01C_残照雑記

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2013年7月 5日 (金)

残照雑記:「国定忠治終世の地大戸見学日程」の思い出(6)=女石と関所の抜け道

2013年7月5日(金)
昨日は曇り。最高気温(℃) 28.5 16:41。ざっそう句:牡丹杏 幼き頃の 拾い食い。圃場整理。ヤブガラシの根掘り。果樹に這い上がった蔓を辿り根本を掘れば必ず掘れるのだがそれを怠ると年々根茎が太って行く。その根茎が地下を這い回っているが、直接見えない。見ようとすれば、心眼で見る以外にない。スモモが落果していたので、拾い食いした。完熟なのでうまい。子供の頃余所の家のスモモを拾って食べたのを思い出した。当時牡丹杏と呼んでいたと思う。広辞苑によると「スモモの一品種」とある。なんじゃこりゃ。

201374日の天気(AMEDAS

TAVE= 24.5 NO DATA
TMAX= 28.1 最高気温(℃) 28.5 16:41
TMIN= 20.7 最低気温(℃) 20.5 04:58
DIFF= 7.4  
WMAX= 2.8 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 4.7(東南東) 19:06
SUNS= 1.5 NO DATA
RAIN= 0.5 NO DATA

デジタル大辞泉の解説=「ハタンキョウの別名。」。
大辞林 第三版の解説=「植物の,スモモの栽培品種。 [季] 夏。」。
goo辞書=「はたん‐きょう〔‐キヤウ〕【×巴旦×杏】
:1 スモモの一品種。実は大形で先がとがる。とがりすもも。牡丹杏(ぼたんきょう)。《季 花=春 実=夏》「ひと籃(かご)の暑さ照りけり―/竜之介」
2 アーモンドの別名。」

調べるほど分からなくなった。漢字源で「杏」=「あんず」。すももの漢字は「李」。昔のスモモはアンズより小さかった?品種改良で大きな実が生るスモモを実が大きいアンズに例え、更に牡丹(花が大きい)という美称を付けて呼びなおしたものか。「牡丹李」では呼びにくい。バーバンクがスモモの品種改良をしたのを思い出した。

WIKIPEDIA「ルーサー・バーバンク。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF)」
日本語版WIKIPEDIAにはスモモの記述無し。

WIKIPEDIA「Luther Burbank。(http://en.wikipedia.org/wiki/Luther_Burbank)」
果樹の品種改良では「113 plums and prunes」の新品種を育成して筆頭。「Burbank's most successful strains and varieties include the Shasta daisy, the Fire poppy, the July Elberta peach, the Santa Rosa plum, the Flaming Gold nectarine, the Wickson plum, the Freestone peach, and the white blackberry. 」スモモのサンタ・ローザもバーバンクの育成品種。

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残照雑記:「国定忠治終世の地大戸見学日程」の思い出(6)=女石と関所の抜け道

日程の第7番目には、女石→関所の抜け道の入り口とある。女石とは女性のシンボルの形をした石らしい。写真を探したが普通の石にしか見えないが石が写った画像があった。昔は、それが抜け道(近道)の目印だったのかもしれない。すでに、廃道になっているのか道の存在は想像できなかった。さらに水牢の跡と言う場所も説明して貰った記憶があるが。確か、水牢は罪人を自白させたりする目的で使われたとか。多分、WEB情報では、東吾妻町 指定文化財一覧(http://www1.town.higashiagatsuma.gunma.jp/www/contents/1346140548768/index.html)の中の「池の薬師水牢の跡」の事と思われる。

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2013年7月 3日 (水)

残照雑記:「国定忠治終世の地大戸見学日程」の思い出(5)=加部安大尽の屋敷跡

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昨日は曇り時々晴れ。最高気温() 29.5 13:37。ざっそう句:ヒラリヒラ オハグロトンボ 飛んでった。二回目に播いたトウモロコシ区画除草。下仁田ネギ区画除草。トウモロコシ施肥。鉄砲ユリ、ニンジン区画除草。ジニア移植。雑草との格闘は終わることがない。その雑草の中に、トマトやナスが発芽している!夕方買い物。

201372日の天気(AMEDAS

TAVE= 24.3 NO DATA
TMAX= 28.8 最高気温(℃) 29.5 13:37 
TMIN= 21.2 最低気温(℃) 21.1 05:22 
DIFF= 7.6  
WMAX= 4.3 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 8.3(東南東) 14:11 
SUNS= 3.3 NO DATA
RAIN= 0 NO DATA

