08B_身辺雑記(田舎老人徒然草)
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2010年4月 2日 (金)

桑園:いとしきもの:昭和万葉集:身辺雑記:田舎老人徒然草:老人の寝言:嘘ニュース作って苦笑四月馬鹿。100402。

2010/4/2

昭和万葉集:身辺雑記:田舎老人徒然草:老人の寝言:嘘ニュース作って苦笑四月馬鹿

昨日は四月馬鹿であったが、余り話題がない。お茶友がいた。それならばと、その場で重大ニュースを作って皆で発表し合った。あの人が本当の事を語りました。この嘘ニュースは受けなかった。古狸に女がいました。この嘘ニュースはやや受け。ある人が化かしたのは女かいと突っ込みをいれて笑いを取った。お茶は終わっても、気持ちは最近の天気のように冷たくさえない。いとしきものというタイトルでブログを書いているが、古語辞典をたどると「厭う」という動詞にたどり着いた。いやだ、うとましいという心情を行動等に現わすことであろう。一面憂き世では子供・老人は厭うべき存在であった。しかし、その弱さに気付くと可哀相だという心情も生まれる。「いとほし」という、かわいそうだ、気の毒だ、ふびんだという関連語がある。言葉も時と共に移ろうようだ。きらきらと、明るく輝く言葉。「いとし」に「愛」を当てるのは最近のことなのか。「いとし」にも古い尻尾が付いていたようだ。ともかく、この世から姿をけしてゆくものには憐憫の情が湧いてくる。桑園もその一つであろう。

桑園

桑園に資本の威力おもはせてレイヨン大工場またたくまに建つ

昭和萬葉集3巻。華麗な都市文明 発展と変貌の区分にあった短歌である。

養蚕は農家の主要な収入源であった。しかし、絹が発展途上国から安価に輸入されるように

なり、採算は合わなくなった。絹がブラジルから入ってくるようになったほどだから、もう蚕もだ

めだなと父がつぶやいたのを忘れない。移民でブラジルに住んでいる友人が日本で自動車

関係の仕事についており、我が家を訪問した頃の記憶である。この自動車産業も栄枯盛衰

の流れにあるようにさえ思われてしまう。戦後、一時的に養蚕が好況の時があったがその後

は衰退の一途をたどった。既に産業遺産という段階になってしまった。今でも蚕屋があちこち

残っているが物置程度にしか使われていない場合が多いと思われる。しかし、既に昭和10年

代には化学繊維が大量生産され始めた事をこの歌は教えてくれる。荒れ野にレイヨン大工

場がたつのならまだしも、同じ繊維の絹を生産する原料を供給する桑園が取り崩されてゆく

光景に資本の威力以上の感慨も受けるのである。父は桑の木を掘り上げて、その後に花水

木を植えた。一時は公園や街路樹として、花水木の需要はあったが、今それを持て余してい

る。春になると遠くからもその花がみえる。せめてものなぐさめか。レイヨンは辞書に無かっ

た。レーヨンで引くと人造絹糸と出てきた。rayon。WIKIPEDIAによると「レーヨン (rayon) は

に似せて作った再生繊維であり、昔は人絹(じんけん、人造絹糸)、ステープル・ファイバーか

らスフとも呼ばれていた。レーヨンは光沢(仏:luster)と綿 (cotton) を組み合わせた言葉であ

る。(英語版:Rayon is a manufactured regenerated cellulose fiber. Because it is

produced from naturally occurring polymers, it is neither a truly synthetic fiber nor a natural

fiber; it is a semi-synthetic fiber.[1] Rayon is known by the names viscose rayon and art

silk in the textile industry. It usually has a high lustre quality giving it a bright sheen.)」

レーヨンの原材料の繊維自体は自然物であるようだ。それを化学工業的に繊維する。科学

の進歩と資本主義の利潤の追求という論理から当然の方向であったようだ。桑園を潰すのも

早いが、大工場もまたたくまに建つ。資本の威力にひれ伏す以外にない。それと共に、天然

繊維の絹は滅び、その代用となる人造絹糸が栄える。同じ様なパターンが幾つもある。

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追記(2018/08/09):タイトル変更。嘘ニュースの記事に引用する為。

2010年2月21日 (日)

