方丈記随読4C:いとしきもの
2010/3/4
方丈記随読4C
「その所のさまをいはゞ、南にかけひあり、岩をたゝみて水をためたり。林軒近ければ、つま木を拾ふにともしからず。名を外山といふ。まさきのかづらあとをうづめり。谷しげゝれど、にしは晴れたり。觀念のたよりなきにしもあらず。春は藤なみを見る、紫雲のごとくして西のかたに匂ふ。夏は郭公をきく、かたらふごとに死出の山路をちぎる。秋は日ぐらしの聲耳に充てり。うつせみの世をかなしむかと聞ゆ。冬は雪をあはれむ。つもりきゆるさま、罪障にたとへつべし。もしねんぶつものうく、どきやうまめならざる時は、みづから休み、みづからをこたるにさまたぐる人もなく、また耻づべき友もなし。殊更に無言をせざれども、ひとり居ればくごふををさめつべし。必ず禁戒をまもるとしもなけれども、境界なければ何につけてか破らむ。もしあとの白波に身をよするあしたには、岡のやに行きかふ船をながめて、滿沙彌が風情をぬすみ、もし桂の風、葉をならすゆふべには、潯陽の江をおもひやりて、源都督(經信)のながれをならふ。もしあまりの興あれば、しばしば松のひゞきに秋風の樂をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる。藝はこれつたなけれども、人の耳を悦ばしめむとにもあらず。ひとりしらべ、ひとり詠じて、みづから心を養ふばかりなり。』」
「觀念のたよりなきにしもあらず。」頼りなく感じないと言えば嘘になるかもしれないが、気にす
るほどでもないだろう。「夏は郭公をきく、かたらふごとに死出の山路をちぎる。」カッコウの鳴
き声にも人生のはかなさを感じる。念仏を唱えたり、読経するのも気の向くまま。楽器を弾く
のも人に聞かせるのではなく、自分の感興に従うだけだ。色々な固有名詞が出てくる。教養
も単身生活の友になるのだろう。滿沙彌が風情:沙弥満誓「世の中を何にたとへむ朝ぼらけ
漕ぎ行く船の跡の白波」。こういう前提があって描写が成り立つのか。ともかく、追求すれば
際限がない。自分の視線が止まった所だけでもよかろう。風流な生活のようだが、食生活は
どんなようすだったのか。