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2008年11月

2008年11月20日 (木)

子供の教育用おもちゃ

2008/11/20

子供の教育用おもちゃ

子供教育用のおもちゃの範囲は無限といえる程広い。というより、子供が気に入れば何でも

おもちゃになるのではないか。たとえば石蹴り、セミ殻遊び。どこからか探してくれば十分遊

べる。しかし、子供の精神的な成長速度は相当に速いからそれも長続きしない。買い与えら

れたおもちゃで遊ぶ段階。次の段階が自分からおもちゃを作って遊ぶ段階等いろいろな段

階もある。昔は遊び自体も自分で作った。手作りおもちゃもそれなりに教育効果はある。しか

し知能を高めたり、創造性を高めたりと高度の機能をおもちゃに求めると手作りおもちゃにも

限界がる。団塊の世代二世はファミコン世代とも言われる。ファミコンには功罪あるようだ

が、インターアクチティブ即ちこちらからする働きがあれば、その反応があるという遊びはそ

れ自体では相当大きな可能性を持つ物であり、現に大きな効果があったのではないかと思

う。これもCPUいう小型コンピュータが安価に使えるようになった技術的背景があったので、

ファミコンも時代の産物なのであろう。ファミコンが子供達のつき合いの道具になったのは

それで一緒に遊ぶことができ、カセットソフトの貸し借り等で色々なつき合いが生じたりで

従来のおもちゃと同等以上の機能を果たしたから、従来のおもちゃが衰退したのではないか

という見方もできる。自分が子供に買い与えた電子おもちゃで記憶に残るのは半導体メーカ

ーであるテキサスインスツルメント社が販売したSPEAK & SPELLというものであった。これ

は英語の発音もしてくれる画期的で意欲的な製品であった。こういうおもちゃで少しでも英語

に親しんで英語が好きになってくれればと思っていたが、結局子供も自分も大して使わない

うちに物置に入ってしまった。ソニーや三洋も一時教育おもちゃ的な製品を販売していた。

ソニーのロボット犬AIBOの人気は高かった。企業が社会貢献や創業の理念の一つとして教

育用のおもちゃを作るのも有意義なことだろう。専業でないメーカーが片手間でおもちゃを手

がけるのはリスクもあり大変なことであるようだ。プレステが成功したのも奇跡だったのかもし

れない。おもちゃに何もかも乗せようとする作る側の論理と何でもある物はおもちゃにしてし

まう人間の論理が正反対だ。しかし、世の中に物があふれる時代になって遊びごころのある

製品はそれなりの地位を占めてくるのではないか。実は高齢者の惚け防止のためファミコン

用のソフトがあるかゲーム店に足を運んだこともあった。残念だがソフトはぴったりの物もなく

値段が高かった。幼児用のソフトがあればそれが老人にも使えると思う。しかし、幼児も老人

もソフトの顧客としては魅力がないようだ。子供用おもちゃもちょっと味付けと使い方を変えれ

ば高齢者用に使えるのではないか。自分も初期のファミコンで遊んでみたいような気がする。

2008年11月19日 (水)

父が買ってくれた野球道具

2008/11/19

父が買ってくれた野球道具

幼児から少年期にさしかかると遊びも遊び友達も変わってくる。野球も一般人が親しむのは

テレビ中継が始まった事による功績が大きいのではないか。子供の世界でも野球の人気は

高い。プロ野球と高校野球が野球人気の源ではなかろうか。幼少時は人数が少ないときは

キャチボールや三角ベースの草野球をした。バットも竹や木の棒等で代用したように思う。そ

れが段々本物が子供の世界にも入ってくる。中には皮のグローブを持っている子供も出てく

る。その皮のグローブに丁寧にワックスを塗っている姿をみると自分も無性に皮のグローブ

を欲しくなった。そうして、父に野球道具を買ってくれと直訴した。なんと、父が買ってきてくれ

たのはプラスティックのバットとビニールのグローブであった。幼いながらこれには愕然とし

た。しかし、そろそろ分別が付き始めてきた頃なので父の気持ちも理解できないわけではな

い。多分、今から思えば父が当時の子供の世界の事情など知る由もなかったろう。自分も皮

のグローブとまでは言わなかったのだろう。ともかく百姓仕事を休んで、出せる範囲の金で

息子のために野球道具を買ってきてくれたのである。野球解説者の小西得郎氏の「何と申し

ましょうか」という小西節といわれる名言(迷言)をふっと思い出した。野球のボールが選手の

急所に当たった時にとっさに出た言葉だそうだ。父の野球道具の買い物も何とも言えないほ

ろ苦い記憶ではある。

2008年11月18日 (火)

