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2010年2月

2010年2月28日 (日)

方丈記随読3:いとしきもの

2010/2/28

方丈記随読3

「それ 人の友たるものは富めるをたふとみ、ねんごろなるを先とす。かならずしも情あると、すぐなるとをば愛せず、たゞ絲竹花月を友とせむにはしかじ。人の やつこ たるものは 賞罰のはなはだしきを顧み、恩の厚きを重くす。更には ごく み あはれぶといへども、やすく閑なるをば ねがはず、たゞ我が身を奴婢とするにはしかず。もし なすべきことあれば、すなはちおのづから身をつかふ。たゆからずしもあらねど、人をしたがへ、人をかへりみるよりはやすし。もしありくべきことあれば、みづから歩む。くるしといへども、馬鞍牛車と心をなやますにはしか(二字似イ)ず。今ひと 身をわかちて。二つの用をなす。手のやつこ、足ののり物、よくわが心にかなへり。心また身のくるしみを知れゝば、くるしむ時はやすめつ、まめなる時はつかふ。つかふ とても たびたび過さず、ものうし とても 心をうごかすことなし。いかに いはむや、常にありき、常に働(動イ)くは、これ養生なるべし。なんぞいたづらにやすみ居らむ。人を苦しめ人を惱ますはまた罪業なり。いかゞ他の力をかるべき。』」

人付き合い、友人論を述べているようだ。情があって、率直であるだけでは、わずらわしいだ

けで、愛せない。それより、友人は豊で丁寧だが気楽につき合えた方が良い。だが、気楽に

楽器や花鳥風月の自然を友とするに及ばない。あえて、乗り物等も気にしない。身体の調子

に合わせて歩き、手足をこまめにつかえば、養生にもなる。他人の力を借りずに、増して人

に迷惑もかけずに自力で生活するのが最高ではないか。自己流に読んでいるかも知れな

い。最近、自分も長明さんと同じ様な心境になってきたようにも思う。ちょっと出かけるとき

は、子供が通学に使った古自転車を使う。ちょっと、気分に応じて遠回りをする。面白い被写

体があるとデジカメでパチ。ここで、富めるとはどんな情景か。貧ならずという感じか。ともか

く、貧なる友には何かと気を使うだろう。高校時代に貧交行を学んだと思う。貧は富への上昇

のバネか。社会が階層化されてしまうと、人間のつき合いも何かと同一階層のつき合いが多

くなってしまうだろう。長明さんはどんな貧を見ていたのか。ところで、「人の やつこ たるも

のは 賞罰のはなはだしきを顧み、恩の厚きを重くす。」とはどういう意味か。長明さんの考え

か。しもべたちは信賞必罰に処し、恩賞の厚い者は重用すべきという事か。人とはしもべが

つかえる上位の人と解釈すれば、お上に使えるしもべたちは、賞罰も誰にでもわかるよう顕

著に行うことを歓迎し、恩賞も手厚く施したいものだと述べているのか。長明さんは自分を人

になぞらえているのかやつこになぞらえているのか。ともかく、賞罰・恩賞は人生の最後まで

つきまとうのは、昔も今も変わりがないようだ。

2010年2月27日 (土)

