01A_愛しき古里

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2012年10月27日 (土)

愛しき古里(古代の地域:上野国佐位郡):三軒屋遺跡周辺の風景

2012年10月27日土曜日
昨日は晴れ。最低気温(℃) 9.3 01:55 。ざっそう句:温水器 原発思い 品定め。朝晩の寒さが気になる季節になった。電気か石油か検討中。早急に発注しなければと思うが、拙速で後悔しもしたくない。昔の事を思い出すと不便ながら、生活の中で色々工夫して過ごしてきたのだが。朝方は定例の仕事。玄関の15Wの蛍光灯が点滅しているので交換。ついでにカバーを清掃した。高所にあるので脚立で作業。適価な直管型LED灯があれば蛍光灯と交換したいと思っているが、まだ店頭で見た事がない。WEB上では数千円のものがあった。いつ頃、値段がこなれてくるだろうか。

2012年10月26日の天気(AMEDAS)

TAVE= 17.1
TMAX= 23.2 最高気温(℃) 23.9 13:28 
TMIN= 9.6 最低気温(℃) 9.3 01:55 
DIFF= 13.6
WMAX= 3.7 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 7.8(東) 15:07 
SUNS= 9.3
RAIN= 0

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愛しき古里(古代の地域:上野国佐位郡):三軒屋遺跡周辺の風景

先日、出かけたついでに、三軒屋遺跡周辺の田園風景を眺めた。三軒屋遺跡の西側にかなり広く水田が開けている。稲の取り入れも終盤を迎えていて、何台かのコンバインが稼働していた。水路の土手にススキが生えていて、ススキの穂が夕陽に白く輝いていたので、それをデジカメに収めた。夕方の逆光を通して見る風景だが、イメージの通り写すのは難しいようだ。三軒屋遺跡は埋め戻されており、そこに遺跡があるとは見えない。あぜ道に入ると、邪魔な電柱等が写らない、赤城山撮影に最適な場所もあった。
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2012年10月20日 (土)

愛しき古里(目に留まった風景):陸橋から眺める新前橋駅操車場風景

2012年10月20日土曜日
昨日は晴れ。最低気温(℃) 10.1 24:00 。最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 15.7(北西) 11:45 。朝鮮半島に高気圧、太平洋側に台風21号の低気圧があり、昼頃は西風が強かった。駐輪中の自転車が風で倒れ、帽子が吹き飛ばされた。ざっそう句:風に乗り カラス群飛ぶ 里の秋。下仁田ネギが播種後5日で発芽していた。二年子大根の二回目の播種をした。種袋には蒔き時は11月中頃までと表示されている。残りは11月に蒔いてみようと思う。午後、用事外出。稲刈りも終盤に入っている。赤城山をバックに稲刈り風景をデジカメに収めた。

2012年10月19日の天気(AMEDAS)

TAVE= 15.2
TMAX= 20 最高気温(℃) 20.2 13:08
TMIN= 10.1 最低気温(℃) 10.1 24:00
DIFF= 9.9
WMAX= 7.4 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 15.7(北西) 11:45
SUNS= 9.1
RAIN= 0.5

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愛しき古里(目に留まった風景):陸橋から眺める新前橋駅操車場風景

新前橋駅はいつもは通過駅である。たまたま用事で下車した。相変わらずの子供老人は先ず、高いところを探し陸橋の階段を上った。眼下に操車場の風景、遠方に群馬県庁が見えて子供の気分に浸る。デジカメでその風景を撮影したが、金網が画面に入ってほとんどがボツ。あの群馬県庁の偉容を眺めると問わず語りに官高民低を象徴しているかのようだ。平民を威圧する代表的な高層建築はなんと言っても東京都庁だろう。最近、大阪方面の鼻息が荒いがそれも結構ではないか。でも、大阪都では遠慮しすぎではないか。このさい、東京に対して西京なんかに名称変更したらどうなのか。大阪が第二東京のようでは面白くない。東京のマネはしない方がよいのかもしれない。そういえば、新前橋、新大阪等々駅名もその場しのぎのようで、没個性的だ。高層建築はランドマークの役程度は果たすだろうが他にどんな利点があるのか。操車場にレールが集まるのは当然だが、架線の多さにも驚く。運良くSLに遭遇してデジカメに収めた。電化前の操車場の風景は相当すっきりしていて旅情を誘うだろうと想像した。
Shinmaebashieki_view_121006
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Shinmaebashi_sl_y121006
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2012年10月 5日 (金)

ツルよ 飛んでおくれ(愛しき古里):田島弥平旧宅近くに立つ田島弥平顕彰碑

 

2012年10月5日金曜日
昨日は曇りのち晴れ。最高気温(℃) 29.3 12:48 。夏日。ざっそう句:早熟の 柿は虫食い 食える味。汗ばむ程度の暑さが復活。利根川の貯水量が回復して取水制限は解除されたようだ。二年子大根とキャベツの播種。前者は直播き、後者はセルトレーに蒔いた。時期が遅いと思うが、試しに蒔いた。モロヘイアの株は種子採取用を残して堀上げ。ジニアの花殻を採取。乾燥させて種子をとる予定。マリーゴールドは特有のニオイがある。これが防虫効果を発揮するのか。

WIKIPEDIA:マリーゴールド(最終更新 2012年8月7日 (火) 19:42 )(。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89。)によると、「性状 [編集]:~観賞目的の栽培が普通であるが、根に線虫の防除効果があるので作物の間などに植えられることもある。線虫の防除効果は、植物自身の合成するα-terthienylをはじめとした化合物によるものとの説が有力だが、共生する線虫捕食菌の働きのためだという説も浮上している。異臭が激しく、有毒植物と誤解されていた時期もある。」とある。

更に驚いたのは、上記記事に「成分 [編集]:この花の花びらから抽出されたキサントフィル脂肪酸エステル混合物に含まれるヘレニエンという色素は暗順応改善薬の原料として用いられている。第二次世界大戦中にイギリス軍が「ブルーベリーのおかげで目が良くなった」という嘘の宣伝を流し、これを信じたドイツのバイエル社がブルーベリーを上回る効果を持つものを探したところ、マリーゴールドの花びらから抽出した脂肪酸エステル混合物に高い効果があることを発見し、ヘレニエンを有効成分とする暗順応改善薬「アダプチノール」が作られた。この薬は現在でも目の薬として使用されている。」とある事。「ブルーベリーは目に良い」というのはウソ?暗順応とは、明る状況から暗い状況になった時に目が慣れる事。この反応が遅いと時には軍事行動の障害になるのだろう。この宣伝が、イギリス軍に有利に働くためには、ブルーベリーはイギリスにあり、ドイツにはない事だろうが、本当か?

