01C_残照雑記

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2009年8月21日 (金)

消防自動車

2009/8/21

消防自動車

戦時中の消火訓練と言えば防火頭巾をかぶりバケツリレーで水をかける様子が思い出され

る。実際にその訓練を見た記憶はない。写真や絵を見た記憶が残っているのであろう。その

訓練がどのくらい役だったのか気になる。消防自動車が登場する前は手押しポンプを積んだ

車を人力でひっぱたようだ。小学生の頃にようやく消防自動車を消防団の車庫で見るように

なった。まだエンジンをかけるのはスターターが着いていないので、エンジン始動用の棒状の

クランクを手で回して行っていたと思う。思うに性能がよいバッテリーが普及していなかったか

らであろう。昔、消防団にいた人の話では、消防自動車で水をかいだして魚獲りをした事が

あったらしい。とった魚で一杯やった。何事ものどかでおおらかな時代があったようだ。

2009年8月20日 (木)

空爆

2009/8/20

空爆

敗戦、終戦どちらの言葉を使うか迷う。戦争を体験した人々にとっては敗戦という実感が強

かったのではないか。最近いくつか当時の話を聞いた。B29が空爆をした時、機上から油を

まいたので火の回りが早かったとの事だ。また、空爆を終わって帰るときに鉄道周辺の田ん

ぼに爆弾を落としていったとの事である。米軍は戦争が終わるのを知っていたのだろうという

話であった。不要になった爆弾を投棄したという説である。市街の空襲後、余った爆弾でつい

でに、鉄道まで破壊しようとしたが爆弾が外れたという説もあるという。その爆弾が落ちた場

所で出来る米は黒ずんでいたという話も聞いた。逃げ迷う母子が空爆を受けて母親は死ん

だが、しっかり抱きかかえられた赤子は奇跡的に生き残った。母親が余りにも強く抱きかか

えていたので赤子を助け出すのが大変であったという実話もあったと聞いた。痛ましいが、母

子の絆の強さを物語る話であった。

2009年8月19日 (水)

防空壕

2009/8/19

防空壕

竹藪の片隅に小さなくぼみがあった。あれが防空壕の跡だと教えられた。防空壕の意味を知

ってからの事で戦後十年前後の事であろう。その防空壕はすでに何十年も前に完全に消失

している。空爆を受けることが現実味を持ってから突貫工事で掘ったものかも知れない。そう

して終戦の直前にそれが現実になった。飛行機で空が暗くなった。焼夷弾が炸裂して怖かっ

た。母親が何かの折りに話した記憶が断片的に残っているだけである。自分は空襲を体験し

ていないが、爆撃機が頭上間近に飛来する夢をみて逃げる事も出来ず声も出ず金縛りの状

態になった事がある。爆撃機が爆音を立てて低空飛行するだけで大きな恐怖を受ける。その

爆撃機が数十機編隊を組んで飛来し焼夷弾を落とす。幸い、人家のまばらな農村部で空爆

の被害を免れた。母は千人針を縫ったり、兵隊さん送りに駅まで行った事等もよく話した。赤

紙で呼び出され、千人針を贈られ、万歳で送り出された兵隊さんの気持ちは察するだけでも

偲びがたい。

2009年8月18日 (火)

東京裁判

2009/8/18

東京裁判

極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん The International Military Tribunal for

the Far East)というらしい。終戦の翌年に行われたのでその当時の様子は直接知る由はな

い。戦勝国が敗戦国の戦争犯罪者を裁いた。評価は色々あるようだ。インドのパール博士

が判事でただ一人全員の無罪を主張した事を思い出す。勝てば官軍負ければ賊軍という言

葉があり、この言葉を聞くとなんとなく嫌悪感を感じた。しかし、日本人のメンタリティに根ざし

た言葉ではあるようだ。何らの権力も正義も無く人が人を裁くことは出来ないとするのは近代

的な考えによるものなのだろう。従って、何かの名によって、正当性を確保して裁判を行う。

しかし、やはり裁判には強者の論理が見え隠れする。ドイツでは戦犯に指名したアイヒマンを

根気よく追跡して...と書き始めて調べてみる。アイヒマンの名前をふと思い出したのがきっ

かけだ。調べてみるとアイヒマンが南米で逮捕されたのが1960年。イスラエルが逮捕して処

刑した。歴史の怨念とは深く永いと感じた。それにしては、日本人は戦争責任を自ら裁けた

のかどうか気になる。パール博士は東京裁判の判事の中でただ一人国際法の専門家であっ

たようだ。国家も歴史の中では浮沈が激しい。インドの独立の父ガンジー、カースト制と戦っ

たアンベードカル、そして東京裁判のパールは三者とも弁護士であったとの事である。弁護

士として弱者の側に立ったのだろうか。法も現実世界では万全ではないが、法による支配・

統治は必要なようだ。実際に戦争を体験した人が少なくなる中、戦争を客観的に理解するべ

き時になってきたように思う。

2009年8月14日 (金)

