬県令楫取君功徳之碑」を建てた賛助人にとっては、楫取素彦の「功績」だけでなく、「徳性」を讃える意味で「功徳」としたのだろうか。「功懐」とは、楫取素彦の功績を、しみじみと懐かしむという意味にとれるのではないか。任地を去る、行政官としては、これほど名誉なことは無いだろう。「楫取君功○(?)碑賛助人名」の碑の「功懐(?)」は賛助者が楫取素彦を見つめる視線を感じる。同時に「功徳」の「徳」には、楫取素彦が賛助者を見つめる視線を意識しているように感じる。そういう意味で、群馬県の近代化は楫取素彦と群馬県の指導者層との相互作用で進んだように見える。

尚、碑文の書を成した金井之恭(ゆきやす)についてはWIKIPEDIAに記事がある。

「金井之恭。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E4%BA%95%E4%B9%8B%E6%81%AD(最終更新 2012年4月10日 (火) 04:38 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「金井 之恭(かない ゆきやす、天保4年9月18日(1833年10月30日) - 明治40年(1907年)5月13日)は幕末期の志士、明治期の官僚、書家。通称は五郎。字は子誠。号は金洞(こんどう)・梧樓・錦鶏など。長女は弁護士で政治家の小川平吉に嫁ぐ。~略歴:幼少の頃から文学を好み、また書もよくした。明治維新の際には尊王を唱えて討幕を試みたが、計画が露呈し、幽囚となった。しかし、生還した後に東京に入り、明治2年からは制度寮行政官に就任、その後内閣書記官、元老院議官、貴族院議員を歴任した。また、大久保利通が清に渡った際は、井上毅らとともに随行している。書は初め中沢雪城に学び、のち貫名菘翁の書風に傾倒した[1]。明治書壇の有数の大家であり、日本書道会・書道奨励会の会長等を歴任し、明治9年4月に明治天皇が大久保利通邸を訪問した際には、日下部鳴鶴とともに席書を行った。~[編集] 年譜:1833年(天保4)9月、上野国佐位郡島村(現在の群馬県伊勢崎市)に画家で勤皇家の父・鳥洲の三男として生まれる。」

昨年死亡した知人は、当地区の「八幡沼の碑」に関して、どんな立派な碑ができても、百姓は汗水垂らして働くだけで、そんな碑を見るひまなど無いと話していたのを思い出す。今年、当地区の私有地にあった「開拓記念之碑」が区有地に移設された。地主の都合で、記念碑の居場所がなくなってしまったのだ。当時、里山であった山林を開拓して畑地に換える事業の完成を記念した碑である。このような事業により、現在の地区の骨格が変わってきた事をしるのも有意義なことと思う。碑は、建立の当事者が未来に向けたメッセージであろう。「前群馬県令楫取君功徳之碑」をじっくり読んで見たいが、まだWEB上ではその文と読み下し文に出会っていない。この碑は、我々現代人にどんなメッセージを伝えようとしているのか。

Katori_kensyougd
「前群馬県令楫取君功徳之碑」。右:全体。中:文字面(着色加工)。左:説明版。

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「楫取君功○(?)碑賛助人名」の碑。右:伊勢崎町有志氏名。左:碑の上部篆額部。

上記二枚の画像はDSCデータを合成・加工したもの。

関連リンク(2012/9/5);:WEB PAGE 「09D2 初代群馬県令 楫取素彦 没後100年記念(2012年)。http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/09d2_KATORI_MOTOHIKO_MEMORIAL.html」 へ。

2012年8月 9日 (木)

技術 回顧と展望:(愛しきもの 道具達)デジタルウォッチ

2012年8月9日木曜日
昨日は晴れ。最高気温(℃) 32.3 13:22 。猛暑日を脱したが真夏日。ざっそう句:夏草は 蚊群放射器 めげず抜く。朝飯前仕事で通路の草取り。苗灌水。用事外出。夕方トウモロコシの後かたづけ。先日、刈払作業をした後、腕時計を見たら針が止まっていた。一度、自分で電池を入れ替えた物なので、アナログ表示の新品に買い換えた。腕時計は何となく見るので、アナログに親しみを覚える。携帯の時計は見る気がしない。

2012年8月8日の天気

TAVE= 26.1
TMAX= 31.2 最高気温(℃) 32.3 13:22
TMIN= 22.1 最低気温(℃) 21.9 04:19
DIFF= 9.1
WMAX= 4.1 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 7.9(東南東) 18:37
SUNS= 8.4
RAIN= 0

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技術 回顧と展望:(愛しきもの 道具達)デジタルウォッチ

