2008年12月19日 (金)

リンゴ箱の机

2008/12/19

リンゴ箱の机

勉強の基本道具といえば机と椅子である。いまでも、家具屋やホームセンターに行くと机や

椅子を見たくなる。中学生頃になりようやく既製品の木製の机と椅子を買ってもらった。その

前は手作りの机と腰掛けを椅子に代用していた。更にその前はちゃぶ台の片隅程度であっ

た。あの、藁葺きの家を改築する時は別棟の蚕屋に仮住まいした。終戦直後は蚕屋に疎開

してきた人がしばらく住んだとの事だ。当時はまだ蚕屋は機能しており、戸や障子があったの

で、仮住まいの生活は何とかなった。この頃は、リンゴ箱に新聞紙をしいたものを机としてい

た。昔の事でリンゴ箱を机として使うのは極一般的であったかもしれない。しかし、自分が勉

強するためのスペースを確保することを始めたと言う点でリンゴ箱の机というものは意味が

あるのであろ。当然、子供達には椅子や机を買い与えたが、結局自分の勉強の為に新品の

椅子や机を買う機会を失った。立派な机や椅子を店頭でみると足が止まるのも理由がない

わけではないようだ。

2008年12月18日 (木)

日光写真

2008/12/18

日光写真

子供の遊びで日光写真はひと味違う面白さがあった。ネガ画像の下に感光紙を置き、透明

ガラスの箱の表面を通して日光で感光しポシ画像を出す遊びである。基本は普通の写真と

共通する所があり、画面が浮き出るという神秘感を味わえるのがうれしかった。画像の題材

は当時の俳優など子供が興味を持つものであった。似たような遊びに移し絵というのがあっ

た。これは図柄を塗料で印刷して作った紙を切り取って、自分の好きな場所に塗料を転写す

る遊びである。図柄はカラーであったが、単色の日光写真程の面白さがなかった。日光写真

は化学変化というやや不安定な要素が有る分、良い写真を作る技術が必要になり、日光の

状態、現像時間等工夫する面白さがあったのだろう。小学中学年頃の遊びだったと思う。

2008年12月17日 (水)

餅つきはどうするの

2008/12/17

餅つきはどうするの

年の暮れの餅つきは年中行事ではあるが、これを毎年続けることは大変である。昔は餅は

保存食でもあったので餅をつく量も多かった。餅つきは大勢でやれば力仕事も分散されて楽

であり、その場面に応じて役割を分担できる。要するに共同作業の原点のような要素を含ん

でいる。人が集まればコミュニュケーションも生まれる。幼児も、ちょっとだけ餅をつかせても

らったりする。それが今風にいえばOJTで実物教育になっており、幼児が子供となり、成人と

なると餅つきの中心戦力になる。親たちは主役を降りる。伝統行事には役割を交代しながら

仕事を引き継いでゆくという機能もある。餅を単なる食料ととらえるなら店で買ええばよい。し

かし、年中行事の餅つきとなると別の意味がある。餅をつき終わり、大晦日を迎えることによ

り、一年間の締めくくりをして、ついた餅で元旦の雑煮をいただく。生きている事のありがたさ

をじっくり味わう一時でもある。両親を失い、もう餅つきも止めてもよいかなと内心思ったりす

る。しかし、先祖達が今まで続けてきた伝統を自分の代で止めるのはなんとなく申し訳ない。

一度止めたことを復活させるのは大変な努力が要る。「今年は餅つきはどうするの」と聞か

れて「やるよ」と答えた。

2008年12月16日 (火)

