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2012年2月27日 (月)

愛しき古里:地域の小字名「火生石」の意味と由来は?20120227。

2012/2/27(月)
昨日は曇り。日ざしが無く寒い日だった。やはり寒暖の変化が身体にこたえる。昨日の農事会合は無事終了したようだ。そろそろ、スギ花粉が飛ぶ季節だ。「環境省花粉観測システム(愛称:はなこさん):url=http://kafun.taiki.go.jp/GraphWeek.aspx?MstCode=51010100&AreaCode=03」によると群馬県の飛散は未だ少ない。今年は飛散量が少な目ということなので何も対策していない。アレルギー体質も加齢で変わる事があるのか。WEBで「火生石」について調べた。夜、知人が来宅雑談。

2012/2/26(日)の天気

TAVE= 4.1  
TMAX= 8.5 最高気温(℃)  8.9  12:19
TMIN= 1.9 最低気温(℃)  1.7  03:41
DIFF= 6.6  
WMAX= 8.4 最大瞬間風速(m/s)  15.5(西北西)  20:19
SUNS= 0.8  
RAIN= 0  


愛しき古里:地域の小字名「火生石」の意味と由来は?

ある時、郷土史家の星野正明氏から、地域の小字名「火生石」を調査しているという話を聞いた。地名の中に、地域の歴史が刻まれている。そういう歴史家の関心から、地域の小字名「火生石」の調査を続けているが、まだ決定的な結論に到っていないようだ。自分も、その話が頭の隅に残っていた。たまたま、ある地域の歴史の本のコピーを拾い読みしていたら、「火生石」という漢字に「へっけし」とふりがながついているのに遭遇した。先日、その話を同氏に話したら、それは新発見だが、その書名は分かるかと聞かれた。記事のみ分かれば良いと書誌関係の記事はコピーしていなかった。

昨日は、寒さがぶり返し寒かったので、宅内で「火生石」のWEB情報を調べた。そうすると同氏が書いている殖蓮歴史散歩(殖蓮公民館だより)に出合った。「殖蓮公民館だより」には、「殖蓮歴史散歩;http://www.city.isesaki.lg.jp/data/kouminkan/uehasu-k/h23/0801.pdf(発 行 日 平成23年8月1日)」というタイトルで、「東側の土地を舞台、西の土地を光仙坊と呼び、両側が台地でその間の少し低くなっている傾斜地形を利用した七基の須恵器を焼く登り窯跡が発掘されました。平坦地にこの種の遺跡は珍しく、貴重な発見でした。また、この清水の湧く低地域は小字名を火生石(ひいきいし)と呼んでいるのですが意味は不明です。同じ字を用いて同じように呼ばれている場所が新潟県柏崎市と渋川市の樽地区にあることが分かりました。実際に現地を訪ねてみたところ、そちらでもわからないという状況です。さて、どんな結論に達するのでしょうか。とても興味深い話題です。さて、火生石ですが、ひいけいし(火埋石)、ひっけいし(引返し)、ひけしいし(火消石)など似ている言葉を探してみては、その名の由来を考えています。何か意見がある方は教えてください。」と報じた。

「火生石(へっけし)」が書かれていた本の見出しは「大正13年旱害のこと」とあり、その記事の中に「植付不能の土地は『「火生石(へっけし)」』の5反6畝19歩。」とある。
「NOSAIデータバンク(大正2年~15年(1913-1926)) - NOSAIぐんま ....。http://www.nosai-gunma.or.jp/databank/sai-2.htm。」によれば、「大正13年:6~8月 ;干害;利根郡および平坦部において、植付不能田1,000町、用水不足田2,000町、34万石の減収(上毛新聞)」とあり、旱害の事実は本の記事と一致する。従って、「火生石(へっけし)」という田圃の名前が大正13年までは確定していたと考えられる。

ところが、「火生石」が何を意味しているかも難解である。WEB上に、「火生石集落地名;url=http://blog.goo.ne.jp/isao-takabatake/e/21cb2306c9bb279b0ceb3129d19966e6(2007-05-21 22:32:52 |)」というタイトルで、「寺泊郷本~島崎方面に向かう途中、火生石の集落の標識。そのまま読むと、火が生れる石もしかすると火打ち石でも出るのか。図書館の資料で調べてみよう。もし名前の由来等お分かりの方是非教えてください」という記事があった。やはり珍しい地名は関心がある人の目を引くようだ。更に調査を進めると「新潟県三島郡寺泊町大字田頭字火生石という地名も見つけた。古い地名は合併等で消えているのだろう。

「火生石」について、「富奥郷土史http://tiikijiten.jp/~digibook/tomioku_kyoudo/」の「第十七章 村人の生活」の中に、「火熱、電熱 食生活上不可欠の火は、その発火用具が昔は火打ち石と火打ち金だったので容易でなかった。だから火種は毎日絶やすことが出来ず、夜寝る時、いろりの真ん中にもみ殻と堅木の木片を埋め、その上に火生石(ひけしな)という平らな石をのせ、その上に火ばしを交差して置いた。また、たくまいのたくもんば(薪置場)に引火するのを防ぐために、たくまいむしろをかけて置いた。翌朝一番先に起きた嫁は、この埋ずみ火の火種で火をおこし、ご飯やおかずを炊いた。ぼんやりしていて火種を切らすと大変、箱(マスを用いた)に灰を入れて隣へ火種をもらいに行かなければならない。たびたび続くと「間ぬけな嫁」として姑の茶話の好材料になった。
 明治中頃、つけ木と称する長さ十㌢に幅五㌢ほどの薄い板の先に、硫黄を塗ったものが使われた。これは縦に細く割って火種につけると、燃えた硫黄から板に移り、たき木に火がつけられた。マッチが出来たのはそのあとで、はやつけんと呼ばれたのは早いつけ木の意である。これで種火の用はなくなり大助かりだった。当村は平地で山林はなくたき木はほとんど使われず、燃料はわらが主であった。」と記されている。明治の頃の火の大切さを良く伝えている記録だと思う。

「だから火種は毎日絶やすことが出来ず、夜寝る時、いろりの真ん中にもみ殻と堅木の木片を埋め、その上に火生石(ひけしな)という平らな石をのせ、その上に火ばしを交差して置いた。」という部分は「火生石」を解明する手がかりになる。

因みに、富奥郷土史でその地域を、「わが村「とみおく」は、加賀百万石の城下町金沢市の南西約三・五㌔、松任市より東南約一㌔鶴来町より北に約二・五㌔の地点に位置し、現在の石川郡平担地
の中で最も東よりにある。南東の空に霊峰白山の雄姿、その東方に舟岡山から獅子吼高原のなだらかな山なみ、丸い盆を伏せたような倉ヶ嶽、高尾山、大乗寺の小高い山を望み、その真ん中にひときわ高い医王山の麗姿を見る静かなたたずまいの純農村地帯である。」と記述している。

