« 2008年10月 | メイン | 2008年12月 »

2008年11月

2008年11月30日 (日)

ながめの菊見物

2008/11/30

ながめの菊見物

幼少時の家族旅行の思い出はほとんど無い。学校の遠足や修学旅行が遠出をする主な機

会であった。他に子供会による団体旅行もあったかもしれない。ともかく、家族と行ったとお

ぼろげながら覚えているのはながめの菊の見物である。菊人形を見て何か異様な感じを受

けた。他にも見せ物があったように思う。ながめ余興場の紹介によると、「余興場では、芝

居、浪曲、歌謡ショーなどが行われ、一大興行地になりました。昭和30年代に最盛期を迎

え、菊人形展の時期10月11月には、2ヶ月間で30万人もの人手で賑わい」があったらし

い。振り返ってみると、ながめに行ったのはその最盛期の頃であったようだ。市外の行楽地

への旅行なので学校行事では無かったと思う。団体旅行か家族旅行か定かではなが、親と

連れ添って出かけた数少ない旅行が大間々のながめであった。行楽地も時代の流れにより

浮き沈みがある。当時のながめの見物は親の立場からは子供達への大サービスであったの

かもしれない。

2008年11月29日 (土)

有線放送電話の終焉

2008/11/29

有線放送電話の終焉

一般の電話が普及する以前に有線放送電話が導入されていた。有線放送電話の開通以前

は電話は商店とか地域の中核となる家にしかなかった。従って、緊急連絡は電報や「呼び」

電話といって電話のかかってきた家から連絡をとりたい家へ呼び出しをして貰うのが一般的

であった。有線放送電話は放送と電話を兼用したシステムであり、電話の普及の先駆けであ

った。WIKIPEDIAによると、

「有線放送電話(ゆうせんほうそうでんわ)は、農業協同組合(総合JA、専門JA)・漁業協同組合・市町村などの地域団体によって設置される、日本の地域内の固定電話兼放送設備。一般には「有線放送」「有線電話」「有線」と略される。」、

「1960~1970年代(昭和30~40年代)にかけて、日本電信電話公社の一般加入電話が普及していない農林漁村で、市町村地域内の放送業務・地域内の音声通話等を行い、生活改善をする目的で設置されていた。形態は言わば、アナログ音声専門の地域LAN。」

と述べられている。放送内容はプログラムに従った定時放送と緊急・臨時放送があったよう

だ。定時放送は今日のコミュニティ放送局と同じような地域や加入者密着の番組を流してい

た。時には音楽も流れた。電話は放送時間以外の時間帯にする。NTTの回線に接続できた

のか定かではない。有線放送電話が利用されたのが、いわゆる「神武景気」が到来した昭和

30年代であり、同31年には、「電化ブーム」が起こり、『経済白書』に、「最早戦後ではない。」

と謳われた時代であった。経済が豊になると公社の電話が急速に普及してくる。そうして、大

多数の家庭に電話が普及する頃になると有線放送電話はお荷物となってしまう。有線放送

電話がいつ終焉したか定かでないが、個々の家庭レベルでは電話が入った時点で有線放送

電話の役割は終わっていたのであろう。今では、有線放送電話はほとんど忘れ去られて、電

線を張った数本のコンクリート柱が残っているだけである。コンクリート柱の由来さえ分からな

くなりかけている。

2008年11月28日 (金)

自転車の三角乗り

2008/11/28

自転車の三角乗り

自分が乳母車に乗ったり、カタカタという押し車を押した記憶はない。しかし、カタカタという押

し車 の事は覚えている。車を押すとカタカタと音がする仕掛けが付いている。弟や妹が使っ

たのを見ていた記憶なのであろうか。子供用の補助輪付きの自転車を買ってもらったのは小

学校に入学の前後であったような気がする。慣れてくると補助輪を取り外す。乗り出すときの

補助は父がしてくれた。子供用の自転車が身体に合わなくなると大人用の自転車に乗り換え

る事になる。中間の大きさの自転車は無かった。仕方ないので三角乗りをする。三角形のフ

レームの中に足を通してペダルを踏むのである。これも幼児から少年期へと過渡期の自転

車漕ぎであった。サドルに座れない位の身長でも大人用の自転車を乗りこなした。こうなる

と、行動半径が広がりあちこち乗り回すことになる。中学生になると自転車通学も許された。

叔父さんに聞いた話であるが、昭和の初期に通学用に自転車を買ってもらったのは裕福な

家庭の極わずかな人だけだったとか。それも、高等学校の話である。

2008年11月27日 (木)