方丈記切読2:いとしきもの

2010/2/27

方丈記切読2

誰しも、年齢を重ねると来し方行く末を考える。長明さんの自画像はこの部分か。祖先の大

きな家に住んだが、三十才台でその十分の一の家をかまえた。妻子がないとは新発見であ

った。しかし、これは少子化社会の現実の一面をも語っているようで胸にこたえる。「すべて

あらぬ世を念じ過ぐしつゝ、」とは若かりし時には、大志を抱いていたのか。「おのづから短き

運をさとりぬ」とは世を捨てた動機か。「家をいで世をそむけり」とは。ともかく、このような疑

問は既に研究され解明されていると思う。

「我が身、父の方の祖母の家をつたへて、久しく彼所に住む。そののち縁かけ、身おとろへて、しのぶかたがたしげかりしかば、つひにあととむることを得ずして、三十餘にして、更に我が心と一の庵をむすぶ。これをありしすまひになずらふるに、十分が一なり。たゞ居屋ばかりをかまへて、はかばかしくは屋を造るにおよばず。わづかについひぢをつけりといへども、門たつるたづきなし。竹を柱として、車やどりとせり。雪ふり風吹くごとに、危ふからずしもあらず。所は河原近ければ、水の難も深く、白波のおそれもさわがし。すべてあらぬ世を念じ過ぐしつゝ、心をなやませることは、三十餘年なり。その間をりをりのたがひめに、おのづから短き運をさとりぬ。すなはち五十の春をむかへて、家をいで世をそむけり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官祿あらず、何につけてか執をとゞめむ。むなしく大原山の雲にふして、またいくそばくの春秋をかへぬる。」

ともかく、公職や定職から去れば、物事はより客観的にみる事が出来る。しかし、その時は

既に現実的な影響力は失っている。長明さんは方丈記を残した事により、名前を残した。当

時は、こういう生き方が普通だったのか。社会保障という制度の無い時代である。余力を残

して老後を楽しむのも一つの生き方かもしれない。余力がなければ随筆どころではない。庵

を結ぶのは庶民以上の余力があったからできたのだろうか。

2010年2月26日 (金)

集中と選択:いとしきもの

2010/2/26

集中と選択

この言葉を耳にすると色々な事を連想する人が多いだろう。その逆を表す言葉は何か。分散

と○○。選択の対立用語は非選択か。選ばないというので放任。選ぶという積極さの逆は切

り捨て。色々ある事を選別してそれに資源を集中するという事はリストラの意味にも通じる。

生物が大きくなるのは、細胞が増えるのと、細胞が大きくなるのと二つの要因があるという。

ある目的で、アウトプットを大きくするためにはその単位組織を増やすのが普通だ。支店や

営業所の数などはその例であろう。しかし、数が増えればその数に応じて増える経費も生じ

る。適正規模という数の調整も経営上の問題となる。Googleの検索サービスが気になった

のでGoogle検索してみた。Google検索の結果:Google サーバー数 に一致する日本語の

ページ 約 9,110,000 件中 1 - 20 件目 (0.23 秒) 。ともかく、利用者が余所に移らない短い

時間にアウトプットを出してくる。Googleが保有するサーバー数は非公開だが数十万台程度

であろうという情報が手に入る。いくつかの情報を見ると使っているサーバーは特殊なもので

はなく、普通の物であるようだ。高性能なサーバー1台より、普通のサーバー2台の方を選

択している。Googleの技術とはそのような多数のサーバーを効率・、安定・高信頼的に運用

するソフト面にあるようだ。翻って、平成の大合併もそろそろ、山を越えて多くの自治体が吸

収合併して、その流れが終息しようとしている。この合併の効果は直ぐには計れないかも知

れないが、Googleのサービスの対極を行くように思えてしまう。多くの市町村が生まれてきた

のはそこに必然性があったのではないか。それを、目先の効用だけで小さな自治体を解体

処分してしまうのは本当にもったいないことであろう。Googleのサーバーは12Vの電池を備

えているとの事だ。これは分散処理の生き方かも知れない。要は万一の場合、最悪の検索

サービスをダウンさせない処置であろう。0.2秒の検索時間が倍の0.4秒になっても誰も不平

を言わないであろう。地震やテロ等で被害を受けても、分散化により検索サービスの続行は

可能であろう。少子高齢化の時代を迎えて、行政の恐竜化は本当に望ましい姿なのか。ハ

ードはそれが必要なところに分散して置けばよい。そのハードとハードを連結して最高の効果

を実現するのがソフトだ。この部分はIT化に良くなじむ。バーチャルな本庁は支所のモニター

の中にあればほとんどの業務は可能になる。まさにGoogleの手法の逆の発想がまかり通っ

ているのが日本の現実なのかもしれない。行政サービスこそGoogleの一枚のサーバーの集

まりのように分散化が最も効果のある手法なのではないか。これは、恐竜の頭脳では実現

出来ないのは明かではあるが。国税庁がパソコンによる確定申告の案内を送ってきた。今

日では、税務署や銀行の一部機能も自宅で間に合う時代なのである。

2010年2月25日 (木)