時を刻む道具は技術と共に進化してきた。一般家庭に時計が入ったのは明治以降だろう。柱時計として大きな物で設置場所は固定が原則だ。時計を持ち運べるようにしたのが懐中時計だろう。これは腰にぶら下げたり、ポケットやフトコロに入れた。ハイカラさんや身分をアピールするシンボルでもあった。その後は腕時計。腕時計は戦前は貴重品であった。父は、従軍する時、大正時代に渡米した人からもらった記念の腕時計をはめていたとの事。戦況が悪くなり、持ち場を撤退(当時は転進と言った)する時、持ち物はすべて地下に埋めよという命令が出て、その記念の時計を満州の地に埋めざるを得なかったと残念がっていた。身軽にするだけでなく、捕虜になった時、身分が分かる物を捨て、さらなる追跡を避ける目的もあったと思われる。

柱時計は、自分の幼少時代にも健在だった。鴨居に掛かっていたので、踏み台にあがって、ゼンマイを巻いた記憶もある。この柱時計は、連続して時を刻む要素が揃っている。この一体になっているメカを柱時計の外箱に固定しているようだ。メカ固定のネジがゆるんでガタガタになったので引退させた。その後は、電池時計に変わる。まだ、時を刻む心臓部はメカ式だったと思う。更に後になって、水晶時計に変わる。クォーツ式で時計の精度は向上した。

自分の腕時計を持ったのは高校入学から。一応ブランド物で、水晶何石とかあったと思うが、これは可動部に摩滅の少ない水晶部品を使ったものだったらしい。クォーツ式クロックは小型化が進み、ウォッチへその技術が投入され、デジタルウォッチ全盛の時代になる。日本の時計メーカーは、この水晶発振器と周辺回路をモジュール化して外販したので、実質的なデジタルウォッチの日本の占有率は相当高かった思われる。また、ウォッチの性能・信頼性も向上したものと思う。そこで、差出てくるのが外形のデザインやアフターサービス。

在職中、電波時計用の集積回路の開発に従事していた同僚がいた。容量が少ない電池で、電子回路を何年間も動作させるために集積回路も消費電力を極限まで下げる必要がある。低消費電力用集積回路の歴史をたどると、ストレート方式のAMラジオ用集積回路がある。この集積回路も電池一個の電圧で動いた。たまたま縁あって、電波時計用集積回路の市場導入を手伝った。当時、日本の有力時計メーカーは、今後開発する時計は電波時計にするとアナウンスしていたような記憶がある。電波ウォッチも現在では当たり前の時代になった。

昨年、東京電力福島原発事故の影響を受けて、おおたかどや山標準電波送信所からの標準電波の送信が停波した(url=http://jjy.nict.go.jp/Pub/JJY40/index_2011.html)。下記がそのときの記事。電波時計の狂いでメーカーに問い合わせがあったようだ。

「停波のご報告 : 40 kHz 2011年。おおたかどや山標準電波送信所において、地震及び地震被害回避のため下記の日時(日本時間)に停波しました。2011年03月11日(金)14:48:31~14:48:32
2011年03月11日(金)14:48:35~16:40:12 電波時計や周波数基準源として標準電波をご利用の
皆様にはご不便をお掛けしました。 」

また、「避難指示に伴い、」その後のかなりの期間停波した。下記がそのときの記事。

「停波のご報告(速報) : 40 kHz 2011年。おおたかどや山標準電波送信所において、福島原発
関連の影響に伴い、下記の日時(日本時間)に停波しました。2011年03月12日(土)19時41分頃から2011年04月21日(木)13時53分頃まで電波時計や周波数基準源として標準電波をご利用の皆様にはご不便をお掛けしました。 」

以前、百円ショップでデジタルウォッチを購入したが、温度による明暗の変化が大きすぎて継続使用を断念した。店頭で時刻を比較したが、時刻は揃っていた。設定時からのばらつきは少なかったが表示部では問題があった。LCDは単独ではコントラストの温度変化を受けやすい。在職中の半導体メーカーではその温度特性補償用の集積回路も生産していた。百円ショップの商品も改良されると思われる。今回は、ホームセンターで購入した日本メーカーの物。日本製ムーブメントを使っているという宣伝文句が目を引いた。

技術も基本的には科学と同じで、日本だけ優位という常識は通用しない。物を長期間作り続けている所に技術も人も集まり、技術の層は厚くなるだろう。百円ショップの商品と言えども、世界的に見れば、それを必要とする人は多いし、その市場規模を考えると侮れない。最近は、百円ショップにブランドメーカーの品も並んでいる。今回買った時計のメーカーの名前は初めて見た。ファブレスのメーカーだろうか。ともかく、気長につき合うモニター製品が出来た。

2012年8月 8日 (水)

読みかじりの記:星降る夜のパソコン情話 中村正三郎 著 (1996年 株式会社ビレッジセンター出版局)

2012年8月8日水曜日
昨日は晴れ。最高気温(℃) 35.7 13:43 。またも猛暑日。かみさんから高温注意報が出ているからと禁足令が出る。雨が降ったから水くれも不要だろうと言う。宅内で残務整理。廃品回収業者が古い農機を目当てにやってくる。昔の農機は、個人で買うには余りにも高価だったので、同じ作物を作る者数人が出資して共同購入をした。ゴボウを掘るトレンチャーという機械がもう2~30年ほど前から休眠している。ゴボウ栽培は長続きせずに、いつの間にか全員撤退。健在の出資者やその後継者から処分を任されているが、捨てきれない。

