氷山の下:いとしきもの
2010/4/7
氷山の下
萩原朔太郎は群馬生まれの詩人であるが、あまりなじめなかった。上州の空っ風の中を汽
車で帰る詩を読んだ記憶があるが、はっきり思い出せなかった。検索してみると、帰郷という
題の詩であったようだ。
わが故郷に帰れる日
汽車は烈風の中を突き行けり。
ひとり車窓に目醒むれば
汽笛は闇に吠え叫び
火焔(ほのほ)は平野を明るくせり。
まだ上州の山は見えずや。
詞書きに昭和四年の冬、妻と離別し二児を抱へて故郷に帰るとあるようだ。自分はこの詩を
読んだ時、最初の数行しか関心がなかったようだ。この詞書きを読んでも、十代前後では本
当の心情は理解できなかったと思う。心情というより、もっと突き詰めた何かがあるのだろ
う。それは、詩を通してしか表現できない。しかも、何かに突き動かされてそれが生まれる。
身を削るような詩作。読む方も辛い。しかし、大抵はそこまで迫れないのではないか。何か読
まない理由を見つけている自分に気付く。それならばと、たまたま、青空文庫で萩原朔太郎
の作品を調べたら「ラヂオ漫談」という随筆作品に眼が向いた。その作品で萩原朔太郎が「こ
れが私の始めてラヂオを聞いた時の印象である。」と述べていて、当時のラジオ音声の質は
蓄音機のように余り良くなかったらしい。ラッパがついていたようなので、増幅器は無かった
のか。しかし、萩原朔太郎は、「尤もその前から、非常な好奇心をもつて「まだ知らぬラヂオ」
にあこがれてゐた。」と述べており、自分の好奇心の強さを自慢しているような部分もあり、
詩という作品以外の知られざる側面があることに親しみを覚えた。書かれた内容から、大正
時代のラジオ事情を知ることができる。音楽についても、演奏会というような形式張ったもの
より、好きな音楽を好きなスタイルで聴けるのが最高であると述べている。今日が、まさにそ
のような時代になっているようにも思える。しかし、余りにも自由になってしまうと作品自体が
発散してしまいそうだ。ちなみに、WIKIPEDIAによると、日本初のラジオ放送は、1925年(大
正14年)3月22日午前9時30分に行われたとの事で、萩原朔太郎のラヂオ漫談」という随筆
は昭和初期のラジオ事情と言った方が良いのかもしれない。また、萩原朔太郎は俳句に関し
ては「郷愁の詩人 与謝蕪村」という作品があり、これも少しかじった記憶がある。青空文庫
では作業中との事で、ネットで読めるようになることを期待したい。与謝蕪村は俳人であると
共に画家でもあった。萩原朔太郎は与謝蕪村のセンス、感性を高く評価していたのかもしれ
ない。青空文庫で萩原朔太郎の随筆等詩以外の作品を拾い読みして、詩を海面に現れた氷
山に例えると、海面下の氷山の大きさにも気付かされたように感じた。海面下の氷山の部分
が意外でもあり、萩原朔太郎を随筆家・評論家的な身近な存在に感じさせてくれるようでもあ
る。ともかく、最初から氷山に登らなくても良いのではないかと思った。