おとおか:いとしきもの

2010/2/25

おとおか

Google検索
おとうか  化かす -狐 -キツネ -タヌキ -狸 に一致する日本語のページ 約 20,200 件中 1 - 20 件目 (0.57 秒)
むじな  化かす -狐 -キツネ -タヌキ -狸 に一致する日本語のページ 約 691 件中 1 - 20 件目 (0.56 秒)

極幼少の頃は昔話を聞いたような記憶がある。もう半世紀以上前になってしまった。おとうか

という動物がいて人を化かすという話である。記憶に残っているのは化かされて馬鹿な目に

あったという事である。おとうかというのはこの地方だけの言葉であったのか。Google検索で

は見当たらない。人を化かすといわれるキツネ・タヌキを除外するとむじながでてきた。むじな

を調べると穴熊、タヌキの異称とある。ともかく、言葉の上でも正体が掴めない。一人、寂しい

夜道を歩いていると、後ろから誰かがついてくるように感じる。ちょっと怖いが、気にかかる。

こういう風に話が始まると、直ぐに話しに引き込まれてしまう。するとおとうかは、招き猫の手

を裏返ししたような格好で何かサインを送ってくる。バカされる途中の話ははっきり覚えてい

ない。この辺に話し手の極意があったのかもしれない。怖いどころか、当人はおとうかをすっ

かり信じてしまい、落ちていた小判を拾ってしまう。ところが、何かの拍子で現実に戻ると馬

の糞を掴んでいたということであった。小判が肥溜めに変わったバージョンもあった。化かさ

れて、良いお風呂に入れてもらった。きっとおとうかは妙齢の娘にでも化けたのだろうか。そ

こまでは聞いた覚えは無い。良いお風呂だったと、風呂から上がろうとした時に、そこが肥溜

めだと分かって大笑いをする。そうして、おとうかに化かされないようにするためにはこうして

眉に唾をつけるのだよと古老は教えてくれる。昔は、身近な動物で化かされないよう教えてい

たのかも知れない。その動物はやはり、イヌやネコではつとまらない正体があやしい存在で

なければならないようだ。その裏には、人間も人を騙すから注意をしろという教訓が潜んでい

るようでもある。今日、幼児は知らない人から声を掛けられたら、黙って直ぐに家に帰りなさ

いと教えられている場合が多いだろう。幼少時から人間不信の教えを受けてしまう。大人も

子供も眉に唾を付けて騙す相手を見破る訓練が必要なようだ。何しろ、このおとおかは人間

の分身であるかのようなのだ。

2010年2月24日 (水)

方丈記切読1:いとしきもの

2010/2/24

方丈記切読1

多分、高校の古文で方丈記を習ったと思う。しかし、年齢的にその内容をじっくり味わうこと

は無かったと思う。いつか読んで見たいと思っていた。随筆というジャンルだが、一気に通読

するのも大変だ。青空文庫からテキストを頂いて、気に入った部分から読んで見たい。細か

な、文庫本をよむより、カットアンドペーストでエディターに取り込んで読んだ方が楽なので、

読み方の実験でもある。随読・切り読みといえるかも知れない。適当な所から気ままに。

「すべて世のありにくきこと、わが身とすみかとの、はかなくあだなるさまかくのごとし。いはむや所により、身のほどにしたがひて、心をなやますこと、あげてかぞふべからず。もしおのづから身かずならずして、權門のかたはらに居るものは深く悦ぶことあれども、大にたのしぶにあたはず。なげきある時も聲をあげて泣くことなし。進退やすからず、たちゐにつけて恐れをのゝくさま、たとへば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。」

