身辺雑記:田舎老人徒然草:愛しき古里:上毛カルタ誕生70周年記念イベントへ;新発見、我が心のふるさと;白無垢の 衣装の下に 黒いハラ。180203。
2018年2月3日(土)
昨日は雪(雨)後2018年2月2日(金)曇り。ざっそう句;白無垢の 衣装の下に 黒いハラ。今年二回目の雪。午前中は宅内閑居。昼過ぎ、野暮用の配り物の仕分けと戸別配布。今年二回目の降雪は前回に及ばず10数㎝程度だった。昼頃にはかなり融けて、道路上の雪はほとんど無かった。パソコンで国会中継を少し見た。森友学園問題が審議されていた。将棋ならもう王手がかかっているように見えるが...。この事件の成り行きは、予断を許さないが、色々な展開がありそうにも感じる。政局の流れを変える一大パラメータではあろう。本日は節分。鬼は外~と叫ぶと自分が標的になった気分になりそうだ。多分、そう思う人は少なくないだろう。だが、幸いまく豆が無い。豆まきをするなら夜だ。さあ、どうしようか。豆を買いに行くか。インフルが流行中のようで気になる。人混みの中に出ないという前提で、ワクチンの接種はしていない。多分、インフルのウィルスは、あちこちに蔓延しているのだろう。そのウィルスが症状を発症するのは、抵抗力が無いか弱い寄生先なのだろう。もう一つ、豆まきで思い出す事がある。当分畑にも出られなそうだ。部屋の整理でもするか。
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身辺雑記:田舎老人徒然草:愛しき古里:上毛カルタ誕生70周年記念イベントへ;新発見、我が心のふるさと
昨日は、県都前橋で行われる上毛カルタ誕生70周年記念イベントへ出かける事になっていた。どういうわけか、かみさんも付いてくる事になった。先日のイベントでは、破れた靴を履いて行き失敗した。この靴は、自分の靴とはき違えられて、最後に残っていた靴を履いて戻ったものだ。我が家の玄関では特別な存在感を示している。今回は、しばらく履いていない靴に代えた。
「ツルよ 飛んでおくれ:前橋散策:初代市長下村善太郎の銅像に遭遇!ざっそう句;畑土の 天地返して ごぼう蒔く。(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2015/04/post-1514.html)。(2015年4月 3日 (金))」(この記事へのリンク)
け:県都前橋生糸の市
前橋に行くのに車じゃイヤとかみさん。どうも、最近オレが運転する車に乗るのが怖くなった様子。一緒に乗ると、かみさんが助手席からリモコンをしている雰囲気になる。かくて、車は使わず超老人モードでかみさんと弥次喜多道中。定刻に家を出る。早速かみさんが忘れ物の話。猫にエサを与えるのを忘れた、可哀想にと。
時間のゆとりは十分以上確保。その分寒さをこらえ、青空バスが来るのを待つ。バス停のある歩道を行きつ戻りつ。遠方を見渡すと上毛三山がくっきりと見える。朝の寒気は空気の比重を高め、光の伝達を正確にするのだろう。見慣れたふるさとの風景が新鮮に迫ってくる。新発見だ。冬の朝に見る、ふるさとの風景のすばらしさ。デジカメをポケットから出し、悴んだ指でシャッターを押す。その瞬間は寒さを忘れる。遠くに空色のバスが見えて来る。
原ファイル名=「IOB_2018_FUYUNO_ENNZANN_榛名山等の遠景.jpg」
IOB=IMAGES ON Beloved Ones
オイ、来たぞとシャトルバスに乗り込む。バスには、子供二人とその母親が先客で座っていた。駅で下車し、切符を買い、売店で食料・飲料を仕入れる。都市部を移動する時は、見つけ次第トイレで用足しをする。この寒さじゃ長時間持たない。もうじき、外出おむつも必要になるかと変な思いが頭をよぎる。余り待たずに電車が来た。目の前の席に、先ほどの母子が座った。これも、不思議な感覚だ。朔太郎的詩情が漂ってきそうだ。母親は小さな息子の指を曲げて何かの形を作って遊んでやっている。その息子は、成人し、人生のいつか、この時の風景を思い出す事があるのか。
「愛しき古里:萩原朔太郎が見た故郷の風景は?(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2012/02/2012.html)。(2012年2月26日 (日))」(この記事へのリンク)
す:裾野は長し赤城山