2012年8月7日の天気

TAVE= 29.3
TMAX= 35.3 最高気温(℃) 35.7 13:43
TMIN= 23.9 最低気温(℃) 23.6 01:31
DIFF= 11.4
WMAX= 5.8 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 10.8(北) 16:56
SUNS= 12.9
RAIN= 0




読みかじりの記:星降る夜のパソコン情話 中村正三郎 著 (1996年 株式会社ビレッジセンター出版局)

日本のパソコン普及の前史として、コンピュータキットの販売があった。その後、コンピュータキットを箱に入れたようなマイコン時代になったが、価格も高く各社各様の仕様で、ガラパゴス状態となった。ゲーム器メーカーもコンピュータに参入。国内家電メーカーが相乗りしたMSXも、一時のブームの後収束した。パソコンもゲーム用、汎用、ビジネス用と分化。

本書が扱うテーマは、パソコンがようやく一般に普及を始めた頃のパソコン事情である。MAC OSの他社ライセンスの話題なども出てくる。豊富な話題がてんこ盛りの本で、当時の事情を懐かしむには最適な本だろう。パソコンの可能性にチャレンジして、いろいろな試みが行われたが、結局ユーザーの支持が得られなかった試みは消えていったようだ。そういう点で、本書は何が消え、何が残ったかをひっそり楽しむには最適だ。

かつて、DOS時代はIBM互換機に近いと言われた東芝のノートPCダイナブック等を主に使っていた。文書作成は、VZエディターを使用。その流れで、ウィンドウ版のWZエディターを今も使っている。追記:VZエディターにはファイル操作が出来るファイラー機能があったのでこれを便利に使用していた。

「VZ Editor。http://ja.wikipedia.org/wiki/VZ_Editor。(最終更新 2012年5月26日 (土) 12:35 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「[編集] 概要:愛知県の名古屋工業大学出身のプログラマ、兵藤 嘉彦(ひょうどう よしひこ、c.mos)がアセンブラで記述し、1989年5月に株式会社ビレッジセンターから発売した。兵藤が設計したエディタ「EZ98(EZ Editor)」を基に[1]、兵藤が自ら改良・機能強化を施し、改称して出荷した。フロッピーディスクには、実行プログラムの他、アセンブラのソースコードも同梱されていた。 当時、ビレッジセンターは、アメリカフリーソフトウェア、シェアウェアの店を営業しており[2]、英語ソフトウェアの日本の機種への移植製品や、GNUなどのフリーソフトウェア関連製品の販売をしていた。そう言った経緯があり、開発者である兵藤の名が前面に出るといったユニークな販売スタイルとなった[3]。 1992年頃のVer.1.5の対応機種はPC-9801シリーズとその互換機用に東芝のJ-3100シリーズ、AXマシン用が添付、そのほかにDOS/Vマシン、日本IBMのPS/55シリーズ用を別途用意していた[4]。」

本書が、株式会社ビレッジセンターから出版されたのも、当時の雰囲気を反映しているのではないかと思う。この記事もWZ エディターで書いているが、そのバージョンを調べると、3.00Dと出た。著作権表示は1995-1997、株式会社ビレッジセンターとあり、本書の出版時期に重なる。思えば、WZ エディターも長寿ソフトの部類だろう。

「WZ EDITOR。http://ja.wikipedia.org/wiki/WZ_EDITOR(最終更新 2012年2月10日 (金) 13:05 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「WZ EDITOR(ダブルゼット エディタ)は、山口 敏郎(やまぐち としろう、TY)が開発し、株式会社WZソフトウェアが販売するWindows用テキストエディタである。 1995年6月、株式会社ビレッジセンターよりバージョン1.0が発売された。 C言語の文法によく似たTX-Cと呼ばれるマクロ言語を実装しており、柔軟なカスタマイズが可能である。 通常のテキストファイルの編集だけでなく、C言語のプログラムファイル、HTMLファイル、縦書きや体裁文書など、様々な文書ファイルを作成できる。また、カスタマイズをすることにより、独自のファイルフォーマットのファイルの編集を行うことが可能である。 1988年発売のMS-DOS用テキストエディタ「VZ Editor」から2003年10月発売の「WZ EDITOR 5.0」までを販売してきた株式会社ビレッジセンターは、2008年4月に株式会社WZソフトウェアに対して「WZ EDITOR」関連事業を移譲し、2008年11月末に会社を解散した。「WZ EDITOR 5.0」はバージョン5.03が最終版となった。」

パソコンも基本的には、機械語の命令で動く機械に過ぎない。その命令書がソフトになるわけだが、命令書はアルファベット文字と数字等のわずかな字数で構成される。このわずかな文字でコンピュータという機械を、更にはインターネットというヴァーチャルな世界を支配しようという意欲は何か日本人に不足している才能のように見える。

