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2008年12月

2008年12月21日 (日)

古墳盗掘の昔話

2008/12/21

古墳盗掘の昔話

本日は国定忠次が大戸関所にて処刑された日である。嘉永3年(1850)の事である。時と場

所を特定すると歴史が身近に感じられる。聞き伝えの話になると、事実を特定する要素が欠

けるが、永久に消えてしまえば、何も手がかりがつかめなくなる。覚えている事を記す。

故老から聞いた話で、その話も更に先人から聞いた話であった可能性がある。当時の意識

として、古墳を私的に掘ることも暗黙理に行われていたようだ。どうも埋蔵品がお目当てであ

ったらしい。発掘人がいよいよ目的地まで掘り進んだ時に近所の者を集めて何が出るかを

みせたそうである。結局はめぼしい物は何も出ずに終わったとの事である。その古墳は

1955年に正式に発掘調査された。総合的にみて、5世紀後半から末に作られた古墳らしい。

<各棺とも既に盗掘を受け、出土遺物はなかった。>と言うことで、伝えられた話と合致して

いる。古老の話は戦後の正式な発掘以前の私的な発掘であり、その時何も出てこなかった

ので、既にずっと以前に盗掘されていた訳である。従って、その古墳は正式な発掘をいれて

最低でも3回発掘されている事になり、造築されてから約1500年の間には何回も盗掘され

たのではないか。古地図によるとこの古墳には社があった時もある。ともかくいろいろの人を

引きつけてきた遺物であることには変わりがない。ちなみに文化財保護法(昭和二十五年五

月三十日法律第二百十四号)は当時制定されていない。古墳の盗掘は住民に古代人の墳

墓を守るという固い信念がないかぎり避けられないようだ。最近、念のためもう一度盗掘の

話を確認した。聞き伝えの話であった。一度は横穴を掘り進んだが、方向と高さが目的の石

棺とずれていて掘り当てられなかったらしい。結局、何も出なかったことには変わりがない。

2008年12月20日 (土)

畑の出土品

2008/12/20

畑の出土品

ブログの描き始めの頃、「いとしきもの」というタイトルで畑から出てきた過去の遺物について

書いた。石器らしい石、土器の破片、瀬戸物、キセルの頭、鉄片、自分が遊んだかもしれな

い火打ち石...。等々。終戦後は大規模の地域開発が行われ、埋蔵文化財の調査も行わ

れている。大型の建築機材が使われるようになり、ちょっとした古墳程度なら小さな土建屋で

も数日で平地にしていまうほどの機動力が当たり前になっている。ともかく、遺跡も遺物も大

規模の地域開発で大きく破壊されているのは事実であろう。戦前は農地の耕作、開墾等も

ほとんど牛馬の畜力や人力に頼っていたので、遺跡も遺物の破壊も相対的に小さかったと

思われる。叔父さんの話によれば、畑からは、土器や刀のツカ等が出てくることがしばしばあ

ったという。墳墓から出た珍しい形の埴輪等はコレクターがなにがしかの謝礼をして引き取っ

ていたらしい。ただ、そういうコレクターがいたから畑等から出土した遺物が残ったのも事実

であろう。円筒埴輪等何の役にも立たないと割って捨てられていた時代もあった。思うに現代

の人間は千年後、二千年後に何を残すのであろうか。

2008年12月19日 (金)

リンゴ箱の机

2008/12/19

リンゴ箱の机

勉強の基本道具といえば机と椅子である。いまでも、家具屋やホームセンターに行くと机や

椅子を見たくなる。中学生頃になりようやく既製品の木製の机と椅子を買ってもらった。その

前は手作りの机と腰掛けを椅子に代用していた。更にその前はちゃぶ台の片隅程度であっ

た。あの、藁葺きの家を改築する時は別棟の蚕屋に仮住まいした。終戦直後は蚕屋に疎開

してきた人がしばらく住んだとの事だ。当時はまだ蚕屋は機能しており、戸や障子があったの

で、仮住まいの生活は何とかなった。この頃は、リンゴ箱に新聞紙をしいたものを机としてい

た。昔の事でリンゴ箱を机として使うのは極一般的であったかもしれない。しかし、自分が勉

強するためのスペースを確保することを始めたと言う点でリンゴ箱の机というものは意味が

あるのであろ。当然、子供達には椅子や机を買い与えたが、結局自分の勉強の為に新品の

椅子や机を買う機会を失った。立派な机や椅子を店頭でみると足が止まるのも理由がない

わけではないようだ。

2008年12月18日 (木)