また、「ふらり道草―南丹今昔―(ブログ)」は、「「12月の寛ぎ」 〈3〉;url=http://blog.livedoor.jp/michikusa2007/archives/2011-12.html#20111219(2011年12月19日)」というタイトルで、「来し方を思ひて独り故郷の人住まぬ家(や)に囲炉裏火を焚く    北原由夫
 それでも、囲炉裏の火を囲み、四方山話に興じて暖を取る家族の輪がありました。それぞれの顔を白い火影がゆらゆらと照らします。 面が白くなる愉しさ。それが互いの存在を喜び合う顔であることから、「面白い」と言う言葉が生まれたそうです。 かつての日本中の団欒の火であった囲炉裏。炊事・暖房・照明など火の持つ機能を全て備えた家族の中心であり、「炉を囲む所」と言う意味があります。 火床(ひどこ・ほど)・火城(ひじろ・)・地炉(じろ・ゆるり)などとも呼びます。北陸では居中(いんなか)・家中(えんなか)、九州では居城・火所の他に居端(いばた)とも呼ぶとか。
 厳密に言えば、囲炉裏には土間囲炉裏と座敷囲炉裏がありますが、どちらにも火口箱(ほくちばこ)・付木(つけぎ)・火箸・火吹竹などが置いてありました。 五徳(もしくは三徳)も置いてありました。横座(主人の場所)・嬶座(かかざ・主婦の場所)・客座などがあって、子供は空いている場所に座ったものです。 自在鉤に吊るされた鉄鍋(または鉄瓶)が一日中ことこと音を立て、粗朶(そだ)の燃える煙がゆるやかに梁(はり)を伝わって屋根裏の煙出(けむだ)しへ、と昇って行きました。
  寝る前には、翌朝の火種にする火生木(ひいけぎ)を灰に埋めるのは主婦の役目でした。囲炉裏は、まさに火床だったのです。 今では廃れてしまった囲炉裏。都会住まいや若い方など、囲炉裏を知らない方も居られるでしょう。 口丹波の京北町では、1軒だけ保存している旧家があるとか。その内に訪れたい、と思っているのですが・・・。」と報じた。

上記ブログ記事は、「囲炉裏火」を入口に、火の大切なことを書いている。この記事で「翌朝の火種にする火生木(ひいけぎ)」が「火生」を理解する参考になると思った。

火生石(ひけしな)は、火を消すなという意味もありそうだ。それを逆の方角から見れば、火を生かす、火種を保存する事と同義になるだろう。「火生石」も「火生木」も火種を保存する手段となる資材・原料だろう。

以上をまとめると、火種を保存するには材料に「もみ殻と堅木の木片」を使い、その上に平たい石を乗せたという方法が浮かんでくる。「もみ殻と堅木の木片」はやや燃えにくい燃料だ。やはり、燃料の燃焼が早いと前日の火は翌日までもたないで消えてしまう。その燃料の上に平たい石を乗せるのは、燃料に空気が入りすぎるのを制限する・即ち燃焼のスピードを遅くするための方法だろう。燃料を燃え尽きさせて火を消しても、石を強く押しつけて火を消しても火種は保存できない。火種を保存する方法にもコツがあったというのが、引用した記事から結論できるだろう。

それでは、「火生石」という名前の田圃と小字名の結びつきはあるのか。「火生石」という名前の田圃の場所は特定できていないが、粕川流域に近いと推定している。河床を探せば「火生石」に使えそうな石が採取できた場所かも知れない。ともかく、昔は毎日火を使っているのだから、一家に一個以上の「火生石」は不可欠だったろう。「火生石」という地名も当たり前に現地では通用していたのだろう。「火生石」という地名の呼び方は、「ひいきいし⇒ひいけいし⇒へっけし」となまったものと推定できる。今後、同好の仲間と更に調査検討するのも面白いと思う。

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追記(2015/2/27):「愛しき古里:地域の小字名「火生石」の意味と由来は?」の記事がランキング10位に入った。ランキング入りは初めてだと思う。奇しくもこの記事を書いた日付が2012年2月27日 (月)だった。Googleでキーワード「火生石」を検索すると、約 182,000 件 (0.22 秒) と表示されるが、最後に「288 件」と表示された。"火生石"とフレーズ検索すると、約 1,300 件 (0.14 秒) と出る。WEB上の"火生石"に関する情報もそれほど多くない。三年前は、推論として書いたが、その後の進展はない。昔は、田畑に名前が付いていたようで、地域の人は名前で大体の場所は分かったようだ。農業をしている2~3人の古老に"火生石"という名前の田畑について聞いたが、記憶にないようだ。

WIKIPEDIA「小字。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%AD%97)」

"火生石"という小字の西隣が光仙房、東隣が舞台という小字名である。この周辺は、上武道、北関東自動車道、工業団地等の開発のため発掘が行われている。その結果によると、この周辺は石器時代から今日まで人が住んだ証拠となる遺物や遺跡が発掘されている。自分の記憶では、発掘に興味を持つまで、これらの小字名は知らなかった。多分、その地域の人々の記憶からも小字名は消えていったのではないか。

追記(2019/08/05):タイトルに投稿期日を追加。
ランキング=6位

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2012年2月26日 (日)

愛しき古里:萩原朔太郎が見た故郷の風景は?20120226。

2012/2/26(日)
昨日はAM昼前は雨。その後曇り。農事会合を欠席してかみさんと電車で外出。振り返ると、かみさんと電車に乗った記憶は余り無い。自動車の生活にどっぷりつかってきた。自動車だと、どうしても運転手と同乗者の会話も断片的になり、想像力も働かない。かみさんは車窓から上州の山川を眺めて喜んでいた。

2012/2/25(土)の天気

TAVE= 6.2  
TMAX= 9 最高気温(℃)  9.1  15:10
TMIN= 2.8 最低気温(℃)  2.4  09:20
DIFF= 6.2  
WMAX= 6.9 最大瞬間風速(m/s)  12.9(北西)  22:29
SUNS= 0  
RAIN= 7.5  



愛しき古里:萩原朔太郎が見た故郷の風景は?20120226。

上り列車で、右手に見えていた赤城山は前橋を過ぎるとやがて左手に見えてきた。かみさんが赤城山が見えるというので一瞬方向感覚を疑った。確かに赤城山だ。前橋から高崎までの間で線路が急カーブしているのは地図では理解しているつもりだが電車の車窓からそれを眺めるのも新しい発見だ。そういえば、萩原朔太郎が郷里前橋に帰る時も同じような風景を見たのだろうとかみさんと話した。「わが故郷に歸れる日」という詩の断片は二人とも覚えていた。依然読みかじった印象から、あの詩は故郷に帰りたいという気持と帰りたくない気持の葛藤が、前橋に近づくにつれて高まってようだと言った。もう一度「帰郷」という詩を読み直した。

以下は青空文庫からの引用:
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青空文庫の「氷島 萩原朔太郎」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/4869_14066.htmlにある「帰郷」。

歸郷

昭和四年の冬、妻と離別し二兒を抱へて故郷に歸る

わが故郷に歸れる日
汽車は烈風の中を突き行けり。
ひとり車窓に目醒むれば
汽笛は闇に吠え叫び
火焔(ほのほ)は平野を明るくせり。
まだ上州の山は見えずや。
夜汽車の仄暗き車燈の影に
母なき子供等は眠り泣き
ひそかに皆わが憂愁を探(さぐ)れるなり。
鳴呼また都を逃れ來て
何所(いづこ)の家郷に行かむとするぞ。
過去は寂寥の谷に連なり
未來は絶望の岸に向へり。
砂礫(されき)のごとき人生かな!
われ既に勇氣おとろへ
暗憺として長(とこし)なへに生きるに倦みたり。
いかんぞ故郷に獨り歸り
さびしくまた利根川の岸に立たんや。
汽車は曠野を走り行き
自然の荒寥たる意志の彼岸に
人の憤怒(いきどほり)を烈しくせり。