2012年8月 7日 (火)

老人の寝言:本物のクッキーならありがたいが「HTTP cookie」とは何か

2012年8月7日火曜日
昨日は午前曇り一時雨。午後曇り一時晴れ。不安定な天気だった。猛暑日から真夏日になりややしのぎやすい。ざっそう句:爺似合う ジニア咲く道 人も無く。ようやくジニアが本格的に咲き出した。朝飯前仕事で小豆の土寄せ。平行して除草。未明のわずかな雨で土が黒くなっていた。オクラを数本収穫。その後また降雨。午後雨が止んだので公共スペースの刈払。ブラウザでアクセスするサイトからクッキーが大量に送られていた。

2012年8月6日の天気

TAVE= 26.9
TMAX= 31 最高気温(℃) 31.8 15:05
TMIN= 24.7 最低気温(℃) 24.6 23:49
DIFF= 6.3
WMAX= 4.5 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 9.9(北東) 16:55
SUNS= 1.6
RAIN= 2.5

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老人の寝言:本物のクッキーならありがたいが「HTTP cookie」とは何か

WIKIPEDIAには本物のクッキー項目と「HTTP cookie(http://ja.wikipedia.org/wiki/HTTP_cookie)」項目があった。ブラウザの設定が以前のものと異なるのか、頻繁に「cookie」を許可するか否かを聞いてくる。今まで、それを気にしなかったと言うことは、「cookie」を許可していた事と思う。

前期WIKIPEDIAによれば、「概要:HTTPは元来ハイパーテキストにおいて単にファイル転送を行うために開発されたため、同じURLへのアクセスならその状況によらず同一の資源[1]を提供することが前提となっている。動的なコンテンツ生成の仕組みとしてフォームが導入されているが、これは要求に直接対応する応答だけに影響をおよぼす。言い換えるとHTTPでは、同じ瞬間に同じ内容の要求を行っていれば、そのクライアントが以前にどのような通信を行っていても区別されない。HTTPはその意味で現在においてもステートレスなプロトコルである。」との事だ。

何かよく分からないが、「cookie」を食べさせられると、食う前と食った後の情報が判別できるという事なのか。「cookie」を許可するか否かを一つ一つ判断するとなるとかなり手間がかかる。信用できる安全なサイトを選べというのが今回の教訓らしい。

2012年8月 6日 (月)

老人の寝言:大正用水の草刈りもしんどくなった:120806。

2012年8月6日月曜日
昨日は晴れ。連日の熱帯夜・猛暑日。最高気温(℃) 36.5 15:24。雑木の歌:たそがれて 持て余し気味 大正用水 産めよ増やせの 突貫工事。大正用水の草刈り。昨年は8時現地集合。今年は6時現地集となり、熱さ対策として効果があった。帰路、近所のおばさんとその実家訪問。周辺地帯を軽くドライブ。実家周辺なので地理が明るい。昔は、実家まで2里の距離を歩いたとの事だ。おみやげにカボチャを持たされて途中で投げ捨てたいと思った事もあったとか。インターネットの距離測定でその直線距離を測ってみた。距離:7.9km ( 7856 m )、9820 歩 ( 歩幅 80 cm )、2 時間 27 分 ( 3.2 km/時 )と出た。意外だが、話と合った結果が出てきた。昔は、自転車すら貴重品であった。必要ならかなりの時間をかけて徒歩で行き来した。実家に帰る事にも苦労した。楽しみがあるから苦労も我慢できた。それが思い出として残っているのだろう。夕方、百姓先生夫婦と生徒夫婦で先生が作った大きな黒スイカを食べる。四人でも食べきれない。それから苗に灌水。

2012年8月5日の天気

TAVE= 29.9  
TMAX= 36 最高気温(℃) 36.5 15:24 
TMIN= 25.6 最低気温(℃) 25.5 04:49 
DIFF= 10.4  
WMAX= 3.8 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 8.9(東南東) 17:00 
SUNS= 7.6  
RAIN= 0  

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追記(2018/02/23):タイトル文字を太く、日付を追加

老人の寝言:大正用水の草刈りもしんどくなった

大正用水の草刈りは、用水の水を切って一斉に行われる。地域ごとに担当の場所が決まっている。稲作農家はその仕事にかり出される。用水管理は稲作の基本中の基本。この大正用水工事は戦時中の食糧難を突破口にして突貫工事で行われたようだ。現在80才前後の当時の学徒もかりだされ、シャベルとモッコで作業をしたという話を、数人の経験者から聞いた事があった。以前の関係記事。
「食料不足http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2009/09/post-0090.html(2009年9月 2日 (水))」