甘えの構造:いとしきもの

2010/2/21

甘えの構造

日本人が日本人論に沸くのは何か不思議な思いがする。一時期、甘えの構造という本が話

題を集めた事があったと思う。甘えの逆の意味を現す単語を思い浮かべたが直ぐに出てき

ない。シソーラス辞典では幼稚、自分勝手、狎れる・甘える、他力、世話になるという意味が

ある。ふと思い出した、というより、秋霜という片言からたぐりよせたのが秋霜烈日という言

葉。夏に青々としていた里芋の葉などは一回の秋霜で完全に萎えてしまう。夏の厳しい猛暑

の時も同じようになる。ネットで調べると秋霜烈日―検事総長の回想という本があった。たし

か、読んだ記憶もある。ロッキード事件で捜査を指揮した伊藤栄樹東京地方検察庁検事(の

ち検事総長)の著書であった。当時は連日公聴会の証人尋問等の様子がテレビ中継され、

自分もテレビの前に釘付けにされた事を思い出す。確かに、甘えるという社会現象は全く無

意味ではなかろう。甘える人と人の間に介在する物と関係の在り方が問題だったのかもしれ

ない。要するに、甘えはあいまいな中間の存在を許す。その重心は色々な力関係で決まる。

その力関係には時の雰囲気も作用する。日本の契約には本契約に定めのない事案は誠意

をもって協議により解決するというような条項がある場合が多い。一方、西洋では神との契約

が文化の基礎にあるためなのか、合意した契約は厳しく履行することを求められる。最近の

風潮では政治公約をマニュフェストと言い換えて国民との契約であると流布されている。自分

は縦の物を横にしただけというものに胡散臭さを感じる質かもしれない。公約のほうがずっと

すきりしていると思っている。逆に公約といったら嘘がばれると心配しているのかかんぐりたく

もなる。公も約も字義通り解釈すれば嘘も押し通せないであろう。ともかく、日本は甘えて、

狎れるあえる余力すらなくなったのだろうか。まだ、至る所甘えの構造が沈潜しているのか。

2010年2月16日 (火)

