読みかじりの記:不幸な国の幸福論 加賀乙彦 著 (2009年 株式会社集英社)
2011/7/30
昨日は午前中は大体曇り。その後、雲間から空が見えて、午後は晴れ間が出てきた。庭先のヒマワリの蕾から黄色い花弁がちょっとだけ見えてきた。夜は子供屋台の練習を見た。今朝のXP機はまた機嫌がわるくなり、起動後3回ほど無言でストンと落ちた。DOSの起動画面が現れた。OFFENDING SEGMENT:F000云々というメッセージが出た。一昨日焼いたCDROMがドライブ中に残っていたのが原因だったようだ。XP機は一度CDROMを焼いたことを覚えていて、逆にそれがいたずらしているようだ。
昨日の天気
TAVE= | 25.8 |
TMAX= | 30.9 |
TMIN= | 22.9 |
DIFF= | 8 |
WMAX= | 4.1 |
SUNS= | 1.5 |
RAIN= | 9.5 |
最高気温(℃) = 31.3 (13:57)
読みかじりの記:不幸な国の幸福論 加賀乙彦 著 (2009年 株式会社集英社)
著者は1929年、東京生まれと巻末にある。医師、作家等として多彩な活動をしているがその著書を読んだのは初めてのような気がする。本題が日本の現状にぴったりでつい手にしたようだ。共鳴できる部分は多い。第1章から第2章までは一般論、第3章が応用論、第4章が老いと死が関係する特論のように感じた。幸不幸は微分的な見方もできれば積分的な見方もできる。
老いと死は時間軸を長くとらないと見えてこない。身辺雑記:生と死(LIFE AND DEATH):http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2010/12/life-and-death-.html;生老病死:http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2009/12/post-db37.htmlの記事で世間の関心がどの辺にあるかしらべた事があった。幸不幸も一種心理的な精神状態と考えると、人間の生存を維持する仕掛けとしてはかなり高等なメカニズムに依存するようだ。大脳生理学もそこまで乗り込んでも大した成果がでない。そのような分野は精神医学や宗教等々はまたまた別の専門家の出番のようだ。
思うに、評価がしにくい精神世界の事象になぜ専門家が必要なのかも不思議だ。幸不幸も一種のコミュニケーションツールのようでもある。ある人の不幸に幸福な人が押し寄せる。葬儀・事故等々。なぜ人間はそんなお節介な事をやる動物なのか。
第1章の、○「考えない」習性が生み出す不幸という段も、○他者を意識しすぎる不幸にも納得。「不幸増幅装置」ニッポンをつくったものと言う第2章にも納得。この章は第1章の個人レベルの不幸を国家レベルに拡大した見方のようだ。幸福は「しなやか」な生に宿ると言う第3章が不幸を幸福に変える応用論の部分かもしれない。幸不幸に憂えることもなく人生を楽しく過ごせたら幸せなのかとふと思う事がある。人の死が様々であるように、人の幸不幸は様々だ。それなのに、ある人の人生を他人が幸不幸と判定するのもおかしいような気もする。他人には不幸に見える人生でも本人には幸福である、少なくても人生の一瞬でも幸福であった時はあるのではないか。まさに生老病死という四苦は人生を支配している。それを滅却出来れば幸福なのか。
ともかく、文明は余りにも進みすぎた。それも歪んだ形で。いわば物質面が突出して進歩したが、精神面はそれに追いつけていない。生産力は過剰に進歩して、物が市場にあふれ出す。作った物を消費者に買わせるためには、常に欲望をかき立て心理的な欠乏感を煽ってきたのが20世紀の世相の一断面図のようでもあった。それもハードとソフトの進歩で、ほとんど意識されることなく、耳目を通して、大脳まで即座に忍び込む。
今思うと自分がかつて従事したテレビ用の集積回路の開発も大きな文明の流れの中で人間の感性を萎縮させるような仕事だったのかも知れない。そんな訳で自宅では大画面テレビは極力見ないようにした。テレビという枠の中の画像を見ていると常に意識する事でその存在を相対化していたのであったろう。枠があるのと枠が無いのは大違い。ボーダーレスというと何となく格好が良く聞こえるが、ボーダーレスの弊害も20世紀に顕著である。自分にとっては格好が良いのも・格好を付けるための横文字も気にくわない。がんこ爺になりかけているようだ。というより、もうそのものだと言われている。ともかく幸福はこれだと言われて、自分は幸福かと他人から幸福云々を指図されないのが最大の幸福かもしれない。それは自由なのか放縦なのか分からないが。
第4章の特論は老後に向かう自分にとっても参考になりそうだ。老後のために本気で読まないで残しておきたい。書店には「生前整理」、「老前整理」とうようなタイトルの本が並んでいた。余りに手回しが良すぎるように感じた。「綺麗」、「美しい」が現代文明が押しつける強迫観念。パラパラページを繰ったが「綺麗」、「美しい」という事に関する幸福観に出会わなかったが、「醜形恐怖」についての記事があった。一度、頭脳にある言葉が記録されてしまうとそれを消すのが大変になる。幸不幸という言葉も色々な関連する言葉で支えられている。その言葉の連携が緊密になると圧迫感を感じるようになる。それが際立つとやがて強迫観念になる。「幸・不幸」、「美・醜」、「清潔・不潔」、「便利・不便」、「快・不快」、「うまい・まずい」、「速い、遅い」、「安い・高い」・・・現代の商品やサービスに消費者を誘惑する言葉の数々。結局、お金になる光の部分だけが強調され、陰の部分は切り捨てられてしまう。そう考えると「不幸な国」とは余りにも出来過ぎた形容詞のようにも感じた。あんたは不幸だと言われればだれもがぎょっとする。「不幸な国」とはどこの国なのだろうか。「不幸な国になるのではないかとウスウス気付き始められた中途半端な国」こんな国はどこにもありそうだ。あなた任せでは本当の幸せは無いと言うのが本書のポイントだろうか。ともかく人間毎日普通に生きている中に幸福があるのではないか。精神と身体が自立しているだけで十分ではないか。別に青い鳥を探す必要もない。スズメやカラスはあちこちにいるのだ。
追記:幸福論は各人各様だろう。日本人の幸福論があるのか定かではないが、日本人は意外に現実的でしたたかな面はあるだろう。幸福論:http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2009/10/post-150d.htmlを思い出した。
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