2012年10月5日金曜日
昨日は曇りのち晴れ。最高気温(℃) 29.3 12:48 。夏日。ざっそう句:早熟の 柿は虫食い 食える味。汗ばむ程度の暑さが復活。利根川の貯水量が回復して取水制限は解除されたようだ。二年子大根とキャベツの播種。前者は直播き、後者はセルトレーに蒔いた。時期が遅いと思うが、試しに蒔いた。モロヘイアの株は種子採取用を残して堀上げ。ジニアの花殻を採取。乾燥させて種子をとる予定。マリーゴールドは特有のニオイがある。これが防虫効果を発揮するのか。
WIKIPEDIA:マリーゴールド(最終更新 2012年8月7日 (火) 19:42 )(。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89。)によると、「性状 [編集]:~観賞目的の栽培が普通であるが、根に線虫の防除効果があるので作物の間などに植えられることもある。線虫の防除効果は、植物自身の合成するα-terthienylをはじめとした化合物によるものとの説が有力だが、共生する線虫捕食菌の働きのためだという説も浮上している。異臭が激しく、有毒植物と誤解されていた時期もある。」とある。
更に驚いたのは、上記記事に「成分 [編集]:この花の花びらから抽出されたキサントフィル脂肪酸エステル混合物に含まれるヘレニエンという色素は暗順応改善薬の原料として用いられている。第二次世界大戦中にイギリス軍が「ブルーベリーのおかげで目が良くなった」という嘘の宣伝を流し、これを信じたドイツのバイエル社がブルーベリーを上回る効果を持つものを探したところ、マリーゴールドの花びらから抽出した脂肪酸エステル混合物に高い効果があることを発見し、ヘレニエンを有効成分とする暗順応改善薬「アダプチノール」が作られた。この薬は現在でも目の薬として使用されている。」とある事。「ブルーベリーは目に良い」というのはウソ?暗順応とは、明る状況から暗い状況になった時に目が慣れる事。この反応が遅いと時には軍事行動の障害になるのだろう。この宣伝が、イギリス軍に有利に働くためには、ブルーベリーはイギリスにあり、ドイツにはない事だろうが、本当か?
2012年10月4日の天気(AMEDAS)
TAVE= |
22.9 |
|
TMAX= |
28.8 |
最高気温(℃) 29.3 12:48 |
TMIN= |
18.2 |
最低気温(℃) 18.0 01:22 |
DIFF= |
10.6 |
|
WMAX= |
6.4 |
最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 11.7(北北西) 13:07 |
SUNS= |
5.9 |
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RAIN= |
3.5 |
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ツルよ 飛んでおくれ(愛しき古里):田島弥平旧宅近くに立つ田島弥平顕彰碑
たまたま縁あって、富岡製糸場と絹産業遺産群の一つに指定された田島弥平旧宅を二度見学させていただいた。見学も時間が限られると、つい駆け足にならざるをえない。じっくり予習をしてから見学するのがベストかもしれないが、見学を学習の契機とするのも良いと思う。
初回の見学では、田島弥平旧宅へ向かう途中にある、田島弥平顕彰碑と「養蚕新論版木」とある標識をデジカメに収めた。何となく、連想では結びつくが、この二つから何が学べるか、空想してみた。明治初期の出版は、活字ではなく版木で行った。相当しっかりした目的と覚悟がなければ、出版事業は出来なかっただろう。「養蚕新論」はまさに、「最新養蚕技術論」という意味と思われる。幼少の頃、養蚕の手伝いをしたが、相手が蚕という昆虫の幼虫なのだから、それを品質の高い繭を作るまで育てる技術に尽きるだろう。途中で蚕が死んだり弱まってしまえば、大きな損害を生じることになる。