田舎老人徒然草:そこにある墓は何を語っているのか
2013年11月19日(火)
昨日は晴れ。最高気温(℃) 18.2 13:38。最低気温(℃) 3.4 06:00。ざっそう句:俺の後 付いて話すや 独りばば。小春日和。畑の様子を見る。まだモンシロチョウが数匹飛び回っていた。もう最後かと何回も思ったが。刈りゴミの処理。干しイモを作るためカマドを出すスペースの整理。ケヤキの葉が散り始め干しイモを作りの季節になってきたようだ。
WIKIPEDIA「干しいも。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B2%E3%81%97%E3%81%84%E3%82%82)」の記事に、「蒸してから干す現在の製法が確立されたのは、文政(1818~1830)年間の頃、現在の御前崎市にあたる地域であると言われる。その後、保存食として全国各地に広まった。日露戦争で野戦食としても活用され、軍人いもと呼ばれた。」とある。
干しいもは蒸してから薄く切り乾燥させる等々と手間がかかる。幼少時に祖母が作っていた。切ったイモを養蚕でつかう平かご(「メヅマリカゴ」と呼んだようだ。)で乾燥させていたが、当時はだ菓子も十分食べられなかったので、乾燥する前からそれを失敬して食べた。乾燥した頃は、大方食べ終わり、残っているのは尻尾の部分程度で合った。固くなった尻尾の部分を飴玉のようにしゃぶった。
「~(干して)しんねりした処でカンにきっちり詰めておくと白粉がふく。正月末頃から二月中頃食べた。かんそう(イモ)は11月後半になってから夜なべ仕事につくった。切って干しておくと、子供が一つ食べ二つ食べてカンに詰められるのは三分の一出きれば上等だった。昔はカマスに入れて白粉をふかせたという。」とある(三和町の民俗)。当時は農家で保存食兼おやつとして普通に作ったようだ。
2013年11月18日の天気(AMEDAS)
TAVE= | 11.6 | NO DATA |
TMAX= | 17.9 | 最高気温(℃) 18.2 13:38 |
TMIN= | 3.5 | 最低気温(℃) 3.4 06:00 |
DIFF= | 14.4 | |
WMAX= | 5.8 | 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 11.3(西北西) 23:38 |
SUNS= | 9.1 | NO DATA |
RAIN= | 0 | NO DATA |
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田舎老人徒然草:そこにある墓は何を語っているのか
先日、老人モードで外出した。たまたま道路脇に大きな墓があったので覗いて見た。墓地は一般に家毎に別れている。それと違って、一つの墓域の中に墓一つというのがあった。戦死者の墓なので、遺族や地域の人が特別な墓域を作りそこに立派な墓を建てたようだ。日露戦争の戦死者の墓もある。兵隊さんの位も記されている。地域の人にとってはこの階級も出世の証なのだろうか。年齢を見ると二十台前後。戒名がまた勇ましい。国にとっても、地域にとっても前途有望な人材を戦争で失ってしまった結果がこの名誉な戦死者の墓なのだろう。すでに、世代が変わり、地域でも一家内でも戦死者は遠い存在となっているようだ。なぜ、なぜ、なぜと問い直せば墓は外面以外の事を語ってくれるのだろう。
WIKIPEDIA「日露戦争。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89)」によると、戦力は日(約300,000人)VS露(約500,000人)で、日本の「戦没88,429人」。
また、たまたま無縁墓地にもであった。墓石には、明和(江戸中期AC1764~1772)とか享保(江戸中期AC1716~1736)とかの年号が記されたものもがあった。墓石は長期間の土砂の堆積で地中に埋まりかけている物もあったが、除草剤が散布されているのか枯れ草は見えず、良く管理されていた。そこで、目に付いた戒名に「秋山道木信士」という墓石があった。平明かつおおらかな雰囲気を感じる戒名であった。
「信士。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E5%A3%AB。」『ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に、「信士(しんじ)とは、仏教の戒名(法号)に用いられる称号で、地位や性格を表す位号の1つである。女性の場合は信女(しんにょ)とされる。位号の中では大居士、居士に準ずるものであり、江戸時代には大名が院殿号・大居士号、上級武士が院号・居士号、下級武士が軒号(庵号・斎号)・信士号、庶民が善男号を贈られることが多かったが、寺によっては下級武士や庶民にも一貫して居士号を贈る例もあり絶対的な条件ではない。」とある。
既に、無縁仏になっているが、ほぼ300年前ころから存続して来たと推測される「秋山道木信士」という墓石から、当世の戦死者墓石と異なる平和な時代があったのだろうと想像した。善男号、善女号の墓については何も考えなかった。当時の庶民には墓石は無用だったのか。戒名は厳格なルールはないようなので、「信士」の庶民もいたと解釈したい。