大正用水工事の発案は「伏島近蔵」にまで遡ると「大正用水史」にあったと思う。「伏島近蔵」でGoogle検索すると約 1,690 件ヒット。

以下にWIKIPEDIA記事を全文引用する。富岡製糸場等が世界遺産登録に動き出したが、群馬県特産の蚕種や絹糸の外国輸出に関してはまだ知ることが少ない。

以下WIKIPEDIAの引用
**********************************
「伏島近蔵。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E5%B3%B6%E8%BF%91%E8%94%B5。(最終更新 2011年1月21日 (金) 07:29 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事全文。

伏島近蔵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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伏島 近蔵(ふせじま ちかぞう、1837年(天保8年) - 1901年(明治34年))は、江戸幕末から明治にかけて活躍した横浜の実業家であり、横浜商人の代表的人物の一人である。

目次
1 生涯
2 頌徳碑と銅像
3 田辺屋の屋号
4 板垣退助に心酔
5 参考文献

[編集] 生涯
伏島近蔵は上野国新田郡藪塚村(現群馬県太田市)の地主の家に生まれた。1865年(慶応元年)に、妻こうを伴い横浜にきて、当初は横浜-神奈川間の行商や、妻の蝋燭小売により生計を立てる。その後商館「アメリカ一番館」に勤務し才能を示し、商人として頭角をあらわした。1868年(慶応4年)に同館を持し独立し、唐物、蚕卵紙(さんらんし、蚕の卵をつけた紙)等を扱う商売をし財産を成したが、その後一旦帰郷し家業に従事するようになる。

帰郷後は家業に従事する一方で、渡良瀬川大間々町(現群馬県みどり市)から鳥の郷(現群馬県太田市)に至る用水路を開削し、その功績により1876年(明治9年)の明治天皇東北御巡幸の際には特に拝謁を仰せ付けられ、奈良晒二匹を下賜された。その後アメリカ一番館の日本人惣番頭の死により再び横浜に戻るが、小学校への寄付や鉱泉事業等への協力等、故郷の発展のために生涯多大な貢献を果たした。

横浜に戻って後はアメリカ一番館の大番頭となり、1877年(明治10年)の西南戦争における羅紗(ラシャ)の取引等で巨利を得るが、1878年(明治11年)には再び同館を辞し、他の有力横浜商人と共に第七十四国立銀行の設立に参加し自ら初代頭取となる。一方彼は貿易商人としての活動も続けていた。

横浜開港以来蚕卵紙の輸出の多くは外国商人により壟断(ろうだん)され、彼らはそれにより巨利を得ており、日本への利益の還元は少なかった。1880年(明治13年)に彼は蚕卵紙直輸を決意し、現地商人と交渉すべくイタリアへと渡るが、すでに横浜の外国商人と結託したイタリア商人の妨害により交渉は難航。駐伊大使鍋島直大も仲裁したが、その間蚕卵が孵化し商品とならなくなり大損害を蒙り帰国した。その間253日間に及ぶ旅行記は当時の第一級資料である。大胆豪放の一面、思慮極めて周到周密な彼の人間があらわれている。

帰国後彼は悪影響を考え、第七十四国立銀行頭取の職を同郷高崎出身の茂木惣兵衛に譲り商業活動に専念したが、折に触れ局外協力は行った。その後横浜市民への良質な飲料水の不足を見た彼は、大田初音町山に横穴を掘削し清水を得て、清水販売(飲料水販売)を実行し再び巨利を得た。彼は事業を株式会社組織とし揺光社(ようこうしゃ)をおこした。

彼は外国における港湾都市の土地値上がりを知り、不動産事業への進出を決意、揺光社の株式を売却し野毛山一体の地所を買占め、1884年(明治18年)の市による野毛山貯水池設置にあたり売却し利益を得て、その後も積極的に不動産事業を行った。

また外国における港湾都市の実見により、港都横浜の発展には陸上施設の完備が肝要であることを痛感した彼は、その後積極的にその方面での活動を行う。特に現在の大通り公園にあった新吉田川や、新富士見川の運河の開削や、隧道や橋等の整備に力を入れ、私財を擲(なげう)つことも厭わなかった。

彼の事業は順調であったが、1901年(明治34年)北海道開拓を決意し、同年官林の払い下げを受け、その実地検分のため北海道に渡ったが、札幌にて病となり、その後稚内まで達するも現地で病死した。享年64。墓地は横浜にある。

[編集] 頌徳碑と銅像
横浜お三の宮日枝神社境内と太田市に彼の功績を称える頌徳碑があり、故郷藪塚には銅像があり郷土の偉人として功績を称えている。

[編集] 田辺屋の屋号
伏島近蔵の店は田辺屋として知られていたが、屋号の由来は定かではなく彼も由来を語ることはなかった、一説には恩人の苗字と言われている。

[編集] 板垣退助に心酔
横浜は自由民権運動の盛んであった土地であり、当時の市民は商人派(立憲改進党支持)と地主派(自由党支持)に別れ鎬(しのぎ)を削っており、商人派の巨頭は原善三郎、地主派の巨頭は伏島近蔵であった。彼の北海道開拓は自由党の党勢拡大の目的もあり、実地検分では当時の自由党幹部も同行している。彼は上州気質、任侠精神が強く、板垣退助の高潔な人格に深く心酔していた。