「の」を「も」と読み始め

2008/11/18

「の」を「も」と読み始め

文字は教えられて覚えるのか。自発的に覚えるのか。チンパンジーも文字を理解できるとの

ことである。今日ではテレビ等映像機器が発達し幼児が文字に接して文字を小さいときから

読めるようになるのではないかと思う。自分が文字を文字として読んだと記憶しているのは

幼少時に屋外の便所に入って、尻拭き用の新聞紙をじっと見ていて「の」という文字を「も」と

解読した時であった。新聞には「の」という文字が多く現れ、これも、これもという意味で「も」

と読み始めたのが文字を文字として自覚的に認識した最初の時である。結局、自分勝手の

対応付けであったので間違いであった。しかし、不思議と「の」を「も」と読み始めたのが、自

分の文字の読み始めであることを忘れずに覚えている。なぜ覚えているのだろうかと考え直

してみると、新聞上の活字を自分の知っている発音に結びつけるという一種の暗号解読のよ

うな作業をして対応付けに成功したと思ったからなのではないか。世間の正字法という対応

付けでは間違いなのであるが、ある意味の分からない記号の「の」を「も」という発音に結び

付けたということは新しい発見であり、その発見という事実が自分の成功体験として頭に残っ

たのではないか。この成功体験という意味づけは数十年前の自分の失敗を前向きに考え直

して中期高齢者になって初めて考えついた新しい発見であった。ともかく、失敗の中にも別の

意味づけによれば成功体験が含まれている。楽しく有意義な失敗をして新しい発見をしたい

ものだ。これはと思いついたことはやって見るに如かずである。結果は後からついてくる。

2008年11月17日 (月)

キンダーブック

2008/11/17

キンダーブック

幼少の時どんな本をよんだのだろうと漠然と考え事をしていると、ふっとキンダーブックという

絵本を思い出した。具体的な本の中身は思い出せないが、表題だけは思い出した。調べて

みるとフレーベル館が発行している日本で初めての保育絵本で、平成19年に創刊80年に

なったとのことである。書店は家から遠く配達区域外だったと思われるので、多分幼稚園で

希望者に購読させていたのではないかと思う。幼少の頃は遊ぶ事に、事欠かなかったので

絵本に熱中する程でもなかったかもしれない。それでも思い出したのはなぜか。自分の子供

にも買い与えたことがあったのか。ところが、自分の子供に読ませた本はあまりよく覚えてい

ない。混同しているわけでもないと思う。ともかく幼稚園のころの記憶はあいまいな事が多く、

思い出せる事も少ない。当たり前だが、自分が文字を読めたとはっきり認識出来るのは小学

一年生になってからである。国語の本の一節を暗唱するまで読んだことを覚えているので、

これは確実であった。多分月刊の保育絵本があったのだから誰かに読み聞かせをして

もらった事もあったとおもう。それが思い出せないのは申し訳がないような気がする。

2008年11月16日 (日)

無線へのあこがれ

2008/11/16

無線へのあこがれ

小学生の時鉱石ラジオを作り電波の不思議にめぐりあった。中学生になって放送部か科学

部か何かに入って、ラジオを改造したような小型送信機を作り微弱な電波を出したりした。と

もかく、なにも無い空間を電波が伝わり通信ができることが分かり、もっと本格的に電波を出

したいと思うようになった。当時、地域にアマチュア無線局を開局していた人は何人かいたよ

うだが、中学生なので面識もない。アマチュア無線の知識もCQ誌という無線雑誌から得てい

たのだと思う。開局するには無線機が必要だが、その操作のためにアマチュア無線技師の

資格が無ければならない。国家試験なので受験地は東京である。東京など行ったことはな

い。ともかく無線への熱が高じてきて、友達と相談して一緒に受験しようという事になった。母

のおじさんが戦前東京で生活していたことがあったので、東京まで引率して頂いた。受験地

は東京中野の無線学校であった。初めて行った学校で勝手がわからない。ようやく受験の教

室が見つかり入室した。試験は午前の部と午後の部があった。自分たちは午後の部であっ

たが、午前の部の方に入室してしまった。試験の公正を保つため結局退室は許されず、そ

のまま午前の部を受験する事になった。電話級の試験なので学科だけであったと思う。とも

かく、受験は済んだが、さい先が悪く、良い予感がしなかった。結果もその通りになった。丁

度、高校進学を真剣に考えねばならない時期にさしかかり、父の青空大学とは別の分野へ

進もうと考えてきたので、アマチュア無線技師の国家試験の不合格を契機として受験勉強に

集中するようになった。今から思うと、大した準備もせずに国家試験を受けたのは無謀であ

ったかもしれない。しかし、オームの法則、電波法など自主的に色々な勉強をして、目的に向

かってチャレンジをするという良い経験が出来たと思う。友人も自分も結局、電気関係の道を

歩むことになった。

2008年11月15日 (土)