2012年10月4日の天気(AMEDAS)

TAVE= 22.9
TMAX= 28.8 最高気温(℃) 29.3 12:48
TMIN= 18.2 最低気温(℃) 18.0 01:22
DIFF= 10.6
WMAX= 6.4 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 11.7(北北西) 13:07
SUNS= 5.9
RAIN= 3.5

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ツルよ 飛んでおくれ(愛しき古里):田島弥平旧宅近くに立つ田島弥平顕彰碑

たまたま縁あって、富岡製糸場と絹産業遺産群の一つに指定された田島弥平旧宅を二度見学させていただいた。見学も時間が限られると、つい駆け足にならざるをえない。じっくり予習をしてから見学するのがベストかもしれないが、見学を学習の契機とするのも良いと思う。

初回の見学では、田島弥平旧宅へ向かう途中にある、田島弥平顕彰碑と「養蚕新論版木」とある標識をデジカメに収めた。何となく、連想では結びつくが、この二つから何が学べるか、空想してみた。明治初期の出版は、活字ではなく版木で行った。相当しっかりした目的と覚悟がなければ、出版事業は出来なかっただろう。「養蚕新論」はまさに、「最新養蚕技術論」という意味と思われる。幼少の頃、養蚕の手伝いをしたが、相手が蚕という昆虫の幼虫なのだから、それを品質の高い繭を作るまで育てる技術に尽きるだろう。途中で蚕が死んだり弱まってしまえば、大きな損害を生じることになる。「清涼育」とは、養蚕の品質と生産高を高める技術・ノウハウだったろう。出版により、技術の内容や思想が間違いなく正確に広範に行き渡るのだ。WIKIPEDIA(特許法。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E8%A8%B1%E6%B3%95。)によれば、「現在まで続く、日本の特許制度の基となったのは、1885年(明治18年)4月18日公布の「専売特許条例」である。」との事だ。苦労して開発した養蚕技術を独占せずに公開したという事も産業の近代化の促進と言う点で見逃せないと思われる。
Tajimayahei_kennsyouhi_hyousiki_2pi

二回目の見学では、顕彰碑の篆額部分(碑名)もデジカメに収めた。顕彰碑を理解するとき、誰が立てたか、誰が書と文を受け持ったか等の碑の関係者も関心の対象になるからだ。なんと、そこには島村の文化人・書家として著名な金井之恭の名が刻まれていた。群馬県庁近くの長浜公園にある「前群馬県令楫取君功徳之碑」の書を担当していたのも金井之恭であった。金井之恭は群馬県令楫取素彦と同様に田島弥平の業績に深甚なる敬意をいだいて書を成したと想像されるのだ。楫取素彦と田島弥平の両顕彰碑は生前中に建立されている。

〔群馬のシルクロード ~人物編~。http://www.manabi.pref.gunma.jp/kinu/jinbutu/gunma/sansyu-yosan/sansyu-yosan.htm。〕の記事によると、「明治27年、田島弥平の娘たみが父の功績をたたえ、養蚕興業碑を田島家の入口に建てました。」とある。尚、この碑が立てられたのは、田島弥平生存中であり、死後に評価が定まってから碑がたてられたものでないと知ると、田島弥平の娘も立派だったと思わざるをえない。まさに娘が父の業績を理解し顕彰するという事は、並の女性には不可能で、田島弥平にとってもそれが最大の精神的な支援になったのではないか。

その碑の篆額部には、「南畬田島翁養蚕興業碑」と記されている。最初は、「南畬」が「難よ!」だった。コトバンク「田島弥平 とは - 」によれば、「田島弥平。http://kotobank.jp/word/%E7%94%B0%E5%B3%B6%E5%BC%A5%E5%B9%B3/%E7%94%B0%E5%B3%B6%E5%BC%A5%E5%B9%B3。」の記事に、「1822-1898 江戸後期-明治時代の養蚕家。 文政5年生まれ。上野(こうずけ)(群馬県)佐波郡島村の人。家業をついで養蚕と蚕種を研究,清涼育とよばれる新技術を開発しその普及につとめた。明治5年島村勧業会社を設立し,渋沢栄一らの協力で蚕種の輸出を成功させた。明治31年2月死去。77歳。名は邦寧。字(あざな)は子寧。号は南畬(なんよ)。著作に「養蚕新論」」とある。

南畬(なんよ)とは田島弥平の号との事だ。「養蚕新論版木」という標識だけでは、なかなか碑が発信しようとしているメッセージが読みとれない。それでは、「南畬田島翁養蚕興業碑」を読み解くとどうだろうか。この碑が建てられてからもうじき120年になる。建碑後120年になっても色あせず、むしろ輝きを増す碑名ではないか。今日の、「富岡製糸場と絹産業遺産群」を予想したかのような碑名ではないか。

「南畬」を直訳すると南の畑。漢字の「畬」が難解でかつ扱いにくい。「南?」では先に進まない。漢字源によれば「畬」は新たに開拓した畑の意味がある。「畑」には更に焼き畑の意味があるそうだ。当世でも、自分が打ち込んだ専門の仕事の対象を畑とも言う。「南畬」にも、気合いを入れ苦心の末開拓した事業分野という深い意味がありそうだ。自分の号なので謙遜の意味も込めているかもしれない。俺の事は「南畬(なんよ)」と呼んでくれれば良いのだというのが号の意味だろう。「翁」は親称・尊称。現代風に超訳すれば、総合養蚕事業のパイオニア田島弥平じいさんの意味にとれる。最大のキーワードが「養蚕興業」だ。

尚、コトバンクによれば田島弥平は「明治5年島村勧業会社を設立」とある。この設立時期は、以下のWIKIPEDIAの記事と比較しても、日本の経営史上からもかなり早い時期ではないかと思う。

「丸善。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%96%84。(最終更新 2012年8月8日 (水) 04:49 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「社史概要創業創業は、明治2年1月1日(1869年2月11日)。創業時の社名は「丸屋商社」その登記簿に、代表者として「丸屋善八」という架空の人物を記載したことから丸善の名が生まれることになった。創業者は福澤諭吉の門人・早矢仕有的(はやしゆうてき)である。設立当初から、世襲が基本だった当時の商習慣を廃し、所有と経営を分離するなど、事実上日本初の近代的会社として知られる。」とある。

新しい事業を開拓するための近代的会社組織の設立も「養蚕興業」の要であったと思われる。若い頃は、田舎住まいで余り東京に出なかったが、東京に出たときは、丸善書店に寄り、洋書を見るのが楽しみだった。もっとも、買えるのは、安いペーパーバック程度だったが。そんなわけで、丸善が日本の最初の近代的会社だったというのをどこかで知ったようだ。田島弥平が明治5年に島村勧業会社を設立したのも、東京の丸善の創業時期にさほど遅れていなかったのだから、群馬が会社組織という点でも先進地だったと自信が持てるのではないか。

まさに、この碑のタイトルには、「富岡製糸場と絹産業遺産群」に連なる産業を興したという気概が溢れているのではないか。結局、この碑のタイトルから「近代養蚕のパイオニア田島弥平じいさんの養蚕(絹)産業興業を顕彰する碑」という意味にとれそうだ。でも、娘が父の存命中に建てた碑なので、碑名には色々気を使ったと思われる。碑は後生に残る。威厳と共に親しみも込めたい。「父ちゃん、碑の名前はこれでいいかい(娘)。」「はは、おまえに任せるよ(父)。」こんな、会話が聞こえてきそうだ。是非、この「南畬田島翁養蚕興業碑」という碑名が普及するように願いたいものだ。
Tajimayahei_kennsyouhi_and_tengaku_