どうも、この世は昔から住み良いものではなかったようだ。身分に従い悩み事が数知れない

のは今日も変わっていない。長明さんが方丈の庵を結んだのも隠遁のためであったのか。

人界と近からず遠からずという理想的環境であったかもしれない。「深く悦ぶ」のと「大にたの

しぶ」とは別であるとの指摘は納得する。長明さんは世の中の煩わしさから身を引いて残り

少ない人生を楽しもうとしているようだ。「もしおのづから身かずならずして、」とはどういう意

味なのか。辞書によるととるに足らない人物の意味に通じる。とるに足らない人物が権威を

かさにきてはしゃいでいるのは見苦しいと確かに長明さん眼光の鋭さを感じる。思うに「進退

やすからず」という人も数知れぬのかもしれない。今も昔も変わっていない。

2010年2月23日 (火)

虚数:いとしきもの

20102/23

虚数

小中の算数から高校の数学になった頃出合った不思議な数である。二乗すると-1という数

である。普通の数は二乗すると負の数にはならないので、仮想的に作った数である。従っ

て、imaginary number と英語で表すと納得する。西洋の数学を導入した明治の頃に苦心し

て漢訳した数であったのではないか。石原純は和算のレベルの高さは評価していたが、その

論理性・伝承の閉鎖性等を指摘していた。ともかく虚数は数の概念の拡大であり、一度その

ような概念の拡大が行われると実用上も大きな利便性を産む。方程式で書けばX*X+1=0の

解がROOT(-1)=i という事になる。オームの法則は中学生の頃に学ぶ。電流、電圧、抵抗

の関係を与える関係式である。この式は直流では成り立つが交流では正確には成り立たな

い。交流を表すには三角関数が必要になるが、まだ高校の段階では数学と工学が結びつい

ていない。電気工学の基礎となる交流理論を学んで初めて交流のオームの法則の意味が理

解できる。それには、抵抗という概念を拡大する必要がある。純粋な抵抗に電流が流れれ

ば、そこでエネルギーが消費され熱となる。しかし、交流では、エネルギーは消費しないが電

流の流れに影響する、コンデンサ成分とコイル成分がある。かくて、純粋抵抗成分とコンデン

サ成分とコイル成分とを一つの素子としてインピーダンスという概念に拡大する。そうすると、

拡大したオームの法則が成立するようになる。このインピーダンス成分に虚数iを使用する複

素数という数の演算で交流の電圧、電流の関係を求める事が出来る。おそらく、虚数という

概念は数学で先に生み出されたが、それが技術の方面に利用されて、純粋数学以上に実用

工学上の効用をもたらしたのではないかと思う。初期の電気利用は電池による直流が主体

であった。発電機が発明され、交流送電が行われるようになって電気の利用分野は急激に

拡大した。そうして、主に電気を動力源等につかう強電分野が栄え、その後は電気の元とな

る電子を使うという概念の弱電分野が大きく成長して今日に到っている。蛇足であるが、電

気工学ではiで電流を表すので虚数をjで表す。思えば高校の頃に学んだ虚数には大変お世

話になった。会社の初期の大型計算機で、プログラムカードにFORTRANで書いた計算式も

トランジスタのインピーダンスを計算するものであった。虚数をjは交流の位相をあらわし、素

子内部の位相遅れが大きいと動作が不安定になり発振を初めて、これに悩まされていたこと

もあった。実社会においてもいくらポテンシャル(電圧)を上げても、抵抗勢力が大きいとうまく

物事が進まない。また、時にはちょっと位相がずれたi勢力も必要なのかもしれない。視点を

変えて過去を振り返るという事にも意義があるだろう。

2010年2月22日 (月)