クレペリンテスト

2010/2/16

クレペリンテスト

人間色々なテストを受ける。評価を受けるのもそのテストを通してなされる場合が多い。従っ

て、評価されたければそのテストを受容しなければならない。そんな事を、幼少時代から延々

と老後まで続けるとテスト絶対感が完全に身に付いてしまう。ともかく、テストはテストの結果

がテストにかけたコスト・時間以下で収まるというテスト実施者側の都合が支配する。幼少の

頃、ひよこの雄と雌を選別する仕事がいい金になると聞いた事がある。養鶏用に生まれたひ

よこは雄であっても雌であってもどちらが幸せか分からない。雄雌の選別は幼鶏業者の都合

なのである。従って、現代社会でテストを受けようとする者も先刻実施者の低意を見抜く必要

があるのかもしれない。テストなど手段に過ぎないと。テストが必要悪になってしまう。かつ

て、小中学校の頃の市販の試験用紙の裏などに試験の目的などが印刷されていた事があっ

た。時間が残っている時はこれを読んでチェックした記憶がある。実際に試験問題を作り、実

施する人間は合格者を使う側でもなく、お雇いの人間がそれなりの意気込みでつくるのかも

しれないが、ときにはうんざりする場合もあるのではないかと思う。クレペリンテストという名前

を思い出した。多分人生の一時期に受けさせられたのではないか。はっきりした記憶は無

い。知能検査といってIQ値がもてはやされた時期もあったと思う。テスト偏重と市販テスト業

者との癒着等の反省から市販テストは禁止されたと記憶しているが、現在はどうなっている

のだろうか。ともかく、テストというとペーパーテストを思い浮かべてしまうが、実技、論文、創

作等ある人間の能力を評価する方法は無限にある。ペーパーテストの序列だけで人生の大

半が決まってしまうような社会には未来が無いのではないか。教育が資格という階段の登り

口である事に異論はないであろう。一度の人生において、誰にでも、希望するどのような職種

にも就ける機会を保証するような多様な資格制度が必要であろう。それも、鵜飼いの鵜が吐

き出した獲物を一回で評価するようでは当たりはずれが大きい。弁護士、医師等のあらゆる

資格は進級制にする。看護師から医師への職業経路も作る。そうすれば意欲がある人材は

看護師という資格から医師を目指すことが出来る。要は資格は絶対的ではない。資格者団

体は互いに棲み分けしているが、もはやそれだけでは社会は硬直化してしまうのではない

か。当然、資格審査は定期的・公的・公正に行う。各級の滞在上限期間も定める。医師不足

も弁護士過剰も制度設計が現状に合っていないのが一因であろう。人口が減少に向かう長

寿社会において、生涯学習・人材の流動性の確保とマルチタレント化は不可欠であろう。例

えば、医療過誤事件においては一級弁護士より、四級弁護士兼四級医師の方が良い仕事

ができるのではないか。自分の人生に意義のあるテストならば前向きに立ち向かうだろう。

専門家万能の時代になってしまったが、専門家がカバーできない部分に死角が出来てしま

う。裁判員制度はそういう制度的なほころびのつぎあての意味があるだろう。本来ならば、民

事事件を優先して実施すべきであったのではないか。裁判の究極的目的は事件の発生防止

ではなかろうか。民事事件は社会人の常識力が最も発揮できるだろう。当然、民事事件が減

れば刑事事件も減るだろう。ちなみに平成19年の新受訴訟件数は民事2256千件、刑事

1342千件とある。http://www.stat.go.jp/data/nenkan/zuhyou/y2512000.xls

2010年1月27日 (水)

ランキング

20101/27

ランキング

何事も数を確保すればビジネスになる。その典型がランキング。そこには需要と供給というビ

ジネス原理が働いているようにも見える。検索エンジンも色々なものがあるがついつい巨人

の足元にひざまづいてしまう。いくつかのキーワードで絞り込めばマイナーな情報も探す事が

出来るのであろうが、そこまで気合いが入らない場合が多い。ネット上に何十万、何百万の

情報があっても大抵は上位の10~20件でお手上げになる。一般論として検索には昇順と

降順がある。数十年前、ボーリングが隆盛であった時期があった。そこでも得点という序列

がゲームの大半を支配してしまう。たまたま、ブービー賞と言うのをもらって、こういう賞もあっ

たのかと思った。トップが脚光をあびるのは当然なのかもしれないが、ゲームの参加者として

はその逆順も同じだけ価値があるのではないか。ラストが一つ一つ欠落してゆくとトップもなく

なってしまう。かつては、<春うららタケが乗っても負け続け>という句を作った。いまでは、

<春うららタケが乗っても春うらら>の方が愛しく思う。検索もアクセスの少ない順から表示し

てくれればと思うことがある。これでは、利用者の大部分が不満を持つだろうから、オプション

でそういう検索を提供してくれると有り難い。更に言えば、検索オプションはランダム検索、ア

クセス頻度や更新頻度等は数段階設けて頂くと痒い所に手が届くようになるかもしれない。と

ころが、気まぐれに検索していたら、<検索下位1000位からの逆ランキング表示するサーチ

エンジン「1000.sc」>というのがあった。これは1000位から降順に並べるのか。ともかく、本

体のサーチエンジンと連携したサービスのようで、サーチエンジンを選ぶようだ。使えないサ

ーチエンジンが表示されていて、しきりに試したがダメであった。これはどういう意味があるの

だろうか。ともかく、逆転の発想に興味を覚える。

2010年1月23日 (土)