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追記(2014/6/2):
「ツルよ 飛んでおくれ(愛しき古里):田島弥平旧宅近くに立つ田島弥平顕彰碑(2012年10月 5日 (金))」の記事がいきなりランキング8位に入った。富岡製糸場と絹産業遺産群のユネスコ世界遺産登録の期待が実現しようとしている時で率直にうれしい出来事だ。昨日の暑さで、室内で気ままに手に取った冊子がある。「温故知新 伊勢崎市郷土文化研究会連絡協議会 20周年記念誌(平成18(2006)年3月15日発行)」である。この協議会は伊勢崎市市内の歴史研究会の横の連携をする為に発足したようだ。本誌のなかで、境史談会会長の田島健一氏が境史談会発足の経緯と事業を紹介している。郷土史家の篠木弘明氏が中心になって境町地方研究会が発足し、郷土史の調査研究を行い、篠木氏が亡くなられてから、境史談会がその事業を受け継いでいるとの事である。本誌の中で境史談会の事務局長斎藤進一氏が「境の漢文碑を訪ねて」の②で、「田島南畬碑」を紹介している。是非、本文を直接参照して頂きたい。

以下、便宜のためその項を引用させて頂く。

「② 田島南畬碑   境島村の県道中瀬・牧西線沿いに所在。題額、大日本農会頭陸軍大将彰仁親王。撰文、勅撰議員川田剛。書、勅撰議員金井之恭。川田は号甕江(おうこう)、国学・文章に通じ明治漢文学会泰斗。建立は明治二十七年(1894)。碑の最後に、「夫れ生我より先んずる之を長者と謂ひ、徳厚く行修まる之を長者と謂ひ、而して多財多福を俚俗之を長者と謂ふ。今翁は此の三者を兼ぬれば、是も亦(ま)た云ふ可(べ)きなり」と刻む。翁とは郷人に養蚕長者と称せられた島村新地の田島弥平(1822~98)である。養蚕の清涼法、『養蚕新論』の著作、吹上御所に招かれて蚕婦を率いて皇后の養蚕に従事、島村勧業会社を設立し社長になる。渡海して蚕種の海外販売等を行う。南畬号で、利根川の南の新しく開墾した土地という意味である。」

尚、上毛新聞は、「世界遺産候補 弥平旧宅所有 田島健一さん死去。;http://www.jomo-news.co.jp/ns/7213914754599085/news.html。(更新日時:2014年2月4日(火) AM 09:00)」」というタイトルで、「江戸末期から明治にかけ日本の蚕種業の発展に貢献した田島弥平(1822~98年)の子孫で、島村蚕種株式会社専務を務めた田島健一(たじま・けんいち)氏=写真=が3日午前11時52分、大腸がんのため群馬県太田市内の病院で死去した。84歳。伊勢崎市境島村の自宅は、世界文化遺産候補「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産で、国史跡の「田島弥平旧宅」。世界遺産登録を前にしての訃報に悲しみの声が上がった。」と報じた。

改めて、田島健一氏が、境史談会会長として、郷土の歴史理解と継承に尽力されていた事を知った次第である。同氏のご冥福をお祈りすると共に「富岡製糸場と絹産業遺産群」の末永い保存活用を期待したい。

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追記(2014/6/4): 本記事のランキングが5位に上昇した。多分、「富岡製糸場と絹産業遺産群」のユネスコ遺産登録確定が間近に迫って、関心を持っている人々が検索をかけているのではないかと思う。アクセス数の絶対値は不明だが、ともかくランキングの行方に、間接的に世の中の動向が反映されているのかもしれない。最近、「富岡製糸場と絹産業遺産群」と関連して、以下の論文に遭遇して読ませて頂いた。改めて、事業は人なりという感慨を覚えた。

「明治期の群馬県藤岡地区におけるキリストと養蚕業の関係-緑野教会と高山社蚕業学校を中心に-(https://gair.media.gunma-u.ac.jp/dspace/bitstream/10087/7000/1/%e7%b4%80%e8%a6%81Vol1No1_%e8%aa%bf%e6%9f%bb%e5%a0%b1%e5%91%8a%ef%bc%88%e8%8d%bb%e9%87%8e%ef%bc%89.pdf)」(著者:荻野基行;東京福祉大学 社会福祉学部(伊勢崎キャンパス)。

この論文は、「富岡製糸場と絹産業遺産群」をより深く理解するために大変参考になると感じた。是非本文にあたって頂きたい。以下にその抄録部分を引用させて頂く。

「抄録:明治期、群馬県にキリスト教が拡大した背景には欧米諸国との蚕糸を中心とする取引による影響が大きい。また新島襄の影響により県西部を中心に組合教会が多く設立されたが、この地域は組合製糸が盛んな土地でもあった。その中で藤岡地区には組合教会に属した緑野教会があり、養蚕関係では組合方式による高山社蚕業学校が存在した。両者は少なからぬ人的交流があり、高山社分教場当主の中には有力蚕種家や地域の政治家とともに信徒もいた。緑野教会創設期はこのような上昇的生産者によって支えられた。しかし多数の信徒が小生産者層であった農村教会にとって農繁期におけるキリスト教活動の減退や社会的にもキリスト教への理解が浅い時代であり、創設期は苦難の時期であった。研究対象は緑野教会の創設期を中心にそれを支えた人々と、高山社蚕業学校、特に分教場を対象に、文献をもとに研究した。」

自分なりに、明治初期の社会組織として、組合方式が盛んになったものと理解した。教会も蚕種・蚕糸の生産も組合方式。このような新しい方式を受け入れるのも社会や人心の変化がなければ実現しない。田島弥平の活躍した島村にも島村教会があり、本論文にも田島弥平はキリスト教徒であったと述べている。信仰と事業が個人の頭脳の中では融合しており、同志が同じ精神をもって、共同してお互いのための事業を行うという姿が見えてきた。

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2012年10月 4日 (木)

ツルよ 飛んでおくれ(目に留まった風景):富士重工業伊勢崎工場の謎の煙突

2012年10月4日木曜日
昨日は曇り。最高気温(℃) 24.0 13:59 。夏日を脱して涼しい位。ざっそう句:食卓や 猫が丸まる 亭主の座。朝方は子供会も参加して定例の仕事。その後、遅い朝食。今まで、床にふんぞり返って寝ていた猫が、最近では亭主の座を占拠して丸くなっている。猫も気温に合わせて行動している。それも、悠々自適でうらやましい。最近、民家の空屋が目立つが、地域の工場などの稼働状況はどうなのだろう。農業(一次産業)、工業(二次産業)は縮小の時代に入ったのか。残念だが一般人が、工場の中を覗く機会はほとんどない。自分も、現役時代は家族に職場を見せた事は一度もない。もっとも、見学コース等はあったと思うが。産業の発展も現物を見ることから始まるのではないか。群馬の工場が、第二、第三の富岡製糸場になるだけでは勿体ない。

2012年10月3日の天気(AMEDAS)

TAVE= 21.2
TMAX= 23.8 最高気温(℃) 24.0 13:59
TMIN= 19.1 最低気温(℃) 19.1 24:00
DIFF= 4.7
WMAX= 2.1 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 6.5(南東) 16:19
SUNS= 0.1
RAIN= 2.5

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ツルよ 飛んでおくれ(目に留まった風景):富士重工業伊勢崎工場の謎の煙突