日光写真

2008/12/18

日光写真

子供の遊びで日光写真はひと味違う面白さがあった。ネガ画像の下に感光紙を置き、透明

ガラスの箱の表面を通して日光で感光しポシ画像を出す遊びである。基本は普通の写真と

共通する所があり、画面が浮き出るという神秘感を味わえるのがうれしかった。画像の題材

は当時の俳優など子供が興味を持つものであった。似たような遊びに移し絵というのがあっ

た。これは図柄を塗料で印刷して作った紙を切り取って、自分の好きな場所に塗料を転写す

る遊びである。図柄はカラーであったが、単色の日光写真程の面白さがなかった。日光写真

は化学変化というやや不安定な要素が有る分、良い写真を作る技術が必要になり、日光の

状態、現像時間等工夫する面白さがあったのだろう。小学中学年頃の遊びだったと思う。

2008年12月17日 (水)

餅つきはどうするの

2008/12/17

餅つきはどうするの

年の暮れの餅つきは年中行事ではあるが、これを毎年続けることは大変である。昔は餅は

保存食でもあったので餅をつく量も多かった。餅つきは大勢でやれば力仕事も分散されて楽

であり、その場面に応じて役割を分担できる。要するに共同作業の原点のような要素を含ん

でいる。人が集まればコミュニュケーションも生まれる。幼児も、ちょっとだけ餅をつかせても

らったりする。それが今風にいえばOJTで実物教育になっており、幼児が子供となり、成人と

なると餅つきの中心戦力になる。親たちは主役を降りる。伝統行事には役割を交代しながら

仕事を引き継いでゆくという機能もある。餅を単なる食料ととらえるなら店で買ええばよい。し

かし、年中行事の餅つきとなると別の意味がある。餅をつき終わり、大晦日を迎えることによ

り、一年間の締めくくりをして、ついた餅で元旦の雑煮をいただく。生きている事のありがたさ

をじっくり味わう一時でもある。両親を失い、もう餅つきも止めてもよいかなと内心思ったりす

る。しかし、先祖達が今まで続けてきた伝統を自分の代で止めるのはなんとなく申し訳ない。

一度止めたことを復活させるのは大変な努力が要る。「今年は餅つきはどうするの」と聞か

れて「やるよ」と答えた。

2008年12月16日 (火)

行者山の祭

2008/12/16

行者山の祭

飄々と彷徨う霊を導きしかの老僧も一人旅立つ

毎日、一つの事を行うには大変な努力が要る。それが人のためというと尚更である。最近遷

化された近くの寺院の老住職は毎朝の読経はおつとめとして欠かした事がなかったと聞い

た。真冬でも祭壇を清掃し、檀家の人々等の幸せを願い読経をすると身体が温もってくると

のことであった。行者の姿を見る思いであった。地域内に小さな山が三つあった。その一つ

を行者山といい、幼少時にはお祭りのような行事が行われていた。灯籠といって、各戸に絵

などを描いた灯籠を出品してもらい地域の余興としたものらしい。灯籠が並べられた山を通

る道路にはアセチレンガスを灯した夜店も出て、見物客でにぎわった。これも、終戦後の娯

楽の少ない頃の地域の活性化として企画されたものであろう。いつしかこの行事も消えてい

った。自分にとって「行者」とは何か今も謎である。大泉町の西小泉駅の近くに小さな遺跡ら

しい物があり、そこに説明版があった。うろ覚えであるが、そこは地域住民の救済を願って行

者が即身仏になる行を行った所らしい。最後の即身仏になったのは仏海上人と言われ明治

36年(1903)とされている。江戸時代末期になると飢饉や天変地異が目立った。ひょっとし

たら、当地の行者山にも地域住民の救済を願って即身仏になる行を行った行者がいたので

はないか。行者山という固有名詞に昔の地域住民の記憶が刻まれているのではないかと思

われる。行者山は本来は古墳であったようだ。その後は行者の事跡を祭る祭礼の場となり、

灯籠の行事につながったようだ。しかし、いつしか、灯籠の行事も無くなり、山さえも切り崩さ

れ、石棺の残骸が残っているだけとなっている。 

自ずから往生かなわぬ衆生なりかの老僧に低頭合掌

2008年12月14日 (日)