家畜の人工受精

2008/11/27

家畜の人工受精

高祖父が生きていた時代は江戸末期から明治にかけてである。叔父さんの話では明治の初

期はまだ、ちょんまげを結っていたとの事である。高祖父は進取の風があったので地域では

最初に髷を落とした人物であったという話をしてくれたのを覚えている。そういえば、高祖父

は長男は農業を継がせたが、次男は師範学校に出してその後渡米させている。父は戦争前

後に青年期、壮年期を過ごし、親が病弱であり、家族が多く、徴兵もされるという事で大変な

貧乏くじを引いてしまった。しかし、その運命にあまりグチを言うことなく、米麦、養蚕、野菜等

時代に合った農業をやってきたようだ。一時は養豚をやった事があった。規模は小さく10頭

程度であった。いまもその時の豚舎が残っている。養豚の延長で始めたのが家畜の人工授

精であったようだ。人工授精って何?と興味もあるが聞くのも照れくさい年齢の頃であった。

受精の注文があると、県の畜産試験所かどこかへ行って、豚や牛の優良種の精子供給を受

けて、発情した家畜の人工受精をしてやる仕事である。ステンレスのピカピカ光る魔法瓶を

肩にかけてオートバイを使って行き来していた。家畜の人工受精もオートバイ乗りも当時は

時代の先端にあったので、父も進取の風があったのかなと今となって思う。農業、特に畜産

にあってはこの人工受精という技術は特筆すべき技術革新であったと思われる。今日のバイ

オテクノロジーのはしりでもあった。

2008年11月26日 (水)

古屋の風呂炊き

2008/11/26

古屋の風呂炊き

自分が生まれ育った家は築100年位経ていたと思われる藁葺きの中二階で櫓が付いてい

たように思う。新築時は茅葺きと思われるが、茅が無くなると麦藁が代用された。さすがに

くたびれた家で、すきま風と雨漏りには悩まされた。間取り、構造は養蚕を考慮して作られて

いたようだ。客間でも蚕を飼ったことがあった。中二階は上族(じょうぞく)、繭作りに使われ

た。とぶ口(玄関)を入ると南北の土間の通路で裏庭に通じていた。家の南東の一番いい場

所が馬小屋であった。終戦直後はそこに馬がいたとのことだ。その馬小屋の一角が風呂場

になっていて、木製の風呂があった。この風呂桶に、両手にバケツを下げて水を運び、湯を

沸かすのが子供の仕事であった。井戸ポンプで水を汲み上げ、長い土間通路を通って水を

何回も運ぶので大変であった。それがほぼ毎日なのだ。水を入れた後、かまどに火をおこし

湯を沸かす。これも時間がかかる仕事である。地域に共同風呂ができたり、自家水道と太陽

熱温水器が導入されてこの風呂炊きという仕事から解放された。親たちが汗を流して野良仕

事をしているのだから子供の風呂炊き位は当然という時代があった。

2008年11月25日 (火)

八幡沼開鑿と川端宇兵衛翁

2008/11/25

八幡沼開鑿と川端宇兵衛翁

華蔵寺公園の北東県道462の東側に八幡沼(新沼)がある。沼の南岸にこの沼の由来を刻んだかなり大きな石碑が建っている。八幡沼の開鑿開始から51年後の大正2年に建立された「八幡沼の碑」がそれである。八幡沼は粕川から取水した灌漑用水を貯水する人工沼であり、まさに一銭たりとも出費をしたくない文久二年の大旱魃の年に、村民の心の拠り所である八幡宮、村社大明神さえも潰して、農民125名が大刑覚悟のうえ連印して藩主に陳情し、発起人・世話人等は総額500両以上の資金を投じ、3年間の期間をかけてこの大工事をやりとげた事が記録に残っている。

