心象の足跡:楫取素彦が書いた渋川市の御蔭松の碑文から何が見えるか?;うきうきと 下手なウグイス 鳴き始め。
2015年3月13日(金)
昨日は晴れ。最高気温(℃) 13.2 14:42。最低気温(℃) -0.8 05:04。ざっそう句;うきうきと 下手なウグイス 鳴き始め。昼過ぎから、男爵とメイクィーンの種ジャガイモを植え付けた。昨年より早いので霜対策でやや深植えにした。また、イモの下に空洞が出来ないよう移植ゴテでで穴底を埋めた。草ゴミが残っているようすなので無肥料。畝作りの時、ヤブガラシやカナムグラの根を掘り出した。雑草対策で少しは効果がでるかも知れない。今年は種芋以上の収穫を目指す。夕方から、二回目の麦踏み。半世紀前のリバイバル。草丈は伸びているがまだ麦踏みの効果はありそうだ。白菜とふきのとうを収穫。ふきのとうはもう花が開きそう。かみさん曰く、ふきのとうには発がん物質がある云々。ふきのとうは季節の希少品に近いので、発がんに到るほど食べたくとも食べられないだろう。菜の花が咲き始めた。いつのまにかミニスイセンやヒヤシンスも咲いている。杉花粉は昨年の同時期より多く飛散中のようだ。ユズジャム茶効果が出るか?やや風が強かったが、夕方頃静かにになった。ウグイスの初鳴きが聞こえてきたので耳を疑った。野良仕事の余禄か。
2015年3月12日の天気(AMEDAS)
TAVE= | 6.8 | NO DATA |
TMAX= | 12.7 | 最高気温(℃) 13.2 14:42 |
TMIN= | -0.6 | 最低気温(℃) -0.8 05:04 |
DIFF= | 13.3 | |
WMAX= | 7.7 | 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 14.4(西北西) 13:23 |
SUNS= | 11.1 | NO DATA |
RAIN= | 0 |
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心象の足跡:楫取素彦が書いた渋川市の御蔭松の碑文から何が見えるか?
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の効果か、楫取素彦への関心は高まっているようだ。そのためか、「楫取素彦伝 耕堂楫取男爵伝記」(発行者 山口県萩市 群馬県前橋市)が平成26年3月20日に発行された。やや高価だったが、書店に並んでいたのを買った。買った日が発行日前だったので、不思議な感じがした。
その本もしばらくツンドクであった。上記、楫取素彦伝をぱらぱらめくると、当時の様子がわかりそうだが、じっくり読むのは大変そうだ。「御蔭松の碑」を解読したかったが、挫折中だった。運良く、その碑文が掲載されていた。どうも、その碑文は群馬県史 第四巻(群馬県教育会 編 昭和2出版)から転記された資料に基づいているようだ。デジカメの碑文との相違もありそうだ。ともかく、つまみ食いならぬつまみ読みした。
「御蔭松の碑」は一種の歌碑のようでもあり、碑の表側に歌が彫られ、裏側にその歌に関する由来を記しているように思われるが、歌の方は文字が崩してあり、何が書かれているか皆目分からなかった。上記伝記には、この歌がカタカナ交じりで記載されていた。
そこで、とりあえず、碑文と歌を並べてみた。碑の解釈・理解等々は歴史的背景があると思われるので、以下はすべて参考資料としての扱いに限定する。現地へ出向いてこの碑と保存されている「御蔭松の碑」に対面して貰うのが良いのでは思う。
WIKIPEDIA「楫取素彦。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AB%E5%8F%96%E7%B4%A0%E5%BD%A6)」によれば、「維新後、いったん帰国して藩に出仕、明治5年(1872年)に足柄県参事となり、明治7年(1874年)に熊谷県権令、明治9年(1876年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県の県令となった。」とある。