幼稚園の思い出(改題):寝言老人が幼少の頃:幼児教育の重要性とその原点。081214。

2008年12月14日 (日)

幼稚園の思い出(改題):寝言老人が幼少の頃:幼児教育の重要性とその原点

幼稚園のことになると記憶は曖昧である。小学校の中にあった、古い木造の講堂の一角にあったような覚えがする。その後、校内に新しい園舎が建てられそちらに移ったのではないか。

現在は小学校から出て単独の幼稚園になっている。覚えているのは、登校拒否ならぬ、登園拒否。これで両親を悩ませたのではなかったかと思う。登園拒否の理由も定かでないが、農家なので衣服がみすぼらしいことなども影響していたかもしれない。

制服・制帽があったのかも覚えていない。先生は黒っぽいめがねをしていた女の先生だったように思う。童謡の切れ端を覚えているので先生が弾くオルガンで遊戯をしたりしていたのであろう。

講堂の前には二宮金次郎の像が立っていた。白っぽいので石かコンクリート製であったように思う。

今日では幼児教育の重要性は認識されているが当時は労働力を確保する為の保育園的な機能もあったのかもしれない。

ともかく幼稚園生活を無事送れたので小学1年生の生活はスムーズであったと思う。


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2008/12/14

幼稚園の思い出

幼稚園のことになると記憶は曖昧である。小学校の中にあった、古い木造の講堂の一角に

あったような覚えがする。その後、校内に新しい園舎が建てられそちらに移ったのではない

か。現在は小学校から出て単独の幼稚園になっている。覚えているのは、登校拒否ならぬ、

登園拒否。これで両親を悩ませたのではなかったかと思う。登園拒否の理由も定かでない

が、農家なので衣服がみすぼらしいことなども影響していたかもしれない。制服・制帽があっ

たのかも覚えていない。先生は黒っぽいめがねをしていた女の先生だったように思う。童謡

の切れ端を覚えているので先生が弾くオルガンで遊戯をしたりしていたのであろう。講堂の

前には二宮金次郎の像が立っていた。白っぽいので石かコンクリート製であったように思う。

今日では幼児教育の重要性は認識されているが当時は労働力を確保する為の保育園的な

機能もあったのかもしれない。ともかく幼稚園生活を無事送れたので小学1年生の生活はス

ムーズであったと思う。

*************************
追記(2017/12/04):記事整形、過去BLOG再読、印象・コメント等
タイトル等を変更。

BLOGを本格的に書き始めた初期の頃の記事である。9年程前の記事でこの間の社会の変化も大きい。「保育園落ちた日本死ね」という言葉にも社会の大きな反響があった。既に、幼児の段階から、日本人は選別される危機に直面しているのが現実なのかも知れない。

The Huffington Postは、「NEWS 「保育園落ちた日本死ね」ブログの本人がいま伝えたいこと「どの党に所属していようが関係ない」(このサイトへのリンク);http://www.huffingtonpost.jp/2016/03/14/hoikuenochita-blog-_n_9457648.html( 笹川かおり:2016年03月14日 19時17分 JST | 更新 2016年03月15日 16時24分 JST )」というタイトルで、「「保育園落ちた日本死ね!!!」と題した匿名のブログが大きな注目を集めている。政府の「1億総活躍社会」のかけ声とは裏腹に、なかなか解消しない待機児童の問題を指摘する内容で、ネット上には同じ境遇の人たちから共感の声が相次いだ。ハフポスト日本版は3月中旬、30代前半の女性というブログを書いた「保育園落ちた人」に、いま、何を思っているのかメールで話を聞いた。 匿名ブログが投稿されたのは、2月15日だった。」と報じた。

この記事を再読しつつ、幼稚園の担任は女性のA先生、小学校一年の担任も女性のS先生と、担任の先生を思い出しているが、明らかに男性の担任が少ないのに気付いた。これは、幼児を扱うのに女性が適しているからと言う配慮の故か。