大工事を先頭に立ってやり遂げたのが川端宇兵衛翁であった。奇しくも川端宇兵衛は国定忠次の隣村で同じような境遇に生まれ同じような事をして同じ時代を生きていた。国定忠次より1年先輩であったが、国定忠次が大戸の関で磔で処刑されて12年後即ち忠次の13回忌の文久2年(1862)に八幡沼の開鑿を始めたのである。

村民の藩主への陳情が藩主のお気に召さなければ、打ち首等の極刑を賜う事もあり得た時代の決断であったのだ。来年の2009年が川端宇兵衛生誕200年になる。三軒屋遺跡は千数百年前も稲作が地域の重要な産業であった事を示している。八幡沼の開鑿は水利基盤の創設、維持、改良が絶え間なく続けられていた事を証明している。川端宇兵衛誕生200年を機会に地域の歴史と先人達の偉業を振り返るのも意義有ることであろう。

以下に元殖蓮公民館館長川端門太郎先生が「うえはす史談 第二号」に紹介した碑文を現代語に意訳したものを掲載する。

以下碑文:
**************************************
上植木の郷(さと)は素(もと)から水利に乏しく灌漑に不便な地域であった。旱魃に遭遇すれば稲田の苗は枯死して、飢えて青菜のように血色がわるくなるような苦境に陥ることが屡々(しばしば)あった。従って、昔から志のある者は心身を粉にして種々救済策の考案に努めたが、それが実現する時期が到来せず一人として成功する者はいなかった。

ところが、そんな時、村に川端宇兵衛翁という者がいた。人柄は気宇壮大・気性が強く衆にすぐれており細事を気にすることもなく、いつもこう言っていた、

「男子に生まれ芳名(名声)を百世に流すことができないようでは、まさに臭名(汚名)を万年に残して当然なのだ(男子生まれて芳(かんばし)を百世に流す能(あたわ)わずずんば、またまさに臭を万年に遺(のこす)すべきなり)」

どうして小石のようにごろごろとして平凡でツバメやスズメのようなものの尻につき従おか。まさにあの鯤(こん)という魚が翼長3千里の鵬(ほう)という大鳥になって9万里の高空を飛ぶように人間界の鵬になるべきなのだ(あに碌々として燕雀と相(あい)随(したがわん)や。よろしく化して鵬となるべし)

毀誉褒貶は自分には無関係である。何事も公平無私を第一とするならば成功しないことがあろうか。特に役に立つ事業を興し大衆の福利をもたらそうとするならば自然の摂理を利用するにこしたことはない。

郷里の農民は水利に苦しんでいるときであり将に新沼を開鑿(かいさく)して灌漑のために活用すべきであると決意し密かにこの土木工事の設計をして、地盤を調査し水路を通すため自ら技師となってこれを測量し同じ考えの人々を求めて土木工事への賛同を頼んだ。

文久二壬戌(みずのえいぬ)年三月藩主に請願書を添えて工事の許可を願い出た。かくて、事前に調査した土地、小字(こあざ)関組の七本杉の大木を皆伐採して、八幡社境内とその他の山林八千五百六十五坪を開鑿し隧道を掘って粕川の水を引き込むという困難な工事を思い起こすべきである。

同年十月十九日天地が和合する吉日を選んで鍬入れ式を挙行し工事を開始した。翁自ら鍬を取りこの役を勤めた。村の役人や役員等数十人がこれに連なった。元治元年甲子十二月に工事が落成した。此の間の三年間雨に打たれ風にさらされ寝食を忘れ日々この大工事に従事する事一日の如しであり実によく勤めたものだと言うべきである。

ああ、これは村が豊に繁栄する基礎であって、それのみでない(已と己の相違:すでは意味が通じない:おのれにとる)。更にその他百数町歩の及ぼす其の恩恵たるや実に偉大である。すなわち農家はこの事業によって灌漑しまさに旱魃の被害を免れることが可能になる。

伊勢崎藩主の酒井侯はこの業績を賞して帯刀と名字を許された者は数十人にのぼる。本年有志の人々が相談して碑を建て永く翁の功労に感謝しその大きな恩恵を心に刻みつけるために其の事跡を石に書き込むことを要請された。当職は文につたなく翁の偉功の万分の一すらもしるすことができない。よって、詩を作り以て後世に伝えたい。

