ハトよ 鳴いておくれ:善応寺にある小畠武堯の墓を見る;ほどほどに 甘辛押さえ 自然食。1604。
2016年4月5日(火)
昨日は曇り、一時小雨・晴れ。ざっそう句;ほどほどに 甘辛押さえ 自然食。宅内閑居。居間の片づけ少々。小型パソコンにSDスロットが付いている。それをディスクの代用として使っているが、満タンになったので、データをDVDに保存した。SDメモリーを消去するのに結構時間がかかる。安価な低速品を使っているためか。出て来る野菜が多めになった。という事は、オレの野菜の出番が増えそうだ。
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ハトよ 鳴いておくれ:善応寺にある小畠武堯の墓を見る
小畠武堯の墓は、国定忠治の墓を南に向かい、東西に小川が走る奥まった部分の低い玉垣の中にある。時が経て、汚れがある表示板と「贈従五位小畠判左衛門武堯氏之墓」と刻まれた大きな石柱が立っている。
小畠武堯の顕彰碑は、華蔵寺公園遊園地の南側、八坂用水の辺に建立されている。その墓を見たのは、今回が初めてである。玉垣の中には、形状が同じで、高さが異なる二つの墓石が立っているが、位置がずれている。戒名も、文字が摩耗して読みにくいが、XX院XXXX居士(養林院寒叟凌雲居士)、XX院XXXX大姉(圓壽院芳寒貞日?大姉)と刻まれているようだ。推測では、墓が作られた時は、同じ高さの台座の上に、夫婦二基の墓が仲良く並んでいたと思われる。(GO! 伊勢崎の記事及び写真右側参照)
その後、贈位や後世の顕彰のため小畠武堯の墓の墓の方が、手直しされたのかも知れない。玉垣の中には、童子・童女らしい墓もある。このような、墓の佇まいを見ると、時の流れを感じる。童女の墓石には、喜月光歓童女、宝暦三(みずのととり 癸酉 1753)年と読める。
WIKIPEDIA「小畠武堯。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%95%A0%E6%AD%A6%E5%A0%AF)」によると、「小畠 武堯(おばたけ たけたか、? - 享保18年(1733年)は、日本の江戸時代の伊勢崎藩士、治水家である。通称は一之丞。農業用水である八坂用水(やさかようすい)の開削を指導した。」とある。(このサイトへのリンク)
説明板によると、小畠武堯は、「宝永二年(1705)に奉行交替によって江戸表から国詰めとなり、郡奉行を勤めた人です。」とある。国詰めとなってから、死ぬまでの間は28年間になるが、GO! 伊勢崎掲載の資料によると、既に宝永二年十月に工事着手されているようだ。手際の良さを感じるが、工事の詳細が伝わらないのが残念だ。八幡沼の開削が完工したのは元治元年(1864)である。八坂用水の開削成功が、八幡沼の開削の前例になっていると考えられるが、八幡沼開削の工事関係の記録も残されていない。これも残念ではある。
「養林院寒叟凌雲居士」、「圓壽院芳寒貞日?大姉」と刻まれた同じ大きさの墓石が並んでいる風景を想像すると、微笑ましさを感じるが、それだけでは後世の人は、二人の仲や業績を知る事も出来なくなるのかも知れない。
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2016年04月04日 伊勢崎(イセサキ) | ||
TAVE= | 15.6 | 毎正時のアメダス観測値(気温)の平均値 |
TMAX= | 21.6 | 毎正時のアメダス観測値(気温)の最大値 |
TMIN= | 10.1 | 毎正時のアメダス観測値(気温)の最小値 |
DIFF= | 11.5 | 毎正時のアメダス観測値(気温)の最大値と最小値の差 |
WMAX= | 5 | 毎正時のアメダス観測値(風速)の最大値 |
SUNS= | 2.2 | 毎正時のアメダス観測値(日射)の合計値 |
RAIN= | 4 | 毎正時のアメダス観測値(雨量)の合計値 |
1日の極値 | データ | 時刻 |
最低気温(℃) | 10.1 | 0:00 |
最高気温(℃) | 23.2 | 14:34 |
出典=気象庁 | 参照⇒ | AMEDASへのリンク |
最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) | 10.8(東南東) | 18:40 |
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