実は、男性教員が少なかった理由に、徴兵されて戦死した教員が多かったのではないかと今になって感じている。これは終戦直後に生まれたというヒガミの反映か。クラスを受け持つ担任には気力・体力と経験が不可欠だ。そういう年齢層の教員は、徴兵年齢と重なる。真相は不明だが、幼稚園~小学校の担任に男性が少なかったという記憶が蘇って来た。

「平成26年度 伊勢崎市の教育(伊勢崎市教育委員会)」によると、「1890(M23. 5.12) 伊勢崎尋常小学校に予修科付設(幼稚園のはじまり)。」とあり、伊勢崎市の幼児教育が明治の中頃まで遡るのが分かる。

古い木造の講堂は撤去され、その南方に新しい講堂が建てられている。本記事以後の発掘調査で、三軒屋遺跡の一部である旧講堂跡地かその周辺から、儀式に使ったと推測される幢竿(どうかん)と呼ばれる旗を立てるための斜め向きの穴が検出されている。

自分がお世話になった幼稚園の正確な歴史は知らないが、多数の卒園生を世に送り出している筈だ。

当BLOGのサブタイトルは、「失われた時を求めて | 遠くはるかな記憶と共に | いとしきものを訪ねる | 果てしのない心の旅 | 」である。記憶を遡ろうとあがいても、精々幼稚園頃までが限界である。記憶を及び戻す、記録や遺品・遺物があると実に有り難く感じる。

前記、「平成26年度 伊勢崎市の教育(伊勢崎市教育委員会)」は参考になった。伊勢崎市のHPからDL可能である。

2008年12月13日 (土)

桑繊維の着物

2008/12/13

桑繊維の着物

桑の皮剥ぎは終戦後の物資の欠乏を思い出させる手仕事であった。蚕が大きくなると桑の

枝に葉が付いたままで餌にする。上簇後に枝と蚕の糞等が残る。この桑の枝から糞等を振

り落としてから桑の皮剥ぎをする。子供だったので皮を何に使うか分からなかった。聞くとこ

ろによると、その皮をたたいて軟らい繊維にして布に織り上げるとのことであった。そう言え

ば、なにかゴワゴワとした着物を着せられた記憶がある。桑の繊維で作られた衣服を着るほ

ど物資が不足していた時代があったのだ。しかし、貧しいという感覚は無かった。貧しいとい

う感覚は相対的なもので、まわりが皆同じ状況なのでそれがあたりまえであったわけだろう。

2008年12月12日 (金)

ブラジルの友との再会

2008/12/12

ブラジルの友との再会

小学校4年生の時に友達の一家はブラジルに移住した。もう二度と会えないだろう。担任の

先生は学級全員の生徒に作文を書かせて文集にして友達に託した。当時の事でガリ版刷り

であった。団塊の世代で一学級の人数も50名程度いたろう。鉄筆を握りろう紙に全員の作

文を刻み、インクを塗布したローラーで一枚一枚印刷をする。今思うと、教え子の為に大変な

努力をして頂いたことに頭が下がる。自分はいつかこの文集を開いたとき手紙をくれと住所

を書いておいた。それから十数年後、文集のことも忘れかけていた時に友達から結婚したと

の手紙を受け取った。本当にびっくりした。その後、ポツポツと文通したがまた途絶えた。

そんなある日、その友達から電話をもらった。日本で働いているとの事で、エエッと絶句し

た。親戚の家にお客に来るというので、その機会を捉えて再会を果たした。文通開始から更

に十数年経っていた。青年期の息子さんも一緒だった。今後、何をしたいかと聞いたら技術

の勉強をしたいと答えた。それならと、嶋正利著「マイクロコンピュータの誕生 我が青春の

4004」という本を書棚から取りだして息子さんに渡した。自分が感銘して書棚の一等席に並

べていた本である。息子さんはブラジルでは日系三世となる。もうその息子さんにも子供が産

まれている頃かも知れない。ともかく半世紀も前に担任の先生が作ってくれた文集がきっか

けで得難い体験をさせていただいた。これも縁というものか。改めて先生に感謝したい。

2008年12月11日 (木)