「ツルよ 飛んでおくれ:高山彦九郎が詠んだ赤城山(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2013/04/post-7601.html)。(2013年4月13日 (土))」(この記事へのリンク)
読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(3) へのリンク
何気ない風景。電車の北側に席を移し、赤城方面にデジカメを向けてスタンバイ。これから消えゆく筈の、あの日赤病院をカメラに収めておこうと思った。ポンコツデジカメとオレの技量では上手く写るか分からない。だが、狙ってシャッターは押した。いよいよ県都前橋だ。そこで下車し、バスに乗り換えるのだが、乗車場所が分からない。停車中のバスの乗り口から、運転手に聞く。運転手の回答も様々。聞いてから、再度時刻表と路線図を見る。それでも、どのバスに乗れば良いか決められない。そこで、先ず県庁までバスで行き、その先は歩く事にした。
原ファイル名=「IOB_2018_NISSEKI_HOSPI_ARAI_RYOU日赤病院と新井領一郎jpg.jpg」
IOB=IMAGES ON Beloved Ones
追記(2018/02/09):移転新築中の日本赤十字病院に関して以下の情報があった。旧病院は解体されるのか、再利用されるのか。
朝日新聞デジタルは、「群馬)前橋赤十字、6月に新病院が開院;url=https://www.asahi.com/articles/ASL213VPCL21UHNB008.html(上田学 2018年2月7日03時00分)」(このサイトへのリンク)というタイトルで、「施設の老朽化などで移転する前橋赤十字病院の新病院(前橋市朝倉町)が完成間近となった。今月末に建物が引き渡され、6月1日に開院するという。高度急性期の患者を受け入れ、救急医療を担う地域の中核病院の役割のほか、災害時の拠点としての役割も期待される。 新病院は2015年10月に着工。現在の同市朝日町3丁目から南へ3キロほどの場所で、敷地面積は現病院の4倍の約12万8千平方メートルある。7階建てで延べ床面積は5万6千平方メートル、病床数は555床で37床減るが半分は個室になる。駐車場もこれまでの3倍超の1900台分を収容できる。」と報じた。
新病院建設予定地の 所在地は、前橋市朝倉町・後閑町地内(現病院から南へ約3㎞)との事だ。今度、新病院は両毛線の南側に見えるのか。
さあ、県庁前だゾ。歩道沿いの巨大な馬の埴輪のモニュメントが話しかけてくる。ようこそ、県都前橋へ。そうだ、群馬県は古墳王国でもあるのだ。その先に、偉大な障害物として歩道橋が前途を阻む。横断歩道が無い!かみさん曰く、転倒しないで!重くて起こせないから...。高所恐怖症ながら、高いところが好きなオレが失望したのは、歩道橋の両脇の視線の位置が不透明な物体で目隠されている事。上毛の名山隠す無粋かな。と一苦(句)あり。嗚呼、これじゃあ歩道橋を昇る楽しみが全滅だ。
ツルよ 飛んでおくれ(愛しき古里):ゆるキャラ(R)グランプリ2012 ぐんまちゃん3位入賞 (この記事へのリンク)
ようやく、前橋公園に足を踏み入れる。そこには、あの歴史を絵にしたような銅像群が新しく建てられていた。題して、楫取素彦婦人吉田松陰ゆかりの短刀を新井領一郎に託すの図とでも言えようか。この銅像をデジカメに納め、目的地に向かうが、途中に臨江閣がある。そこなら用足しが出来るだろうと寄り道。明治時代にワープした気分を味わう。
何と、和服を着て、カメラマンと言っても女性だが、を従えた、若き深窓の麗人が写真撮影中だった。ラッキーと叫び(たいとは思ったが、先ず優先課題があるので、係に聞いて直行し)、ふと脇を見ると二階があった。係に、二階は見甲斐がありますかと聞くと、普通では見られない大広間なので是非見てくださいと勧めてくれた。
原ファイル名=「IOB_2018_RINKOUKAKU_臨江閣大広間と外観.jpg」
IOB=IMAGES ON Beloved Ones
何と百五十畳程の畳敷きの広間に、オレとかみさんの二人だけ。6台の冷暖房が完備して、内部は春の暖かさだ。嗚呼、ここで大の字になって昼寝をしたら、大名気分になれそうだ。だが、時間が無い。早く寄り道を切り上げなければ...。所が、別館が有るので、そこも見るとかみさんが言い出す。それを無視すれば、一生の不覚。羽生将棋名人対局の間も特別公開されていた。まさに、将棋界の大名気分をちょっとだけ味わえた。