この道は、まだ自動車を持てない若いサラリーマンの頃、駅まで自転車で良く通った道だ。この工場の構内には一度も入った事がないと思う。最初に買った車が中古のスバル1000だったような記憶がある。雪が降って、駐車場で後輪にチェーンを装着しようとしていると、スバルは前輪に巻くんじゃネンと会社の見知らぬ従業員が一言注意してくれた。ああ、顔見知りでなくて良かったと胸をなで下ろした。当時、前輪駆動が富士重工業の誇るべき技術だとは知らなかった。

この煙突の写真は、サンデン本社の西側の道から、その西方で、朝陽を浴びて白く輝いている煙突をみて、自転車を止めて撮影した。懐かしい風景だが、ほとんど何の印象もなく今まで通り過ごしてきた風景だ。富士重工業株式会社伊勢崎工場。所在地は、群馬県伊勢崎市末広町100。富士重工業の創立は1953年(昭和28年)7月15日(創業:1917年(大正6年5月))。創業者は中島知久平。戦前軍用機を作った中島飛行機がその母体で、群馬の名門企業といえるだろう。

富士重工業ホームページによれば、現在の伊勢崎工場は従業員数(人)75 、主な生産品目は自動車用部品 となっている。かつてはこの工場で大型バスが作られていたと思う。サンデンの主力工場が、本社を残して粕川へ移転し、伊勢崎駅の北側にあった、東京アイシーの敷地も更地になり、栄枯盛衰という時代の変化をまざまざと感じる。多分、かつては、朝夕の通勤時間帯は伊勢崎駅からこの周辺までは活気に満ちていたのではないか。

「中島知久平。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E7%9F%A5%E4%B9%85%E5%B9%B3。(最終更新 2012年9月22日 (土) 14:19 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「生涯 [編集]:群馬県新田郡尾島村字押切(現在の群馬県太田市押切町)出身。「飛行機報国」の信念から、慣例をやぶって海軍を中途で退役し、兄弟で飛行機製作所(のちの中島飛行機株式会社)を創設した。 その後立憲政友会所属の代議士となり、1939年(昭和14年)には政友会革新同盟の総裁となっている。 アメリカの国力を知るところから、当初は日米戦争には消極的だったが、開戦後は「米軍の大型爆撃機が量産に入れば日本は焼け野原になる」と連戦連勝の日本軍部を批判し、ガダルカナルの争奪戦では日本の敗戦を予想して、敗勢挽回策としてZ飛行機(いわゆる「富嶽」)を提言するが44年まで無視され、時期に遅れて計画は放棄された。 近衛内閣の組閣3ヶ月後発足した「大政翼賛会」は幕府的、ファッショ的で立憲政治を侵すとして、強力な政党を作ろうとしたが、終戦まで果たせなかった。」とある。

ペンシルロケットの開発者であり、「日本の宇宙開発・ロケット開発の父」と呼ばれる糸川英夫が、中島飛行機の技術者だった事も思い出す。糸川英夫は、「中島飛行機に入社し、帝国陸軍の九七式戦闘機、一式戦闘機 隼、二式単座戦闘機 鍾馗などの設計に関わった。(WIKIPEDIA記事)」

一方サンデンは、創業者牛久保海平の織物関係の起業から始まり、部品、自転車用発電ランプ、ショーケース、カーエアコン等に業績を伸ばし、現在に至っている。確か、著書に「海平なり (海穏やかなりと読むらしい)参考:http://motozaemon.blogzine.jp/chek1/cat2806473/」があり、読みかじった記憶がある。自分の周辺にもサンデン関係者は多数おり、有力企業として地域に貢献してきた。サンデンのホームページの沿革記事によれば、「1940年代:1943年(昭和18年)7月、戦争中の日本。民間工場は、軍需産業に移行するか廃業するかの二者択一を迫られ、織物工場を営んでいた牛久保海平は通信機用部品やマイカコンデンサーの製造を開始。ここにサンデンの前身である三共電器株式会社は産声をあげました(資本金198千円)。終戦後、自転車で通勤してくる社員たちにヒントを得、自転車用発電ランプの開発に業種転換。闇を照らす“ふくろう”のマークや“夜の千里眼”“明るさ満月の1000倍”といったキャッチフレーズによる販売促進活動も展開、1953年(昭和28年)には月産3万台に達し、発電ランプ業界に不動の地位を築きました。」(http://www.sanden.co.jp/company/history.html)とあり、地域産業の発展に織物産業が寄与して来たことが理解でき大変参考になる。ところで、あの煙突は何に使われてていたのだろうか。事業が盛況であった往事を語る偉容には違いないだろうが。
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追記(2014/2/19): 「ツルよ 飛んでおくれ(目に留まった風景):富士重工業伊勢崎工場の謎の煙突(2012年10月4日木曜日)」が当サイトのランキングに入ったのでメモしておく。

サイト内でキーワード「富士重工OR中島飛行機」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E9%87%8D%E5%B7%A5OR%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E6%A9%9F++site%3Ahttp%3A%2F%2Faf06.kazelog.jp%2Fitoshikimono%2F)。

追記(2014/5/17):
現在この記事のランキングは6位。先日、初めてこの煙突がよく見える付近にあるサンデンの構内に闖入。その時の記事「半端道楽:写真で俳句る:このタンポポって外来種?(タンポポよ 綿毛飛ばせよ 荒れ地にも。)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2014/05/post-b10f.html)。(2014年5月14日(水))」。入った近代的建物は道路の東側。展示室は西側の本館らし建物にあった。

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追記(2014/6/22):本記事のランキングは現在10位。以前、富士重工に勤めていた同級生に聞いた時は輸出用のバスを生産してとの事であった。現在も、輸出用の乗用車は好調のようだ。日本における3Cブームの先駆けになったのが、スバル360。その発祥の地を記念するモニュメントが、三角屋根の旧工場の煉瓦側壁という形でひっそりと展示されている。場所はとりせん平和町店東側駐車場の向かい側である。道を隔てて南側に伊勢崎工業高校がある。

「伊勢崎工業高等学校ホームページ(学校概要)(http://www.iko-hs.gsn.ed.jp/)」によれば、「群馬県立伊勢崎工業高等学校は、地域の方々の大きな期待と熱意を受けて、県内で最初に誕生した工業高校です。その後、明治、大正、昭和、平成と時代の移り変わりとともに、幾多の変遷を経ながら発展し、現在は全日制が機械科(2クラス)・電子機械科・電気科・工業化学科の4学科5クラス、定時制には工業技術科1クラスを設置する工業技術を専門的に学ぶ高校です。」とある。

その沿革によれば、「伊勢崎織物業組合立染織講習所開講これが本校の前身となりました。」とあり、伊勢崎市の絹産業と深い係わりがある。染色技術に関しては定評があった。絹産業の衰退に伴い、電気、機械学科等が人気学科になったようだ。群馬県の自動車産業や電機産業も、絹産業という先行産業の上に成り立っているのだろう。