横井庄一さん

2009/8/14

横井庄一さん

グァム島で発見され1972年に帰国した。グアム派遣から約28年後との事である。帰国したと

きの言葉が、恥ずかしながら...として当時の話題になった。戦争の是非は別として、横井

さんの単身のサバイバル生活は自分としても大変興味があった。確か、本も出されてそれを

読んだ記憶がある。その中で特に立派だと記憶に残っているのは、暦を正確に管理していた

事である。その日、その日の危険な生活に追われて数十年過ごしたら、暦どころではないと

思う。自分の年が何歳か、今日が何月何日かも忘れてしまうのではないかと思う。人は一人

では生きられないと良く言われる事は確かである。しかし、一人でも生きなくてはならない、生

き残ってやるぞという意欲も大切なようだ。横井さんはこれを自然体でやってきたようだ。

色々なところで生活の知恵を発揮している。自分たちも子供の頃はナイフ一つで色々な遊び

をした。肥後守ナイフと言われていたようだ。ヒゴモリと呼んでいたと思うが、正確にはヒゴノ

カミという登録商標であった。ともかく横井さんがジャングルで単身生き延びることが出来た

のは青少年時代の豊かな生活体験が役立ってのことであろう。

2009年8月 1日 (土)

スポイト式万年筆

2009/8/1

スポイト式万年筆

義務教育で使われた筆記用具は大体鉛筆であったと思う。インクを使うペンも少し使った記

憶がある。万年筆は中学から高校にかけて使い始めた。最初の頃はインクをスポイトでビン

から吸い上げて蓄える方式であった。その後はカートリッジ式が多くなった。しかし、カートリッ

ジが万年筆メーカー毎に違っているのでスペアを確保するのが面倒になり遂に使わなくなっ

てしまった。原始的であるが鉛筆が最も汎用性があると思う。最も多く使っているのはボール

ペンである。これもメーカーにより少し使い勝手違う。筆記用具は単純であるが決定的で万

能のものが無い。文字が下手なので社会人になってからペン習字をやった事もある。書くの

も目的を持って書けば良いのであろう。かって、小学校の担任がある生徒を字は上手でない

が書くのが早いと誉めていたのを思い出した。ともかく、早く書くという事も見方によれば才能

の一つに違いない。意外な誉め方をされると自分の才能に気付き自信を持つ場合もあるだ

ろう。

2009年7月29日 (水)

同窓会

2009/7/29

同窓会

ある会合で中学校の同窓生の誰それですと名乗られて、そーでしたかと恐縮した事がある。

すでに十数年前になるが中学校の同窓会が行われた。なかなか名前と顔が対応しない。し

かし、しばらく一緒に昔話に興じてくるとようやく過去の記憶と現在の関係がリフレシュされて

話が通じるようになる。同窓会も幹事が熱心であると共に同窓会をやろうという機運が盛り上

がって開催にいたるのであろう。不思議な事に数百人の同学年の生徒がいても、小学校と中

学校を通して一度も同じクラスになった事がない人もいる。しかし、50名位のクラスの中には

馴染みのない人もいる。逆にクラスを越えてつき合っている人もいる。同窓会の時の一枚の

集合写真を見ていると色々な事が思い出される。冒頭の一件で同窓会の名簿を調べた。ど

うも同じクラスになった事はなさそうだ。しかし、中学卒業後何十年もたって、新しいつき合い

が始まるのも不思議な思いがする。

2009年7月28日 (火)

戦時中の国防訓練

2009/7/28

戦時中の国防訓練

戦争も終末に近づき敵軍が日本本土に上陸する事が現実問題になってきた頃の話である。

当時の軍隊に入る前の高校生達は、毎日海岸に上陸する戦車をめがけて爆弾を抱えて突

入する訓練をしたとの事である。こういう訓練をさせられた本人から聞いた話なので実感が

漂っていた。ともかく、何事もなく生きながらえたから話せた話に違いはない。特攻隊、人間

魚雷、肉弾兵士等々何か日本人の精神構造の中には玉砕という物事の解決法が潜んでい

るようだ。死者に口は無い。死んだ人を攻めるのは潔しとしない。このような人間の弱みを逆

用する輩もいるようだ。自殺を禁止するという宗教観、生命観も日本と西洋と日本の精神構

造の相違の一つかもしれない。インパール作戦で無駄死にするのが明白であった自分の部

下を軍命に背いて進軍させなかった佐藤幸徳中将の心中にはどのような考えが巡っていた

のかつい考えてしまう。佐藤中将がノモンハン事件に従軍していた少将の頃の揮毫に「日月

照明」というのがある。単純な自然の理を以て人倫の基本を述べているのではないかと思

う。軍隊という位階が絶対的な世界の上にも日月という天体(人倫の基本)が明るく照らし正

邪を見通している。別な揮毫に「明大義正名分」というのがある。こちらは同中将の行動原理

のように思える。この戦争の大義は何か、自分は皇軍の司令官として何を為すべきか為さざ

るべきか。もし、佐藤中将が抗命せずにインパール作戦に突入して多数の兵や戦場の市民

を無駄死にさせたならば戦後の日本の、天皇の地位はどうなっていたのか。

2009年7月27日 (月)