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残照雑記:「国定忠治終世の地大戸見学日程」の思い出(5)=加部安大尽の屋敷跡

日程の第6番目には、加部安大尽の屋敷跡とある。その一部が資料館になっているようだ。屋敷の頑強さを示すのがその石垣。当時、武家以外の石垣は丸石積みしか許されなかったそうだ。ところが、加部安屋敷の石垣は切石がその要所に使われている。

加部安左衛門は代々襲名されたようで、Aさんの説明では、加部安左衛門は明治の頃横浜に事業の中心を移して、地元の家業は疎かになったとの事だ。WEB情報では生糸商を営んだようだ。最近、富岡製糸場と絹産業遺産群がユネスコの歴史的産業遺産登録で脚光を浴びているが、富岡製糸場は官業の二次産業の部分を受け持っている。残りの三遺産がいわば民営の一次産業の部分だろう。絹産業の第三次産業部門が通商関係だが、その部分にどんな遺産が残っているのか。ともかく、絹産業の通商分野も注目する必要があるだろう。

明治の国力を支えた絹の国際的通商という点で、加部安左衛門がどのような活動をしたのか興味があるところだ。更に俳句にも傾注したとの事(琴堂:きんどう・加部かべ、名主/俳人)。もう一人、自分が注目している群馬県出身の人物で通商で成功した人物に伏島近蔵がいる。横浜の発展に大きく貢献した事より、群馬県より横浜の恩人として横浜での知名度が高いのではないか。

大正用水史によると、伏島近蔵は大正用水の開鑿アイデアも持っていたとの事だ。

WIKIPEDIA「伏島近蔵。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E5%B3%B6%E8%BF%91%E8%94%B5#.E9.A0.8C.E5.BE.B3.E7.A2.91.E3.81.A8.E9.8A.85.E5.83.8F)」

「加部琴堂 とは - コトバンク(http://kotobank.jp/word/%E5%8A%A0%E9%83%A8%E7%90%B4%E5%A0%82)」に、「加部琴堂 かべ-きんどう:1829-1894 幕末-明治時代の豪商,俳人。
文政12年生まれ。上野(こうずけ)(群馬県)大戸村の人。加部安左衛門12代目。俳諧(はいかい)を志倉西馬(さいば)に,国学を橘守部(たちばな-もりべ)に,儒学を亀田綾瀬(りょうらい)にまなぶ。安政5年(1858)横浜開港に際し,横浜に出店し生糸・麻などをあきなった。のち高崎に移住。明治27年5月9日死去。66歳。名は嘉重。別号に一籟居,屏山桜。句集に「穂長集」。」とある。

実業人から、さらに文化人への転身というのは、群馬では珍しいのではないか。それほど群馬県は文化のレベルが低いのだろうか。そういう点では、加部安左衛門も群馬文化のパイオニアとして注目に値するだろう。
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2013年7月 2日 (火)

残照雑記:「国定忠治終世の地大戸見学日程」の思い出(4)=道しるべ石と大戸の関所跡

201372()
昨日は曇り。最高気温() 28.9 15:22。ざっそう句:本命が ダメでその他が 盛り上がる。自由外出。案内のハガキを貰ったので出かけた。コースを間違えば、道を覚える。本命がだめなら、その穴埋めを考える。まさに自由外出。さて、昨日の暦(六輝)を見ると「先負」であった。その解は、午前凶、午後吉。何事も結果論は面白くない。実は、密かに練っていた次の一手が奏功した。

201371日の天気(AMEDAS

TAVE= 23.9 NO DATA
TMAX= 27.4 最高気温(℃) 28.9 15:22
TMIN= 21.5 最低気温(℃) 21.5 06:27
DIFF= 5.9  
WMAX= 3.7 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 7.3(東) 19:22
SUNS= 0.9 NO DATA
RAIN= 0 NO DATA

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残照雑記:「国定忠治終世の地大戸見学日程」の思い出(4)=道しるべ石と大戸の関所跡