拾われた小犬

2008/11/15

拾われた小犬

人により、猫が好き、犬が好きと好き嫌いがあり、家で飼う動物にも違いがあるようだ。我が

家では犬を飼うより猫を飼う傾向があった。そんな時、娘が幼稚園の帰りに捨て犬を見つけ

て連れてきた。可愛いからと思ったのと可哀そうだと思ったのと両方の気持ちがあったよう

だ。うす茶色の日本種系の雑種のメスの小犬であった。娘はチャロという名前をつけて、餌を

くれたり色々世話をした。祖父はチャロのため犬小屋を作ってやった。孫の姿を見て作る気

になったのだろう。犬はすらりとした成犬となり犬小屋も小さくなった。そんなとき、二匹の小

犬を産んだ。娘がこの二匹に付けた名前は覚えていない。しかし、自分はこの二匹が体格も

性格も対照的なので鳴き豚(チョロマツ1号)と短足(チョロマツ2号)というあだ名を付けた。

(娘が付けた名前:後から確認)鳴き豚は体格も良く気性も強く良く鳴きその割には頭脳の方

は今一であった。一方、短足は足が短く気性は穏やかで余り鳴かず頭脳は賢かった。見知

らぬ人が来ても泣かないのでこの犬は馬鹿かと思ったが、そうではなかった。番犬としてのし

つけをしないだけであった。この二匹も成犬となり、三匹の成犬を飼うことになってしまった。

おかげでこれらの犬に自分も散歩させてもらった。三匹一度に散歩させる時は大変であっ

た。ある時、鳴き豚が鎖をほどき失踪してしまい、探したが見つからず、二度と戻って来なか

った。あの犬はきっと鎖に繋がれない生活が気に入っていたのであろう。鳴き豚の性格らし

い別れであった。母犬は十数年生きた。母犬が死んだときは供え物をして畑の片隅に埋葬し

た。娘は泣いていた。短足もその数年後に穏やかに死んで行った。老衰であったようだ。母

犬の近くに埋葬した。人間と同じく犬にも色々な運命があった。その犬たちと生活して、娘も

家族もかけがえもない思い出が残せたのは、あの捨てられた小犬が拾われて我が家に迷い

込んだのが縁であった。犬たちは自分たちの一生をどう思ったことだろう。ひょっとして自分

の気持ちに忠実に生き、自分の運命を選び取ったあの馬鹿な鳴き豚が一番賢かったのであ

ろうか。そう思うと、あの鳴き豚がどんな最期を迎えたかが思いやられる。

2008年11月14日 (金)

井戸がえ

2008/11/14

井戸がえ

水がないと生活は一時も成り立たない。上水道が開通して水の苦労もほとんど無くなった。

実際に自分が井戸水を使って仕事をさせられた時は手押しの井戸ポンプを使用した。その

後、その井戸に電動ポンプを付けて手押しの井戸ポンプは引退した。この自家水道は現在

も現役で働いている。手押しの井戸ポンプの前は多分つるべ式の井戸ではなかったかと思

う。幼少で井戸の口が開いていて危険なので近づけないようにさせられてたのか記憶が定か

でない。しかし、井戸替えというものがあって、近所の人たちに手伝ってもらい、井戸水をくみ

出して、ゴミや泥を清掃する行事があったのを覚えている。井戸の口が開いているので、ゴミ

や虫や埃が入り込み、放置すれば井戸が使えなくなる為に清掃をした。井戸の中では鯉等

の魚を放っていた。井戸に落ち込んだ虫等を食べさせた一種の掃除屋であったようだ。電動

ポンプ設置後は井戸の開口も閉じてしまったので井戸替えは一度も行われていない。それと

共に井戸の存在も忘れがちである。ある時、寒波で自家水道の塩ビ配管に亀裂が生じ漏水

した。何とか故障部分を見つけて自分で修理した。どんな井戸でも大地震等万が一の災害

の場合にあれば心強い。そのためには修繕しながら使い続けることも必要だ。

2008年11月13日 (木)

沼の弁天島の役割は?