「詩篇小解」に「歸郷  昭和四年。妻は二兒を殘して家を去り、杳として行方を知らず。我れ獨り後に殘り、蹌踉として父の居る上州の故郷に歸る。上野發七時十分、小山行高崎※(「廴+囘」、第4水準2-12-11≒廻)り。夜汽車の暗爾たる車燈の影に、長女は疲れて眠り、次女は醒めて夢に歔欷す。聲最も悲しく、わが心すべて斷腸せり。既にして家に歸れば、父の病とみに重く、萬景悉く蕭條たり。」とある。

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今回、青空文庫で「詩篇小解」を読んだが、詩と現実の間を理解する参考になると思った。萩原朔太郎が「まだ上州の山は見えずや。」と詠み込んだのは赤城山だろう。上野發七時十分、小山行高崎廻の汽車に乗ったのだから、前橋に近づいた頃は、もう陽は完全に落ちて暗いだろう。また烈風と言えば上州の冬の空っ風を連想する。昭和四年頃は鉄道沿線の人家も少なく、冬枯れの関東平野が広がっていただろう。「まだ上州の山は見えずや。」とは、すでにこころの中には故郷の山川のイメージが浮かび上がっているのだろう。この詩は故郷の山川や夜汽車に詩人の真情を託している。現実は帰らざるを得ない故郷。希望は故郷からの逃避。そこにはエンジンの気化させたガソリンの圧縮・爆発という工程が連想される。その炸裂を受け止めたエンジンのシリンダーーが故郷の風景だろう。萩原朔太郎の心に刻まれた故郷の風景がなければこの詩は生まれなかったに違いない。

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追記(2014/4/18): 「愛しき古里:萩原朔太郎が見た故郷の風景は?(2012/2/26(日))。」がランキング10位に入った。人間、古里に向かいたいという求心力とそこから脱出したいという遠心力の二つが常に働いているのではないか。

サイト内でキーワード「萩原朔太郎 俳句」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=%E8%90%A9%E5%8E%9F%E6%9C%94%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%80%80%E4%BF%B3%E5%8F%A5%E3%80%80site:http:%2F%2Faf06.kazelog.jp%2Fitoshikimono%2F)。

「読みかじりの記(ツルよ 飛んでおくれ):青空文庫で萩原朔太郎「氷島」を読む(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2013/06/post-32cf.html)。(2013年6月25日(火))」

WIKIPEDIA「萩原朔太郎。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E5%8E%9F%E6%9C%94%E5%A4%AA%E9%83%8E)」

「読みかじりの記(老人モード):「老年と人生(萩原朔太郎著)」を青空文庫で読む。(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2013/02/post-fd68.html)。(2013年2月22日 (金))」

今日、青空文庫で萩原朔太郎の作品を自由に読める。余り有名で無い作品の中にも面白い作品がある。

サイト内でキーワード「富田倫生」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=%E5%AF%8C%E7%94%B0%E5%80%AB%E7%94%9F%E3%80%80site:http:%2F%2Faf06.kazelog.jp%2Fitoshikimono%2F)。

青空文庫で著作権が切れた作品や著作権を主張しない作品が読めるようになったのは、その推進者富田倫生氏(昨年死去)の貢献も大きいと思う。

WIKIPEDIA「富田倫生。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E5%80%AB%E7%94%9F)」

TPP交渉でアメリカは著作権の有効期間延長を主張しているとの事だ。余りにも著作権が長い場合、後続の著作物が生まれる可能性がどんどん少なくなるのではないか。ともかく青空文庫で萩原朔太郎を読めるのはありがたい事だ。

追記(2014/4/29):
現在この記事がランキング6位に入った。本日の記事「半端道楽:写真で俳句る:華蔵寺公園遊園地のメリーゴーラウンド(この遊具 長寿の訳は どこにある。)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2014/04/post-69c6.html)。(2014年4月29日(火) )」が、萩原朔太郎の詩に飛ぶ。「大東京の雜鬧」の「雜鬧」は何と読む?音読みでは「鬧(どう)」。Googleでキーワード「雜鬧 意味」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=%E9%9B%9C%E9%AC%A7+%E6%84%8F%E5%91%B3)。。どうやら、「ざっ‐とう〔‐タフ|‐タウ〕【雑踏/雑×沓/雑×鬧】」らしい。


追記(2014/6/16):
本記事は依然ランキング5位に入っている。最近、読んだ地域誌によると、かつてJR国定駅前に、国定忠治の碑を作る動きがあり、萩原朔太郎の詩の引用を検討したが、同意がえられず、小野忠孝(詩人。児童文学者)の詩が採用されたと知った。

WIKIPEDIA「おのちゅうこう(小野忠孝)。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%AE%E3%81%A1%E3%82%85%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%86)」

以下にその画像を示す。

Iob_kunisadacyuujinohionocyuukou_20
青空文庫の萩原朔太郎作品収録サイト内のキーワード検索をするには、<>の中にキーワードを入れてクリック。

Googleによる「青空文庫内にある萩原朔太郎作品のキーワード(一例:<俳句 蕪村>)」検索。

Google検索は、全文検索で、複数のキーワードで検索できるメリットがある。萩原朔太郎が見た情景を知る手がかりになると思う。<国定忠治>ではヒットしない。旧字の<國定忠治>ならヒットする。<國定>でもヒットする。

YOUTUBEでキーワード「富田倫生」を検索(https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%AF%8C%E7%94%B0%E5%80%AB%E7%94%9F)。

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追記(2023/03/23):タイトルの後に投稿年月日を追加。本日のランキングは8位。10年以上前の記事だがまだ読者がいるようだ。読者に感謝。

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2011年11月 9日 (水)

目に留まった風景:新田荘遺跡 太田圓福寺周辺散策 廿二夜の碑の謎

2011/11/9
昨日はやや雲があったが晴れ。柿を収穫した。品種は多分「富有」と思うが正確には分からない。熟度が進み、うんだらガキになったのもかなりある。ヒヨドリ、ムクドリ等がにぎやかになるシーズンだ。今年の夏、ラジオ子供相談室で鳥類の祖先は恐竜だという話をしていた。鳥類は恐竜時代から渋いモノより甘いモノが好きだったのかとふと考えた。今年はナンテンやピラカンサスの実が良くなっていて、目を楽しませている。鳥にも食べる順序があるようで、まだナンテンやピラカンサスの実までは食べていない。柿や他の餌がなくなってから、ナンテンやピラカンサスの実を食べにくるのではないか。昨日は立冬だったそうだ。いよいよ寒さへの備えが必要になる。投票所でもらった石竹の種が育って、ようやく最初の花を着けた(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/05/post-8971.html。http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/01f_flower_and_seeds.html)。霜が降る前の滑り込みセーフ。

追記:リンクが合体してリンク先に飛ばない。urlの連記は「:(コロンではだめ?)」。転んではだめ!
セミコロンで試し。

http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/05/post-8971.html&http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/01f_flower_and_seeds.html)。

セミコロンでもダメ!?  「&」がおかしい?