行者山の祭

2008/12/16

行者山の祭

飄々と彷徨う霊を導きしかの老僧も一人旅立つ

毎日、一つの事を行うには大変な努力が要る。それが人のためというと尚更である。最近遷

化された近くの寺院の老住職は毎朝の読経はおつとめとして欠かした事がなかったと聞い

た。真冬でも祭壇を清掃し、檀家の人々等の幸せを願い読経をすると身体が温もってくると

のことであった。行者の姿を見る思いであった。地域内に小さな山が三つあった。その一つ

を行者山といい、幼少時にはお祭りのような行事が行われていた。灯籠といって、各戸に絵

などを描いた灯籠を出品してもらい地域の余興としたものらしい。灯籠が並べられた山を通

る道路にはアセチレンガスを灯した夜店も出て、見物客でにぎわった。これも、終戦後の娯

楽の少ない頃の地域の活性化として企画されたものであろう。いつしかこの行事も消えてい

った。自分にとって「行者」とは何か今も謎である。大泉町の西小泉駅の近くに小さな遺跡ら

しい物があり、そこに説明版があった。うろ覚えであるが、そこは地域住民の救済を願って行

者が即身仏になる行を行った所らしい。最後の即身仏になったのは仏海上人と言われ明治

36年(1903)とされている。江戸時代末期になると飢饉や天変地異が目立った。ひょっとし

たら、当地の行者山にも地域住民の救済を願って即身仏になる行を行った行者がいたので

はないか。行者山という固有名詞に昔の地域住民の記憶が刻まれているのではないかと思

われる。行者山は本来は古墳であったようだ。その後は行者の事跡を祭る祭礼の場となり、

灯籠の行事につながったようだ。しかし、いつしか、灯籠の行事も無くなり、山さえも切り崩さ

れ、石棺の残骸が残っているだけとなっている。 

自ずから往生かなわぬ衆生なりかの老僧に低頭合掌

2008年12月14日 (日)

幼稚園の思い出(改題):寝言老人が幼少の頃:幼児教育の重要性とその原点。081214。

2008年12月14日 (日)

幼稚園の思い出(改題):寝言老人が幼少の頃:幼児教育の重要性とその原点

幼稚園のことになると記憶は曖昧である。小学校の中にあった、古い木造の講堂の一角にあったような覚えがする。その後、校内に新しい園舎が建てられそちらに移ったのではないか。

現在は小学校から出て単独の幼稚園になっている。覚えているのは、登校拒否ならぬ、登園拒否。これで両親を悩ませたのではなかったかと思う。登園拒否の理由も定かでないが、農家なので衣服がみすぼらしいことなども影響していたかもしれない。

制服・制帽があったのかも覚えていない。先生は黒っぽいめがねをしていた女の先生だったように思う。童謡の切れ端を覚えているので先生が弾くオルガンで遊戯をしたりしていたのであろう。

講堂の前には二宮金次郎の像が立っていた。白っぽいので石かコンクリート製であったように思う。

今日では幼児教育の重要性は認識されているが当時は労働力を確保する為の保育園的な機能もあったのかもしれない。

ともかく幼稚園生活を無事送れたので小学1年生の生活はスムーズであったと思う。


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2008/12/14

幼稚園の思い出

幼稚園のことになると記憶は曖昧である。小学校の中にあった、古い木造の講堂の一角に

あったような覚えがする。その後、校内に新しい園舎が建てられそちらに移ったのではない

か。現在は小学校から出て単独の幼稚園になっている。覚えているのは、登校拒否ならぬ、

登園拒否。これで両親を悩ませたのではなかったかと思う。登園拒否の理由も定かでない

が、農家なので衣服がみすぼらしいことなども影響していたかもしれない。制服・制帽があっ

たのかも覚えていない。先生は黒っぽいめがねをしていた女の先生だったように思う。童謡

の切れ端を覚えているので先生が弾くオルガンで遊戯をしたりしていたのであろう。講堂の

前には二宮金次郎の像が立っていた。白っぽいので石かコンクリート製であったように思う。

今日では幼児教育の重要性は認識されているが当時は労働力を確保する為の保育園的な

機能もあったのかもしれない。ともかく幼稚園生活を無事送れたので小学1年生の生活はス

ムーズであったと思う。

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追記(2017/12/04):記事整形、過去BLOG再読、印象・コメント等
タイトル等を変更。

BLOGを本格的に書き始めた初期の頃の記事である。9年程前の記事でこの間の社会の変化も大きい。「保育園落ちた日本死ね」という言葉にも社会の大きな反響があった。既に、幼児の段階から、日本人は選別される危機に直面しているのが現実なのかも知れない。

The Huffington Postは、「NEWS 「保育園落ちた日本死ね」ブログの本人がいま伝えたいこと「どの党に所属していようが関係ない」(このサイトへのリンク);http://www.huffingtonpost.jp/2016/03/14/hoikuenochita-blog-_n_9457648.html( 笹川かおり:2016年03月14日 19時17分 JST | 更新 2016年03月15日 16時24分 JST )」というタイトルで、「「保育園落ちた日本死ね!!!」と題した匿名のブログが大きな注目を集めている。政府の「1億総活躍社会」のかけ声とは裏腹に、なかなか解消しない待機児童の問題を指摘する内容で、ネット上には同じ境遇の人たちから共感の声が相次いだ。ハフポスト日本版は3月中旬、30代前半の女性というブログを書いた「保育園落ちた人」に、いま、何を思っているのかメールで話を聞いた。 匿名ブログが投稿されたのは、2月15日だった。」と報じた。