上毛新聞は、「竜王戦 臨江閣で「頂上決戦」 渡辺竜王に羽生棋聖挑む。;url=https://www.jomo-news.co.jp/news/gunma/society/13477。([2017/11/05])」(この記事へのリンク)というタイトルで、「 将棋のタイトル戦、第30期竜王戦七番勝負の第3局が4日、前橋市の臨江閣で始まった。通算12期目の竜王在位を目指す渡辺明二冠と、挑戦者で史上初の「永世七冠」を目指す羽生善治棋聖による“頂上決戦”が繰り広げられた。」と報じた。
何と別館二階に、高貴な方の宿泊所だった部屋があるのでそこも見る事になった。寝殿造りの御簾のような物が下げられ、その奥で、くだんの麗人の撮影が続行中であった。なにか、もう平安時代の貴族になった気分だ。同行者に聞くと、主役はモデルさんでは無く一般の人だそうだ。奥の間は、元々は能を舞う作りになっていて、屋内の同様な施設は日本でも数カ所にしかないとか。
ようやく、寄り道を終えて目的地を目指して歩き始める。目指すは大渡橋だ。そうだ、群大病院のある通りの西方の筈だ。車だと一息で到着する距離であるが、歩くとその長さが馬鹿に出来ない。おかげで、エメラルド色?に近い広瀬川の脇を歩きながら、大渡橋に向かって歩き、風景を堪能できた。利根川と広瀬川が、これほど接近して流れているとは新発見だ。
「ツル(鶴)よ 飛んでおくれ:巨岩に畏敬を感じたのは古代も現代も同じか?石山観音と岩上稲荷神社;毎夜見る 夢のお告げで 行くトイレ。1511。(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2015/11/post-5f56.html)。(2015年11月29日 (日))」(この記事へのリンク)
産経新聞は、「前橋「岩神の飛石」は浅間山由来 2.4万年前の大崩落で漂着;url=http://www.sankei.com/region/news/160316/rgn1603160032-n1.html(2016.3.16 07:02)」(このサイトへのリンク)というタイトルで、「国の天然記念物に指定されている巨岩「岩神(いわがみ)の飛石(とびいし)」(前橋市昭和町)について、前橋市教委は15日、初めて行った科学的分析調査の結果、戦前から指摘されてきた「赤城山由来」ではなく、約2万4千年前の浅間山の大崩落で発生した泥流によって流されてきた「浅間山由来」だったとする調査結果を発表した。飛石は高さ約10メートル、周囲約70メートル。岩神稲荷(いなり)神社の御神体で、伝承も残る観光スポットとしても知られる。」と報じた。
と:利根は坂東一の川
いよいよ、弥次喜多道中は山場にさしかかる。利根川の東岸から西岸に向かって歩くのだ。幸い風も無く、気温も上がってきた。車道は、車、車...。遠くに越後の山々が見える。歩道を歩くのは弥次喜多二人組のみ。遠くの向かいから、通い慣れた様子の人が一人、通り過ぎていった。利根川上の歩道脇には小さな休憩所があり、石の椅子と上毛の山々の名前と位置を刻んだ表示板があった。何とその椅子に碁盤のマス目が刻んであるのだ。このアイデアには、うならされた。おつなおっさんがいたのだろう。こういう心意気は尊重したい物だ。ここで、囲碁名人の対局をしたら、あの、宮本武蔵と佐々木小次郎の対決以上に話題になり、歴史に残りそうだ。題して、板東一の利根川上の囲碁名人対局。これは、良い絵になりそうだと自画自賛。
原ファイル名=「IOB_2018_TONE_HIROSE_RIV利根川大渡橋付近と広瀬川支流か.jpg」
IOB=IMAGES ON Beloved Ones
実は、この大渡橋上でやらかした、オレの大失敗を思い出す。橋のど真ん中で、エンジンを切って一時停車したが、エンジンを掛けようとしたが、どうしてもかからないのだ。仕方が無いので、携帯で110をかけて助けを求めた。パトカーが駆けつけて様子を聞いて、もう一度エンジンを掛けてみてくださいと言われるままに、エンジンを掛けると難なく始動して、パトカーはそのまま去った。実は、車は中古で買ったばかりの、スバルの軽自動車アルトであった。乗り慣れていないので、始動時にクラッチを最大に踏み込まないとエンジンがかからない仕組みで合ったが、あわてて、オタオタしていたのだった。