http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/05/post-8971.html;http;//af06.kazelog.jp/itoshikimono/01f_flower_and_seeds.html)。

http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/05/post-8971.html。http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/01f_flower_and_seeds.html)。

http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/05/post-8971.html。

http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/01f_flower_and_seeds.html
)。

http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/05/post-8971.html。

http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/01f_flower_and_seeds.html

これならOK。

リンク1:http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/05/post-8971.html。(だめ)

     http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/05/post-8971.html。(OK)

リンク2:http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/01f_flower_and_seeds.html

2011/11/8の天気

TAVE= 14.2
TMAX= 18.4
TMIN= 9.5
DIFF= 8.9
WMAX= 6.7
SUNS= 6.8
RAIN= 0

目に留まった風景/愛しき古里:新田荘遺跡 太田圓福寺周辺散策 廿二夜の碑の謎

DSC:http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/02A2_FUUKEI_ATG.html

特に目的もなくぶらりと訪問する事をHAPPY CALL と言い、そういう時に思わぬ拾い物があると、何かのビジネス書で読んだような気がする。そこは圓福寺であった。下車してから看板を見て庭に入った。そこで庭の掃き掃除をしているオジサンに、新田氏累代の墓はどちらですかと聞くと丁寧に教えてくれた。ぶらりと歩き始めると、「廿二夜」という石碑があった。その下に、「當村女人講中」とあり、文化年代の建立であった。石像に何か不可解なモノが刻まれていたのでオジサンに聞いてみた。実は地元の人間ではないのでその由来は分からないとの事だった。桐生の出で、当地で定年後の生活をしており、庭掃きはボランティアでしているとの事だ。「廿二夜」、「當村女人講中」、「文化年代の建立」というキーワードを念頭に、帰宅してWEBで調べてみるとあの石像は如意輪観音のようだ。どうもあの石像の不可解なモノは出臍ではなさそうだ。それならばと、その部分にデジカメを向けたが丁度電池切れになった。あの、石像の図章の意味をだれかが解明しているのだろうか。石段を上がると、鐘があった。だれもいなかったので突いてみた。その余韻はかなり長かった。その鐘には、大東亜戦争死者供養之鐘、昭和32年4月と記されていた。そうか、そう言う意味かと思い、もう一度供養の気持を込めて鐘を突いた。ついでに余韻が続く時間を計った。1分35秒だった。大東亜戦争応召軍馬供養塔というのもあった。気分は時空を超え、当時の雰囲気にワープしてきていた。一人でぶらりの楽しい一時であった。それにしてもここが円福寺茶臼山古墳だとは気付かなかった。

太田市ホームページには、「円福寺茶臼山古墳;url=http://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/bunmazai/otabunka45.html」というタイトルで、「太田市西部、宝泉(由良)台地の西端に造られた長さ168mの大前方後円墳です。墳頂部や墳丘裾部は、後世の寺や神社等の建物を造った時に削られて、原形がそこなわれていますが、市内では天神山古墳に次いで第2位、県内でも第3位の規模を誇っています。中程にある平坦面には円筒埴輪が立て並べられています。墳丘の周りに巡らされた堀はほとんどが埋まっていますが、後円部の北側に今もその名残りがあります。造られた時期は、5世紀前半頃と考えられています。「宝泉茶臼山古墳」、「別所茶臼山古墳」とも呼ばれます。 なお、昭和46年に、群馬県指定史跡に「円福寺茶臼山古墳及び伝新田氏累代の墓附石幢」として指定されていました。しかし、平成12年11月1日に「新田荘遺跡」として国から史跡指定を受けたことに伴い、県指定は解除されました。」とあった。

2011年7月 2日 (土)

愛しき古里:若者をふるさとに引き戻す力は何か

2011/7/2
昨日も暑い一日。AMEDAS最高気温(℃)= 34.7 (15:08 )。日中は家の中にひきこもった。夕方草むしりと灌水。この夏の節電は「電気使用制限等規則」が根拠。500KW以上の電力契約者に15%の節電を義務づける。一般の小口契約で無理な節電をして熱中症等の健康被害等に遭遇しないようにしたい。それにしてもなぜ政府は3月の電力危機にこの法令を発動しなかったのか。畑の隅のアジサイが咲いていた。冬枝を切ったつもりがまた大きくなっていた。

昨日の天気

TAVE= 28.3
TMAX= 34.1
TMIN= 24.1
DIFF= 10
WMAX= 2.9
SUNS= 5.6
RAIN= 0.5

河北春秋は、「震災以来、何度か心をよぎった短歌がある。昨年3月… ;url=http://www.kahoku.co.jp/column/syunju/20110702_02.htm(2011年07月02日土曜日)」というタイトルで、「震災以来、何度か心をよぎった短歌がある。昨年3月に亡くなった竹山広さんの〈居合はせし居合はせざりしことつひに天運にして居合はせし人よ〉▼災害を免れた人は単に偶然であって被災は決してひとごとではない―そんな意味だ。竹山さんは長崎の原爆で兄を失い、自らも被爆している。一首は阪神大震災の折の作だが、被爆体験と二重写しとなって痛切に響く」と冒頭に書いた。

震災からまもなく4ヶ月になるに際して、ボランティアで駆けつけてくれた人々、色々な応援をしてくれた人々も、『誰もが被災を「わがこと」と感じたからだろう。』と「被災地から全国の皆さんに(「無言の感謝」を)贈りたい。」と述べていた。

自分も、冒頭の歌を読み、深い意味を感じた。作者は「居合はせし人よ」と呼びかけている。天運だから...とあきらめているのではない。そこに「居合はせ」て亡くなったものにもそこに「居合はせ」て生き残ったものとして何かを語りかけている。そんな解釈もできそうだ。

愛しき古里:若者をふるさとに引き戻す力は何か

福島県は原発事故で県外で避難生活している人が多い。生活をしてゆくには職が必要だ。何かのニュースでかなりの若者が県外に住みたいと思っているらしい事を知った。若者が都市部にあこがれるのは全国共通だろう。人口は都市部で増加して地方で減少しているのが実状だ。都市と地方が機能を補完しているのは事実であるが、現実にある都市と地方の格差は大きい。都市を中央・国家とみれば、国と地方の問題でもある。

最近、福島県生まれの人から聞いた話だが、長兄に農業を託し、他の兄弟達は郷里を去って他県に職を求めたとの事。その兄が、福島原発事故による避難指示で、スリッパ一つで飛び出して避難したそうだと郷里の惨状を嘆いていた。在職中の上司もたわけ者の意味を知っているかと教えてくれた。田を分けて小さくしたら農業は共倒れになるから、そういう事をやる馬鹿をたわけ者と言うんだと。その上司も大学を出してもらい、職と共に群馬の地まで来ていた。

生活を立てて行くには職・仕事が必要だ。特に若い人は、魅力のある仕事を求める。福島県は「新しい福島県総合計画に関する高校生アンケート調査結果(速報)url=http://wwwcms.pref.fukushima.jp/download/1/sougoukeikaku_210129_4-2.pdf」を公表している。その中で、「問4 問3で「3.住みたくない」と回答した方にお聞きします。その理由は何ですか。(複数回答可)」という質問への回答結果を引用すると、
希望する就職先、進学先がないから(22%)
魅力のあるイベント、施設が少ないから(22%)
日常の買い物、通勤、通学など生活が不便だか(20%)
市街地に活気がないから(20%)
となっていた。これは全国の地方に共通する問題ではないかと思う。希望する業種・職種は様々に分かれているのは当然だろう。また、就職、進学を希望する地域として福島県が30%、その理由として住み慣れた環境で生活したいからが32%を占めることは注目に値する。
「これから福島県がどのような県になってほしいですか。(3つ選択)」の最多回答が「豊かな自然環境が守られている県」であった。この調査結果を見ると、地方に魅力と仕事があれば若者は地方で暮らすのではと感じた。