「清涼育」とは、養蚕の品質と生産高を高める技術・ノウハウだったろう。出版により、技術の内容や思想が間違いなく正確に広範に行き渡るのだ。WIKIPEDIA(特許法。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E8%A8%B1%E6%B3%95。)によれば、「現在まで続く、日本の特許制度の基となったのは、1885年(明治18年)4月18日公布の「専売特許条例」である。」との事だ。苦労して開発した養蚕技術を独占せずに公開したという事も産業の近代化の促進と言う点で見逃せないと思われる。
二回目の見学では、顕彰碑の篆額部分(碑名)もデジカメに収めた。顕彰碑を理解するとき、誰が立てたか、誰が書と文を受け持ったか等の碑の関係者も関心の対象になるからだ。なんと、そこには島村の文化人・書家として著名な金井之恭の名が刻まれていた。群馬県庁近くの長浜公園にある「前群馬県令楫取君功徳之碑」の書を担当していたのも金井之恭であった。金井之恭は群馬県令楫取素彦と同様に田島弥平の業績に深甚なる敬意をいだいて書を成したと想像されるのだ。楫取素彦と田島弥平の両顕彰碑は生前中に建立されている。
〔群馬のシルクロード ~人物編~。http://www.manabi.pref.gunma.jp/kinu/jinbutu/gunma/sansyu-yosan/sansyu-yosan.htm。〕の記事によると、「明治27年、田島弥平の娘たみが父の功績をたたえ、養蚕興業碑を田島家の入口に建てました。」とある。尚、この碑が立てられたのは、田島弥平生存中であり、死後に評価が定まってから碑がたてられたものでないと知ると、田島弥平の娘も立派だったと思わざるをえない。まさに娘が父の業績を理解し顕彰するという事は、並の女性には不可能で、田島弥平にとってもそれが最大の精神的な支援になったのではないか。
その碑の篆額部には、「南畬田島翁養蚕興業碑」と記されている。最初は、「南畬」が「難よ!」だった。コトバンク「田島弥平 とは - 」によれば、「田島弥平。http://kotobank.jp/word/%E7%94%B0%E5%B3%B6%E5%BC%A5%E5%B9%B3/%E7%94%B0%E5%B3%B6%E5%BC%A5%E5%B9%B3。」の記事に、「1822-1898 江戸後期-明治時代の養蚕家。 文政5年生まれ。上野(こうずけ)(群馬県)佐波郡島村の人。家業をついで養蚕と蚕種を研究,清涼育とよばれる新技術を開発しその普及につとめた。明治5年島村勧業会社を設立し,渋沢栄一らの協力で蚕種の輸出を成功させた。明治31年2月死去。77歳。名は邦寧。字(あざな)は子寧。号は南畬(なんよ)。著作に「養蚕新論」」とある。
南畬(なんよ)とは田島弥平の号との事だ。「養蚕新論版木」という標識だけでは、なかなか碑が発信しようとしているメッセージが読みとれない。それでは、「南畬田島翁養蚕興業碑」を読み解くとどうだろうか。この碑が建てられてからもうじき120年になる。建碑後120年になっても色あせず、むしろ輝きを増す碑名ではないか。今日の、「富岡製糸場と絹産業遺産群」を予想したかのような碑名ではないか。
「南畬」を直訳すると南の畑。漢字の「畬」が難解でかつ扱いにくい。「南?」では先に進まない。漢字源によれば「畬」は新たに開拓した畑の意味がある。「畑」には更に焼き畑の意味があるそうだ。当世でも、自分が打ち込んだ専門の仕事の対象を畑とも言う。「南畬」にも、気合いを入れ苦心の末開拓した事業分野という深い意味がありそうだ。自分の号なので謙遜の意味も込めているかもしれない。俺の事は「南畬(なんよ)」と呼んでくれれば良いのだというのが号の意味だろう。「翁」は親称・尊称。現代風に超訳すれば、総合養蚕事業のパイオニア田島弥平じいさんの意味にとれる。最大のキーワードが「養蚕興業」だ。
尚、コトバンクによれば田島弥平は「明治5年島村勧業会社を設立」とある。この設立時期は、以下のWIKIPEDIAの記事と比較しても、日本の経営史上からもかなり早い時期ではないかと思う。