この記事を再読しつつ、幼稚園の担任は女性のA先生、小学校一年の担任も女性のS先生と、担任の先生を思い出しているが、明らかに男性の担任が少ないのに気付いた。これは、幼児を扱うのに女性が適しているからと言う配慮の故か。

実は、男性教員が少なかった理由に、徴兵されて戦死した教員が多かったのではないかと今になって感じている。これは終戦直後に生まれたというヒガミの反映か。クラスを受け持つ担任には気力・体力と経験が不可欠だ。そういう年齢層の教員は、徴兵年齢と重なる。真相は不明だが、幼稚園~小学校の担任に男性が少なかったという記憶が蘇って来た。

「平成26年度 伊勢崎市の教育(伊勢崎市教育委員会)」によると、「1890(M23. 5.12) 伊勢崎尋常小学校に予修科付設(幼稚園のはじまり)。」とあり、伊勢崎市の幼児教育が明治の中頃まで遡るのが分かる。

古い木造の講堂は撤去され、その南方に新しい講堂が建てられている。本記事以後の発掘調査で、三軒屋遺跡の一部である旧講堂跡地かその周辺から、儀式に使ったと推測される幢竿(どうかん)と呼ばれる旗を立てるための斜め向きの穴が検出されている。

自分がお世話になった幼稚園の正確な歴史は知らないが、多数の卒園生を世に送り出している筈だ。

当BLOGのサブタイトルは、「失われた時を求めて | 遠くはるかな記憶と共に | いとしきものを訪ねる | 果てしのない心の旅 | 」である。記憶を遡ろうとあがいても、精々幼稚園頃までが限界である。記憶を及び戻す、記録や遺品・遺物があると実に有り難く感じる。

前記、「平成26年度 伊勢崎市の教育(伊勢崎市教育委員会)」は参考になった。伊勢崎市のHPからDL可能である。

2008年12月13日 (土)

桑繊維の着物

2008/12/13

桑繊維の着物

桑の皮剥ぎは終戦後の物資の欠乏を思い出させる手仕事であった。蚕が大きくなると桑の

枝に葉が付いたままで餌にする。上簇後に枝と蚕の糞等が残る。この桑の枝から糞等を振

り落としてから桑の皮剥ぎをする。子供だったので皮を何に使うか分からなかった。聞くとこ

ろによると、その皮をたたいて軟らい繊維にして布に織り上げるとのことであった。そう言え

ば、なにかゴワゴワとした着物を着せられた記憶がある。桑の繊維で作られた衣服を着るほ

ど物資が不足していた時代があったのだ。しかし、貧しいという感覚は無かった。貧しいとい

う感覚は相対的なもので、まわりが皆同じ状況なのでそれがあたりまえであったわけだろう。

2008年12月12日 (金)

ブラジルの友との再会

2008/12/12

ブラジルの友との再会

小学校4年生の時に友達の一家はブラジルに移住した。もう二度と会えないだろう。担任の

先生は学級全員の生徒に作文を書かせて文集にして友達に託した。当時の事でガリ版刷り

であった。団塊の世代で一学級の人数も50名程度いたろう。鉄筆を握りろう紙に全員の作

文を刻み、インクを塗布したローラーで一枚一枚印刷をする。今思うと、教え子の為に大変な

努力をして頂いたことに頭が下がる。自分はいつかこの文集を開いたとき手紙をくれと住所

を書いておいた。それから十数年後、文集のことも忘れかけていた時に友達から結婚したと

の手紙を受け取った。本当にびっくりした。その後、ポツポツと文通したがまた途絶えた。

そんなある日、その友達から電話をもらった。日本で働いているとの事で、エエッと絶句し

た。親戚の家にお客に来るというので、その機会を捉えて再会を果たした。文通開始から更

に十数年経っていた。青年期の息子さんも一緒だった。今後、何をしたいかと聞いたら技術

の勉強をしたいと答えた。それならと、嶋正利著「マイクロコンピュータの誕生 我が青春の

4004」という本を書棚から取りだして息子さんに渡した。自分が感銘して書棚の一等席に並

べていた本である。息子さんはブラジルでは日系三世となる。もうその息子さんにも子供が産

まれている頃かも知れない。ともかく半世紀も前に担任の先生が作ってくれた文集がきっか

けで得難い体験をさせていただいた。これも縁というものか。改めて先生に感謝したい。

2008年12月11日 (木)