地方の時代、地方分権が叫ばれているが、都市と地方の格差は広がる一方である。しかし、都市・中央の実像は今どうなっているのだろうか。実際は、自分が住んでいる地方の良さを知らないで都会をうらやましく思っている場合もある。地域の良さを発見するのが第一歩なら、少しでも良くして行こうと活動するのが次の第二歩目になるのではないか。人間住み慣れた地で生活したい欲求は必ずあるだろう。生活を支える仕事や職が無ければその欲求を満たせない。やはり、地方自治体が腰を据えて長期的な視野で取り組まなければこの問題は解決しないだろう。そのリトマス試験紙が地方議員や首長の選挙であるが、7月3日の県知事選が迫っている。県選管がチャーターした飛行機が投票を呼びかけていたが、県民が進んで投票に行くようになる位でないと地方はますます疲弊してしまうのではないか。知事選の立候補者諸氏は若者に何を訴えただろうか。

以下本題。

かみつけ女流歌人 雅:雪笹の朱実

歌題=雪笹の朱実:

■柿の木の 接木する父が 嫁吾れを 手伝はせけり 五十年経る 56 須永 花子

嫁に来たとき父に接木の手伝いをさせられた事を五十年後に回想した貴重な記録を伝える一首。

2010年12月19日 (日)

国定忠治生誕200年(没後160年):国定忠次の処刑

2010/12/19

国定忠治生誕200年(没後160年):国定忠次の処刑

上毛新聞で国定忠次関連の連載が始まった。やはり、国定忠次には人を引きつけるオーラがあるようだ。人間は何事も白黒をつけたがる。しかし、白黒のだけの世界は真実を完全に表しているのか、表すことができるのか。0(ゼロ)と1の間に中間の値があるようなアナログの世界住むことによりにわれわれ人間の気持ちも和むのではないか。国定忠次という人物も自分の意識の中では曖昧な存在ではある。しかし、何かの機会に国定忠次が意識の上がってくる。それを再度、思い出してみようと自分のブログ記事を検索してみた。

国定忠治生誕200年:http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2008/10/post-a263.html

雑草句録:羅漢業:http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2010/11/post-c60f.html

戦時中の病人:http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2009/07/post-6a65.html

栴檀の花:http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2009/04/post-f074.html

古墳盗掘の昔話:http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2008/12/post-3972.html

八幡沼開鑿と川端宇兵衛翁:http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2008/11/post-d6f7.html

先月頃、ある人が国定忠次生誕200年イベントに関する新聞記事のコピーを持ってきてくれた。それを興味深く読んだ。イベントも大々的にやるとなるとその手当が大変である。評価の定まらない人物を中心にしたイベントとなると尚更であろう。実は、上植木水利組合が主催した「川端宇兵衛 生誕200年記念講演」も国定忠次生誕二百年と無縁ではなかった。国定忠次という人物を参照することにより地域の歴史を振り返る事ができた(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/wp06b.html)。国定忠次の磔刑の様子は高橋敏著の本を読んで脳裏に焼き付いていた。この磔の刑で、誰もが思い出すのはイエス・キリストの事であろう。現役時代に、出張先訪問の空き時間にたまたま入った書店で遠藤周作の文庫本を買った。書名はもう忘れている。その中に処刑具としての十字架についての記述があったと思う。十字架上にはりつけられ、力が尽きて身体が緩むと、身体の重みを受けて受刑者の身体を更に痛める仕掛けがあったと記していたと思う。十字架とは受刑者が完全に命が尽きるまで受刑者を苛む装置でもあったという事をあの遠藤周作氏が書いていたので今も忘れることができない。遠藤周作氏は十字架の重さをそれとなく教えてくれたのだろうか。国定忠次磔の様子を高橋敏氏の本で読んだ時も感銘を受けた。国定忠次が処刑されたのは嘉永3(1850)年12月21日である。もうじき命日となる。今年は国定忠次生誕二百年であると共に没後160年であり、国定忠次生誕200年と共に没後160年を振り返るのも意義あることであろう。

2010年5月31日 (月)

伊勢崎駅旧駅舎の保存:いとしきもの

2010/5/31

愛しき古里:伊勢崎駅旧駅舎の保存

■ふるさとの 山に向かて 言うことなし ふるさとの山はありがたきかな
■ふるさとの なまりなつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きに行く

石川啄木の歌集『一握の砂』(明治43年)に納められた歌である。

ふるさとを詠んだ歌の中でも忘れがたい歌であろう。百年以上前の歌であるが古さを感じさ

せない。ふるさととは母親が子供を愛おしむ如くにその地を愛おしむ者を無条件に受け入れ

てくれる。両毛線が開通したのが明治22年で、啄木の『一握の砂』より更に二十年ほど遡

る。開通当時の駅の様子は皆目分からない。多分、質素な駅舎であったと思われる。現存す

る木造二階建ての洋風駅舎が建てられたのが昭和9年との事である。母が若い頃の話をす

ると必ず出てきたのが兵隊さん送りの光景であった。この伊勢崎駅から多くの兵隊さんが戦

地へ旅立ったのだ。時期的には新築された木造駅舎が供用された頃の前後に当たると思わ

れる。この立派な駅から、万歳の声に送られた兵隊さんの気持ちを聞くことも今では難しくな

った。一方、終戦後は伊勢崎駅から新婚旅行に旅立ったカップルもいるだろう。自分も、学

生時代とサラリーマン時代はこの伊勢崎駅にお世話になった。産業・生産品・物資の輸送、

通勤、通学、観光、所用等でこの駅舎も伊勢崎の顔になってきたのである。伊勢崎駅の高架

化工事も完成して、平成22年5月30日に駅で式典が行われ供用開始となった。長い歴史の

中で鉄道の駅の果たす役割は変わっていない。むしろ、今後の環境と高齢化の時代になる

と再度鉄道とそれを取り巻く地域とのつながりの重要性が見直されるに違いない。伊勢崎駅

の開業から今日までの、のべ利用者数は概算で数千万人から一億人程度にはなるであろ

う。この駅にまつわる記憶はその何倍になるか計り知れない。かつて、伊勢崎市は華蔵寺公

園内に退役した蒸気機関車を展示・保管してきた。これだけでも産業や鉄道の歴史と交通の

重要性を市民に訴えて、子供達に夢を与えてきた事であろう。今年になって、この蒸気機関

車が修復され現役に復帰する為JRに返還された。これにより、伊勢崎市により展示・保管さ

れてきた蒸気機関車は更に大きな役割を担うことになる。伊勢崎市民はこの事に大きな誇り

を持ってよいだろう。ところで、このように多くの人々の記憶に残り、伊勢崎の繁栄を支えてき

た旧駅舎が解体されると言う情報がある。保存を訴えて活動している人もいる。自分も旧伊

勢崎駅駅舎の解体処分は絶対に避けるべきだと思う。たとえ解体しても、いずれの日か再び

往時の姿を取り戻せるように保管する必要があるのではないか。旧伊勢崎駅駅舎はかつて

の伊勢崎市の顔として、また将来の伊勢崎市の顔としても保存する価値が十分にある。理想

を言えば駅と同じ様な機能を持つ公共の施設として利用しつつ保存するのが最適であろう。

いずれの日か、今後現役復帰するあの蒸気機関車が再度退役した時、この旧駅舎と一緒に

並んで伊勢崎市のシンボルになって欲しいと夢見ている。気の長い話ではあるが人生寿命

百年の時代を迎えている現在、少なくとも百年先の夢を見ても罪はなかろう。自分たちの次

世代はその時代を生きるのである。旧伊勢崎駅駅舎の保存は現世代から次世代へ引き継

ぐ贈り物でありメッセージでもある。歴史的遺産は捨てたが最後である。それを取り戻すのは

永久に不可能になる。

2009年4月23日 (木)