日程の第4番目には、文化八年の道しるべ石、抜け道の入り口北とある。東吾妻町 指定文化財一覧(http://www1.town.higashiagatsuma.gunma.jp/www/contents/1346140548768/index.html)によると、「矢竹・塩ノ平の道標(東吾妻町須賀尾・大戸)」に相当するものかもしれない。これも画像は残っていない。と思っていたが、日程とルートは一致していないのでややデータの並び場所が異なっていた。
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日程の第5番目には、大戸の関所跡とある。ここが、見学の目玉である。残念ながら、国定忠治の処刑された地点がどこなのか聞くのを忘れた。また、処刑された国定忠治の遺骸の行方も諸説あるようだ。

かつて、高橋敏著「国定忠治」(岩波新書)を読んでその処刑の場面を思い浮かべた記憶がある。大戸は国定忠治処刑の地であり、慰霊の地でもあるようだ。国定忠治処刑の罪名が関所破りであるので、大戸が処刑地に選ばれたという説もあるようだが、真相はどうなのだろうか。当時既に、関所を通らなくても済む近道もあったらしい。関所も通関すべき者はその理由を示して通らねばならないという掟を守らせる手段であったが、影響力の乏しい平民は、近道を使っても目をつむっていたのだろうか。
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2013年6月30日 (日)

残照雑記:「国定忠治終世の地大戸見学日程」の思い出(3)=上州一の大尽加部安左衛門の墓地

2013年6月30日(日)
昨日は曇り後晴れ。最高気温(℃) 29.8 14:24。ざっそう句:一日が ばっさり二つ 昼寝して。ようやくタマリュウの改植が終了。最後にフルイで土をかけて灌水。一昨日購入したポータブルラジオを使い始めた。聞いたことがない外国メーカー製だが、AM/FM2バンドで安定している。最近は昔のラジカセのカセットがSDカードのMP3録音機に進歩しているようだ。が名前が分からない。録音機がICレコーダーと言うようなのでラジレコか。WEBで価格を調べると1万円前後。あれば便利。最近はめっきり深夜早朝ラジオを聞いていない。

2013年6月28日の天気(AMEDAS)

TAVE= 23.7 NO DATA
TMAX= 29.1 最高気温(℃) 29.8 14:24
TMIN= 19.8 最低気温(℃) 19.8 05:17
DIFF= 9.3  
WMAX= 4.2 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 9.5(東南東) 17:38
SUNS= 4.2 NO DATA
RAIN= 0 NO DATA

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残照雑記:「国定忠治終世の地大戸見学日程」の思い出(3)=上州一の大尽加部安左衛門の墓地

日程の第2番目は五町田一家親分村上嘉四郎墓地であった。これに相当する画像は見つからない。訪問したか否かの記憶もはっきりしない。

日程の第3番目に大戸の大運寺、上州一の大尽加部安左衛門墓地と記されている。忠治と加部安を結びつけたのは何か。忠治が処刑の前に所望したのが加部安の酒だったとか。忠治にとってはまさに水杯となったのが加部安の酒。

改めて、墓碑の側面の戒名を拡大して見ると、「居士」と「大姉」が並んでいるのが何とか読みとれた。夫婦墓というのは今では珍しいようだが、加部安左衛門墓碑が夫婦墓ならまた、上州人の心意気を伝えているようにも感じる。加部安左衛門を地域一番の大尽まで盛り立てた裏にはおっかさんのように頼りになる女性がいたのかもしれない。Aさんは、加部安は俳句などに現を抜かしていたので身上が傾いてしまったと語っていたのが印象に残っている。

尚、上州の三大尽は一:加部 二:佐波 三:鈴木だそうだ。bingで「上州の三大尽」を検索=http://www.bing.com/search?q=%E4%B8%8A%E5%B7%9E%E3%81%AE%E4%B8%89%E5%A4%A7%E5%B0%BD 。
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追記(2015/9/9):「0031_国定忠治関連記事目次」:

(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/0031_KUNISADA-CYUUJI_KIJI.html)。(このページへのリンク

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2013年6月27日 (木)

残照雑記:「国定忠治終世の地大戸見学日程」の思い出(2)=一倉家の墓地

2013年6月27日(木)
昨日は曇り後雨。最高気温(℃) 23.5 10:32。ざっそう句:菜園に オクラが無けりゃ 夏は来ぬ。畑仕事をしようと外に出たらすぐに雨が降り出した。運良く、台所から海苔の筒に入れた昨年採取した野菜の種が出てきた。昨年オクラは二回目を6月初めに播いたので、それより1月ほど遅れている。オクラがオクレテルではギャグにもならない。とりあえず、ポットに種を播いて屋内へ退散。それにしても、種子を海苔の筒に入れて台所で保管したのが失敗。ともかく、オクラ入りにはならなかったので運が良ければ夏の食卓に間に合うだろう。