[編集] 参考文献
横浜開港資料館報 「開港のひろば」(Number95) 2007年(平成19年)1月31日(水)発行
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=伏島近蔵&oldid=35977226」から取得
カテゴリ:日本の実業家横浜市の歴史群馬県出身の人物1837年生1901年没
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以上引用終わり。

最近、伊勢崎市の文化財になっている旧時報鐘楼建立の資金を寄付した小林佳助の事を調べた。小林佳助も横浜に出て成功した商人だが、その取り扱う商品が薬種、当世風に言えば、薬剤だった。生糸を扱ったかは定かではない。

明治前期に於ける生糸直輸出の位置(http://www1.tcue.ac.jp/home1/k-gakkai/ronsyuu/ronsyuukeisai/45_1/tomizawa.pdf)、高崎経済大学富沢氏の記事に「明治14年1月:伏島近蔵、イタリアに赴いて蚕種を直売、50万円余の負債を被る。」という記事がある。

群馬県出身の、伏島近蔵、小林佳助、横浜、国際貿易云々というキーワードで蚕種、生糸、日本特産品(薄荷)等の流通面の歴史が見えてきそうな気がした。小林佳助も横浜の商人。伏島近蔵と小林佳助の接点もあったように思う。大正用水は群馬県の農業を支える基礎的な基盤であるが、それを維持することが今後益々困難になるように感じる。先人たちの偉業とインフラを見直すことも日々の活動の動機付けになるのではないか。

2012年8月 5日 (日)

花と実を楽しむ(愛しきもの 花と実):深紅に咲くカンナの花

2012年8月5日日曜日
昨日は朝一時曇り。その後は晴れ。ざっそう句:灼熱の 熱さを競う 赤カンナ。熱帯夜・猛暑日が連続。灌水後、用事外出。庭先に列植された赤カンナが咲いている洋風の民家を見た。強烈な印象。

2012年8月4日天気

TAVE= 29.4
TMAX= 34.1 最高気温(℃) 35.0 14:35 
TMIN= 25.8 最低気温(℃) 25.4 06:19 
DIFF= 8.3
WMAX= 3.9 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 8.0(東南東) 17:12 
SUNS= 5.6
RAIN= 0

Q
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花と実を楽しむ(愛しきもの 花と実):深紅に咲くカンナの花

Kannna_2005_10_13
かつて、何色かのカンナの苗を購入して植えたことがある。失敗だった。カンナに期待したのはこの熱さの中に咲くバイタリティ。草丈も高く、宿根なので、夏場の雑草対策が目当てだった。ようやく探し出した、上掲のDSC写真には「撮影日時,2005/10/13 7:48:16」のタイムスタンプが付いていた。このカンナの株の後方に数㎝まで伸びた何かの作物の苗が育っている。あの頃、あの人は元気だったのだと今は故人となった方の人柄が忍ばれる。見知らぬ民家の庭にカメラを向けるのは憚られるが、この一枚は残っていてくれてありがとうとと感じた。

2012年8月 4日 (土)

日々農天気:ひねた「ときなし人参」のタネ蒔き

2012年8月4日土曜日
昨日は晴れ。最高気温(℃) 36.1 13:54 。猛暑日・熱帯夜。満月や チャリ漕ぐ影に 虫の声。東の空に満月が明るく光る。月の光で出来た、自分が漕いでいる自転車の影を見たのは初めてのように感じる。苗に灌水。もらった種から育った、桔梗の苗が10㎝ほどになったので圃場に移植。ひねた「ときなし人参」のタネをまいた。用事外出。野菜や花の種、球根を少し買う。ひねた「ときなし人参」のタネはいつか蒔くつもりで買ったのをまき忘れたもの。当然保証外となる。

2012年8月3日の天気

TAVE= 29.6
TMAX= 35 最高気温(℃) 36.1 13:54
TMIN= 25 最低気温(℃) 25.0 04:10
DIFF= 10
WMAX= 4.1 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 8.5(東南東) 17:22
SUNS= 8.5
RAIN= 0

Q
Q

日々農天気:ひねた「ときなし人参」のタネ蒔き

「ときなし人参」なら、いつでも蒔けるだろうと種子を買い置きするとつい蒔きそびれてしまう。今回蒔いた種子のタネ袋の日付が消えかけていつの物かはっきり分からない。08とあるので、2008年の種かもしれない。袋はアルミ箔加工があったので、その分種子の劣化は防げたのかもしれない。発芽率低下防止にアルミ箔加工してあっても、数年間時々陽が当たる場所にあったので、相当のストレスを受けている筈だ。保証発芽率が75%程度だったか。おまけに、人参種子は発芽に光が必要とか。カラカラの、土煙が立つ、暑い時期なので、種まき環境も最悪。ダメモト精神で、発芽すれば儲け物。