コピペ

2010/1/23

コピペ

Google検索: コピペ検出ソフト に一致する日本語のページ 約 164,000 件中 1 - 100 件目 (0.38 秒) 。

最近はコピペの弊害が指摘されており、それを検出するソフトも開発されているようだ。しか

し、複製・それに準ずる現象をこの世から抹消したら何も残らないようにも思われる。技術が

コピペを容易にしたので弊害が目立つようになったのだろう。自分にとって広義のコピーとい

うのは非常に重要に思える。「ぺ:PASTE」というという行為も新しいものを生み出す行為の

一つのように思われる。文章を作るには総合的な力量が必要とされる。国語に関する授業

は学校教育の要である。しかし、文章表現の訓練は意外に少なかったように思う。試験も文

章を作成させる問題は少ない。テーマを具体的に限定せずに作成者に任せる問題になると

更に少ないだろう。そのようになるのは採点や評価の都合なのだろうか。コピペが問題にな

るのは、コピペが使える環境にある人間に課したレポートの作成等であろう。コピペも情報操

作能力の一つではある。問題は人物の何を評価しようとするかという評価者の意図であろ

う。インターネット上の情報を利用できる事も能力の一つではあろう。レポート作成も別の能

力の一つであろう。文章をパソコンで作成するのもまた別の能力である。学生等のレポート

作成において、インターネットからのコピペを嘆くなら、インターネットが利用出来る部屋に缶

詰にしてインターネットの使用は許すが、文章作成は別のインターネットに接続していないパ

ソコンでさせれば良いのではないか。しかし、識者のグチはくせ者で自分を引き立てるために

言っている可能性もあるので要注意だ。マッチポンプの場合もある。自分にその作品を評価

できる能力があればコピペも見破れるだろうし、コピペがあってもその作品の評価を落とす

使い方ではなくその逆の場合もある。最終的には作者と作品を対応づけて評価する事が重

要だろう。基本的にはこういう部分が軽視されるから学生のレポート等にコピペもがはやるの

ではないか。作者と面接して作品を評価すると宣言すればコピペは半減するかもしれない。

要は評価側も評価される側も手間とコストを掛けたくないと言う本音があり、なれあいになり

やすいと思われる。ところで、Googleは第三者のホームページ情報を丸ごとコピーしてそれ

をキャッシュとして公開している例がある。本家の情報は削除されているが、ここにコピーが

残っていて便利な場合がある。しかし、情報の表現者が問題を意識して削除した場合、それ

がキャッシュとして第三者により公開され続けるとしたら不都合を感じるのではないか。これ

は著作権の侵害にならないのだろうか。

2010年1月11日 (月)

システム手帳

2010/1/11

システム手帳

20~30年前にシステムが紹介され、その優れた機能が評価され一般にも流行した。

WIKIPEDIAによるとこのシステム手帳が誕生したきっかけが第一次世界大戦にあったとい

う。その老舗がファイロファックスであったようだ。戦場でこのシステムを持っていたので銃弾

が貫通する事無く助かったという逸話も聞いたように思う。第一次世界大戦においては、

平民が将校ととして多数採用されたが、技術の進歩で兵器や戦術も従来と様変わりして、そ

れを的確効率的に運用するための情報量も増大した。その増大した情報を活用する為に生

まれたのがシステム手帳だったとのことである。確かにリフィル式で印刷した情報差し替

に便利である。定期的に変更される規定集等には便利であろう。さらに書込の出来る手帳

は書式通りに書き込めば必要事項を落とすことなく書き残せるマニュアル的な書式を備えて

いて平民将校向きであったのだろう。自分も何度かこのシステム手帳に挑戦したが長続き

しなかった。何故だったのかを考えると、用途、携帯性、一体性が適合しなかったのだろうと

思う。自分が手帳を使うのは備忘メモとスケジュールがほとんど。しかし、紙片のように散逸

せず、時系列で記録が残るためには綴じて一体性がある事が重要だ。現在、使っているの

が名刺サイズ程度の薄いノートと100円ショップの万能手帳。前者はシャツの胸ポケットに入

るので携帯性は抜群だ。テレカや名刺も挟める。これらが落下しないように表紙と最後のペ

ージの下部をホッチキスで留めてカードホルダーとしている。更に小さな市販電話帳を挟む。

ノートを替えるときも転記の必要がない。ともかく、システム手帳も電子手帳も、コスト、エネ

ルギー、入出力の手間、携帯性等で今ひとつ満足できない点がある。結局、まだ自分にとっ

て紙と鉛筆に勝るものが無い。もっとも、実際は筆記にはボールペンを多用しているがボー

ルペンの信頼性にはまだ満足できない。ボールペンが駄目な場合は鉛筆の出番となる。

2010年1月10日 (日)

電子辞書

2010/1/10

電子辞書

最近は電子辞書の機能・コンテンツが充実して、全部の機能を使いきれない程である。コン

テンツも数十から百余と十分以上かもしれない。これも技術の進歩に負っているのかも知れ

ない。基本機能はREAD ONLYであるが、自分の電子辞書は音声を出す機能を持ってい

た。試しに何度か音を出してみた。しかし、頻繁に電池交換が必要になるのがいやで積極的

に使っていない。更に、SDカードに情報を記録出来るようでもある。確かに、電子手帳的に

書込が出来れば便利であると思う。電子辞書は携帯電話にも搭載されているという話を聞

いた。自分の携帯は既に骨董品に近い。3月に3Gに移行するという通知が何回も来ている。

まだ、元気で頑張っている携帯が使えなくなるのは残念ではある。生き残り方があるのか。

この骨董品的携帯電話にもデジカメが搭載されている。撮影したのはほんの数回。試し撮り

だけであった。今後はこの携帯にデジカメと電子手帳手的な第二の人生を送らせてみたいと

思う。PHSから携帯に移行したのが丁度十年程前であった。PHSは皆で使った。最初に子

供が携帯に加入した。一人一台になった。PHSの前にはポケベルが家族との非常用移動連

絡手段であった。それも十数年前の事に過ぎないが、太古の出来事のように思われる。

2010年1月 4日 (月)