2013年6月26日の天気(AMEDAS)

TAVE= 20.9 NO DATA
TMAX= 23 最高気温(℃) 23.5 10:32
TMIN= 18.8 最低気温(℃) 18.8 24:00
DIFF= 4.2  
WMAX= 3.4 大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 8.2(東) 17:32
SUNS= 0 NO DATA
RAIN= 36.5 NO DATA

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残照雑記:「国定忠治終世の地大戸見学日程」の思い出(2)=一倉家の墓地

その第1番目の別行に「忠次の妾おとくの居候した一倉家の墓地」という書き込みがある。その日程に従って訪問した墓地のデジカメ画像も残っていた。WEB上には墓地訪問の記事が見られるが、自分にとって墓地訪問はなんとなく重苦しさを感じる。

「おとくさん」こと菊池徳に関しては、「国定忠治を男にした女侠 菊池徳の一生 高橋 敏著  朝日新聞社」に詳しい。「おとくさん」の事を知ったのもこの頃だったと思う。

「国定忠治生誕200年(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2008/10/post-a263.html)。(2008/10/18)」

Cさんも自分の足で、菊池徳について調べていた。菊池徳は「国定忠治を男にした女侠」と勇ましい肩書きを貰い、キャッチコピーとしては人目を引くが実際はどうだったのか。Cさんは菊池家の現当主・元町議の方に講演を依頼したとのことだったがついに実現できずに終わってしまったようだ。前記書物の内容は、地元群馬の女性菊池徳を通して、当時の女性の生き様を教えてくれる希有の内容だけに、肩書きだけは残念だ。

たまたま、「五目牛南組遺跡(歴史時代遍) 編集・発行/(財)群馬県埋蔵文化財調査事業団 平成4年11月30日発行」を見ていると、「(3)特論 A 近世村五目牛と四農家の素描  高橋 敏」という記事が掲載されていた。同書から、高橋 敏の所属・肩書き等は不明だが、整理協力者の筆頭にリストアップされている。遺跡の調査報告書にこのような記事が掲載されるのは珍しい。しかし、二度と不可能な破壊調査において、このような記録が残された事に敬意を表したい。この報告書も、菊池徳を歴史的に・客観的に理解する良い参考書ではないか。

墓地は特異な空間ではあるが、完全に閉ざされた空間ではない。善意でそこを訪れる人々を拒絶まではしていないと思う。訪れる者もそこから何かのメッセージを受け止めようとするのではないか。そんな事を思いながらの墓所巡りではあった。
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2013年6月22日 (土)

残照雑記:「国定忠治終世の地大戸見学日程」の思い出(1)=大久保一家の墓地

2013年6月22日(土)
昨日は曇り一時雨。最高気温(℃) 24.1 12:08。ざっそう句:うたた寝て パソコンファンに 目を覚ます。宅内閑居。気温が上がらず少し肌寒い。畑ではポータブルラジオを聞いている事が多いが、最近調子が良くない。時々音声が途切れる。叩いてショックを与えると鳴り出す。接触不良の症状だが何のショックもないのに途切れる理由が分からない。ケースを開いて中を覗いたが原因不明。このような中途半端な症状は最もたちが悪い。

2013年6月21日の天気(AMEDAS)

TAVE= 21.7 NO DATA
TMAX= 24 最高気温(℃) 24.1 12:08 
TMIN= 19.6 最低気温(℃) 19.6 24:00
DIFF= 4.4  
WMAX= 2.3 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 5.4(南東) 12:32 
SUNS= 0 NO DATA
RAIN= 1.5 NO DATA

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残照雑記:「国定忠治終世の地大戸見学日程」の思い出(1)=大久保一家の墓地

数年前、何かの縁で知り合った四人(Aさん、Bさん、Cさん、D:筆者)で国定忠治(通称)が処刑された大戸の関を見学することになった。Aさんは国定忠治研究家。Bさんは郷土史家、Cさんも国定忠治ファンのようだった。Cさんが、知り合いのAさんを誘って、Bさんに国定忠治について解説してもらおうとした企画のようだった。Dは国定忠治には三氏ほど関心は薄く、アッシー君程度の役割ならと同行させてもらった。