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追記(2014/7/22):
本記事が現在ランキング3位に入っている。どこからこのサイトへ来ているのか皆目分からない。アクセス解析をすれば分かるだろうが、そういう趣味はない。というより、それを行っても何のメリットも無いのが実情だ。ランキング情報を見るのも面白い。想像では、「富士重工」単独のGoogle検索では、ちょっと無理のようだ。Googleでキーワード「富士重工 伊勢崎」を検索(https://www.google.com/?hl=ja&gws_rd=ssl#hl=ja&q=%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E9%87%8D%E5%B7%A5%E3%80%80%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%B4%8E&start=10)。で検索すると本記事が16/約 74,700 件でヒットした。富士重工単独では約 2,230,000 件 (0.25 秒)と表示されるので、かなり富士重工に関して詳しい情報を求めているのか?あの煙突がある工場敷地の直ぐ東側の道路を通ったので、煙突の近景が撮影できた。やはり、近くで見ると迫力がある。時刻は15時頃で、丁度チャイムが鳴った。休憩時刻か。

Iob_fujijyuukouentotsu
追記2(2015/11/30):いつも近くを通ると気になる富士重工の煙突。実は、何に使われたのか、現在も使われているのかわからないもどかしさがある。この工場も、時代の流れにそって色々変貌してきた。いつか聞けるチャンスがあるかもと考えているが、その時は煙突の話題も出てこない。日常の風景は、見てないようだが、無意識に見てもいる。何か意識していると見えてくる、そん存在のようだ。ある人に聞いたら、ボイラーじゃないかと言っていたが、ピント来なかった。今まで、塗装は剥げ掛かっていたが、今年の夏頃、再塗装されたようだ。大きな構造物は、それを作るのも壊すのも容易ではない。従って、ランドマークとして末永くそこにあってもらいたいと思う。再塗装は、まだまだ、地域の産業遺産としてこの煙突を守ってゆくというメッセージではないかと感じる。

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2012年9月24日 (月)

愛しき古里:養蚕の先進地だった島村生まれの文化人「金井烏洲」記念碑を華蔵寺公園に見る。20120924。

2012年9月24日月曜日
昨日は夕方まで強弱を繰り返しつつ雨が降った。ざっそう句:お萩食い くつろぎ語る 農の慈雨。最高気温(℃) 21.8 00:08。最低気温(℃) 17.7 24:00 。雨量94.5㎜。夏日も脱して、肌寒い一日だった。クシャミ連発。午後彼岸の来客。たっぷりの雨でゆったりと雑談。この雨で、今度は秋の雑草が元気付く。多めの降雨は、「前線を伴った低気圧」が北東に向け通過したお陰らしい。昨日はひまに任せて「ツルよ 飛んでおくれ」というカテゴリーを作った。生物の歴史の中で、空中を飛ぶ、虫類と鳥類は、最大の傑作のように見える。並の努力ではその機能を実現できない。何億年、何千万年という試行錯誤の連続の末に今の姿がある。群馬県へ、いつ頃まで、ツルの飛来があったのかWEB調査したが手がかりなし。

2012年9月23日の天気(AMEDAS)

TAVE= 18.9  
TMAX= 20.1 最高気温(℃) 21.8 00:08
TMIN= 17.8 最低気温(℃) 17.7 24:00
DIFF= 2.3  
WMAX= 2.8 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 5.6(西北西) 13:16
SUNS= 0  
RAIN= 94.5  

Kouu_ryou_120923_2

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愛しき古里:養蚕の先進地だった島村生まれの文化人「金井烏洲」記念碑を華蔵寺公園に見る

国が、富岡製糸場と絹産業遺産群をユネスコ世界遺産に推薦することが決まり、絹産業遺産群の一つである、田島弥平旧宅も脚光を浴びている(伊勢崎市ホームページhttp://www.city.isesaki.lg.jp/pcp_portal/PortalServlet?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=12795)参照。

先日、たまたま用事外出のついでに華蔵寺公園に寄った。遊園地は開園前で、観覧車の試運転をしていた。散歩人がちらほら。華蔵寺丘陵部の中腹に、いくつかの碑や像が並ぶ、例えれば、記念碑ゾーンがある。碑を見るヒマ人はワレ一人。今まで、それらの碑の存在には気付いていたが、何の碑か余り興味がなかった。年のせいか、最近そういう古い物に興味がわいてきた。

記念碑ゾーンとは言え、余り手入れされておらず少なからず失望感が漂う。説明板も読む気がしないほどのものもある。自分のデジカメも10年前の代物。ともかく、金井烏洲の記念碑だと言うことは分かっていた。余りに碑の高さが高いので、篆額の部分が読めない。碑の上部をデジカメに納め、帰宅後画像処理すると「烏洲 金井先生碑」とあるらしい。「先生」とは尊称。現代の感覚では誤読になりかねな。この「烏洲 金井先生碑」こそ、島村に田島弥平が生まれ、蚕種産業が発達する先がけとしての金井烏洲の偉大さを伝えるものではないか。石碑も読まなきゃ只の石に過ぎない。

前橋の高浜公園にある、「前群馬県令楫取君功徳之碑」の書は金井烏洲の子息である金井 之恭(ゆきやす)が手がけている。あちこちに散在する碑をつないでみると意外な発見がある。その圧巻が、この碑の文と書を、日本の産業近代化に邁進した渋澤栄一が手がけていることである。

「渋沢栄一。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80。(最終更新 2012年8月31日 (金) 04:26 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「渋沢栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 1931年(昭和6年)11月11日)は、幕末から大正初期に活躍した日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父といわれる。正二位勲一等子爵。雅号に青淵(せいえん)。」とある。

「烏洲 金井先生碑」建碑後、渋沢栄一は91才の天寿を全うしているので、90才と記されているこの碑は、渋沢栄一最晩年に近い事業だったと思われる。その碑の裏面には、地域の発展にゆかりのある多数の協賛者の名前が記載されており、その人名を辿れば往事の地方の文化や産業のありさまが浮かんでくるだろう。

現役時代に、渋沢栄一の「論語と算盤」という本を古本で買って拾い読みした記憶がある。二松学舎から出ていた枕になるくらいの厚い本だった。本記事作成に際して、「二松学舎列伝 第3代舎長 渋沢 栄一 (http://www.nishogakusha-u.ac.jp/retuden.htm)」を読んで、なぜ二松学舎から出ていたのかその謎が解けた。

当時は、中国では毛沢東の衛兵を使った文化大革命(WIKIPEDIA。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E9%9D%A9%E5%91%BD)が起こり、「批孔批林」が叫ばれていた。林彪は政敵として論外だが、孔子や論語すら反革命の象徴になっていた。本書を読んだ印象は、「論語」とは人間としての行動規範、算盤とは経済規範(経済合理性)を象徴していると思った。当時は、北京週報等を購読して、文化革命もむべなるかなと思ったが、「論語と算盤」にも新鮮な印象をうけた。従来の日本の論語(儒学)には算盤が欠けていたのだから。この二つの規範を結ぶのが「と」であり、その重心に渋沢栄一が立ち、行動と経済を車の両輪の如くうまくバランスさせて、日本の近代化を推進したんだなと今になって思う。

バランス感覚が崩れ、どちらかに傾きすぎると、方向が狂ってしまう。いわば、この本は、天秤の重心に自分を置き、常にバランスをとれと教えているように思えるのだ。歴史の中で、中国も日本も天秤が揺れるが、その揺れ方は異なる。中国はいまだ文化大革命を集約しきっていない。文化大革命の影響は今も続いている。中国の歴史の揺れは、地震に例えれば、長周期成分のように、長くかつその振幅も大きいのだろう。