「丸善。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%96%84。(最終更新 2012年8月8日 (水) 04:49 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「社史概要創業創業は、明治2年1月1日(1869年2月11日)。創業時の社名は「丸屋商社」その登記簿に、代表者として「丸屋善八」という架空の人物を記載したことから丸善の名が生まれることになった。創業者は福澤諭吉の門人・早矢仕有的(はやしゆうてき)である。設立当初から、世襲が基本だった当時の商習慣を廃し、所有と経営を分離するなど、事実上日本初の近代的会社として知られる。」とある。
新しい事業を開拓するための近代的会社組織の設立も「養蚕興業」の要であったと思われる。若い頃は、田舎住まいで余り東京に出なかったが、東京に出たときは、丸善書店に寄り、洋書を見るのが楽しみだった。もっとも、買えるのは、安いペーパーバック程度だったが。そんなわけで、丸善が日本の最初の近代的会社だったというのをどこかで知ったようだ。田島弥平が明治5年に島村勧業会社を設立したのも、東京の丸善の創業時期にさほど遅れていなかったのだから、群馬が会社組織という点でも先進地だったと自信が持てるのではないか。
まさに、この碑のタイトルには、「富岡製糸場と絹産業遺産群」に連なる産業を興したという気概が溢れているのではないか。結局、この碑のタイトルから「近代養蚕のパイオニア田島弥平じいさんの養蚕(絹)産業興業を顕彰する碑」という意味にとれそうだ。でも、娘が父の存命中に建てた碑なので、碑名には色々気を使ったと思われる。碑は後生に残る。威厳と共に親しみも込めたい。「父ちゃん、碑の名前はこれでいいかい(娘)。」「はは、おまえに任せるよ(父)。」こんな、会話が聞こえてきそうだ。是非、この「南畬田島翁養蚕興業碑」という碑名が普及するように願いたいものだ。
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追記(2014/6/2):
「ツルよ 飛んでおくれ(愛しき古里):田島弥平旧宅近くに立つ田島弥平顕彰碑(2012年10月 5日 (金))」の記事がいきなりランキング8位に入った。富岡製糸場と絹産業遺産群のユネスコ世界遺産登録の期待が実現しようとしている時で率直にうれしい出来事だ。昨日の暑さで、室内で気ままに手に取った冊子がある。「温故知新 伊勢崎市郷土文化研究会連絡協議会 20周年記念誌(平成18(2006)年3月15日発行)」である。この協議会は伊勢崎市市内の歴史研究会の横の連携をする為に発足したようだ。本誌のなかで、境史談会会長の田島健一氏が境史談会発足の経緯と事業を紹介している。郷土史家の篠木弘明氏が中心になって境町地方研究会が発足し、郷土史の調査研究を行い、篠木氏が亡くなられてから、境史談会がその事業を受け継いでいるとの事である。本誌の中で境史談会の事務局長斎藤進一氏が「境の漢文碑を訪ねて」の②で、「田島南畬碑」を紹介している。是非、本文を直接参照して頂きたい。
以下、便宜のためその項を引用させて頂く。
「② 田島南畬碑 境島村の県道中瀬・牧西線沿いに所在。題額、大日本農会頭陸軍大将彰仁親王。撰文、勅撰議員川田剛。書、勅撰議員金井之恭。川田は号甕江(おうこう)、国学・文章に通じ明治漢文学会泰斗。建立は明治二十七年(1894)。碑の最後に、「夫れ生我より先んずる之を長者と謂ひ、徳厚く行修まる之を長者と謂ひ、而して多財多福を俚俗之を長者と謂ふ。今翁は此の三者を兼ぬれば、是も亦(ま)た云ふ可(べ)きなり」と刻む。翁とは郷人に養蚕長者と称せられた島村新地の田島弥平(1822~98)である。養蚕の清涼法、『養蚕新論』の著作、吹上御所に招かれて蚕婦を率いて皇后の養蚕に従事、島村勧業会社を設立し社長になる。渡海して蚕種の海外販売等を行う。南畬号で、利根川の南の新しく開墾した土地という意味である。」