横文字好き;どや顔で 横文字使う 軽さかな。

2010/1/4

横文字好き;どや顔で 横文字使う 軽さかな。

最近はあらゆる場面に横文字が氾濫している。これは、最近の事ばかりではなく、海外から文物を導入してきた日本人の習性も関係しているのかもしれない。言葉を導入することは、その言葉に関連する意味、心象、行動、習慣、体系等も間接的に導入する準備にもなる。

卑近な例では保健医療サービス及び福祉サービスという言葉が、介護保健法に第一条に登場する:(介護保険法(平成九年十二月十七日法律第百二十三号))。母親の介護が必要になった頃、介護保険制度が実施されたので介護保険制度の運用開始直後から介護サービスという言葉を耳にしてきたと思う。

また、介護保険の利用を申請したとき、サービスという言葉に違和感を覚えたのも事実である。ところが、このサービスという言葉を純粋な日本語で説明すると何となく難しいのである。

サービスという言葉自体が日本語ではないかと言えばそれまでの話である。英語のSERVICEという概念が日本語に欠けているからサービスという言葉を使うのかという疑問でもある。

広辞苑の第一項に奉仕とある。奉はたてまつる、仕は仕事や労務という事であろう。要は仕事や労務をたてまつる主体側に立った言葉が奉仕であり、これはSERVICEの原義に近いのかもしれない。

欧米では兵役に従事するのも国家に対するサービス即ち奉仕であるようだ。SERVEという言葉自体が身体を張って仕えることを意味しているようだ。

ソノシートで聞いたケネディ大統領の就任演説の一節SERVEという語句があるのを思い出してネットで探した。

The energy, the faith, the devotion which we bring to this endeavor will light our country and all who serve it - and the glow from that fire can truly light the world.

ケネディは国民が国家の事業に奉仕するよう熱っぽく呼びかけたのである。ともかく英語のSERVICEにはその内実を支えるSERVEという動詞があるが、日本語となったサービスにはそれを内実を支える動詞を置き忘れているようでもある。

横文字のおいしい部分のつまみ食いのような感じがする。サービスするとは値引きしたり、おまけを付ける程度の意味に理解してしまう。横文字を使う事には良い所取りをする面があり、日本語で言ってしまうとまずいようなそれ以外になにか隠された意味があるかのように感じてしまう。

使われた横文字自体が、目新しく、それを使うと優越感を覚え、本音は便宜的で使い捨てのような使う側の意識も反映しているようにも感じる。

要するに、日本語は横文字に頼らなければならない位貧弱なのか。横文字を使って得々とする姿をみると言い換えの能力しかないのかとうんざりする事が多い昨今ではある。

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追記(2017/10/25):整形、再読、印象;

Googleにてキーワード「ケネディ」で本サイト内を検索

ざっそう句;どや顔で 横文字使う 軽さかな。

YOUTUBE:「Jan. 20, 1961: Inaugural Ceremonies for John F. Kennedy(https://www.youtube.com/watch?v=MdG1kcEAsX0)。(U.S. Presidential Inauguration
2012/12/21 に公開;視聴回数 62,736 回)」(YOUTUBEのJan. 20, 1961: Inaugural Ceremonies for John F. Kennedyへのリンク

トランプ米大統領、JFK暗殺の機密文書を公開の意向 CNN Japan · 1日前」とか。

日本は記録が無い闇国家になるのか。

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200/1/4

横文字好き

最近はあらゆる場面に横文字が氾濫している。これは、最近の事ばかりではなく、海外から

文物を導入してきた日本人の習性も関係しているのかもしれない。言葉を導入することは、

その言葉に関連する意味、心象、行動、習慣、体系等も間接的に導入する準備にもなる。卑

近な例では保健医療サービス及び福祉サービスという言葉が、介護保健法に第一条に登場

する:(介護保険法(平成九年十二月十七日法律第百二十三号))。母親の介護が必要にな

った頃、介護保険制度が実施されたので介護保険制度の運用開始直後から介護サービスと

いう言葉を耳にしてきたと思う。また、介護保険の利用を申請したとき、サービスという言葉

に違和感を覚えたのも事実である。ところが、このサービスという言葉を純粋な日本語で説

明すると何となく難しいのである。サービスという言葉自体が日本語ではないかと言えばそれ

までの話である。英語のSERVICEという概念が日本語に欠けているからサービスという言葉

を使うのかという疑問でもある。広辞苑の第一項に奉仕とある。奉はたてまつる、仕は仕事

や労務という事であろう。要は仕事や労務をたてまつる主体側に立った言葉が奉仕であり、

これはSERVICEの原義に近いのかもしれない。欧米では兵役に従事するのも国家に対する

サービス即ち奉仕であるようだ。SERVEという言葉自体が身体を張って仕えることを意味し

ているようだ。ソノシートで聞いたケネディ大統領の就任演説の一節SERVEという語句があ

るのを思い出してネットで探した。

The energy, the faith, the devotion which we bring to this endeavor will light our country and all who serve it - and the glow from that fire can truly light the world.