科学史:いとしきもの

2010/2/22

科学史

今日の文明が科学の発展に負う事は誰しも認めると思うが、素人がその歴史をたどることに

は困難が伴う。科学史に興味を覚えて、買い置いてあった書棚の本がふと目に付いた。石原

純著の科学史である。現代日本文明史(第十三巻)。昭和17年8月23日初版発行。7000

部とある。自分にとって第二次世界大戦の終戦前と終戦後がうまくつながらないのである。し

かし、大正・昭和という時代は科学文明の時代に突入していた。巻頭の序文で著者は明治・

大正時代の日本の科学の詳述するとともに、先覚者が果たした役割を高く評価している。断

片的であるが、明治以前の西洋科学の輸入も、明治時代の本格的な西洋科学の輸入の基

礎を作った事も評価している。

WIKIPEDIAには「来歴・人物 [編集]
東京帝国大学理科大学卒業。東北帝国大学助教授時代にヨーロッパに留学し、アインシュタインらのもとで学ぶ。1921年、歌人・原阿佐緒との恋愛事件により大学を辞職、以後は著作活動をおこなう。1922年、アインシュタインの来日講演の通訳をした。歌人としては伊藤左千夫らの、『アララギ』の発刊に加わり、自由律短歌の推進者となった。1931年から雑誌『科学 (岩波書店) 』(岩波書店)の初代編集主任を務めた。」とあった。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E7%B4%94最終更新 2009年12月2日 (水) 19:03 による。

学校教育では○○が○○を発明・発見した程度の事を学んだに過ぎないと思う。序論で著者

は日本科学の後進性を述べ、明治以降もその後進性の故、日本の技術発展が日本的特性

を帯びるようになったと述べている。後進性は学より、術。系統的でない。秘伝的傾向。直感

的で論理的でない。自然哲学的傾向が強い。等に現れているとしている。しかし、社会的な

要因による発達のポテンシャルは低かったが、日本人自身の有つ能力のポテンシャルは十

分にあると述べている。終戦後花開いた科学の成果も、明治・大正・戦前の昭和の先覚者が

播いた種があったからなのかもしれない。そういう点で、著者が明治維新を西洋のルネッサ

ンスに例えている事が印象に残る。心配なのは、現代は北朝鮮やイランがミサイルや核兵器

を持つ時代なのである。科学・技術の先進国ニッポンというお題目は通用しなくなる可能性も

あるのだ。インドや中国はルネッサンスの時代に入りつつあるのではないか。ルネサンスの

三大発明として活版印刷術、羅針盤、火薬があげられるが、既にその原型は存在していたよ

うだ。それらの技術を大々的に活用できた利用技術(ソフト)と生産力がルネサンスを支えた

のではないか。かつては文芸復興と学んだ記憶がある。科学だけでなく人間性の回復もルネ

ッサンスの一側面であったと思う。理論物理学者の恋愛事件もルネッサンス的意味で興味を

そそる。歴史を学ぶとは化石のような事実を並べるのではなく、歴史を書いた人の目で、更

にそれを第三者の目で歴史を見る事でもあろう。冒頭の著作も学界を去って二十数年後に

出版されている。自分としては終戦の数年前に同書が出版された事が信じ難かった。

2010年2月21日 (日)