アパート住まい

2009/4/23

アパート住まい

結婚後しばらくは実家から数㎞離れた小さな平屋アパートに入居していた。近くに幼稚園生

の女の子がいてよく遊びにきた。アボガドが好きだとか話していた。アボガドとは何?こちら

が教えられたりしたこともあった。ある時宅配人がお手洗いを借りたがその時大切な物を下

に落としてしまった。今だとケイタイ電話だったかなと思ってしまうが、当時の事なのでどうも

ポケベルだったようだ。最近は宅配物がどこにあるかネットで検索できる。配達時間も正確

だ。ここ20~30年間でIT技術は非常に進歩したことになる。ポケベルは会社の非常呼び出

し用に持たされた事がある。一時ポケベルが簡易通信として大変流行した事があったが、ケ

イタイの出現でほとんど消えてしまった。いつでも、どこでも通話できることは安心安全という

点で大きな進歩であったと思う。しかし、そういう便利な機械を持たされるのも大変だ。

2008年11月25日 (火)

八幡沼開鑿と川端宇兵衛翁。20081125。

2008/11/25

八幡沼開鑿と川端宇兵衛翁

華蔵寺公園の北東県道462の東側に八幡沼(新沼)がある。沼の南岸にこの沼の由来を刻んだかなり大きな石碑が建っている。八幡沼の開鑿開始から51年後の大正2年に建立された「八幡沼の碑」がそれである。八幡沼は粕川から取水した灌漑用水を貯水する人工沼であり、まさに一銭たりとも出費をしたくない文久二年の大旱魃の年に、村民の心の拠り所である八幡宮、村社大明神さえも潰して、農民125名が大刑覚悟のうえ連印して藩主に陳情し、発起人・世話人等は総額500両以上の資金を投じ、3年間の期間をかけてこの大工事をやりとげた事が記録に残っている。

大工事を先頭に立ってやり遂げたのが川端宇兵衛翁であった。奇しくも川端宇兵衛は国定忠次の隣村で同じような境遇に生まれ同じような事をして同じ時代を生きていた。国定忠次より1年先輩であったが、国定忠次が大戸の関で磔で処刑されて12年後即ち忠次の13回忌の文久2年(1862)に八幡沼の開鑿を始めたのである。

村民の藩主への陳情が藩主のお気に召さなければ、打ち首等の極刑を賜う事もあり得た時代の決断であったのだ。来年の2009年が川端宇兵衛生誕200年になる。三軒屋遺跡は千数百年前も稲作が地域の重要な産業であった事を示している。八幡沼の開鑿は水利基盤の創設、維持、改良が絶え間なく続けられていた事を証明している。川端宇兵衛誕生200年を機会に地域の歴史と先人達の偉業を振り返るのも意義有ることであろう。

以下に元殖蓮公民館館長川端門太郎先生が「うえはす史談 第二号」に紹介した碑文を現代語に意訳したものを掲載する。

以下碑文:
**************************************
上植木の郷(さと)は素(もと)から水利に乏しく灌漑に不便な地域であった。旱魃に遭遇すれば稲田の苗は枯死して、飢えて青菜のように血色がわるくなるような苦境に陥ることが屡々(しばしば)あった。従って、昔から志のある者は心身を粉にして種々救済策の考案に努めたが、それが実現する時期が到来せず一人として成功する者はいなかった。

ところが、そんな時、村に川端宇兵衛翁という者がいた。人柄は気宇壮大・気性が強く衆にすぐれており細事を気にすることもなく、いつもこう言っていた、

「男子に生まれ芳名(名声)を百世に流すことができないようでは、まさに臭名(汚名)を万年に残して当然なのだ(男子生まれて芳(かんばし)を百世に流す能(あたわ)わずずんば、またまさに臭を万年に遺(のこす)すべきなり)」

どうして小石のようにごろごろとして平凡でツバメやスズメのようなものの尻につき従おか。まさにあの鯤(こん)という魚が翼長3千里の鵬(ほう)という大鳥になって9万里の高空を飛ぶように人間界の鵬になるべきなのだ(あに碌々として燕雀と相(あい)随(したがわん)や。よろしく化して鵬となるべし)

毀誉褒貶は自分には無関係である。何事も公平無私を第一とするならば成功しないことがあろうか。特に役に立つ事業を興し大衆の福利をもたらそうとするならば自然の摂理を利用するにこしたことはない。

郷里の農民は水利に苦しんでいるときであり将に新沼を開鑿(かいさく)して灌漑のために活用すべきであると決意し密かにこの土木工事の設計をして、地盤を調査し水路を通すため自ら技師となってこれを測量し同じ考えの人々を求めて土木工事への賛同を頼んだ。

文久二壬戌(みずのえいぬ)年三月藩主に請願書を添えて工事の許可を願い出た。かくて、事前に調査した土地、小字(こあざ)関組の七本杉の大木を皆伐採して、八幡社境内とその他の山林八千五百六十五坪を開鑿し隧道を掘って粕川の水を引き込むという困難な工事を思い起こすべきである。

同年十月十九日天地が和合する吉日を選んで鍬入れ式を挙行し工事を開始した。翁自ら鍬を取りこの役を勤めた。村の役人や役員等数十人がこれに連なった。元治元年甲子十二月に工事が落成した。此の間の三年間雨に打たれ風にさらされ寝食を忘れ日々この大工事に従事する事一日の如しであり実によく勤めたものだと言うべきである。

ああ、これは村が豊に繁栄する基礎であって、それのみでない(已と己の相違:すでは意味が通じない:おのれにとる)。更にその他百数町歩の及ぼす其の恩恵たるや実に偉大である。すなわち農家はこの事業によって灌漑しまさに旱魃の被害を免れることが可能になる。

伊勢崎藩主の酒井侯はこの業績を賞して帯刀と名字を許された者は数十人にのぼる。本年有志の人々が相談して碑を建て永く翁の功労に感謝しその大きな恩恵を心に刻みつけるために其の事跡を石に書き込むことを要請された。当職は文につたなく翁の偉功の万分の一すらもしるすことができない。よって、詩を作り以て後世に伝えたい。

其の辞に曰く、

赤城之水流成粕川   赤城の水は流れて粕川となる
鑿沼而蓄百姓頼全   沼を穿ちて百姓頼全を蓄える
父老感涙稲苗色鮮   父老感涙して稲苗色あざやかなり
数邑抃舞将漑民田   数邑抃舞(べんぶ)す将に民田漑(みち)たり
宇兵衛翁徳後子孫傳  宇兵衛翁の徳後の子孫に傳う