大渡橋中央位まで来ても、西方に目的のビルらしいのが見当たらない。県庁が地域のランドマークなら、公社ビルなら、その子供程度の高さがあるだろうと見回すと遙か南西にそれらしいのが見える。時計を見るともうイベント開始時刻までユトリが無い。そこで、持参のおむすびをかじりながら、その方角に向かった。その次に、サンドイッチをかじったが、両方とも、歩き食いするには不便だった。途中にあったコンビニで小振りの丸パンを買って口に放り込んだ。
かくて、そのビルに近づくと看板が出ていた。やっと目的地に着いたゾ。もう、エネルギーの半分を使い果たした状況だ。それでも、駐車場整理の人に、帰り道を聞いてから、受付を通り、会場に入る。厚手のジャンバーを着ているので、暖房が効いているホール内は暑いくらい。かみさんが、熱中症になるから水分を補給せよと命令を出す。ついでに用事も済ませる。さあ、いよいよ待望のシンポジウムが始まる。
上毛新聞は、「上毛かるた 詠み継いで 前橋で70周年シンポジウム。;url=https://www.jomo-news.co.jp/news/gunma/culture/30101。([2018/01/29])」(このサイトへのリンク)というタイトルで、「上毛かるたの価値と活用を考える「上毛かるた70周年記念シンポジウム」(群馬県、上毛新聞社主催)が28日、前橋市の群馬県公社総合ビルで開かれた。上毛かるたの研究者(2名)や教諭(1名)、高校生(2名)がパネリストを務め、かるたに込められた先人の思いや教育現場での活用、継承などをテーマに語り合った。」と報じた。実は、このイベントは、上毛新聞発刊130周年記念を兼ねて、同時開催されているのである。
原ファイル名=「IOB_2018_KAIJYOU_SAKUHINシンポジウム会場と作品作者紹介.jpg」
IOB=IMAGES ON Beloved Ones
5名のパネリストが主催者側の進行に従って議論を交わすのを、多数の参加者が聞き入った。さすが、上毛カルタは日本一のカルタだと自分も半分納得。残りの半分は、まだ見えていないが、パネリストや参加者や群馬県人の頭の中に渦巻いている何かとしてあるのではないか。その一部を取り出したのが、同時に発表された「かるたでよむ 私のふるさと」版から選ばれた44句だったのかも知れない。上毛新聞の本紙でも多数の作品が紹介され、その関心の広さを示している。
そこで、上毛カルタをWEB検索すると「郷土かるた、上毛かるたの魅力と意義 - 群馬県地域共同リポジトリ - 群」(https://gair.media.gunma-u.ac.jp/dspace/bitstream/10087/5124/1/02_Haraguchi.pdf)(このサイトへのリンク)という資料に遭遇した。この資料には、上記パネリストも名を連ねている。それを通読すると、今回の「上毛かるた70周年記念シンポジウム」の意義と上毛新聞の関係も見えてくる。この中に、いくつかのエピソードが紹介されている。
ら:雷と空風義理人情
学生時代、送配電工学という講義があった。講義の内容はちんぷんかんぷんであったが、担当教授が雑談で、群馬県内に高圧送電線が張り巡らされて、大型の落雷がめっきり減ったという話を聞いて感心した事がある。我々が、子供の頃、雷雨になると、蚊帳の中に入り、頭を押さえて、丸くなるのが、落雷への対処法であった。
この、「雷と空風義理人情」という札が生まれたのも当時のGHQの指導があったと知ると、これからも、より新しい上毛カルタが生まれる可能性は残されているように感じる。むしろ、その一札を自分で作って下さいというのが今回の呼びかけだったのかも知れない。英語版上毛カルタもその一例なのかも知れない。
WEB情報によると、この上毛カルタを世に出した浦野匡彦が「雷と空風義理人情」という読み札に託した群馬県ゆかりの人物が、高山彦九郎、小栗忠順、国定忠治だったようだ。
Googleにてキーワード「高山彦九郎」で本サイト内を検索(https://www.google.co.jp/search?hl=ja&ie=UTF-8&oe=UTF-8&num=20&q=%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B9%9D%E9%83%8E%E3%80%80site%3Ahttp%3A%2F%2Faf06.kazelog.jp%2F)(このKWで検索)