其の辞に曰く、

赤城之水流成粕川   赤城の水は流れて粕川となる
鑿沼而蓄百姓頼全   沼を穿ちて百姓頼全を蓄える
父老感涙稲苗色鮮   父老感涙して稲苗色あざやかなり
数邑抃舞将漑民田   数邑抃舞(べんぶ)す将に民田漑(みち)たり
宇兵衛翁徳後子孫傳  宇兵衛翁の徳後の子孫に傳う

大正二年十月吉日

正五位 子爵 酒井忠一 篆額 

丘林山    瑞庵祐願 謹撰 併書

       井上澹泉 刻
**************************************
:以上碑文。
注記:酒井 忠彰(さかい ただあきら)は、江戸時代の大名。上野伊勢崎藩の第9代(最後)の藩主。酒井忠一は忠彰の次男。丘林山は伊勢崎の名刹華蔵寺の山号。

八幡沼の完成が元治 元年 (西暦1864 年)であり、2014年に開鑿150年を迎える。

明治 元年 (西暦1868年)の4年前である。

2008年11月24日 (月)

人形浄瑠璃の思い出

2008/11/24

人形浄瑠璃の思い出

「ととさまの名は~、ははさまの名は~」。これは自分が幼少の頃に曾祖母から聞いた物語

の一節の記憶である。色々の記憶を辿ってようやく掘り起こした記憶。消えかけ寸前の記憶

である。前後関係も、何時のことか、何のことかも分からない。曾祖母は自分の子守役であ

った。もしかしたら、地方巡業した浄瑠璃の一節ではないかと、思い出した一節と浄瑠璃とい

うキーワードでネット検索してみた。常北システムの「人形浄瑠璃 真壁白井座 傾城阿波の

鳴門 」の開催の記事が見つかった。解説の一部を引用させて頂く。

**************************************「父(とと)さまの名は阿波の十郎兵衛、母(かか)さまはお弓と申します」
両親を探し歩く巡礼姿のお鶴、お弓は話を聞いて実の娘と気づきますが、名のってはかえってお鶴に難儀がかかると、髪を直して泣く泣く追い返すお弓。
でも、思い返してあとを追うのでした。
阿波人形浄瑠璃「傾城阿波の鳴門」の有名な一節です。                     **************************************

見つけたキーワードで再検索するとビデオがみられた。

http://www.joruri.info/movie/01.html

この冒頭のせりふに「巡礼に御報謝」というのがでてきた。そういえば「じゅんれいにごほうし

ゃ」という言葉も聞いた覚えがあるなと記憶がよみがえる。しかし、物語の筋も、意味も分か

らなかった。この浄瑠璃のビデオを見ると親子の情とそれがかなえられないという葛藤が人

形を通して見事に表現されている。そうか、曾祖母もこの浄瑠璃を見て感動し、ひ孫の子守

歌代わりに語ってくれたのかと今となって思う。

2008年11月23日 (日)

三軒屋遺跡の講演会(改題):愛しき古里:「上野国佐位郡正倉跡」として国の史跡に指定された三軒屋遺跡。081123。

2008年11月23日 (日)

三軒屋遺跡の講演会(改題):愛しき古里:「上野国佐位郡正倉跡」として国の史跡に指定された三軒屋遺跡

昨日、絣の里で三軒屋遺跡の講演会があった。赤城山に小雪が降り少し寒いが自転車で行った。こういう機会であるので丸塚山古墳に登ってみた。好天に恵まれ見晴らしは良かった。余り高い古墳ではないが、古墳が造築された当時に帰って見れば今日の巨大ビルに匹敵するのではないかと思った。高い家並みもない当時であれば、被葬者は自分の支配範囲を超えて地域の全景を見渡せるのである。