ケネディは国民が国家の事業に奉仕するよう熱っぽく呼びかけたのである。ともかく英語の

SERVICEにはその内実を支えるSERVEという動詞があるが、日本語となったサービスには

それを内実を支える動詞を置き忘れているようでもある。横文字のおいしい部分のつまみ食

いのような感じがする。サービスするとは値引きしたり、おまけを付ける程度の意味に理解し

てしまう。横文字を使う事には良い所取りをする面があり、日本語で言ってしまうとまずいよう

なそれ以外になにか隠された意味があるかのように感じてしまう。使われた横文字自体が、

目新しく、それを使うと優越感を覚え、本音は便宜的で使い捨てのような使う側の意識も反映

しているようにも感じる。要するに、日本語は横文字に頼らなければならない位貧弱なのか。

横文字を使って得々とする姿をみると言い換えの能力しかないのかとうんざりする事が多い

昨今ではある。

2010年1月 3日 (日)

エポケー

2010/1/3

エポケー

哲学と言うと何か別世界のように感じてしまう。物事をつきつめて考えるのは人間の習性なのかもしれない。しかし、哲学などは大抵の人が敬遠してしまう。

高校の頃、吉田兼好が誰かに何か質問をしたが、答えられなくなったという事を徒然草に書いているのを読んだ事があるのを思い出した。

自分の幼少時に母に発した質問に、「かーちゃん、太陽は火かい、月は水かい。」というのがあったと母から聞いた記憶が残っている。そのような、質問を受けた大人は当惑して何とかその場をしのごうとする。大人に難問を投げかけた子供も大人の態度に失望して、同じ質問は憚るようになり、結局前の大人のような大人になる。

高校の頃、ベルグソンの笑いという薄い岩波文庫を電車の中で読んだ記憶がある。哲学者であるベルグソンと笑いというテーマの結びつきに興味があった。安くて携帯に便利というのが選書の第一理由であった。日本ならば謹厳居士である哲学者が笑いについて書く事もなかろうと、安直、皮肉な考えもあった。内容は既に忘れたが、著者のサービスなのか入り口近くに少しは笑える部分があった。

最近では、笑いを研究する学会が出来たようでそれなりに笑いの研究の意義があるのだろう。哲学とはあるテーマに関して未知の分野を解明する作業といえるのではないか。これは哲学でござるといった所でその哲学は終焉している。

当然笑いについても突き詰めれば未知の分野が広がっている。残念ながら、人間の生きた精神作用を解明するためには、生きた精神作用を利用する以外に方法がない。ドリルの歯をつくるのにドリルが使えるのか。

東京スカイツリーの建設も自分が築いた足場の上で作業して一歩ずつ前進する。しかし、何らかの事情でその工程が進められない場合が生じる。そんな場合、一時停止、休止して括弧に入れておくことをエポケーと言うらしい事を知った。

何事も行き詰まる事は無いとはいえない。しかし、行き詰まって、悪あがきするよりも、一時停止・一服して、反省、レビュー、再評価、検証等のやり直しをすると意外にうまくゆく場合があるようだ。

括弧、括弧と何重にも括弧でくくって来た人生。捨てないで良かったと思うものもあるだろう。そんな括弧を少しでも取り払ってつん読の古本でもじっくり読んでみたい。

そういえば、本日は遠方の旧友から電話をもらった。うれしい。昨年退職したが、今後はマイペースで働きたいという事であった。一方、近所の同級生の訃報を聞いた。まだ、そんな年齢でもないのにと残念に思う。

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追記(2017/10/24):整形、再読、印象;