Googleにてキーワード「国定忠治OR国定忠次」で本サイト内を検索(https://www.google.co.jp/search?hl=ja&ie=UTF-8&oe=UTF-8&num=20&q=%E5%9B%BD%E5%AE%9A%E5%BF%A0%E6%B2%BBOR%E5%9B%BD%E5%AE%9A%E5%BF%A0%E6%AC%A1%E3%80%80site%3Ahttp%3A%2F%2Faf06.kazelog.jp%2F)(このKWで検索)
「身辺雑記:田舎老人徒然草:炬燵で聞いた遠い遠い昔話(23):広島の女と群馬の男;重力波 捕らえた如し 猫の髭。1602。(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2016/02/23-7311.html)。(2016年2月23日 (火))」(この記事へのリンク)当サイトで小栗忠順が出てくるのは、この記事のみのようだ。明治時代に渡米した先覚者としてある本で紹介されていた人物だ。
WIKIPEDIA「小栗忠順。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A0%97%E5%BF%A0%E9%A0%86)」(このサイトへのリンク)
上毛カルタ誕生70周年記念イベントのシンポジウムで聞いた事などを、漠然と思い出しながらこの記事を書いている。タイトルの一つに「新発見、我が心のふるさと」等と付けたが、お前が発見したふるさとなんか無いじゃないかと思い、記事がここで止まっていた。
上毛カルタの「い」と「ら」の読み札だけが、赤い特別の札になっているというWEB情報がある。「い」がイロハの最初と考えれば、札が赤でも納得だ。だが、「ら」が赤なのは特別な意味があるのか。単なるGHQの検閲逃れだけだったのか。
WIKIPEDIA「浦野匡彦。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E9%87%8E%E5%8C%A1%E5%BD%A6)」(このサイトへのリンク)
赤と言えば、血の色を連想する。そうして、高山彦九郎、小栗忠順、国定忠治の死に様を振り返る。高山彦九郎は自刃。討幕運動の嫌疑を受けてその累が知人に及ぶのを恐れて自刃したという説もある。小栗忠順は斬首。傾いた国を立て直そうとしたが反体制の嫌疑を受けて免職後郷里に蟄居したが捕らわれて従容として死についた。思うに、後世の人は自分の生き様をちゃんと評価してくれるだろうという自負心がそうさせたのではないか。国定忠治は大戸の関で磔の刑。本来、土木事業は幕府の専管事項だ。勝手に幕府の権威に楯突いた忠治の行為は万死に値するという見せしめで、忠治は磔刑を受けたという説がある。
国定忠治(くにさだ・ちゅうじ)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/国定忠治-1132496
伝承によれば,同7年の飢饉(天保の大飢饉)に私財を投じて窮民に施したり,上州田部井村の名主西野目宇右衛門と語らい博奕のあがりで農業用水の磯沼をさらったりした。忠治は幕府にとって文武の敵となった。 嘉永3(1850)年夏,潜伏先の国定村で中気となり隣村(田部井村)の宇右衛門宅で療養中捕らえられ,江戸に送られ勘定奉行の取り調べの上,罪状が多すぎるため最も重い関所破りを適用され,磔と決まった。磔に当たっては,刑場大戸まで威風堂々と道中行列を演技し14度まで槍を受けて衆目を驚かせた。忠治の ...
国定忠治(くにさだ・ちゅうじ)とは - コトバンク:このサイトへのリンク
上毛かるた - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/上毛かるた
そのような中、1946年(昭和21年)7月15日に前橋市で開かれた引揚者大会で、浦野は安中出身のキリスト教伝道者、須田清基と出会い、かるたを通じて群馬の歴史、文化を伝えることを提案される。1947年(昭和22年)1月11日の上毛新聞紙上で構想を発表し、県内各方面から題材を募った。郷土史家や文化人ら18人からなる編纂委員会によって44の句が選ばれた。絵札を画家の小見辰男に、読み札裏の解説を歴史研究家の丸山清康に依頼し、その年内に初版12,000組が発売された。翌1948年(昭和23年)には第一 ...