その時までに、Aさんは封筒に入れた資料を用意してくれていた。封筒の表に「国定忠治大戸分在中」と几帳面に毛筆で書かれている。その中に1ページの日程表がある。その第1番目に大久保一家墓地があった。Aさん、Cさんは既に故人になられている。Dも当時の事を忘れかけている。

日程は第10番目は沼田の「?林寺」まであるが、この寺は帰りの心配があるので途中で引き返した記憶がある。沼田の「?林寺」手書き文字で解読できず、まだ特定できていない。夕方、Aさん宅に帰着すると、表紙に「国定忠治吾妻之部 大戸の忠治地蔵」と書かれた冊子を復習用にくれた。その冊子には複写禁止と書かれていた。文末には、「~後世の人のために文書を作成して残したいと思って居ます。」とかかれている。

もらった資料は書棚にしまったままだったが、たまたまとりだして読んでみて、なぜくれたのか何となく分かったような気がした。言われるままに車を運転しただけなのでもう場所も忘れている。デジカメデータはかろうじて残っている。とかく、親の道楽を理解・評価してくれる子息は少ない。結局、親の代ですべて散逸してしまう事が多いのが現実のようだ。

Aさんは、「国定忠治こと長岡忠次郎の研究に一筋 六十年 親分の眠る大戸へ出掛け尋ねて七十回」と書いている。Aさんがそこまで情熱を傾けたのは何か。
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追記(2015/7/10):「0031_国定忠治関連記事目次(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/0031_KUNISADA-CYUUJI_KIJI.html)。」(この目次へのリンク

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2012年6月29日 (金)

残照雑記:当世の語り部

2012年6月29日金曜日
昨日は晴れたり曇ったりの天気。タマリュウの改植。ドクダミが混じっているので手で除草しても不十分。堀上げてドクダミの根を除去しつつ、タマリュウの株分けをして植え直す。株は数倍に増えているので、余った株は別の場所に移植。モデル区画として作業。そこに、近所のおばさんがぶらりとやってきた雑談。もう一人加わり鼎談となった。

2012年6月28日の天気

TAVE= 21.6
TMAX= 26 最高気温(℃) 26.8 15:13
TMIN= 16.7 最低気温(℃) 16.5 04:46
DIFF= 9.3
WMAX= 3.3 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 6.0(東南東) 14:40
SUNS= 3.8
RAIN= 0

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残照雑記:当世の語り部

自分の幼少時代の事を振り返ろうとしてもその時代の事を知っている人は少ない。自分の記憶に微かに残っている事でも、当時の人の記憶には鮮明に残っている。昨日の道ばた鼎談も色々面白く時が経つのも忘れた。近所のおばさんも当世の語り部に思えてくる。そんな事を聞いても、何もならないと言ってしまえばそれまでだ。

トマトを沢山作った話も、昔のことで、ハウスなど無い。田んぼに、竹棒を立てて支柱にしていた。そういえば、そんな光景も思い出す。そうして、あのトマト独特の香りを思い出す。ある時ある人が、地域の人に大勢で押し掛けられて、市会議員に出てくれと懇願されたという話も面白かった。家には、牛馬がいてそいつらの世話が大変だから出ないと断られたという話だ。それならという事で、別の候補者探しが始まったらしい。昔は、出たい人より、出したい人という風習もあったようで興味深くその話を聞いた。

当時の田植えについて。人手の無い農家は、田植え作業を請負に任せたとの事だ。請負は自分の人脈を通じて人足を集めていたらしい。これも田植機が普及する前の情景だったようだ。ともかく、当時の田んぼは、田植えが始まると人々が沢山出てきて活気を帯びてきたのはまだ記憶に残っている。自分は、田植えより、その前作業の苗散らし等をした記憶がある。田植えのプロが田植えをする時は、人に負けまいと必死にがんばるので、ペースの遅い子供は邪魔になるので、除外されていたのではないか。

2011年3月19日 (土)

かみつけ女流歌人 雅:絆(きづな):歴史の転換:阪神淡路大震災を越えた東北関東大震災の死亡者数(改題):残照雑記:ノモンハン事件に従軍した父の戦友・新井正明氏の事等:110319。

