ハトよ 鳴いておくれ:身辺雑記:田舎老人徒然草:宮子神社で見たものは?;古稀の世や 語り尽くせぬ 過去未来。1508。
2015年8月11日(火)
昨日は晴れ。最高気温(℃) 34.7 14:46。最低気温(℃) 24.5 04:27。ざっそう句;古稀の世や 語り尽くせぬ 過去未来。相変わらずの暑さ。宅内閑居。資料整理。早起きして一仕事という生活パターンに切り替えられない。とりあえず、暑くならない内に、モロヘイアとコーンを収穫。もちろん、ゆう活も画に描いた餅。電気料節約のためエアコンの利用を控えている高齢者が多いようだ。熱中症と背中合わせの生活だ。一般家庭でもこの考えは変わらないようだ。明治維新が1868年。終戦が1945年。この間が77年で、この期間には世界中で多くの戦争が起こり、日本も参戦し多くの戦死者や負傷者が出た。終戦から今年までが70年でこの期間、日本は戦争に加わらなかった。戦争と平和という視点で見ると、この太平洋戦争前後で、日本国民が国力を戦争か平和かどちらにかけたかという選択の相違は著しい。この70年を主導してきた世代は戦争の悲惨さを体験し、戦争より平和を選択して来たのだ。もし、世界平和が実現したら世界中の軍人は失業するのではないか。見方を変えれば、世界中の軍人を平和目的の組織に再編成して世界平和のために活躍して貰うチャンスがまだ残っているのだ。そうなれば、人類の未来も悲観する必要が無くなるだろう。今なら日本がその世界モデルになれるのだ。
2015年8月10日の天気(AMEDAS)
TAVE= | 29.0 | NO DATA |
TMAX= | 33.8 | 最高気温(℃) 34.7 14:46 |
TMIN= | 24.9 | 最低気温(℃) 24.5 04:27 |
DIFF= | 8.9 | NO DATA |
WMAX= | 3.8 | 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 9.2(南東) 18:15 |
SUNS= | 8 | NO DATA |
RAIN= | 0 | NO DATA |
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ハトよ 鳴いておくれ:身辺雑記:田舎老人徒然草:宮子神社で見たものは?
先日、たまたま一服したのが、宮子神社であった。長い参道脇には住民センターらしい建物があった。神社周辺は木立が取り囲んで、蝉の鳴き声も聞こえた。奥には、色々な碑やなすび型の墓石もあった。ひょっとすると昔は寺もあったのか。
Go!伊勢崎WEBサイトに「伊勢崎市の文化財と石碑」というページがあり、その中に「軍事関係碑地図」と碑に関する記事が掲載されている。実は、宮子神社で見た堂々たる碑の表には「日露戦役紀念碑(希典書)」とあったので、その詳細が分かるかと探してみたが、見つからなかった。ただ、乃木希典が多くの碑の題字を書いているのが分かった。
WEB記事から、日露戦争の年表を探してみると、以下のような歴史を知る事が出来る。
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明治三十七年 1904 2 談判決裂。対露宣戦布告(日露戦争)。
明治三十八年 1905 1 旅順要塞開城。
5 日本海海戦。
7 桂・タフト協定。
8 第二次日英同盟。
9 アメリカの斡旋でポーツマス条約締結(小村寿太郎全権)。日露戦争終結。
大正元年 1912 7 明治天皇崩御、大正天皇践祚。大正と改元。
9 乃木希典大将、殉死。
WIKIPEDIA「日露戦争。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89)」:「日露戦争(にちろせんそう、英語: Russo-Japanese War、ロシア語: Русско-японская война ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー、1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国[7]との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。」(このサイトへのリンク)
WIKIPEDIA「Russo-Japanese War。(https://en.wikipedia.org/wiki/Russo-Japanese_War)」:(このサイトへのリンク)
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WIKIPEDIA「光電効果。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E9%9B%BB%E5%8A%B9%E6%9E%9C)」(このサイトへのリンク)
上記のWIKIPEDIAは記事に、「1905年、物理学者のアルベルト・アインシュタインの導入した光量子仮説によって、説明付けられた。なお、アインシュタインはこの業績によって、1921年にノーベル物理学賞を受賞している[7][8]。」とある。20世紀の初めから、科学は急速に発展を始め、その影響は21世紀の初頭の現在にあっても止まる事が無い。一方で、世界史も大きな変化を迎える。江戸末期、黒船に怯えきっていた日本が、明治維新で国家体制を確立し、ようやく国家として世界に進出を始めた。
WIKIPEDIA記事の、戦力、損害を比較すると、日本は日露戦争に勝ったとしても、その損害は膨大であったのが分かる。
戦力
日本=約300,000人
ロシア=約500,000人
損害
日本= ロシア=
戦没88,429人,うち戦死戦傷死は55,655人[2] 戦死25,331人
病死27,192人 戦傷死6,127人
負傷者153,584人 病死11,170人
捕虜1,800人 負傷146,032人
捕虜79,000人[6]
「日々農天気:コーン栽培2015年7月末;道迷い 知らぬ神社で 一休み。1507。(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2015/07/20157-a6fc.html)。(2015年7月31日 (金))」(この記事へのリンク)
明治時代、軍人は国家のエリートであったろう。その軍人を指揮していた軍神の末路を国民はどう考えるのか。やはり、犬死にさせるには余りにも貴重な人材を失わせたのではないか。
Go!伊勢崎で上植木神社の日露戦争記念碑に記載されている人名を見ると「矢嶌保次郎」が出ている。もしや、「矢島保治郎」と同一人物か?
WIKIPEDIA「矢島保治郎。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E5%B3%B6%E4%BF%9D%E6%B2%BB%E9%83%8E)」:「群馬県佐位郡殖蓮村大字上植木(現・伊勢崎市本関町)の裕福な農家の三男に生まれる。群馬県尋常中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を中退後、日露戦争に従軍。乃木希典率いる第三軍で旅順攻囲戦に参加し、突撃隊である白襷隊にも志願した。この戦功で軍曹に昇進し、また功七級の金鵄勲章を授与されている。 1906年(明治39年)、剣術に秀でていたことから陸軍戸山学校(戦術や体操、剣術などの指導者養成を目的とする)へ入学を命じられる。しかしこの頃になると矢島は、当時ベストセラーとなっていた河口慧海『西蔵旅行記』に大きく刺激され、アジア横断無銭旅行を志すようになっていた。」とある。(このサイトへのリンク)
Googleにてキーワード「矢島保治郎」で本サイト内を検索(https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#hl=ja&q=%E7%9F%A2%E5%B3%B6%E4%BF%9D%E6%B2%BB%E9%83%8E%E3%80%80site:http:%2F%2Faf06.kazelog.jp%2Fitoshikimono%2F)(このキーワードで検索)
矢島保治郎が日露戦争で戦死しなかったから、後の国際人矢島保治郎として活躍し、歴史に名前を残せたのではないか。