Googleにてキーワード「東京スカイツリー」で本サイト内を検索

Googleにてキーワード「笑い」で本サイト内を検索

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2010/1/3

エポケー

哲学と言うと何か別世界のように感じてしまう。物事をつきつめて考えるのは人間の習性な

のかもしれない。しかし、哲学などは大抵の人が敬遠してしまう。高校の頃、吉田兼好が誰か

に何か質問をしたが、答えられなくなったという事を徒然草に書いているのを読んだ事がある

のを思い出した。自分の幼少時に母に発した質問に、「かーちゃん、太陽は火かい、月は水

かい。」というのがあったと母から聞いた記憶が残っている。そのような、質問を受けた大人

は当惑して何とかその場をしのごうとする。大人に難問を投げかけた子供も大人の態度に失

望して、同じ質問は憚るようになり、結局前の大人のような大人になる。高校の頃、ベルグソ

ンの笑いという薄い岩波文庫を電車の中で読んだ記憶がある。哲学者であるベルグソンと笑

いというテーマの結びつきに興味があった。安くて携帯に便利というのが選書の第一理由で

あった。日本ならば謹厳居士である哲学者が笑いについて書く事もなかろうと、安直、皮肉な

考えもあった。内容は既に忘れたが、著者のサービスなのか入り口近くに少しは笑える部分

があった。最近では、笑いを研究する学会が出来たようでそれなりに笑いの研究の意義があ

るのだろう。哲学とはあるテーマに関して未知の分野を解明する作業といえるのではない

か。これは哲学でござるといった所でその哲学は終焉している。当然笑いについても突き詰

めれば未知の分野が広がっている。残念ながら、人間の生きた精神作用を解明するために

は、生きた精神作用を利用する以外に方法がない。ドリルの歯をつくるのにドリルが使える

のか。東京スカイツリーの建設も自分が築いた足場の上で作業して一歩ずつ前進する。しか

し、何らかの事情でその工程が進められない場合が生じる。そんな場合、一時停止、休止し

て括弧に入れておくことをエポケーと言うらしい事を知った。何事も行き詰まる事は無いとは

いえない。しかし、行き詰まって、悪あがきするよりも、一時停止・一服して、反省、レビュー、

再評価、検証等のやり直しをすると意外にうまくゆく場合があるようだ。括弧、括弧と何重に

も括弧でくくって来た人生。捨てないで良かったと思うものもあるだろう。そんな括弧を少しで

も取り払ってつん読の古本でもじっくり読んでみたい。そういえば、本日は遠方の旧友から

電話をもらった。うれしい。昨年退職したが、今後はマイペースで働きたいという事であった。

一方、近所の同級生の訃報を聞いた。まだ、そんな年齢でもないのにと残念に思う。

2010年1月 2日 (土)

記憶と記録

2010/1/2

記憶と記録

ブログを書き始めて一年半程度になった。自分の記憶に残っているささいな事の備忘録のように感じる。記憶を海に浮かんだ氷山にたとえれば、海面以下に多くの記憶が眠っているのかもしれない。これを上手に読み出す方法があるのか。

ブログ画面の片隅に検索機能があるのに最近気付いた。古墳に関しては、少し興味があるがあるのでこのキーワードで検索したら10件程度ヒットした。それなら記憶はどうかと検索すると数えたくない位多い。

ともかく、記憶というもやもやしたものも文字という記号に変換してしまうとコンピュータの扱えるデータになってしまう。ともかく、人間の頭脳に蓄えられた記憶も多くの細胞が仕事をした結果が蓄えられているに過ぎない。それを何らかの手段で掘り起こすのが記憶の読み出しだ。

この読み出しの確実度は消滅過程という時間との勝負である。それを何らかの読み出し可能な形に固定する事が記録なのかも知れない。古墳も古代人が残した記録かもしれない。残念だが現代人はそれを読む能力が減退してしまったのかもしれない。

文字列で作られた今日の記録も未来の人類が十分に読みとれるか不明だ。それは今でも言えることかもしれない。現在作られつつある記録も捨てられずに拾い上げられたものが運良く残っただけのようでもある。

日々衰えつつある記憶力。いつダウンするか不安のあるセレロン400Mの老骨パソコン。室温7℃の正月早朝、油ぎれのようなファンかCD-ROMか、FDか、メカ部分のきしむ音を発しつつ無事立ち上がった。本体が暖まったのかこのきしみ音もおさまる。

パソコンの中のデータを調べると、中古パソコンとして我が家に来たのが2004年頃だ。買い換え等で既にその頃見放されたパソコンだろう。このパソコンも最近では何か自分の分身のような感じがしないでもない。与えられたブログスペースはまだ1%以下しか使っていない。このスペースが老骨パソコンの外部記憶のようにも感じる。

まだまだ捨てた物ではないのかも知れない。ひょっとしたら、まだ使われていない能力がこの老骨パソコンの中で眠っているのかも知れない。それは自分自身にも通じることかもしれない。