上毛かるた - Wikipedia:このサイトへのリンク
上記、『ウィキペディア日本語版』の「上毛かるた」の記事()に、「浦野は安中出身のキリスト教伝道者、須田清基と出会い、かるたを通じて群馬の歴史、文化を伝えることを提案される。」とある。須田清基は上毛カルタの影の生みの親のような存在らしい。そうして、キリストで思い出すのが十字架にかけられたイエス・キリストの姿である。
かつて、青少年の頃、古い英語版バイブルを興味本位で拾い読みをした事があった。文章を読んで理解する事は出来なかったが、気になったrighteousnessという単語があったのを覚えている。日本人が英語に接触するようになってからまだ百数十年しか経っていない。多分、明明治時代の人はrighteousnessを「義」と解釈したのではないか。
righteousの意味・使い方 - 英和辞典 Weblio辞書
https://ejje.weblio.jp/content/righteous
righteousの意味や使い方 【形容詞】1道義的に正しい,正義の,公正な; 廉直な,有徳の.用例a righteous man 有徳の士.the righteous 正しい[有徳の]人々.2正当な,当然な.用例righteous ... - 約1034万語ある英和辞典・和英辞典。発音・イディオムも分かる英語辞書。
何か、強引な関連付けになったが、あの上毛カルタの赤札「ら:雷と空風義理人情」は、曲がった事が嫌いで正義を愛し、しかも判官贔屓である上州人の血の色を象徴しているようにも感じてきた。高山彦九郎、小栗忠順、国定忠治が流した血は、それぞれ訴える意味が異なるかも知れないが、ご本人達は、自分の筋を通した生き方に一点の曇りも無かったと思う。そこで、当サイトで何度も取り上げている国定忠治・国定忠次に関する読み札を作って見た。
な:泣けてくる 忠治がうたう こもりうた
高山彦九郎、小栗忠順、国定忠治が、上毛カルタに採録されない理由が、何となく分かってきたような気がする。自分たちの生き様同様に、高山彦九郎、小栗忠順、国定忠治の生き様を学校で教えたら、彼らに流れた血の色を伝える事は出来ないのだ。彼らが、我々に語りかけてきて、その生き様に我々が共鳴できた時に、あの赤札の理解が出来るのでは無いか。
知らぬ間に、夜が更けてしまった。
YOUTUBE:「赤城の子守唄 東海林太郎(https://www.youtube.com/watch?v=03ya3Jb7gt4)。(SHYOWA_KAYO:2017/08/13 に公開;視聴回数 8,245 回)」(このサイトへのリンク)
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赤城の子守唄 - Wikipedia:このサイトへのリンク
赤城の子守唄」(あかぎのこもりうた)は昭和9年(1934年)2月に日本ポリドール蓄音器株式会社(のちのポリドール)により発表された歌謡曲の題名。作詞は佐藤惣之助。作曲は竹岡信幸。東海林太郎が歌った。 目次. [非表示]. 1 概略; 2 エピソード; 3 シングル収録曲; 4 浪曲化; 5 テレビドラマ. 5.1 出演者; 5.2 スタッフ. 6 脚注. 概略[編集]. この曲は、幕末の侠客国定忠治を主題とした松竹制作の時代劇映画『浅太郎赤城の唄』(高田浩吉主演)の主題歌として作られた。哀愁ある旋律と歌詞は大ヒットし、東海林太郎の出世作 ...
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相当、遠回りをして会場に着いたので、帰りをどうしようかと考えた。バス停に行き、時刻表を見ると、次のバスは1時間後であった。こりゃ、歩いた方が速いと、新前橋まで歩いた。この距離は、数字では2km程度であったが、まさに根性試しのようになった。ともかく、上毛カルタの古里の極一部を見る事が出来た。
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項目 | 日積温 | 残日 | 通日 | 通積温 | TA | TX | TN | TD | WX | SN | RN | 瞬低T | 瞬高T | 瞬風 |
DATA | 39.9 | 332 | 33 | 2887.8 | 1.7 | 3.7 | 0.2 | 3.5 | 1.5 | 0.3 | 5.5 | 0.2 | 4 | 3.5](南西]) |
時刻等℃ | 日 | D | ℃ | ℃ | ℃ | ℃ | ℃ | m/s | H | mm | 07:41 | 14:41 | 13:04 | |
2018年02月02日 伊勢崎(イセサキ) | AMEDASへのリンク | |||||||||||||
注意:1~10時の風速・風向データが欠落。1月22日以来3回目。 |
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