金井烏洲のような文化人が出るためには、それなりの生活や精神の豊かさとユトリ、地域の歴史・文化が必要になる。中でも経済的な基盤として養蚕があった事は疑いがない。渋沢栄一が金井烏洲の碑を華蔵寺公園に残した理由は、謎でもあるが、伊勢崎に養蚕が栄え、金井烏洲に関わる人脈が豊富にあった事を物語っているのではなかろうか。日本も近代化の歴史の中で、大きな揺れを体験しつつあるように感じる。近代化の成功と挫折。今、興味があるのは近代化の挫折からの回復だが、その切り札が見えない。石碑をかじって、先人達の苦労を偲ぶ中で少しでもその手がかりが掴めれば良いと思うのだが。
Kanai_ujyuu_sibusawa_eiichi_2pix
左:碑の上部を見上げる。右:文字強調(カラー反転:渋澤榮一撰并書と見える)。

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追記(2020/07/01):アクセスランキング2位に入っている。記事タイトルに投稿期日を追加。ついでに記事を再読した。気ままにアクセスランキングを記録しているが、アクセス数は数十回/日程度で、本日で累積アクセス数は34089となった。このカウンターは自分のアクセスも数えているので外部アクセス数はその半分程度と見ている。読者に感謝。多分、検索エンジン経由アクセスしていると思われる。この記事が読まれるのも渋沢栄一の万札効果なのだろうか。想像するに渋沢栄一も現在の日本の状況を見れば苦笑いする以外に無さそうだ。この碑の裏面には、当時の地方の有力者の名前が刻まれているがこれを書き出した資料はあるのか。

碑文やこの碑の解説はこちらを参照:Go!伊勢崎:

https://www.go-isesaki.com/hist/syosi/hibun/70geijut/72nihonga/72-1ujuu/72-ujuu.htm







2012年9月 6日 (木)

愛しき古里(PHOTO1:たまたま出会ったもの ):高橋元吉の詩碑

2012年9月6日木曜日
昨日は晴れ。ざっそう句:ひねオクラ 食ってやるぞと 顎に力。最高気温(℃) 34.4 15:39 。夏日だが、朝晩は涼しくなりつつある。朝方は定例の仕事。宅内でモノの整理。モノの整理より「アタマ」の整理が先かもしれない。XP2号機は何とか動いている。それにUSBメモリーが何本かぶら下がっているが、データを探すのが大変だ。

2012年9月5日の天気(AMEDAS)

TAVE= 27.7
TMAX= 33.8 最高気温(℃) 34.4 15:39
TMIN= 22.3 最低気温(℃) 21.8 05:46
DIFF= 11.5
WMAX= 2.8 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 5.6(東南東) 16:35
SUNS= 10.3
RAIN= 0

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愛しき古里(PHOTO1:たまたま出会ったもの ):高橋元吉の詩碑

楫取素彦の碑を見た高浜公園に高橋元吉の詩碑があった。

ああ空遠く流れ去る
河のごときものあり
水をかすめつつ飛びゆく
鳥のごときものあり

と刻まれている。

この碑に出会ったのは偶然の賜物。楫取素彦が招いてくれたボーナスのようでもある。高浜公園のすぐ西には、利根川が流れている。この利根川の水を何気なく、思索にふけりつつながめ、ふと空をながめたら何がみえるだろうか。何を感じるだろうか。時代という大きな河の流れの中にあって、人間はその水面上を超低空飛行している存在に過ぎないようだ。

「高橋元吉詩集:いとしきもの(2010年9月20日 (月))。http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2010/09/post-524e.html」に記事を書いた。

煥乎堂が古本を扱うようになり、昨年は何回か前橋に通ったので、その帰り道に煥乎堂の古本コーナーもまわった。時の流れは、大河のように止める事ができない。
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2012年8月30日 (木)

愛しき古里:夕陽に浮かぶ丸塚山古墳

2012年8月30日木曜日
ざっそう句:喪服見て 道を譲られ 南無阿弥陀仏。最高気温(℃)  34.7  14:01。猛暑日は脱したが真夏日。灌水と草刈り。ピラカンサの徒長枝剪定。実付きの枝は残す。枯れた初代の株のこぼれ種から育った二代目。トゲがあるが、ガマン。葬儀。斎場に向かうT字路で、優先車が道を譲ってくれた。故人の功徳か。

2012年8月29日の天気(AMEDAS)

TAVE= 29.2
TMAX= 34.7 最高気温(℃)  34.7  14:01
TMIN= 23.9 最低気温(℃)  23.7  06:08
DIFF= 10.8
WMAX= 2.9 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位))  7.1(東南東)  14:34
SUNS= 8.8
RAIN= 0

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愛しき古里:夕陽に浮かぶ丸塚山古墳

連日の暑さで、用事は朝夕にする、昔流のサマータイムのような生活をしている。先日、近所へ自転車で、お使いに出かけた帰りに、暮れそめた田園風景をそれとなく見ながらペダルを踏んでいた。夕陽に浮かぶ丸塚山古墳をいい風景だとそれとなく感じていた。こんな風景は二度と見られないかもと思って、Uターンしてデジカメに納めた。

伊勢崎市ホームページに、「丸塚山古墳(市指定史跡)http://www.city.isesaki.lg.jp/pcp_portal/PortalServlet;jsessionid=953827AF1E69DD9D5C8D149EF3222F7C?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=8009」というタイトルで、「(まるづかやまこふん) 丸塚山古墳は、主軸を南北におく墳丘の全長が81メートルの帆立貝式古墳で、5世紀後半に築造されたと考えられる。昭和30年(1955)に群馬大学史学研究室による発掘調査が行われ、後円部に墳丘主軸とほぼ平行して3基の組み合わせ式箱形石棺が発見され、葺石や埴輪片の存在も確認される。」と紹介されている。

自分も、幼少の頃、丸塚山古墳の発掘調査の見物に行ったかすかな記憶が残っているが、いつ頃の事かはっきり思い出せない。上記の記事から、昭和30年と分かったが、その頃は考古学の事など何も知らなかった。また、当時は考古学の意義も歴史遺産への関心も余りなっかったようだ。ただ、叔父さんに、既にそこを掘った人がいたという昔話を聞いた記憶の方が鮮明に残っている。学術的な発掘ではなく、墳墓からの出土品が目的だったらしい。何も出なかったとの事で、既に当人より先に掘った人がいた事になるだろう。そうなら、最低でも3回以上掘られていると推定できる。

先日、殖蓮史談会で行われた斎藤聡先生の講演を聴いた。殖蓮小学校南東部の両毛線踏切周辺には幾つもの道が集まっている。三軒屋遺跡の正倉は既に発見されているが、郡庁は未検出である。なぜ、ここに道が集まっているのか。そこに古代佐位郡の郡庁があると仮定するとその謎が解けるという仮説である。また、その道も古代の道と重なって、現在もその役割を果たしているとの事だ。丸塚山古墳の被葬者は三軒屋遺跡に関する有力者ではないかという話しもあった。遺跡も、点から線、線から面へ広げると新しい見方や発見が可能なようだ。ところで、古墳の被葬者は生前に、自分が眠る古墳の頂上に立って、四方八方を見渡したのだろうか。
Marudukayama_kofun_120821