戦時中の病人

2009/7/27

戦時中の病人

戦時中は壮健な成人男子は軍隊にとられた。あとに残されたのはそれ以外の人々という事

になる。戦時中に病気になった人々は、今思うと大変つらい思いをしたのではないか。食料

不足だけではなく、医薬品も不足して十分な治療も受けられなかった。自分で通院できない

病人は誰かの世話になる必要があった。母も病人の看護をしたり、リヤカーに乗せて通院さ

せた時の話をした事があった。医者までの距離を考えると大変であった事が実感できた。最

近、国定忠次が発病したとき戸板に乗せられて隠れ家を移動した云々という話を本で読ん

だ。ともかく、自分で動けない病人はどれ程肩身の狭い思いをしたことであろう。しかし、江戸

時代であれ、戦時中であれ、大変な苦労や心配はあったろうが近縁者が病人に対しては可

能な限りの手当を行ったのも事実であろう。

2009年7月15日 (水)

失業対策事業

2009/7/15

失業対策事業

終戦直後から高度成長期までの間はまだ失業者が多かったようだ。地方自治体が失業した

労働者を雇用したのが失業対策事業であったようだ。道路工事等の公共事業に従事したよ

うだ。自分も当時は通学に自転車を使っていたが、幹線道路もまだ舗装がされていない状況

であった。そこに、大型のバスやトラックと一緒に自転車や歩行者も通っていた。雨の日等は

悲惨であった。でこぼこ道に雨水がたまり、車が容赦なくその水をはねて走り去る。さしてい

るこうもり傘で身を守るのが精一杯であった。こんな道路をつるはしやシャベルでならす仕事

をしていた。高度成長期になるとこのような仕事も余りみかけなくなった。道路工事も機械力

が導入され、そこで働く人も単純な労働から専門性の必要な労働に変わったようだ。今日も

雇用情勢は厳しい。かっては、地方自治体が直接失業者を雇用していたのだろうか。今日は

どうなっているのか。エジプトのピラミッドは失業対策であったという説を聞いたことがある。

一方最近拾い読みした松本清張の『遊古疑考』 で、古墳の謎を清張流に解釈しており、何と

なく納得した。巨大な古墳をある程度の短期間で作るには相当な人員即ち食料が必要にな

る。その食料を余所から持ってくるのではなく、現地調達する為先ず食料生産基地を作る。

結局、一つの古墳を作る事により新田開発が行われ、その成果は継続的に使用できる。従

って、古墳を作る事により生活の基盤・地域開発を同時に行っていた。即ち生活のインフラ

整備が間接的に行われていた。失業対策というより古代の総合的国家プロジェクトと言った

方が正しいのか。逆に今日では失業対策の総合的国家プロジェクトが必要なのではないか。

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  • 橋本 英文: 刃物雑学事典 図解・刃物のすべて(1986年 株式会社 講談社 ブルーバックス B-659)
    刃物という視点で多くの事例が取り上げられている。刃のある道具の理解にも役立つ。類書が少なく貴重な一冊。「すべり変形が切断の原理」という考え方で説明している。
  • 沼田 真   : 植物たちの生( 1972年 岩波新書(青版 833))
    「ご要望にお応えしてアンコール復刊(1988年岩波新書50年記念復刊) 地球生態系の中で自然を見直す」(腰巻きのフレーズ)。植物の知恵と戦略に人類は勝てるのか。
  • 出町 誠: 14_NHK趣味の園芸:よく分かる栽培12ヶ月  カキ(NHK出版2007年)
    初心者向け柿栽培参考書(新版)。旧版と比較すると楽しい。
  • 中村三夫: 13_NHK趣味の園芸:作業12ヶ月  カキ(NHK出版1996年)
    初心者向け柿栽培参考書(旧版)。新版と比較すると楽しい。
  • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
    細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
  • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
    著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
  • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
    ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
  • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
    やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
  • ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫訳): 08_サイバネティックスはいかにして生まれたか(みすず書房1956)
    情報と通信という現代社会に不可欠の基礎的な学問を作った著者の自伝とそれを通した科学史
  • 沼田 真(編): 07_雑草の科学(研成社1979)
    雑草を多面的に解説し防除の基礎も述べる

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    POST IT :ブログ画面への張り紙に使える。
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    2010/8/4:MEMO等の表示に使える。 農作業で気になる自戒の言葉 ■畑の石ころはいつまで経ってもても石ころ(早く拾って片づけよという意味か)。 ■同じ石を二度拾うな(やってみると難しい)。 ■手ぶらで歩くな。 ■三つ先のことを読め。 ■適当な観察。 ■空を見よ(気分転換、休憩、天気を読む、腰曲がり防止)