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追記(2017/10/24):整形と再読と印象
現在のノートパソコンのCPUはX86-based PC、x64 Family 6 GenuineIntel ~1067 Mhzのようで、メモリー2Gを積んでいる。2004年頃から現在まで、パソコンは何代も代わった。森友学園、加計学園問題等々で、国家と役人・政治家は記憶と記録を残そう・公開しようとする努力を完全に放棄したかに見える。まさに痴呆大国日本の出現だ。過去の記憶も記録も無い国家・人物等は想像する事さえできなくなる。同様に完全無欠もあり得ない。現在、BLOG使用可能容量の3/4程度が未使用で残っている。
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2010/1/2

記憶と記録

ブログを書き始めて一年半程度になった。自分の記憶に残っているささいな事の備忘録のよ

うに感じる。記憶を海に浮かんだ氷山にたとえれば、海面以下に多くの記憶が眠っているの

かもしれない。これを上手に読み出す方法があるのか。ブログ画面の片隅に検索機能があ

るのに最近気付いた。古墳に関しては、少し興味があるがあるのでこのキーワードで検索し

たら10件程度ヒットした。それなら記憶はどうかと検索すると数えたくない位多い。ともかく、

記憶というもやもやしたものも文字という記号に変換してしまうとコンピュータの扱えるデータ

になってしまう。ともかく、人間の頭脳に蓄えられた記憶も多くの細胞が仕事をした結果が蓄

えられているに過ぎない。それを何らかの手段で掘り起こすのが記憶の読み出しだ。この読

み出しの確実度は消滅過程という時間との勝負である。それを何らかの読み出し可能な形

に固定する事が記録なのかも知れない。古墳も古代人が残した記録かもしれない。残念だ

が現代人はそれを読む能力が減退してしまったのかもしれない。文字列で作られた今日の

記録も未来の人類が十分に読みとれるか不明だ。それは今でも言えることかもしれない。現

在作られつつある記録も捨てられずに拾い上げられたものが運良く残っただけのようでもあ

る。日々衰えつつある記憶力。いつダウンするか不安のあるセレロン400Mの老骨パソコ

ン。室温7℃の正月早朝、油ぎれのようなファンかCD-ROMか、FDか、メカ部分のきしむ音

を発しつつ無事立ち上がった。本体が暖まったのかこのきしみ音もおさまる。パソコンの中の

データを調べると、中古パソコンとして我が家に来たのが2004年頃だ。買い換え等で既にそ

の頃見放されたパソコンだろう。このパソコンも最近では何か自分の分身のような感じがしな

いでもない。与えられたブログスペースはまだ1%以下しか使っていない。このスペースが老

骨パソコンの外部記憶のようにも感じる。まだまだ捨てた物ではないのかも知れない。ひょっ

としたら、まだ使われていない能力がこの老骨パソコンの中で眠っているのかも知れない。そ

れは自分自身にも通じることかもしれない。

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    刃物という視点で多くの事例が取り上げられている。刃のある道具の理解にも役立つ。類書が少なく貴重な一冊。「すべり変形が切断の原理」という考え方で説明している。
  • 沼田 真   : 植物たちの生( 1972年 岩波新書(青版 833))
    「ご要望にお応えしてアンコール復刊(1988年岩波新書50年記念復刊) 地球生態系の中で自然を見直す」(腰巻きのフレーズ)。植物の知恵と戦略に人類は勝てるのか。
  • 出町 誠: 14_NHK趣味の園芸:よく分かる栽培12ヶ月  カキ(NHK出版2007年)
    初心者向け柿栽培参考書(新版)。旧版と比較すると楽しい。
  • 中村三夫: 13_NHK趣味の園芸:作業12ヶ月  カキ(NHK出版1996年)
    初心者向け柿栽培参考書(旧版)。新版と比較すると楽しい。
  • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
    細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
  • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
    著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
  • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
    ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
  • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
    やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
  • ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫訳): 08_サイバネティックスはいかにして生まれたか(みすず書房1956)
    情報と通信という現代社会に不可欠の基礎的な学問を作った著者の自伝とそれを通した科学史
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  • 項目のタイトル2
    POST IT :ブログ画面への張り紙に使える。
  • TYPE LIST事始め
    2010/8/4:MEMO等の表示に使える。 農作業で気になる自戒の言葉 ■畑の石ころはいつまで経ってもても石ころ(早く拾って片づけよという意味か)。 ■同じ石を二度拾うな(やってみると難しい)。 ■手ぶらで歩くな。 ■三つ先のことを読め。 ■適当な観察。 ■空を見よ(気分転換、休憩、天気を読む、腰曲がり防止)