講演の主題は「古代の伊勢崎と地方豪族~誰が八角建物を造ったのか~」。殖蓮小学校校庭で発見された三軒屋遺跡の調査報告(市の担当者:出浦氏)、その遺跡と上植木廃寺遺跡、多田山古墳、そこから発掘された唐枕等を結びつけて古代豪族とアジアまで広がる文化の流れを探る試み(群馬県教育委員会:深沢氏)、「地方官衙と古代豪族」というテーマで古代の中央と地方の関係を通して当地の古代豪族(佐位郡の豪族:檜前(部)君)に迫る(東京大学:佐藤教授)。

出浦氏に対する質問では正倉院とは区画された領域に作られた倉庫群とのことで、郡庁としては当然他の施設も有るはずとの事で今後の調査で発見される可能性があるらしい。深沢氏には質問しそびれてしまった。

佐藤教授には当時の地方豪族は漢字文化を持ち仏教も広められたので古墳等に墓誌が残っている可能性があるのか質問した。その可能性はありそうだ。また、郡庁の事務処理をする施設からは、保存状態が良ければ木簡も出土する可能性もあるとの事で調査主体である市への期待も示された。

深沢氏は赤堀の多田山古墳の調査を担当されたとの事で、多田山古墳は大きさ、石材、石積み技術等中小の古墳より格が上で佐位郡の豪族檜前(部)君一族の古墳と推定されると言う。この古墳から三軒屋遺跡まで直線で4㎞との事。馬を駆れば遠い距離ではないだろう。そこで同氏に質問したかったのは多田山古墳の頂上に立ったとき三軒屋遺跡が見渡せたかと言うことであった。古墳の被葬者は自分の支配地の中で、墳墓として最適な場所を選ぶという前提での確認事項である。

尚、「シルバーのマイコン人生」という<J業団の発掘調査で以前に大変お世話になった、作業員さん(HP紹介)>のHPによると「 多田山は前橋市の東、赤堀町の国道50号線のすぐ北側にある、小高い丘陵である。発掘調査をして土壌を、建設中の北関東自動車道に使用しているので現在は山の面影はなくなっている。」と紹介されている。

もはや多田山から三軒屋遺跡を見渡す試みもできないのか。三軒屋遺跡も両毛線がその上を通ったり、校舎がその上に作られていたら破壊されていたかもしれない。危機一髪で生き残った。地域の長い歴史を示す生き証人である。是非恒久的な保存と活用を図りたい。