蒔くスペースだけ、耕起地均しして、バラ蒔き。その上に篩で軽く土をかけ、カンレイシャを二重にかけた。それから灌水。

「種子 発芽 ホルモン」でGoogle検索すると、「劣悪環境に応答する植物ホルモン「アブシジン酸」の応答経路を解明-植物の環境ストレス耐性の制御機構が明らかに-(http://www.riken.jp/r-world/info/release/press/2009/090922/image/090922.pdf)。」(発表:2009 年9 月22 日 独立行政法人理化学研究所 独立行政法人科学技術振興機構 国立大学法人東京大学)の記事に、「「アブシジン酸(ABA)※1」は、植物の耐乾燥性、耐塩性、耐冷性などの環境ストレス耐性を制御するだけでなく、病虫害への抵抗性などにも関与しています。さらに、種子成熟や発芽、成長、老化など植物のあらゆる生育段階に影響を持つ極めて重要なホルモンです。今回、ABA のシグナル伝達経路を解明したことで、ABA の作用を人為的に制御するための基盤を築き上げることができました。将来的には、干ばつ・塩害・冷害などに耐性を持つ作物の開発、種子の安定性向上や穂発芽※6 の抑制など、さまざまな応用が期待できます。本研究に用いた分析手法は、JST 戦略的創造研究推進事業 個人型」とあった。

植物の発芽は、その時がくるまでじっと我慢するという、進化の中で獲得した遺伝的機能(DNA)に従って進む。「じっと我慢する」している間に、細胞は最低のエネルギーで生存している。その細胞が死んでしまえば発芽しないのだろう。ともかく、少しでも発芽してくれれば、植物の神秘やど根性ぶりを体感できるだろう。

2012年8月 3日 (金)

環境雑録:パソコンME機からXP2機への引っ越しに伴う環境整備

2012年8月3日金曜日
昨日は晴れ。今おなご 昔いなせの 笛太鼓。お祭りも少女たちが中心になる時代だ。いっそうのこと、昔の女系社会まで戻れば良いと天の声。最高気温(℃) 36.6 15:03 。またも猛暑日で熱帯夜。苗だけ灌水。ME機からXP2機への引っ越し。MAIL はOUTLOOK EXPRESSからOUTLOOKに変更。今朝、XP2を起動したらいきなりブルー画面に英語白文字のメッセージ。行き場のないUSBメモリーをUSB HUBに挿したらドライブレターが変わっていた。これが原因か。再起動で問題なく立ち上がったが、さすがメイワクソフト?と朝から不愉快。日本語版のOSに英文の警告メッセージを出すとは、こりゃ手抜きじゃないか。

2012年8月2日の天気

TAVE= 30.1
TMAX= 36.2 最高気温(℃) 36.6 15:03
TMIN= 25.1 最低気温(℃) 25.1 05:02
DIFF= 11.1
WMAX= 3 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 8.1(東) 16:03
SUNS= 9.2
RAIN= 0

Q
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環境雑録:パソコンME機からXP2機への引っ越しに伴う環境整備

ようやくパソコンME機からXP2機への引っ越し作業が大体終わった。今回の引っ越しでは、HUBの省エネで、LANケーブルは一本だけにしているのでその状態で行った。LAN接続なら楽だったかもしれない。ファイルやデータのやりとりはUSBメモリーとDVD-RAMを使った。苦心したのはメールデータの転送。コピペでうまくゆくと考えたが、インポート云々という機能を使うとパソコンにしかられた。結局、だめもとでコピペして、ファイルを上書きしたら何とか古いメールも読めるようになった。セキュリティや個人情報の扱い重視というのが、XPでは強化されたのを実感したが、この十年間の進歩で、家族が一つのパソコンを使う風景も少なくなったように感じる。パソコンユーザーを管理者と一般利用者に分けるのは、UNIXや大型コンピュータ流儀だと思うが、時代の流れは、一人一台以上の携帯電話と同じ方向のように進んでいると感じた。

昔の、コンピュータの広告等を見ると、家族が一台のパソコンを囲んで団らんしている楽しそうな光景があったが、今日では、個人が砂粒のようになり、個と個の関係が、何事に関しても稀薄になってしまった。他人から干渉されず、自分が思うままに生きるのも理想のように見えるが、どこかに巨大なブラックホールが生まれているようにも感じる。同じ事をするなら、慣れ親しんだ環境でストレスなくやりたい。そんな訳で、操作がなれた古いソフトや周辺機やデスクトップの構成等々は以前の環境を復元するよう心がけた。自分に合った環境は日々の活動の積み重ねだ。キーボードはワンコインの安物フルキーボードがやはりぴったりする。断捨離で潔く整理整頓するのも愉快だろうが、環境というのはそう簡単に捨てきれない。物がある場や活動をする場が環境だろうから。