2012年8月12日 (日)

愛しき古里:お祭りに花を添える恵みの雨

2012年8月12日日曜日
昨日は曇り時々晴れ。最高気温(℃) 35.3 13:22。雲はやや厚かったが猛暑日。ざっそう句:お祭りに 景気を付ける 恵み雨。朝飯前に苗移植。2回目。土が乾き、さらさらしているのでテンガを使っても土が刃に付かない。最初は雲が厚かったが、やがて日射が強くなり中断。たまたまムクゲの幹を見たら、カブトムシが何匹も集まっていた。先日、丹波の黒豆の除草をしたが、地面や葉の下にカナブン?が多数動いていた。黒豆の葉はもう透けて見えるほど穴だらけになっている。農薬を使わないで退治する方法はあるのか。午後は、空模様を気にしながらお祭りに加わる。

2012年8月11日の天気

TAVE= 27.8
TMAX= 33.6 最高気温(℃) 35.3 13:22
TMIN= 24.5 最低気温(℃) 24.4 23:58
DIFF= 9.1
WMAX= 3.2 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 8.7(南東) 16:11
SUNS= 4.9
RAIN= 2

Q
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愛しき古里:お祭りに花を添える恵みの雨

恒例の地域のお祭りは、一年ごとに時を刻む。そのお祭りに向けて、地域住民は屋台囃子の練習をして、万端の準備を進める。一つの目的に向けてエネルギーを集中できないとお祭りは不発に終わる。前回7 月の地区のお祭りでは、雷雨の影響で最後の演目が多少影響を受けたが、抽選会が終わった頃恵みの雨となり無事閉幕。8月のお祭りは市内最大のスケールで行われる。日頃の練習の成果をアピールできる待望の舞台だ。子供や父兄、関係者の期待と不安は大きい。また雨になると、子供が可哀そうだ。そんな話をしながら巡行の時間を待つ。

15時過ぎ、天気予報の通り、パラパラと雨が降り出した。最近の天気予報は良く当たると言う声。父兄等は屋台の屋根に登り、雨除けの透明シートを設置する。今回の雨は、ゴロ、ピカ、ザーという典型的な雷雨ではなく、小降りで降ったり止んだりするおとなしい雨だった。AMEDASによると、祭りの時間帯の降雨は1.5㎜。傘をさした観客もいたが、祭りの参加者は傘無しで済んだ程度の雨。

たまたま、声をかけた隣地区の人と雑談。話が進むと、あの人を知っているかい。うちの遠い親戚だ。エッ、うちからも遠い親戚ですよ。祭りがとりもつ不思議な縁を感じる。何人かの知り合いと声をかけあう。お互い元気にやっているなと感じる時だ。傑作なのは、白いワイシャツ姿で祭りを見ていたビジネスマン風の人が、法被姿で御輿を担いでいる中に入り込んで、一緒に御輿を担ぎ出した光景。御輿を見る人と担ぐ人が一体となった。

18:30の二回目の巡行時は、雨も止み、わずかに降った雨が打ち水効果を発揮して、祭りは盛り上がった。父兄も屋台の周辺を囲んで、大ウチワで景気を付け、屋台にぶら下がり、跳んだり跳ねたりと盛り上がった。演奏は見事で、行き交う観客も足を止めて見入った。屋台の歴史の中では、大雨で泣く泣く引き返したという話が出た。昨日の雨は、行事の運行にほとんど支障もなく、事故もなく、記憶に残る恵みの雨となったと思われる。

2012年8月11日 (土)

愛しき古里:屋台の太鼓に関する愚問

2012年8月11日土曜日
昨日は晴れ。最高気温(℃) 33.6 13:47 の真夏日。ざっそう句:子供屋台 練習仕上げ 虫の声。朝飯前に、灌水、トロ箱苗の移植。移植適期ではないが、弱りかけているので決行。地面は砂埃が立つほど乾燥。植え溝に水を流してから移植。更に数回灌水後カンレイシャを二重にかける。一服してから墓の掃除。二人だったので早めに終わった。子供屋台は練習の総仕上げ。気合いが入り本番さながらだった。

2012年8月10日の天気

TAVE= 27.3
TMAX= 33.2 最高気温(℃) 33.6 13:47
TMIN= 21.9 最低気温(℃) 21.6 05:11
DIFF= 11.3
WMAX= 3.8 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 8.2(東) 13:30
SUNS= 9.6
RAIN= 0

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愛しき古里:屋台の太鼓に関する愚問

屋台のベテランに聞くと、昔の本屋台では、屋台を引きながら演奏する。その時の演奏パターンは、相手の屋台の状況に合わせて変わったそうだ。お祭りだが、一種の競演、喧嘩のムードも漂い、それによって祭りが盛り上がる。その状況をリードするのが笛吹役。次に鉦たたき役だそうだ。笛の演奏をマスターするには長い期間がかかり、自然と屋台全体が見渡せるようになるのだろうと勝手に想像した。ところで、太鼓の向きは、毎年変えるのかと愚問を発してしまった。こちらは、太鼓をいかに長持ちさせるかと考えていた。力一杯バチで太鼓をたたけばやがて摩耗してしまうだろうから。喧嘩だから、勝つのが第一。太鼓の皮を張ると時は、ピンピンに張るよう注文するとの事。叩いて良い音が出る面を使うのだ。それでダメになれば張り替えれば良い。躍動する太鼓叩きの動きを見ていると我が愚問も吹き飛んでしまった。
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2006年いせさき祭りの屋台

2012年7月10日 (火)

愛しき古里:いせさき明治館100年物語

2012年7月10日火曜日
昨日は晴れたり曇ったり。雨後なのでパソコン環境の手入れをする事にした。たまたま、安価になってきたので買った8GのUSBメモリーがWIN MEで使える仕様と表記されていた。WIN MEで安心して使えるのは2Gまでと思っていた。一応8Gを認識したのでデジカメデータをそちらに移すようにした。余ったHDDを転用した自作のUSB HDDにパソコン本体から追い出されたデジカメデータが入っているので、そのデータを8GのUSBメモリーにコピーして活用したいと、コピーを開始した。数Gbのデータ量なので、残り時間数十分と出た。ちょっと一服。なかなかコピーが終わらない。そのうちに、カウントダウンタイマーの桁数が8桁、1000万分台を表示して表示が不安定になったが、コピーは続行している模様。暴走してデータが壊れたら悲惨だ。何とかコピーは終わったが、パソコンに釘付けされてしまった。調べてみるとコピー残りが1フォールダー分あったので追加でコピー。しばし懐かしい画像を眺めた。

2012年7月9日の天気

TAVE= 24.6
TMAX= 29.5 最高気温(℃) 30.1 17:04 
TMIN= 19.9 最低気温(℃) 19.9 05:05 
DIFF= 9.6
WMAX= 2.9 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 6.7(東北東) 16:49 
SUNS= 4.9
RAIN= 0