紙芝居屋さんの思い出

2008/12/11

紙芝居屋さんの思い出

昔の子供達の楽しみは主に屋外の遊びであった。紙芝居はプロの紙芝居屋が来て見せてく

れるので、遊び以上の楽しみであった。大体、紙芝居をする場所と時間は決まっているの

で、その時刻になると子供達が集まり始める。紙芝居屋は紙芝居や太鼓や売り物を積んだ

自転車でやってくる。そうして、来たぞーという合図に、ドンガラカッカ、ドンガラ、ドンガラと

太鼓を叩いて回る。子供達が集まると、水飴やべっこう飴を売る。子供達は順番がくるまで

並んで待っている。そうして、最後の子供が買い終わるといよいよ紙芝居が始まる。子供達

は二本の棒で水飴をこねたり、べっこう飴を舐めながら紙芝居をみる。紙芝居屋は活弁の弁

士のように流ちょうに話を進め、紙芝居が見せ場に来るとドドドドドーンと太鼓を打つ。これで

子供達は紙芝居に引き込まれ、劇中の人物になりきってしまう。そうして、続きは次回のお楽

しみということになる。もう一つ子供達が楽しみにしている仕掛けがあった。水飴はこね回す

と透明から白色に色が変わる。べっこう飴には小さな図形の押し形が付いていて上手に舐め

るとその図形がきれいに取り出せる。紙芝居屋さんはそういうこねたり、舐めたりする子供達

の技術を査定して上位のものに努力賞のようなものをくれた。さて、演目は何であったか良く

思い出せない。多分、黄金バットのようなものであったと思う。紙芝居屋という仕事も終戦後

の職を失った人の知恵であったようだ。母はよくこう言った。お前達が紙芝居を見に行くとき

は芋を持って行ったんだよと。お前は芋で育ったんだ。こういわれると次の言葉が無い。確か

に俺の背は低いなー。さすがに芋を持って紙芝居を見に行った記憶は無かったが、そういう

時期が実際にあった。穴あきの五円硬貨が製造されたのが昭和24との事である。多分自分

が思い出した紙芝居は五円硬貨を握りしめて見に行った頃の情景であろう。

数人でお茶のみ話をしたときに出た事を以下に記しておく。紙芝居屋は人集めに拍子木も使

ってカチカチと触れ回ったとの事だ。太鼓や拍子木を子供に叩かせることもあったらしい。お

礼に水飴などもらえたので俺も俺もと手を挙げる者が沢山いたとか。買わない者は見ちゃ駄

目だよと言われたこともあるらしい。でもそういう人は後列で黙って見ていたようだ。やはり、

先輩が見ていた事は詳しい。

2008年12月10日 (水)

考えることは自由だ

2008/12/10

考えることは自由だ

大学に入って本当に学んだことは何であったろうかと思うことがある。大学では学園闘争が

巻きあがっていた。立て看板、ビラ、デモ、シュプレヒコール、アジ演説等当時の光景が思い

出される。学生運動家が言っていることも一理ある。むしろ、勉強もせず、あれほど自由に活

動できることをうらやんだ程だ。百姓の親父が一所懸命働いて学資を出している。兄弟姉妹

も多い。奨学金も貸与を受けている。台風で被害を受けた時は授業料の免除も受けた。親

や世間に申し訳がないという負い目がいつもあった。また、百姓のせがれが大学で学べるの

は千載一遇の機会のように思えた。この勉学の機会は有効に使わなければならないと思

い、専門以外にも色々手を出した。そんな中で出会った言葉が"Die Gedanken sind

frei" ("Thoughts are free") という言葉であった。WIKIPEDIAによるとドイツの歌のようだ。

一つの事柄も上下左右360度の角度から見ることができる。

何事も自由に考えることができるということに気付く事が大切だ。

「考えることは自由だ」という言葉は大学に最もふさわしい言葉であったかもしれない。当然

行動の自由も大切である。しかし、考えることは行動の種である。行動の種がなければ、行

動自体もおぼつかなくなる。もう一つこの言葉に関する事柄に「反アパルトヘイトの闘士」であ

るネルソン・マンデラ氏の投獄がある。何十年の投獄に耐え自分の信念を貫く根源は何かと

いう問いである。ネルソン・マンデラ氏は自分が学生時代に既に投獄されていたのである。

まさに、ネルソン・マンデラ氏も狭い牢獄の中にあっても、「考えることは自由だ」という真理に

基づき、その狭い牢獄さえも超越したのではないかと思ったのである。

当時の学生運動家もノンポリの一般学生も人生の四住期の林住期を迎える。

過去のしがらみを超えてもう一度自由に考える機会を取り戻したい。

2008年12月 9日 (火)