*************************

2008/11/23

三軒屋遺跡の講演会

昨日、絣の里で三軒屋遺跡の講演会があった。赤城山に小雪が降り少し寒いが自転車で行

った。こういう機会であるので丸塚山古墳に登ってみた。好天に恵まれ見晴らしは良かった。

余り高い古墳ではないが、古墳が造築された当時に帰って見れば今日の巨大ビルに匹敵す

るのではないかと思った。高い家並みもない当時であれば、被葬者は自分の支配範囲を超

えて地域の全景を見渡せるのである。

講演の主題は「古代の伊勢崎と地方豪族~誰が八角建物を造ったのか~」。殖蓮小学校校

庭で発見された三軒屋遺跡の調査報告(市の担当者:出浦氏)、その遺跡と上植木廃寺遺

跡、多田山古墳、そこから発掘された唐枕等を結びつけて古代豪族とアジアまで広がる文化

の流れを探る試み(群馬県教育委員会:深沢氏)、「地方官衙と古代豪族」というテーマで古

代の中央と地方の関係を通して当地の古代豪族(佐位郡の豪族:檜前(部)君)に迫る(東京

大学:佐藤教授)。出浦氏に対する質問では正倉院とは区画された領域に作られた倉庫群と

のことで、郡庁としては当然他の施設も有るはずとの事で今後の調査で発見される可能性が

あるらしい。深沢氏には質問しそびれてしまった。佐藤教授には当時の地方豪族は漢字文

化を持ち仏教も広められたので古墳等に墓誌が残っている可能性があるのか質問した。

その可能性はありそうだ。また、郡庁の事務処理をする施設からは、保存状態が良ければ

木簡も出土する可能性もあるとの事で調査主体である市への期待も示された。深沢氏は赤

堀の多田山古墳の調査を担当されたとの事で、多田山古墳は大きさ、石材、石積み技術等

中小の古墳より格が上で佐位郡の豪族檜前(部)君一族の古墳と推定されると言う。この

古墳から三軒屋遺跡まで直線で4㎞との事。馬を駆れば遠い距離ではないだろう。そこで同

氏に質問したかったのは多田山古墳の頂上に立ったとき三軒屋遺跡が見渡せたかと言うこ

とであった。古墳の被葬者は自分の支配地の中で、墳墓として最適な場所を選ぶという前提

での確認事項である。尚、「シルバーのマイコン人生」という<J業団の発掘調査で以前に大

変お世話になった、作業員さん(HP紹介)>のHPによると「 多田山は前橋市の東、赤堀町

の国道50号線のすぐ北側にある、小高い丘陵である。発掘調査をして土壌を、建設中の北

関東自動車道に使用しているので現在は山の面影はなくなっている。」と紹介されている。も

はや多田山から三軒屋遺跡を見渡す試みもできないのか。三軒屋遺跡も両毛線がその上を

通ったり、校舎がその上に作られていたら破壊されていたかもしれない。危機一髪で生き残

った。地域の長い歴史を示す生き証人である。是非恒久的な保存と活用を図りたい。

*************************
追記(2017/11/22):記事整形、過去BLOG再読、印象・コメント等
文字サイズ・色・タイトル名を変更。べた書きを文節に分けて読み易くした。追記記事を保存しようとしたらタイムアウトで全部消えた。決して同じ事が書けないのが人間の頭脳の欠陥だ。それを利点と考えて再入力。いざ。

講演会の会場は絣の里であった。旧伊勢崎市立女子高校の円形校舎が転用されていた。そこで、円形校舎が何時解体されたかが気になった。

Go!伊勢崎の「絣の郷(円形交流館)・解体工事」記事へのリンク

旧円形校舎は2012年夏に解体されたようで、講演当時はまだ使われていた。2011年に東日本大震災があり、駆け込み解体だったのか。ともかく、市民の記憶財産が惜しげも無く破壊されて行くのも歴史の一面として記録しなければ、記憶から消えてしまうのだ。講演会場は旧円形校舎の体育館・講堂だったのかもしれない。

また、講演会が三軒屋遺跡の保存の機運を盛り上げたと思う。以来十年弱が経過して、大きな進歩もあった。群馬県内の郡衙発見の調査も行われ、その成果も出てきて、古代群馬の姿が見えるようになってきた。三軒屋遺跡は範囲が広く、発掘で遺跡が発見された区画は「上野国佐位郡正倉跡」として国の史跡に指定された。これも遺跡の重要さと市民や関係者の熱意の賜物であろう。

東京新聞は、「「上野国佐位郡正倉跡」伊勢崎市内2カ所 国史跡追加指定へ;http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/list/201711/CK2017111802000157.html(2017年11月18日)」(このサイトへのリンク)というタイトルで、「国の文化審議会が十七日に林芳正文部科学相に答申した史跡名勝天然記念物に、伊勢崎市上植木本町の「上野国佐位郡正倉跡(こうずけのくにさいぐんしょうそうあと)」で新たな土地二カ所計千七百七十二平方メートルの追加指定が含まれた。同正倉跡は二〇一四年十月に八万九千三百平方メートルが国史跡に指定されており、今回、追加されると計九万一千七十二平方メートルになる。」と報じた。

「上野国佐位郡正倉跡」は史跡公園として永久保存する構想があると聞く。思うに、自分たちの歴史を正しく詳しく知る事はIDENTITY・自己認識の基本ではないか。周辺は人家が密集する地帯になっているので長期的な対応が必要だろう。

深澤氏が多田山古墳と三軒屋遺跡の関係を述べた事に興味を覚えた。そこで「シルバーのマイコン人生」というサイトに出会ったのだが、そのサイトは現在も開設されていて、多田山古墳の概要が参照できる。

「シルバーのマイコン人生」の記事「多田山の歴史を掘る」へのリンク

最近、三軒屋遺跡周辺に恵下古墳という古墳があった事を知った。以前から、そういう古墳があったらしい事は薄々聞いていたが、その古墳から出土した馬具等の遺物が東京国立博物館の収蔵品になっていたのだ。恵下古墳は昭和の初期に開墾のために発掘されたようだ。