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愛しき古里:いせさき明治館100年物語

「いせさき明治館」が今年で建築後100年を迎えるので、それを記念してイベントが計画されている。元々は、明治45年に、伊勢崎藩医であった今村家が建てた、和洋折衷の二階屋である。左右対称で均整がとれて、当時としては近代化の象徴であったと思う。振り返ると、明治100年を迎えたのが丁度45年前の事になる。

「明治百年記念式典
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%99%BE%E5%B9%B4%E8%A8%98%E5%BF%B5%E5%BC%8F%E5%85%B8。(最終更新 2012年5月26日 (土) 12:12 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「明治百年記念式典(めいじひゃくねんきねんしきてん)は、日本の元号が明治へ改められた1868年10月23日(慶応4年9月8日、明治元年9月8日)から満100年を記念して、1968年(昭和43年)10月23日に挙行された日本政府主催の式典。概要 [編集]
明治改元100年を記念して、1968年(昭和43年)10月23日午前10時半から日本武道館で、政府主催の「明治百年記念式典」が開かれた。昭和天皇・香淳皇后をはじめ常陸宮正仁親王・正仁親王妃華子、閣僚、国会議員、在日外交団、各界代表、青少年代表ら約1万人が出席した[1]。 式典は、田中総理府総務長官の開会のことばで始まり、全員が国歌を合唱したあと、佐藤栄作内閣総理大臣が式辞を述べた。天皇のことばに続いて、小平久雄衆議院副議長、重宗雄三参議院議長、横田正俊最高裁判所長官、フレーチャ・トーレス在日外交団長の順序で祝辞があり、このあと近衛秀麿指揮のNHK交響楽団がワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲を演奏、続いて青少年代表が「若人の誓い」を述べた[1]。 次いで、明治100年頌歌「のぞみあらたに」の合唱が行なわれる中、日本体育大学の男女学生約130人による体育演技「若人の躍動」がくり広げられ、再びNHK交響楽団がヘンデルの「王宮の花火の音楽」を演奏。佐藤総理大臣の音頭により万歳を三唱。午前11時20分に終了した[1]。」

我々、戦後世代は、この明治時代と同じ長さを生き、明治百年と明治が終わって百年という時の流れを体験・評価できる世代だろう。振り返ってみると、この明治時代の45年間と明治100年後からの45年間は、文明の進歩という点で極めて類似しているように感じる。物質文明と言う点での進歩はその両期間で著しかった。しかし、精神文明という点ではどうだろうと考えると、明治時代は和魂洋才という自負心があった。物質のため精神は売らないというやせ我慢をした。そういう、先人のやせ我慢のおかげで、日本は精神的には、西洋の属国にならずに済んだ。一方、そのやせ我慢が高じて暴走してしまった苦い経験もしてきた。西洋の物質文明の下層には底知れない精神文明が潜んでいるのではないか。その部分を自家薬籠中にしなければ、文化の両輪は揃わないのではないか。

いつか、「いせさき明治館」を見学して、そこに展示されていた棟札に感動を覚えた。家を建てる仕事の全責任を持つのが棟梁。施主はその棟梁にすべてを任せる。棟梁と施主の位相がぴったり合った時に理想的な建築ができる。それは、現代でも変わらないと信じたいが、現実はそれほど、理想的な状態でもないようだ。今村医院邸は後に黒羽根内科医院邸となり、現役だったが、医院新築に伴い、旧邸は伊勢崎市に寄贈され、現在位置に曳き家移転された。この曳き家移転や文化財としての保存には多くの市民や団体が関わったと聞いている。この曳き家移転の時に、棟札が発見され、この建物の由来が判明したとの事だ。そう言えば、我が家にもどこかに棟札があるかもしれない。棟札ではなくとも、技術者、芸術家は会心の作品ができた時は、自分の名前をどこかに残そうとするだろう。

「マイクロコンピュータの誕生 わが青春の4004」 嶋正利著 (1987年 株式会社岩波書店)に、著者が8080のチップに家紋を入れた記事を読んで感銘を受けた事を思い出す。こういう心意気を、今村医院邸の棟札にも感じる。自分が小学校4年の時、ブラジルへ移住した同級生がいる。彼が、息子を連れて、日本に仕事に来ていた時、ひょっこり我が家を訪問した。当時は、もう二度と会えないだろうと悲しんだ。その息子に、どんな仕事をしたいか聞いた。彼は、それをブラジル語で通訳して息子に聞いた。技術の仕事をしたいと答えが返ってきた。それを聞いて、前記の嶋氏の本を記念に渡して、自分はもう一冊買い求めた。

「いせさき明治館」を見学して、確かに、洋間だけでなく、和室もあり和洋折衷という表現もあながち、外れてはいないだろう。しかし、もう一度、デジカメ画像を眺めると、和魂洋才という精神面もこの建物に込められているのではないかと思った。

 ☆☆⇒いせさき明治館の画像はここをクリック(撮影2009年夏頃)

meijikan_munafuda_v.jpgをダウンロード (明治館の棟札)

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  • 日経サイエンスのウェブページ
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    University of Wisconsin-Madison Chemistry Professor Bassam Z. Shakhashiri のサイト

みかん栽培関係情報

ISESAKI  有情2

ISESAKI  有情1

嗚呼 伊勢崎 非情

BOOKS

  • 橋本 英文: 刃物雑学事典 図解・刃物のすべて(1986年 株式会社 講談社 ブルーバックス B-659)
    刃物という視点で多くの事例が取り上げられている。刃のある道具の理解にも役立つ。類書が少なく貴重な一冊。「すべり変形が切断の原理」という考え方で説明している。
  • 沼田 真   : 植物たちの生( 1972年 岩波新書(青版 833))
    「ご要望にお応えしてアンコール復刊(1988年岩波新書50年記念復刊) 地球生態系の中で自然を見直す」(腰巻きのフレーズ)。植物の知恵と戦略に人類は勝てるのか。
  • 出町 誠: 14_NHK趣味の園芸:よく分かる栽培12ヶ月  カキ(NHK出版2007年)
    初心者向け柿栽培参考書(新版)。旧版と比較すると楽しい。
  • 中村三夫: 13_NHK趣味の園芸:作業12ヶ月  カキ(NHK出版1996年)
    初心者向け柿栽培参考書(旧版)。新版と比較すると楽しい。
  • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
    細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
  • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
    著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
  • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
    ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
  • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
    やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
  • ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫訳): 08_サイバネティックスはいかにして生まれたか(みすず書房1956)
    情報と通信という現代社会に不可欠の基礎的な学問を作った著者の自伝とそれを通した科学史
  • 沼田 真(編): 07_雑草の科学(研成社1979)
    雑草を多面的に解説し防除の基礎も述べる

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MEMO 海外の博物館・美術館

  • https://www.artic.edu/collection?place_ids=Japan&page=6
  • 項目のタイトル2
    POST IT :ブログ画面への張り紙に使える。
  • TYPE LIST事始め
    2010/8/4:MEMO等の表示に使える。 農作業で気になる自戒の言葉 ■畑の石ころはいつまで経ってもても石ころ(早く拾って片づけよという意味か)。 ■同じ石を二度拾うな(やってみると難しい)。 ■手ぶらで歩くな。 ■三つ先のことを読め。 ■適当な観察。 ■空を見よ(気分転換、休憩、天気を読む、腰曲がり防止)