最近、高浜公園から前橋公園に移設された「前群馬縣令楫取君功徳之碑」はWEB情報によれば明治23年の建碑との事だ。「御蔭松の碑」は楫取素彦が、群馬県縣令になって数年後の明治12年の現職知事の時に建てた碑として注目できるのではないか。以下の「御蔭松の碑」に関しては、上記伝記の楫取素彦事績の項に掲載されている。
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碑の表面(皇太后大夫万里小路慱房卿の歌):(楫取素彦伝より引用)
芝中の松のやどりに千代かけて
残るは君が御蔭なりけり
御蔭松の碑の碑文(句読点は自己流で付加):碑の裏面
是歳巳卯。 皇太后宮 行啓於伊香保之温泉。 七月十七日。 車駕発京。 往返由此道。 時属盛夏。 掃松下、以休車駕矣。 既而土人建石。 命松曰御蔭。
請慱房卿之詠。 属余書題額。 慱房卿以本官従駕。 余則管地方卿。 之詠余之題皆不可辭者。 碑成矣併記其事於碑陰。 亦出土人之意云。
明治十二年 秋九月 群馬縣令 楫取素彦 撰並書
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前段に、英照皇太后の伊香保行啓が述べられている。後段は、「御蔭松の碑」を建立した時の様子が述べられているようだが、主語を慱房卿にとるのか楫取素彦にとるかにより、若干解釈が変わるかもしれない。ただ、楫取素彦は縣令という地方長官として皇太后をお迎えできた事、その行幸を記念碑に残せた事を遠慮がちに喜んでいるように感じる。
この道端にある小さな碑の表の上部に「御蔭松」と彫られている。以下は、碑文解釈の参考資料としてまとめてみた。まだ全体の状況が把握できず、想像の部分もある。主語、述語、区切り方等々、しっくりしない所がある。
超訳的碑文読解(試訳)
是の歳、巳(み)卯(う)。 皇太后宮(様)は、伊香保之温泉(於)に行啓された。 (時は、)七月十七日。 車駕は京を発(おたちになり)。 往返ともに、此の道に由った。 時(節)は盛夏に属し。 松の下を掃し、以って、車駕を休(まされた)。 既而(すでに)、土人は石(いしぶみ)を建つ。 松を命じて、御蔭の(松)と曰(いう)。
慱房卿に之(この)詠を請う。 余に題額を書くを属(しょくす)。 慱房卿を以って本官は従駕す。 余は則(すなわち)管地方卿(地方担当長官)。 之の詠、余之(の)題、皆辭す不可(べからず)。 碑成りて、併(あわせて)其の事を碑陰に(於)記す。 亦(また)土人之(の)意に出ずると。
明治十二年 秋九月 群馬縣令 楫取素彦 撰並書
「御蔭松の碑」と保存されている「御蔭松」を見ると、いろいろな感慨に浸れるだろう。碑文を彫った人の名前は不明だ。「群馬縣令 楫取素彦 撰並書」とあるので、この碑には楫取素彦の思いが込められているのではないか。それならば、御蔭松を下から読んで蔭松から松陰を連想するのは行き過ぎなのか。
尚、「御蔭松の碑」が記載されている原典は「群馬縣史 第四卷 」のようである。この資料は国立国会図書館デジタルコレクションに画像データとして掲載されている(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258769)。画像データでは検索が出来ないので該当部分を探すのを断念した。
一方、キーワード「群馬縣史 第4卷 」でGoogle検索すると、「Full text of "Gumma-ken shi" - Internet Archive(https://www.google.co.jp/webhp?tab=ww#q=%E7%BE%A4%E9%A6%AC%E7%B8%A3%E5%8F%B2+%E7%AC%AC4%E5%8D%B7+&btnK=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2)」がヒットした。何と、こちらでは、原本をスキャンして日本語認識によりテキストに変換されているのだ。漢字の「御蔭」で検索をかけると歌の部分がヒットする。こちらは、ひらがな交じりである。スキャンが正確で無く行が入れ替わっているが。
この事実から、まさに黒船到来のような衝撃を受けた。吉田松陰や楫取素彦がこれを知ったら、さぞびっくりするのではないか。