歴史の転換:阪神淡路大震災を越えた東北関東大震災の死亡者数(改題):残照雑記:ノモンハン事件に従軍した父の戦友・新井正明氏の事等

追記(2018/01/19):記事整形、過去BLOG再読、印象・コメント等:埋もれていた記事のタイトルを内容に相応しく、検索にかかりやすくするため修正した。尚、再投稿もしておく。


2011/3/19
歴史の転換:阪神淡路大震災を越えた東北関東大震災の死亡者数

今朝6時のNHKニュースで東京電力は電力需要予測から本日の計画停電は見送られると報じた。名ばかりの計画停電に翻弄され、交通信号が停止した為に死亡事故が起こる等二次災害事故のような事故も多発している。現在行われている計画停電の妥当性を大至急検証して、安心安全な電力供給体制を早急に樹立して頂きたい。思うに「安心安全」という基本的な言葉が既に蒸発して消えてしまったかのような現実となっている。これでは企業も民間も毎日の仕事が成り立たない。本日は北関東自動車道の全線開通の日であるが式典は中止された。東北関東大震災が北関東自動車道全線開通にも影響した。

東北関東大地震が起きてから七日目の昨日、この大震災の死亡者数が、戦後の自然災害としては最大を記録した。また、東京電力福島原発の事故レベルが5に上昇し、日本の原発事故としては最悪の事態になった。まさに、日本の運命の転換点にさしかかっているように感じる。それを産経ニュースは以下のように伝えている。

産経ニュース(http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110318/dst11031818180074-n1.htm):「福島第1原発事故「レベル5」 米スリーマイル並み(2011.3.18 18:17 );
 経済産業省原子力安全・保安院は18日午後の会見で、日本大震災で被災した福島第1原子力発電所の連続事故について、国際原子力機関(IAEA)が決めた8段階の国際原子力事象評価尺度(INES)で「レベル5に相当する」との暫定評価を発表した。原子炉が炉心溶融を起こし周辺に放射性物質が放出された米スリーマイルアイランド原発事故(1979年)と同レベルとなる。」

産経ニュース(http//:sankei.jp.msn.com/affairs/news/110318/dst11031820220081-n1.htm2011.3.18 20:21 ):死者・行方不明者1万7227人 18日午後7時現在 警察庁;
「警察庁によると、18日午後7時現在、東北など12都道県警が検視などで確認した死者数は6911人に上り、平成7年の阪神淡路大震災の死者数(6434人)を超えた。」

地震と津波による死傷者は自然災害と見なすには躊躇しないだろう。一方、原発の危険度5という評価は地震と津波を前提条件とするが、自然災害とは異質なものと考えざるを得ない。原発の危険度5の状況で適切な対応が成功しないと更に事態は悪い方向に向かう。なんとか進行を阻止してもらいたい。

阪神淡路大震災にまつわる記憶として自分の父が被災地の戦友の安否を必死に確認したがった事があった。戦友とは新井正明氏(群馬県出身)。当時父は入院加療中で安心出来ぬ容態で家族が交代で付き添いをしていた。そんな時に阪神淡路大震災が起きた。それを聞いた父はしきりに関西在住の戦友新井正明氏の事を気遣った。新井正明氏と父はノモンハンで従軍した時の同期兵だった。終戦後は同期兵が戦友会を作り戦友の交流は50年以上にわたり、高齢になり活動が困難になって同期会は解散した。戦争の事を余り話さない父であったが、兵営を一歩外に出れば実弾が飛び交う戦場であった。いつ命を落とすか分からない恐怖の中の軍隊生活を送った。

戦争を振り返り、新井正明氏が住友生命の社長になってからも、あいつは本当に立派なやつだと口にしていた。新井正明氏が東大卒に対して父は小学校卒でしかないが、軍隊の同期兵と言うことで同じ付き合いが出来た事を喜び誇りにしていた。新井正明氏の年譜をみると昭和12年東京帝国大学(現東京大学)卒業、昭和12年住友本社入社、住友生命に配属、昭和13年召集、昭和14年ノモンハンでの戦傷により右脚を切断とあった。今調べてみて、新井正明氏が父より数年先輩であると分かり、改めて父の言葉を実感した。学歴や年齢にこだわらずつき合ってくれたのだ。母は何回か住友生命に電話をかけて安否を尋ねたが丁寧に断られたようだ。しかし、ノモンハンの同期兵のだれそれと言うと、その話が新井正明氏本人に伝わったらしく、無事である事と住所を教えてくれた。父はそれを聞いて安心し、その後しばらくして他界した。葬儀等が一段落してから母が新井正明氏にこちらの消息を伝えると丁寧な哀悼の手紙を頂いた。新井正明氏は90歳の長寿を全うされたが父のお礼を失念していた。改めて氏のご冥福をお祈りします。