甘えの構造:いとしきもの

2010/2/21

甘えの構造

日本人が日本人論に沸くのは何か不思議な思いがする。一時期、甘えの構造という本が話

題を集めた事があったと思う。甘えの逆の意味を現す単語を思い浮かべたが直ぐに出てき

ない。シソーラス辞典では幼稚、自分勝手、狎れる・甘える、他力、世話になるという意味が

ある。ふと思い出した、というより、秋霜という片言からたぐりよせたのが秋霜烈日という言

葉。夏に青々としていた里芋の葉などは一回の秋霜で完全に萎えてしまう。夏の厳しい猛暑

の時も同じようになる。ネットで調べると秋霜烈日―検事総長の回想という本があった。たし

か、読んだ記憶もある。ロッキード事件で捜査を指揮した伊藤栄樹東京地方検察庁検事(の

ち検事総長)の著書であった。当時は連日公聴会の証人尋問等の様子がテレビ中継され、

自分もテレビの前に釘付けにされた事を思い出す。確かに、甘えるという社会現象は全く無

意味ではなかろう。甘える人と人の間に介在する物と関係の在り方が問題だったのかもしれ

ない。要するに、甘えはあいまいな中間の存在を許す。その重心は色々な力関係で決まる。

その力関係には時の雰囲気も作用する。日本の契約には本契約に定めのない事案は誠意

をもって協議により解決するというような条項がある場合が多い。一方、西洋では神との契約

が文化の基礎にあるためなのか、合意した契約は厳しく履行することを求められる。最近の

風潮では政治公約をマニュフェストと言い換えて国民との契約であると流布されている。自分

は縦の物を横にしただけというものに胡散臭さを感じる質かもしれない。公約のほうがずっと

すきりしていると思っている。逆に公約といったら嘘がばれると心配しているのかかんぐりたく

もなる。公も約も字義通り解釈すれば嘘も押し通せないであろう。ともかく、日本は甘えて、

狎れるあえる余力すらなくなったのだろうか。まだ、至る所甘えの構造が沈潜しているのか。

2010年2月20日 (土)

身体髪膚:いとしきもの

2010/2/20

身体髪膚

身体髪膚これを父母に受く。年齢を重ねるとあなたは父親にそっくりだといわれる事がある。

同じ事を身内の者から言われると返答に窮してしまう。確かに、顔や風貌が似てくるのは

DNAのつながりで否定できない。しかし、しぐさや性格も似てきたとなると自分もそうかなーと

思わざるをえない。身体髪膚これを父母に受くという言葉は小学校の男性教師が教えてくれ

た。女性教師はこういう言葉を教えたがるのだろうか。女性から見ると産んだ子供は99%位

私のものよという意識ならば、父親の存在感は乏しくなり、身体髪膚これを父母に受くと言葉

が出にくくなるのではないか。ともかく幼少時に得難い教育を受けていたのかも知れない。出

典は孝経にあり、「~あえて毀傷せざるは孝の始めなり(身体髪膚、受之父母、不敢毀傷、

孝之始也)」と続くらしい。たぶん、その先生は皆の身体は父母から受け継いだのだから大

切にしなさいとさとしたのかもしれない。当時としては、昔の修身のようで、進歩的な先生にと

っては言いにくかった言葉かもしれない。学校の先生にはいろいろ幅広い先生がいて欲しい

と思うのは自分だけではないだろう。ところで、「あえて毀傷せざる」とは何を意味するのだろ

うか。身体髪膚を傷つけ損なうような場面・事態になってもそういうことをしないように踏みとど

まると言うことであろう。最大の身体の毀傷と言えば死に至る事故や自殺もそれに該当する

だろう。死んでしまいたいと誰でも思った事はあろう。しかし、大抵はその思いは何かの不安

を呼び起こし、その対策を自分でやれよという前向きのサインと受け止める事ができるので

はないか。意識に現れた死にたいという願望が増幅され正帰還状態になるとそれが押さえら

れなくなるのではないか。そんなときに、身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の

始めなりという言葉を思い出せば、ふとした迷いをうち消し、救いになる場合もあるのではな

いか。「身を立て道を行ひ、名を後世に揚げ、以て父母を顕はすは、孝の終りなり。」と続くら

しい。確かに、こういう価値観はどこかで現在も続いているだろう。凡人は別だが、政治家に

はその期待やチャンスもあるだろう。しかし、今日はどこかにブラックホールができてしまった

ようだ。やはり、第一ステップ、第二ステップでつまづいてしまうのではないか。自分を大切に

することは当然他人を大切にすることに通じてゆくべきだろうが。

2010年2月19日 (金)