Googleでキーワード「東京国立博物館 恵下古墳」を検索(https://www.google.co.jp/search?hl=ja&biw=952&bih=647&source=hp&q=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8%E3%80%80%E6%81%B5%E4%B8%8B%E5%8F%A4%E5%A2%B3&oq=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8%E3%80%80%E6%81%B5%E4%B8%8B%E5%8F%A4%E5%A2%B3)(このKWで検索

恵下古墳は削平され、往事の姿は見るべくもないが、馬具や玉、須恵器等の出土品から被葬者は地域の有力者であろうと推測されている。三軒屋遺跡の北側には上植木廃寺の史跡がある。明治時代中頃に作成された迅速測図によると、三軒屋遺跡周辺の人家はまばらで、一体は松等の山林であったようだ。


2008年11月22日 (土)

アイスキャンデー屋

2008/11/22

アイスキャンデー屋

昔の夏の風物詩と言えばアイスキャンデー屋を思い出す。冷たいものといえば井戸水に浸け

て冷やしたスイカとアイスキャンデー位であった。まだ、冷蔵庫が普及しない時代であった。

裏の細い道をアイスキャンデー屋がチリン、チリンと鈴を鳴らしてくる。アイスキャンデーは自

転車の荷台に積んだ箱の中に入っている。その脇に小旗が立っていたりする。通り過ぎない

うちにアイスキャンデー屋を呼び止めて垣根越しにやり取りをする。同じように、豆腐屋、納

豆屋もまわってきた。豆腐屋はププーとラッパを鳴らした。これがトーフーと聞こえるのだから

ラッパが豆腐屋の合図になったのもかしれない。納豆の方はナット、ナットーと肉声であた。

豆腐の場合は垣根越しにどんぶり等を差し出して入れてもらった。まれには金魚屋も来た。

こちらは、天秤で桶をかついで来たと思う。中身であるが、アイスキャンデーは砂糖水に色を

付けて凍らせたようなもので割り箸のような棒がついており、それを持ってペロ、ペロなめる。

納豆は木を薄く削った経木に包まれていた。豆腐は丸裸であった。今から見れば包装は必

要最小限で省資源が徹底していたようだ。むしろ、包装する資材も設備も無かったし、買う方

も安い方が良いのでそういう状態だったのだろう。このような商売の原点というような物売りも

時代の流れの中に消えていった。

2008年11月21日 (金)