WEBで新井正明氏の事を調べると従軍期間は一年以下。父も20歳前半の生死と寝食を共にした戦場体験とその後の同期としての付き合いを通して、新井正明氏の事を語ってくれたのだと思う。WEBで新井正明氏が陽明学者安岡正篤を師と仰いでその後の活動の基礎としている事はつい今知ったことである。そのきっかけがノモンハンでの右脚を切断した事であるらしい。ハンディを克服して会社のトップに上り詰めたが、会社運営でも見事な人事を行い、その引き際も潔く、松下政経塾理事長もつとめたようだ。陽明学とは今時流行っていないが、知行合一を説くらしい。日本が元気な頃、安岡正篤に師事した政財界の要人は多い。今、日本は東北関東大震災という国難に匹敵する災難のさなかにある。地震、津波、原発の放射能等それに直面している多くの人々がいる。まさに生命の危機と背中合わせの戦場と同じ状況のようでもある。誰もがそういう人々の安否や安心を気遣っている。生死と寝食を共にする事で強い絆が生まれ、生死の危機や喪失したかけがえのないものすべてを克服する事で新しい一歩を踏み出せるのではないか。東北関東大震災に際して改めて新井正明氏の事を思い出した。新井正明氏が今日の東北関東大震災を見たらどんな助言を頂けるのだろうか。

昨日の天気

TAVE= 4.9
TMAX= 11.6
TMIN= -1.3
DIFF= 12.9
WMAX= 5
SUNS= 11.2
RAIN= 0

以下本題。

かみつけ女流歌人 雅:絆(きづな)

歌題=絆(きづな):

■まどろみの なかの幼日 春の野を 探せよ探せ 母に逢ふため 6 阿部 貞子

介護や死別を通して、幼い時の母への思いは益々つのる。そんな気持を探せよ探せと率直に詠っている。

2010年4月28日 (水)

戦後の共同風呂(2):いとしきもの

2010/4/28

戦後の共同風呂(2)

2009/5/14の記事に戦後の共同風呂について書いた。それから約一年の間にその風呂に関

する話をいくつか耳にした。日常の会話でわざわざ戦後の共同風呂を話題にする事もない。

話した人の脳裏に残っている事が半世紀以上も後になって会話の中にぽつりと出てくるの

だ。それを聞き流すと一つの記憶が消えて行くような切ない感じがする。自分が接ぎ木したミ

カンの苗を近所の家に植えに行った。お茶を頂いて色々話をする内に戦後の共同風呂に話

が及んだ。風呂を沸かすのに鈎型に折り曲げた二本の電線を引っかけて繋いだので怖かっ

たという話であった。この話により電力を使用した電気風呂である事が分かった。ではなぜ、

そんな怖い方法だったのか。既に話は別の方へ向かっていたので詳しくは分からない。電気

料を節約する為の盗電であったのだろうか。しかし、電気の使用契約も色々あったと思う。使

う器具とその台数から決める固定電気料と使った電力料に応じて支払う従量電気料というの

が基本の二方式であろう。敗戦直後で電力計も十分供給されていなかった可能性もある。共

同風呂という事で利用時間も限定されている。ひょっとすると共同風呂の契約は固定料金で

あった可能性もある。それならば、何故電線を引っかけて通電したのか。きっと、配電盤やス

イッチ箱も資材不足で無かったのではという推測も可能だ。風呂を沸かす担当者は電気料を

節約する事と早とちりしたのかもしれない。要は戦後の共同風呂が地域の衛生・健康維持と

労力の節約に大きく貢献した事である。電力事情の良くない時代にそれを実現した先人達の

努力も忘れてはならない。その結果として仕事に専念でき生産した農産物も食糧不足を解消

するという社会貢献に役立っているのである。最近、市議選挙の応援に来た長老もこの共同

風呂について言及した。まだ、多くの人の記憶の中に共同風呂の事が残っている。当地域は

他地域では出来なかった共同風呂という先進的な事業をやったと振り返った。そうして若手

の人々がニシンを使ったおかずの炊き出しを休日にやった例も話した。各家庭はおかずつく

りもじゅうぶんではなかったので、ありがたかったようだ。当時はニシンも豊漁であった。蛋白

源の補給には最適であったろう。困った時は老いも若きも共同して助け合ったという終戦直

後の話を聞くことができた。こういう体験を共有することにより地域の底力が生まれてくるの

であろう。

2010年3月22日 (月)