以下の写真は、中国土産の豆が育っている様子。竹竿の先までツルを伸ばしていたが、寄りつく場所がなく、最近ではついに下方にすべり落ちて、今度は横方向にツルを伸ばし始めている。まだ開花する気配はない。ツルと葉柄の間から花が咲くのではと予想しているが。このページはXP2環境で作成した。
Cyuugoku_mame_120727

2012年8月 2日 (木)

技術 回顧と展望:全く同じもの(クローン)を作る技術

2012年8月2日木曜日
昨日は晴れ。最高気温(℃) 34.6 15:35 。猛暑日に近い真夏日。朝方は定例の仕事。灌水はさぼった。日中の灌水はお湯を注ぐような結果になる。XP二号機の引っ越しとチューニング。パソコンの学習効果を引き継ぐためには、ハードとソフトが全く同じになるのが理想だ。ところが、最初のデスクトップの内容・外観がほとんど自分の趣味や目的に合わない。デスクトップの再現も手間取る。アイコン一発クリックで「デスクトップ画面を表示」させる「デスクトップの表示」アイコンが見つからない。最終的にはマイクロソフトのサイトを見てそれを作成した。目には見えないが、日々の習慣として行った学習効果の蓄積の大きさを改めて痛感する。

2012年8月1日の天気

TAVE= 29.2
TMAX= 34 最高気温(℃) 34.6 15:35
TMIN= 24.2 最低気温(℃) 24.0 04:42
DIFF= 9.8
WMAX= 3.6 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 6.7(南東) 19:52
SUNS= 8.7
RAIN= 0

Q
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技術 回顧と展望:全く同じもの(クローン)を作る技術

便利で役に立つ物やサービスを提供できればそれが商売になる。理想的な物やサービスが一つできて、それを完全にコピーできる技術を確立すれば、商売の成功も疑いなしとなる。現代ビジネスが「全く同じもの(クローン)を作る技術」に依存する比重は極めて高い。かつて、半導体の仕事に従事していた時、インテルがCPUの増産に対応するため、工場その物をデッドコピーするという発想で対応していると聞いて、こりゃ偉い事だと思った。そのためには、その原型になる親工場のシステム全体が設計図やマニュアルとして記述されて、常に最新の状態が保たれていれば可能だ。これを、作業員の口移しで行えば、いつ工場が立ち上がるか計画さえも立たない。インテルは依然CPU市場で独占的な地位を保っているのだから、そのような革新的な生産技術が生きているのだろう。ライバルの追従を許さない方法も組織的にそれが徹底できるか否かが成否を決める事になるだろう。

これも、現役時代に遡るが、半導体の需要には、オリンピック景気と言い、オリンピックの年は半導体の需要が高まり好況になるという神話があった。半導体の需要が、オリンピック観戦のラジオテレビ等の情報機器の生産に向けられたのが主な要因だろう。しかし、産業のコメといわれるようになり、もはや当時のオリンピックのように世界の半導体需要を引っ張る特需もなくなった。世界の数社で世界需要の大半をまかなえるような生産力の独占化も進んだ。

ロンドンオリンピック観戦も時差が幸いして、中継は深夜になっている。今年の暑い夏も、ピークシフト効果のお陰で節電で更に暑い夏にならずに済みそうな気配ではある。オリンピックの原点は個人競技である。国が金を出してメダリストを量産する事も現実になっている。そんな現実を見るとメダルの輝きも何かあせたものに見えてくる。メダルの色や数ではしゃぐのも世紀末現象のように見える。規模が巨大で複雑になればなるほど、同じ物を作る事が難しくなる。そんな分野で同じ物を作る事自体が愚挙のようにも見える。

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嗚呼 伊勢崎 非情

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  • 橋本 英文: 刃物雑学事典 図解・刃物のすべて(1986年 株式会社 講談社 ブルーバックス B-659)
    刃物という視点で多くの事例が取り上げられている。刃のある道具の理解にも役立つ。類書が少なく貴重な一冊。「すべり変形が切断の原理」という考え方で説明している。
  • 沼田 真   : 植物たちの生( 1972年 岩波新書(青版 833))
    「ご要望にお応えしてアンコール復刊(1988年岩波新書50年記念復刊) 地球生態系の中で自然を見直す」(腰巻きのフレーズ)。植物の知恵と戦略に人類は勝てるのか。
  • 出町 誠: 14_NHK趣味の園芸:よく分かる栽培12ヶ月  カキ(NHK出版2007年)
    初心者向け柿栽培参考書(新版)。旧版と比較すると楽しい。
  • 中村三夫: 13_NHK趣味の園芸:作業12ヶ月  カキ(NHK出版1996年)
    初心者向け柿栽培参考書(旧版)。新版と比較すると楽しい。
  • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
    細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
  • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
    著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
  • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
    ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
  • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
    やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
  • ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫訳): 08_サイバネティックスはいかにして生まれたか(みすず書房1956)
    情報と通信という現代社会に不可欠の基礎的な学問を作った著者の自伝とそれを通した科学史
  • 沼田 真(編): 07_雑草の科学(研成社1979)
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