紙芝居屋さんの思い出

2008/12/11

紙芝居屋さんの思い出

昔の子供達の楽しみは主に屋外の遊びであった。紙芝居はプロの紙芝居屋が来て見せてく

れるので、遊び以上の楽しみであった。大体、紙芝居をする場所と時間は決まっているの

で、その時刻になると子供達が集まり始める。紙芝居屋は紙芝居や太鼓や売り物を積んだ

自転車でやってくる。そうして、来たぞーという合図に、ドンガラカッカ、ドンガラ、ドンガラと

太鼓を叩いて回る。子供達が集まると、水飴やべっこう飴を売る。子供達は順番がくるまで

並んで待っている。そうして、最後の子供が買い終わるといよいよ紙芝居が始まる。子供達

は二本の棒で水飴をこねたり、べっこう飴を舐めながら紙芝居をみる。紙芝居屋は活弁の弁

士のように流ちょうに話を進め、紙芝居が見せ場に来るとドドドドドーンと太鼓を打つ。これで

子供達は紙芝居に引き込まれ、劇中の人物になりきってしまう。そうして、続きは次回のお楽

しみということになる。もう一つ子供達が楽しみにしている仕掛けがあった。水飴はこね回す

と透明から白色に色が変わる。べっこう飴には小さな図形の押し形が付いていて上手に舐め

るとその図形がきれいに取り出せる。紙芝居屋さんはそういうこねたり、舐めたりする子供達

の技術を査定して上位のものに努力賞のようなものをくれた。さて、演目は何であったか良く

思い出せない。多分、黄金バットのようなものであったと思う。紙芝居屋という仕事も終戦後

の職を失った人の知恵であったようだ。母はよくこう言った。お前達が紙芝居を見に行くとき

は芋を持って行ったんだよと。お前は芋で育ったんだ。こういわれると次の言葉が無い。確か

に俺の背は低いなー。さすがに芋を持って紙芝居を見に行った記憶は無かったが、そういう

時期が実際にあった。穴あきの五円硬貨が製造されたのが昭和24との事である。多分自分

が思い出した紙芝居は五円硬貨を握りしめて見に行った頃の情景であろう。

数人でお茶のみ話をしたときに出た事を以下に記しておく。紙芝居屋は人集めに拍子木も使

ってカチカチと触れ回ったとの事だ。太鼓や拍子木を子供に叩かせることもあったらしい。お

礼に水飴などもらえたので俺も俺もと手を挙げる者が沢山いたとか。買わない者は見ちゃ駄

目だよと言われたこともあるらしい。でもそういう人は後列で黙って見ていたようだ。やはり、

先輩が見ていた事は詳しい。

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    刃物という視点で多くの事例が取り上げられている。刃のある道具の理解にも役立つ。類書が少なく貴重な一冊。「すべり変形が切断の原理」という考え方で説明している。
  • 沼田 真   : 植物たちの生( 1972年 岩波新書(青版 833))
    「ご要望にお応えしてアンコール復刊(1988年岩波新書50年記念復刊) 地球生態系の中で自然を見直す」(腰巻きのフレーズ)。植物の知恵と戦略に人類は勝てるのか。
  • 出町 誠: 14_NHK趣味の園芸:よく分かる栽培12ヶ月  カキ(NHK出版2007年)
    初心者向け柿栽培参考書(新版)。旧版と比較すると楽しい。
  • 中村三夫: 13_NHK趣味の園芸:作業12ヶ月  カキ(NHK出版1996年)
    初心者向け柿栽培参考書(旧版)。新版と比較すると楽しい。
  • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
    細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
  • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
    著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
  • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
    ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
  • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
    やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
  • ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫訳): 08_サイバネティックスはいかにして生まれたか(みすず書房1956)
    情報と通信という現代社会に不可欠の基礎的な学問を作った著者の自伝とそれを通した科学史
  • 沼田 真(編): 07_雑草の科学(研成社1979)
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    2010/8/4:MEMO等の表示に使える。 農作業で気になる自戒の言葉 ■畑の石ころはいつまで経ってもても石ころ(早く拾って片づけよという意味か)。 ■同じ石を二度拾うな(やってみると難しい)。 ■手ぶらで歩くな。 ■三つ先のことを読め。 ■適当な観察。 ■空を見よ(気分転換、休憩、天気を読む、腰曲がり防止)