ひいぼり:いとしきもの

2010/3/22

ひいぼり

つれずれに書く。記憶から消えそうな記憶。極幼少の頃、父がひいぼりに連れていってくれ

た。ひいぼりとは夜間の魚突き。カンテラとヤスが必要になる。実際にやった記憶はないとか

つて書いた。その時の光景は、自分は田んぼの畦にぽかんと一人で立っている。父が田ん

ぼに入って左手にカンテラを下げて、右手にヤスを構えているという静止画に近い記憶しか

ない。何回も行った記憶もない。年齢を考えると、戦争から復員して、ようやく父も幼い頃を思

い出すゆとりができて、子供の頃にした、魚突きの遊びをしたくなったのではないか。おそらく

ヤスも手作りだったと推測する。カンテラも空き缶に灯油を入れてひもで垂らした程度のもの

だったと思う。自分より、1~2回り年輩の人はひいぼりをしたかもしれない。そんな、昔話を

聞く機会もほとんどない。カンテラは照明の他に一種の集魚灯の役割をするのかも知れな

い。時期は田んぼに水があり、稲がそこそこ大きくなった頃であったようだ。何をどれだけ捕

ったかもまるで記憶にない。ひょっとすると、昼間にこのような魚捕りの遊びをするのも気が

引けて、夕闇にまぎれて、子供の遊びにかこつけて連れていったのかも知れない。ともかく、

父親が遊んでくれたという確かな記憶ではある。今、その記憶があるのは自分だけなのであ

る。追記。これもつれづれなるまま。書いてからほぼ一月経た。ヤスの事で木綿針を思い出

した。自分もヤスを手作りしたか、しようと思っていたようだ。木綿針を数本棒の先に立てた

ようなかすかな記憶がある。それもはっきりしないのだが。気になったのがひいぼりという言

葉。辞書にもない。インターネット検索にもかからない。同じ漁法でひぼり、夜ぼりというのは

あった。<ぼり>という言葉が何か漁法に関係しているようだ。

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    刃物という視点で多くの事例が取り上げられている。刃のある道具の理解にも役立つ。類書が少なく貴重な一冊。「すべり変形が切断の原理」という考え方で説明している。
  • 沼田 真   : 植物たちの生( 1972年 岩波新書(青版 833))
    「ご要望にお応えしてアンコール復刊(1988年岩波新書50年記念復刊) 地球生態系の中で自然を見直す」(腰巻きのフレーズ)。植物の知恵と戦略に人類は勝てるのか。
  • 出町 誠: 14_NHK趣味の園芸:よく分かる栽培12ヶ月  カキ(NHK出版2007年)
    初心者向け柿栽培参考書(新版)。旧版と比較すると楽しい。
  • 中村三夫: 13_NHK趣味の園芸:作業12ヶ月  カキ(NHK出版1996年)
    初心者向け柿栽培参考書(旧版)。新版と比較すると楽しい。
  • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
    細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
  • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
    著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
  • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
    ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
  • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
    やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
  • ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫訳): 08_サイバネティックスはいかにして生まれたか(みすず書房1956)
    情報と通信という現代社会に不可欠の基礎的な学問を作った著者の自伝とそれを通した科学史
  • 沼田 真(編): 07_雑草の科学(研成社1979)
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MEMO 海外の博物館・美術館

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  • 項目のタイトル2
    POST IT :ブログ画面への張り紙に使える。
  • TYPE LIST事始め
    2010/8/4:MEMO等の表示に使える。 農作業で気になる自戒の言葉 ■畑の石ころはいつまで経ってもても石ころ(早く拾って片づけよという意味か)。 ■同じ石を二度拾うな(やってみると難しい)。 ■手ぶらで歩くな。 ■三つ先のことを読め。 ■適当な観察。 ■空を見よ(気分転換、休憩、天気を読む、腰曲がり防止)