就農準備校の終業式

2008/11/21

就農準備校の終業式

日本の農業は大きな曲がり角にさしかかっている。というより、農業は常に変革にさらされて

いる。人間が日々生きて行くには食物の確保が必要条件である。採取、漁労、狩猟等の自

然の恵みだけでは安定した生活ができない。そこで、自然の動植物をてなづけることを始め

た。これが農業の起源であろう。人類が大きく発展する生存様式の大革命が農業であった。

WIKIPEDIAの「稲作」の記事によれば日本では既に紀元前3000年以上前に稲作が行われ

ている歴史がある。労力だけを見ても戦前は人畜が主体であったが、戦後は機械化が押し

進まれて、水田の土地改良・区画整理と相俟って稲作の生産性は向上した。同時に、工業

、商業という二次産業、三次産業も発達して農業部門から商工業部門への産業シフトが進ん

だ。自分もこのような、戦後の産業変革の中で農業から工業へ転出した者の仲間であった。

ところが、工業も変革が激しかった。世界のグローバル化の流れの中で、工業製品の生産

地は、人件費を中心とする生産コストの安い地域へ向かって移っていった。即ち労働力は慢

性的に過剰となってきた。そうして、団塊の世代が定年退職期を迎える時期になった。まだ

十分働ける人たちの受け皿の一つが自分の生まれ育った農業に帰ることだったのであろう。

しかし、農業もこの半世紀の間に大きく変わってしまった。昔、農業の手伝いをした事がある

という程度ではどうにもならない。そんなわけで農林大学校の就農準備校にお世話になって

農業の基礎を教えて頂いた。昨日はその終業式であった。無欠席で晴れて修了証書を頂い

た。大半は定年前後のようであったが、中には若い新規就農者や女性もいた。最後に、各人

の一言の発表があった。農業に携わろうとした動機は各人各様であったが、皆が農業に夢

を抱いている。自分たちが育てて収穫した作物やタマネギの苗などをもらい、来年は頑張り

ましょうと声を掛け合い分かれた。志を同じくする者が一緒に学ぶ事は年齢にかかわらずす

がすがしいものだ。先生も、この学校が、第二第三の人生であったようだが、生徒以上の熱

意で教えてくれた。先生が開講時に語った一言、農業は自分が動かなければ始まらない。こ

れも、先生の長い農業体験のたまものと思う。

最近の記事

検索サイト

NANDA?⇒物臭検索

  • ラベル(タイトル):最初は何も分からない
    なんだこりゃ?作成当時の記憶

エネルギー関係

ウェブページ

更新ブログ

PHOTO2(写真集)

  • Iob_fujijyuukouentotu
    たまたま出会ったもの2

PHOTO4(写真集)

  • Iob_minitomatodaruma
    果樹・野菜・花等

PHOTO5(写真集)

  • Iob_senteihasami_funsitu_sabi
    現在使われなくなった機器、農具、ガラクタ等。

PHOTO6(樹木等)

  • Iob_sendan_kiru_2013
    樹木の縮伐カット&トライetc

PHOTO7(写真集)

  • Iob_kaiko_ga_gazou
    BLOG関連写真2
フォトアルバム

MIKAN KUN

  • 赤城連山MAP
  • Fight_Fukushima
  • ISESAKI_PIGEON
  • MIKANKUN

Copyrighit

  • © Copyright 2006-2020  af06.kazelog.jp  All rights reserved.

健康関係:リンク&検索等

Favorites2

Favorites

Favorites3

Favorites4

やさしい科学・SCIENCE

  • 日経サイエンスのウェブページ
    「日経サイエンス」とは:「日経サイエンス誌は,1845年に創刊された長い歴史と伝統を持つ米国の科学雑誌「SCIENTIFIC AMERICAN」の日本版で,世界の最先端の科学技術動向を日本の読者に届けています。」
  • SCIENCE IS FUN in the Lab of Shakhashiri
    University of Wisconsin-Madison Chemistry Professor Bassam Z. Shakhashiri のサイト

みかん栽培関係情報

ISESAKI  有情2

ISESAKI  有情1

BOOKS

  • 橋本 英文: 刃物雑学事典 図解・刃物のすべて(1986年 株式会社 講談社 ブルーバックス B-659)
    刃物という視点で多くの事例が取り上げられている。刃のある道具の理解にも役立つ。類書が少なく貴重な一冊。「すべり変形が切断の原理」という考え方で説明している。
  • 沼田 真   : 植物たちの生( 1972年 岩波新書(青版 833))
    「ご要望にお応えしてアンコール復刊(1988年岩波新書50年記念復刊) 地球生態系の中で自然を見直す」(腰巻きのフレーズ)。植物の知恵と戦略に人類は勝てるのか。
  • 出町 誠: 14_NHK趣味の園芸:よく分かる栽培12ヶ月  カキ(NHK出版2007年)
    初心者向け柿栽培参考書(新版)。旧版と比較すると楽しい。
  • 中村三夫: 13_NHK趣味の園芸:作業12ヶ月  カキ(NHK出版1996年)
    初心者向け柿栽培参考書(旧版)。新版と比較すると楽しい。
  • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
    細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
  • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
    著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
  • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
    ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
  • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
    やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
  • ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫訳): 08_サイバネティックスはいかにして生まれたか(みすず書房1956)
    情報と通信という現代社会に不可欠の基礎的な学問を作った著者の自伝とそれを通した科学史
  • 沼田 真(編): 07_雑草の科学(研成社1979)
    雑草を多面的に解説し防除の基礎も述べる

外国語・国際関係

TOOLS

地域産業・機関

地域興し関連情報

MEMO_TL_TEST

  • TOP PAGEの 「アクセスランキング(2015/6/8より表示再開)」へ飛ぶためのラベル
  • TEST END
    TEST_H23/10

アクセスランキング

リンク:ページ先頭へ飛ぶ

写真集へのリンク