尚、上毛新聞は、「世界遺産候補 弥平旧宅所有 田島健一さん死去。;http://www.jomo-news.co.jp/ns/7213914754599085/news.html。(更新日時:2014年2月4日(火) AM 09:00)」」というタイトルで、「江戸末期から明治にかけ日本の蚕種業の発展に貢献した田島弥平(1822~98年)の子孫で、島村蚕種株式会社専務を務めた田島健一(たじま・けんいち)氏=写真=が3日午前11時52分、大腸がんのため群馬県太田市内の病院で死去した。84歳。伊勢崎市境島村の自宅は、世界文化遺産候補「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産で、国史跡の「田島弥平旧宅」。世界遺産登録を前にしての訃報に悲しみの声が上がった。」と報じた。
改めて、田島健一氏が、境史談会会長として、郷土の歴史理解と継承に尽力されていた事を知った次第である。同氏のご冥福をお祈りすると共に「富岡製糸場と絹産業遺産群」の末永い保存活用を期待したい。
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追記(2014/6/4): 本記事のランキングが5位に上昇した。多分、「富岡製糸場と絹産業遺産群」のユネスコ遺産登録確定が間近に迫って、関心を持っている人々が検索をかけているのではないかと思う。アクセス数の絶対値は不明だが、ともかくランキングの行方に、間接的に世の中の動向が反映されているのかもしれない。最近、「富岡製糸場と絹産業遺産群」と関連して、以下の論文に遭遇して読ませて頂いた。改めて、事業は人なりという感慨を覚えた。
「明治期の群馬県藤岡地区におけるキリストと養蚕業の関係-緑野教会と高山社蚕業学校を中心に-(https://gair.media.gunma-u.ac.jp/dspace/bitstream/10087/7000/1/%e7%b4%80%e8%a6%81Vol1No1_%e8%aa%bf%e6%9f%bb%e5%a0%b1%e5%91%8a%ef%bc%88%e8%8d%bb%e9%87%8e%ef%bc%89.pdf)」(著者:荻野基行;東京福祉大学 社会福祉学部(伊勢崎キャンパス)。
この論文は、「富岡製糸場と絹産業遺産群」をより深く理解するために大変参考になると感じた。是非本文にあたって頂きたい。以下にその抄録部分を引用させて頂く。
「抄録:明治期、群馬県にキリスト教が拡大した背景には欧米諸国との蚕糸を中心とする取引による影響が大きい。また新島襄の影響により県西部を中心に組合教会が多く設立されたが、この地域は組合製糸が盛んな土地でもあった。その中で藤岡地区には組合教会に属した緑野教会があり、養蚕関係では組合方式による高山社蚕業学校が存在した。両者は少なからぬ人的交流があり、高山社分教場当主の中には有力蚕種家や地域の政治家とともに信徒もいた。緑野教会創設期はこのような上昇的生産者によって支えられた。しかし多数の信徒が小生産者層であった農村教会にとって農繁期におけるキリスト教活動の減退や社会的にもキリスト教への理解が浅い時代であり、創設期は苦難の時期であった。研究対象は緑野教会の創設期を中心にそれを支えた人々と、高山社蚕業学校、特に分教場を対象に、文献をもとに研究した。」
自分なりに、明治初期の社会組織として、組合方式が盛んになったものと理解した。教会も蚕種・蚕糸の生産も組合方式。このような新しい方式を受け入れるのも社会や人心の変化がなければ実現しない。田島弥平の活躍した島村にも島村教会があり、本論文にも田島弥平はキリスト教徒であったと述べている。信仰と事業が個人の頭脳の中では融合しており、同志が同じ精神をもって、共同してお互いのための事業を行うという姿が見えてきた。
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