2008/11/13

沼の弁天島の役割は?

稲作は地形と気候という条件を克服しつつ広がっていった。稲作の歴史は日本の社会発展

の歴史でもあったようだ。稲作の水が不足する地域では沼を掘り、用水路を造り水を田に導

く。旧伊勢崎市北部に位置する殖蓮地区は水田に適する低地部と畑作に適する丘陵部が適

度に混在する地域であり、水田開発のためいくつかの沼がある。その沼の中に弁天島という

人工島が作られている。最近市の農地関係の仕事をしていた人からその弁天島の役割につ

いて非常に興味がある話を聞いた。波志江沼環境ふれあい公園の中核を成す波志江沼は

灌漑用の沼として開発された。沼の中に弁天島がある。公園整備に伴い弁天島の修復を行

ったとき、その弁天島は土を何層にも突き固めて非常に強固に作られていたのが分かった

そうである。いわゆる版築という築造方法が使われていたようである。これは弁天島が波に

浸食されないためである。それでは弁天島の本当の役割は何であったか。水や農業の守り

神である神を祭ってある。波志江沼の弁天島には鳥居が立っている。実はもう一つ重要な役

割がある。沼は広く、障害物が無ければ風が吹くと勢い良く突き抜けて沼の表面に波が立

ち、その波が沼堤にあたり堤を浸食する。堤が崩れれば沼の機能は維持できない。即ち弁

天島は風切り、風を和らげ、風の造波作用を弱め、最終的に護岸作用をさせる機能を持っ

ていたのだとの事だ。昔の人の知恵は本当に偉大であったと語っていた。

自分もその話を聞いて先人達の知恵に脱帽した次第である。

尚、殖蓮地区の八幡沼の弁天島は下記を参照。この弁天島には松もはえている。

鯉沼にも終戦後の自分が幼少であったころ浸食されかけた弁天島があったという記憶が

残っている。しかし、現在は跡形もなく無くなっている。大正用水から水が豊富に供給される

ようになり、灌漑用のため池としての役割が相対的に低下して沼への関心が無くなってきた

ためであろうか。残念ではある。

八幡(新)沼の風景

2008年11月12日 (水)

技術の究極にあった黒電話

2008/11/12

技術の究極にあった黒電話

今日、一人一台と言って良いほど携帯電話が普及している。電話の歴史をたどると、たゆま

ぬ進化があったようだ。一般の家庭に電話が入る前には、呼びと言って電話のある家の電

話を使わせて貰うことも行われていた。その後に、有線放送という地域の組織ができて、地

域内の一斉放送と、放送時間帯以外の通話の兼用が行われた時代があった。地域に専用

のコンクリート柱が立てられ有線が張り巡らされていた。しかし、一般の電話の普及で有線放

送も使命を終えて消えていった。電話機といえば、両親はあの重たいが存在感のある黒電

話を使い通した。頑丈で音質も良く扱いに不自由がない単純さ。まさに電話以外でない電話

そのものであった。電子式の電話機は軽く多機能であるが、電源が必要、落雷に弱いという

問題もあった。半導体が電話の世界にも大量に使われるようになった結果でもある。一度電

子式に変更してみたが結局黒電話に戻った。その電話機の型番は定かでないが、使い始め

た年代から600形と思われる。WIKIPEDIAによると「600形電話機は、1963年(昭和38

年)、日本電信電話公社によって制式化され、提供が開始された電話機。アナログ回線によ

る単機能電話機としては、これ以上の根本的な性能向上は望めない水準で、完成された電

話機と言われる。」とある。局側も端末側もアナログレベルでは究極の状態に達していたので

ある。アナログをデジタルで置き換える事により、各種の機能、サービスが可能となり普及が

加速されてくる。その結果が一人一台の携帯電話の時代といえるだろう。携帯電話では電波

技術と移動する電話を追跡して電波をつなぐ技術が活躍している。

我が家の黒電話も当主がダイアルを回すことが徐々に少なくなり退役を迎える事になった。

実に見事な働きぶりであったと思う。このような名器が現役を去るのは残念ではあるが、これ

も時代の流れで仕方がない。電話は社会のインフラである。光電話は便利であるが停電の

時に使えなくなるという。また、万一の場合のバックアップ電池の販売もしていないとのことで

あった。光電話の採用を検討したときの回答であった。この事実は広告や説明書では小さな

文字で説明されているに過ぎない。社会のインフラとして周知すべきであると要請したことも

ある。災害、事故等万一の場合の命綱で黒電話がまだどこかで健在であるかもしれない。黒

電話を今まで残しておいたのは万一の場合の命綱を確保しておく目的もあった。

2008年11月11日 (火)