映画理論:いとしきもの

2010/2/19

映画理論

何かの縁でテレビ関係の仕事に就いた。テレビの前に映画があり、映画の前に紙芝居があ

る。技術のレベルから比較すると相当に大きな変革があった。しかし、それを必要とする理

由は共通している。これは映像技術のソフト面である。ハード面ではソフトをよりよく使える手

段を実現することになるだろう。このテレビ、映画、紙芝居で共通するのは方形の画面に絵

を描くという原則であろう。作品を作るとき与えられた枠は絶対的である。テレビは電子ビー

ムで、映画は光束で、紙芝居は筆そのもので絵を描く。そんな訳で、映画などほとんど見ない

で映画の本などを読んだりした事があった。そこで、出合ったのがエイゼンシュタインの映画

理論。ともかく、映画の初期は一本の映画を撮るのも大変であったろう。映画作成者は観衆

にアピールする方法を考え実践しそれを理論化する。それがエイゼンシュタインのモンタージ

ュ理論につながったのだろう。WIKIPEDIAによるとエイゼンシュタインは日本語を習い、漢字

の構成等からインスピレーションを得たようだと記載されていて新しい発見をした。今日で

は、テレビも映画もあらゆる技術や理論も出尽くしてしまったのか。映像の作成・送出側もそ

の受け手も膨大な情報量を持て余しているようにも感じられる。テレビ画像も映画も自分が

プロデューサーになり、監督になり、カメラマンになったつもりで見れば興味が湧くのかもしれ

ない。最近は立体視テレビの実用化が話題になっている。画像が益々現実に近づくが、それ

は一面では画像の陳腐化にもつながる。かつてはマルチメディア云々が何度か業界の流行

となったが当たり前になってしまった。各社独自の立体テレビがどこまで普及するか興味が

ある。

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嗚呼 伊勢崎 非情

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    刃物という視点で多くの事例が取り上げられている。刃のある道具の理解にも役立つ。類書が少なく貴重な一冊。「すべり変形が切断の原理」という考え方で説明している。
  • 沼田 真   : 植物たちの生( 1972年 岩波新書(青版 833))
    「ご要望にお応えしてアンコール復刊(1988年岩波新書50年記念復刊) 地球生態系の中で自然を見直す」(腰巻きのフレーズ)。植物の知恵と戦略に人類は勝てるのか。
  • 出町 誠: 14_NHK趣味の園芸:よく分かる栽培12ヶ月  カキ(NHK出版2007年)
    初心者向け柿栽培参考書(新版)。旧版と比較すると楽しい。
  • 中村三夫: 13_NHK趣味の園芸:作業12ヶ月  カキ(NHK出版1996年)
    初心者向け柿栽培参考書(旧版)。新版と比較すると楽しい。
  • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
    細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
  • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
    著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
  • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
    ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
  • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
    やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
  • ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫訳): 08_サイバネティックスはいかにして生まれたか(みすず書房1956)
    情報と通信という現代社会に不可欠の基礎的な学問を作った著者の自伝とそれを通した科学史
  • 沼田 真(編): 07_雑草の科学(研成社1979)
    雑草を多面的に解説し防除の基礎も述べる

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MEMO 海外の博物館・美術館

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  • 項目のタイトル2
    POST IT :ブログ画面への張り紙に使える。
  • TYPE LIST事始め
    2010/8/4:MEMO等の表示に使える。 農作業で気になる自戒の言葉 ■畑の石ころはいつまで経ってもても石ころ(早く拾って片づけよという意味か)。 ■同じ石を二度拾うな(やってみると難しい)。 ■手ぶらで歩くな。 ■三つ先のことを読め。 ■適当な観察。 ■空を見よ(気分転換、休憩、天気を読む、腰曲がり防止)