大正二年十月吉日

正五位 子爵 酒井忠一 篆額 

丘林山    瑞庵祐願 謹撰 併書

       井上澹泉 刻
**************************************
:以上碑文。
注記:酒井 忠彰(さかい ただあきら)は、江戸時代の大名。上野伊勢崎藩の第9代(最後)の藩主。酒井忠一は忠彰の次男。丘林山は伊勢崎の名刹華蔵寺の山号。

八幡沼の完成が元治 元年 (西暦1864 年)であり、2014年に開鑿150年を迎える。

明治 元年 (西暦1868年)の4年前である。

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追記(2023/06/10):タイトルの後に投稿期日を追加。本日ランキング4位。読者に感謝。

2008年11月23日 (日)

三軒屋遺跡の講演会(改題):愛しき古里:「上野国佐位郡正倉跡」として国の史跡に指定された三軒屋遺跡。081123。

2008年11月23日 (日)

三軒屋遺跡の講演会(改題):愛しき古里:「上野国佐位郡正倉跡」として国の史跡に指定された三軒屋遺跡

昨日、絣の里で三軒屋遺跡の講演会があった。赤城山に小雪が降り少し寒いが自転車で行った。こういう機会であるので丸塚山古墳に登ってみた。好天に恵まれ見晴らしは良かった。余り高い古墳ではないが、古墳が造築された当時に帰って見れば今日の巨大ビルに匹敵するのではないかと思った。高い家並みもない当時であれば、被葬者は自分の支配範囲を超えて地域の全景を見渡せるのである。

講演の主題は「古代の伊勢崎と地方豪族~誰が八角建物を造ったのか~」。殖蓮小学校校庭で発見された三軒屋遺跡の調査報告(市の担当者:出浦氏)、その遺跡と上植木廃寺遺跡、多田山古墳、そこから発掘された唐枕等を結びつけて古代豪族とアジアまで広がる文化の流れを探る試み(群馬県教育委員会:深沢氏)、「地方官衙と古代豪族」というテーマで古代の中央と地方の関係を通して当地の古代豪族(佐位郡の豪族:檜前(部)君)に迫る(東京大学:佐藤教授)。

出浦氏に対する質問では正倉院とは区画された領域に作られた倉庫群とのことで、郡庁としては当然他の施設も有るはずとの事で今後の調査で発見される可能性があるらしい。深沢氏には質問しそびれてしまった。

佐藤教授には当時の地方豪族は漢字文化を持ち仏教も広められたので古墳等に墓誌が残っている可能性があるのか質問した。その可能性はありそうだ。また、郡庁の事務処理をする施設からは、保存状態が良ければ木簡も出土する可能性もあるとの事で調査主体である市への期待も示された。

深沢氏は赤堀の多田山古墳の調査を担当されたとの事で、多田山古墳は大きさ、石材、石積み技術等中小の古墳より格が上で佐位郡の豪族檜前(部)君一族の古墳と推定されると言う。この古墳から三軒屋遺跡まで直線で4㎞との事。馬を駆れば遠い距離ではないだろう。そこで同氏に質問したかったのは多田山古墳の頂上に立ったとき三軒屋遺跡が見渡せたかと言うことであった。古墳の被葬者は自分の支配地の中で、墳墓として最適な場所を選ぶという前提での確認事項である。

尚、「シルバーのマイコン人生」という<J業団の発掘調査で以前に大変お世話になった、作業員さん(HP紹介)>のHPによると「 多田山は前橋市の東、赤堀町の国道50号線のすぐ北側にある、小高い丘陵である。発掘調査をして土壌を、建設中の北関東自動車道に使用しているので現在は山の面影はなくなっている。」と紹介されている。

もはや多田山から三軒屋遺跡を見渡す試みもできないのか。三軒屋遺跡も両毛線がその上を通ったり、校舎がその上に作られていたら破壊されていたかもしれない。危機一髪で生き残った。地域の長い歴史を示す生き証人である。是非恒久的な保存と活用を図りたい。

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2008/11/23

三軒屋遺跡の講演会

昨日、絣の里で三軒屋遺跡の講演会があった。赤城山に小雪が降り少し寒いが自転車で行

った。こういう機会であるので丸塚山古墳に登ってみた。好天に恵まれ見晴らしは良かった。

余り高い古墳ではないが、古墳が造築された当時に帰って見れば今日の巨大ビルに匹敵す

るのではないかと思った。高い家並みもない当時であれば、被葬者は自分の支配範囲を超

えて地域の全景を見渡せるのである。

講演の主題は「古代の伊勢崎と地方豪族~誰が八角建物を造ったのか~」。殖蓮小学校校

庭で発見された三軒屋遺跡の調査報告(市の担当者:出浦氏)、その遺跡と上植木廃寺遺

跡、多田山古墳、そこから発掘された唐枕等を結びつけて古代豪族とアジアまで広がる文化

の流れを探る試み(群馬県教育委員会:深沢氏)、「地方官衙と古代豪族」というテーマで古

代の中央と地方の関係を通して当地の古代豪族(佐位郡の豪族:檜前(部)君)に迫る(東京

大学:佐藤教授)。出浦氏に対する質問では正倉院とは区画された領域に作られた倉庫群と

のことで、郡庁としては当然他の施設も有るはずとの事で今後の調査で発見される可能性が

あるらしい。深沢氏には質問しそびれてしまった。佐藤教授には当時の地方豪族は漢字文

化を持ち仏教も広められたので古墳等に墓誌が残っている可能性があるのか質問した。

その可能性はありそうだ。また、郡庁の事務処理をする施設からは、保存状態が良ければ

木簡も出土する可能性もあるとの事で調査主体である市への期待も示された。深沢氏は赤

堀の多田山古墳の調査を担当されたとの事で、多田山古墳は大きさ、石材、石積み技術等

中小の古墳より格が上で佐位郡の豪族檜前(部)君一族の古墳と推定されると言う。この

古墳から三軒屋遺跡まで直線で4㎞との事。馬を駆れば遠い距離ではないだろう。そこで同

氏に質問したかったのは多田山古墳の頂上に立ったとき三軒屋遺跡が見渡せたかと言うこ

とであった。古墳の被葬者は自分の支配地の中で、墳墓として最適な場所を選ぶという前提

での確認事項である。尚、「シルバーのマイコン人生」という<J業団の発掘調査で以前に大

変お世話になった、作業員さん(HP紹介)>のHPによると「 多田山は前橋市の東、赤堀町

の国道50号線のすぐ北側にある、小高い丘陵である。発掘調査をして土壌を、建設中の北

関東自動車道に使用しているので現在は山の面影はなくなっている。」と紹介されている。も

はや多田山から三軒屋遺跡を見渡す試みもできないのか。三軒屋遺跡も両毛線がその上を

通ったり、校舎がその上に作られていたら破壊されていたかもしれない。危機一髪で生き残

った。地域の長い歴史を示す生き証人である。是非恒久的な保存と活用を図りたい。

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追記(2017/11/22):記事整形、過去BLOG再読、印象・コメント等
文字サイズ・色・タイトル名を変更。べた書きを文節に分けて読み易くした。追記記事を保存しようとしたらタイムアウトで全部消えた。決して同じ事が書けないのが人間の頭脳の欠陥だ。それを利点と考えて再入力。いざ。