防災訓練と活断層

2008/11/11

防災訓練と活断層

昨日地域の防災訓練が小学校の校庭で行われて初めて参加した。四年ごとに行われる行

事で事故もなく無事終了。主催者側の講評の中で群馬県地域は従来地震の心配はあまりさ

れて来なかったが、近くに断層が走っているので油断はならないという話があった。

調べてみると県の資料によると次の主な断層があった。

(1)群馬県内には、フォッサマグナの東縁とされる「柏崎-銚子構造線」が県土を南北に貫いている。

(2)県内には活動度が高く規模の大きな活断層として、埼玉県から群馬県にまたがる「関
東平野北西縁断層帯」があり、この断層帯は「関東平野北西縁断層帯主部」と「平井―櫛
挽断層帯」からなり、関東平野北西縁断層帯主部では、今後30 年以内にM8程度の地震が発ることも想定されている。

従って、自然というスケールの長い時計で計ればいつ大地震に見回れても不思議ではないこ

とになる。大きな災害というと先ず関東大震災が思い出される。

関東大震災の大きさは、祖母からの伝え聞きでは、「庭の水がピシャピシャゆれた位地面が

ゆれた(多分雨による溜まり水)」とのことであった。相当な揺れであったことには間違いな

い。父が小学校に入学する頃の事だ。「庭の水がピシャピシャ」云々と気になったので、当時

雨天で水たまりが出来ていたのか調べてみたがまだはっきり分からない。

鹿島建設株式会社のホームページに下記の記載があった。

http://www.kajima.co.jp/news/digest/sep_2003/tokushu/toku01.htmより引用。

警告されていた大火災
 1923年9月1日,土曜日。前夜からの風雨が収まって陽射しも出はじめ,まもなく正午になろうとしていた。11時58分32秒。神奈川県西部から相模湾,さらには千葉県の房総半島の先端にかけての地下で断層が動きはじめた。関東地震のはじまりである。
 東京中心部が揺れはじめたのは11時58分44秒ごろ。昼食時の火の使用と重なって,倒れた家屋から各地で出火し,東京と横浜は大火災に見舞われることになる。」

大地震前夜に風雨があったのは事実のようで、聞き伝えも大筋で正しいようだ。同上の資料

で「能登半島近くに弱い台風があり,地震発生時刻には関東地方でも相当の強風が吹いて

いたのである」とも述べられている。地震の二次災害である火災も強風という気象条件で一

挙に拡大する。前橋気象台ホームページの記事にも群馬県の関東大震災の被害データがま

とめられている。幸い祖母の話も地震の大きさを伝えるだけの昔話ですんだ。調べてみて足

下に潜んでいる自然の猛威についてはあまりにも無知で無関心であったようだ。

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    「ご要望にお応えしてアンコール復刊(1988年岩波新書50年記念復刊) 地球生態系の中で自然を見直す」(腰巻きのフレーズ)。植物の知恵と戦略に人類は勝てるのか。
  • 出町 誠: 14_NHK趣味の園芸:よく分かる栽培12ヶ月  カキ(NHK出版2007年)
    初心者向け柿栽培参考書(新版)。旧版と比較すると楽しい。
  • 中村三夫: 13_NHK趣味の園芸:作業12ヶ月  カキ(NHK出版1996年)
    初心者向け柿栽培参考書(旧版)。新版と比較すると楽しい。
  • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
    細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
  • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
    著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
  • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
    ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
  • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
    やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
  • ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫訳): 08_サイバネティックスはいかにして生まれたか(みすず書房1956)
    情報と通信という現代社会に不可欠の基礎的な学問を作った著者の自伝とそれを通した科学史
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    2010/8/4:MEMO等の表示に使える。 農作業で気になる自戒の言葉 ■畑の石ころはいつまで経ってもても石ころ(早く拾って片づけよという意味か)。 ■同じ石を二度拾うな(やってみると難しい)。 ■手ぶらで歩くな。 ■三つ先のことを読め。 ■適当な観察。 ■空を見よ(気分転換、休憩、天気を読む、腰曲がり防止)