講演会の会場は絣の里であった。旧伊勢崎市立女子高校の円形校舎が転用されていた。そこで、円形校舎が何時解体されたかが気になった。

Go!伊勢崎の「絣の郷(円形交流館)・解体工事」記事へのリンク

旧円形校舎は2012年夏に解体されたようで、講演当時はまだ使われていた。2011年に東日本大震災があり、駆け込み解体だったのか。ともかく、市民の記憶財産が惜しげも無く破壊されて行くのも歴史の一面として記録しなければ、記憶から消えてしまうのだ。講演会場は旧円形校舎の体育館・講堂だったのかもしれない。

また、講演会が三軒屋遺跡の保存の機運を盛り上げたと思う。以来十年弱が経過して、大きな進歩もあった。群馬県内の郡衙発見の調査も行われ、その成果も出てきて、古代群馬の姿が見えるようになってきた。三軒屋遺跡は範囲が広く、発掘で遺跡が発見された区画は「上野国佐位郡正倉跡」として国の史跡に指定された。これも遺跡の重要さと市民や関係者の熱意の賜物であろう。

東京新聞は、「「上野国佐位郡正倉跡」伊勢崎市内2カ所 国史跡追加指定へ;http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/list/201711/CK2017111802000157.html(2017年11月18日)」(このサイトへのリンク)というタイトルで、「国の文化審議会が十七日に林芳正文部科学相に答申した史跡名勝天然記念物に、伊勢崎市上植木本町の「上野国佐位郡正倉跡(こうずけのくにさいぐんしょうそうあと)」で新たな土地二カ所計千七百七十二平方メートルの追加指定が含まれた。同正倉跡は二〇一四年十月に八万九千三百平方メートルが国史跡に指定されており、今回、追加されると計九万一千七十二平方メートルになる。」と報じた。

「上野国佐位郡正倉跡」は史跡公園として永久保存する構想があると聞く。思うに、自分たちの歴史を正しく詳しく知る事はIDENTITY・自己認識の基本ではないか。周辺は人家が密集する地帯になっているので長期的な対応が必要だろう。

深澤氏が多田山古墳と三軒屋遺跡の関係を述べた事に興味を覚えた。そこで「シルバーのマイコン人生」というサイトに出会ったのだが、そのサイトは現在も開設されていて、多田山古墳の概要が参照できる。

「シルバーのマイコン人生」の記事「多田山の歴史を掘る」へのリンク

最近、三軒屋遺跡周辺に恵下古墳という古墳があった事を知った。以前から、そういう古墳があったらしい事は薄々聞いていたが、その古墳から出土した馬具等の遺物が東京国立博物館の収蔵品になっていたのだ。恵下古墳は昭和の初期に開墾のために発掘されたようだ。

Googleでキーワード「東京国立博物館 恵下古墳」を検索(https://www.google.co.jp/search?hl=ja&biw=952&bih=647&source=hp&q=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8%E3%80%80%E6%81%B5%E4%B8%8B%E5%8F%A4%E5%A2%B3&oq=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8%E3%80%80%E6%81%B5%E4%B8%8B%E5%8F%A4%E5%A2%B3)(このKWで検索

恵下古墳は削平され、往事の姿は見るべくもないが、馬具や玉、須恵器等の出土品から被葬者は地域の有力者であろうと推測されている。三軒屋遺跡の北側には上植木廃寺の史跡がある。明治時代中頃に作成された迅速測図によると、三軒屋遺跡周辺の人家はまばらで、一体は松等の山林であったようだ。


2008年11月 6日 (木)

地域の歴史と公共事業

2008/11/6

地域の歴史と公共事業

人生の後半にさしかかると、しきりに来し方行く末に関心がわいてくる。地域の歴史に興

味を覚えるのも、自己の存在をその歴史の中で確認しようとする希求心があるからだろう。

鮭は自分の生まれた川に遡上すると言われている。生物が生まれた時の環境を自分の生き

られる環境として記憶の深層に取り込むためかもしれない。破滅する場所に向かったら、

生物の種はそこで絶えてしまう。人間も生まれ育った環境が安全で心地よいものと思う

本能のような習性があるのだろう。昨日、地域の川の氾濫被害対策として作成する調整池

の利用・活用に関する検討会が開かれ出席させて頂いた。調整池は氾濫する河川の流水を

一時溜めて置いて徐々に放水して氾濫被害を低減させる施設である。巨視的にみると自然

の猛威を人間がうまく飼い慣らす試みである。調整池が機能するのは多雨期の夏場の年に

数回だけである。従って、本来の機能が働く必要が無い時の利用・管理が重要な課題に

なる。地域の地形が地域の歴史を育む。当地は日本に旧石器時代が存在していたと言うこ

とを初めて証明した遺跡や八角正倉の遺跡もある。このような歴史をふまえ、環境に配慮し

た、地域住民、特に子供達が安心して有効に利用できる施設作りが真剣に検討された。自

分も魚取りの出来る池、湧水の復元、子供達が稲作体験が出来る水田の設置を提案させて

頂いた。従来の計画のように決定してから住民に知らせる方式ではなく、計画の策定の中に

住民の意見を取り入れて行くという新しい公共事業方式の第一号であるとの事だ。今後、ど

のような案がまとまるか楽しみである。

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嗚呼 伊勢崎 非情

BOOKS

  • 橋本 英文: 刃物雑学事典 図解・刃物のすべて(1986年 株式会社 講談社 ブルーバックス B-659)
    刃物という視点で多くの事例が取り上げられている。刃のある道具の理解にも役立つ。類書が少なく貴重な一冊。「すべり変形が切断の原理」という考え方で説明している。
  • 沼田 真   : 植物たちの生( 1972年 岩波新書(青版 833))
    「ご要望にお応えしてアンコール復刊(1988年岩波新書50年記念復刊) 地球生態系の中で自然を見直す」(腰巻きのフレーズ)。植物の知恵と戦略に人類は勝てるのか。
  • 出町 誠: 14_NHK趣味の園芸:よく分かる栽培12ヶ月  カキ(NHK出版2007年)
    初心者向け柿栽培参考書(新版)。旧版と比較すると楽しい。
  • 中村三夫: 13_NHK趣味の園芸:作業12ヶ月  カキ(NHK出版1996年)
    初心者向け柿栽培参考書(旧版)。新版と比較すると楽しい。
  • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
    細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
  • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
    著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
  • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
    ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
  • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
    やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
  • ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫訳): 08_サイバネティックスはいかにして生まれたか(みすず書房1956)
    情報と通信という現代社会に不可欠の基礎的な学問を作った著者の自伝とそれを通した科学史
  • 沼田 真(編): 07_雑草の科学(研成社1979)
    雑草を多面的に解説し防除の基礎も述べる

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  • 項目のタイトル2
    POST IT :ブログ画面への張り紙に使える。
  • TYPE LIST事始め
    2010/8/4:MEMO等の表示に使える。 農作業で気になる自戒の言葉 ■畑の石ころはいつまで経ってもても石ころ(早く拾って片づけよという意味か)。 ■同じ石を二度拾うな(やってみると難しい)。 ■手ぶらで歩くな。 ■三つ先のことを読め。 ■適当な観察。 ■空を見よ(気分転換、休憩、天気を読む、腰曲がり防止)