巨人の肩に乗った小人

2008/12/9

巨人の肩に乗った小人

米国の超優良企業にマイクロソフトがある。この会社がなぜ超一流の会社になったのかはコ

ンピューターの歴史を辿ることによりはっきりすることであろう。社名のなかにあるマイクロと

は極微の意味を持つ。長さで言えば我々が日常扱う長さはせいぜいミリメートル程度であ

る。1マイクロメートルとは1ミクロロンの事で1ミリメートルの千分の一であり、もはや肉眼で

は識別できない大きさである。マイクロソフトが出来る前に、コンピュータの世界ではIBMとい

う巨人がいた。この巨人の前にはマイクロソフトは本当に取るに足りない小さなベンチャー企

業であった。我々がパソコンでDOSを使い始める前にはCP/MとかMSXとかのOSが使われ

ていた。ところが、いつしかこのマイクロソフトが巨人に変身していた。

学生時代、ニュートンが言ったという巨人のたとえ話を聞いたことを覚えている。ニュートンが

科学の大家と認められてから自分の業績を控えめに述べたことばのようだ。それが、「巨人

の肩に乗った小人」の例えであった。

“If I have seen a little further it is by standing on the shoulders of giants”

ニュートンがフックへ宛てた手紙の一節であったようだ (1676)。

「もし、私がちょっと遠くを見渡せたとすれば、それは巨人の肩にのっていたことによるの

だ。」

ニュートンは自分の足がどこに立っているかを示したわけである。言い換えれば決して一人

では為しえない大きな知識や科学上の基盤があってこその業績でり、その基盤の重要性を

語っている。我々は、足元の基盤が先人達が大変な苦労をして築きあげたことを忘れがちで

ある。しかし、その巨人の肩に乗り、背伸びをしても遠くを見ようとするのはやはり天才のワ

ザなのだろうか。マイクロソフトの ビル・ゲイツは高校生の時に、学校のミニコンピュータの

PDP-10 のタイムシェアリングサービスでコンピュータに初めて触れたのだそうだ。一体 ビ

ル・ゲイツに対してこのコンピュータはどんな役割を果たしたのだろうか。また、ビル・ゲイツ

はマイクロソフトを引退して自分の作った財団の運営にあたるという。巨人もしっかりした足

元がないと立てない。

2008年12月 8日 (月)

藁葺き屋根の臭い虫

2008/12/8

藁葺き屋根の臭い虫

自分が生まれ育ったのは築百年程度の藁葺きの家であった。間取り、様式等は養蚕地帯の

民家の典型的なものだったように思う。屋根葺き材料としては茅と藁があるがどちらであった

かはっきりしない。屋根葺きは一家のみで出来る仕事ではないので近所の人が手伝った。い

わゆる結いという習慣があったようだ。屋根葺き時期が近づくと茅を刈り集めて貯めたのだと

思う。段々良質な茅がとれなくなるとその代用で麦藁が使われてきたのであろう。当時はまだ

屋根葺き職人も健在であった。少しの雨漏りならば、部分的な修理で済むが、本格的に漏れ

始めると大変である。雨受けの容器が足りない位になり、ついに改築することになった。

藁屋根で雨漏り意外に困ったのは<臭い虫>と呼んでいた虫である。2㎝前後のムカデの

ような多足類でこれが屋根にすんでいたようだ。この虫の臭いがまた大変いやなにおいがす

る。見つけると新聞紙でつかんで捨てたりしたが、鍋にはいると鍋は全滅であった。ともかく

改築時には、この古屋の柱等は新屋の建材の一部として再利用された。

2008年12月 7日 (日)

馬小屋から兎小屋へ

2008/12/7

馬小屋から兎小屋へ

藁葺きの納屋の南東の一角に馬小屋があった。馬は農家では家族の一員という位大事にさ

れていた。当地にもお馬の親子の愛情話を伝える記念碑がある。また、馬頭観世音というの

が祭られている。父が復員する時に馬を一頭連れてきたらしいが、その馬がいなくなった後

は馬小屋は風呂場と兎小屋になった。兎はリンゴ箱程度の金網を張った箱で飼った。小家

畜として育てて大きくなると兎屋さんが回ってきて買ってくれた。小遣い銭程度であったが貴

重な収入源で、兎を飼うのは老人や子供の仕事であった。かごを持って兎の餌取りも当然

子供の仕事であった。友達と連れ合って畑や田んぼで草取りをした。当時はまだ害獣である

イタチが周辺に棲息していた。油断すると鶏や兎はイタチが小屋に入り込み被害を受ける。

馬小屋で兎を飼ったのは人の行き来の多い場所なのでイタチ対策もあったかもしれない。

2008年12月 6日 (土)

台風による倉壁の落下

2008/12/6

台風による倉壁の落下

平成19年は台風が多く、被害も多く発生した。平成20年は台風の上陸しない年となったよう

だ。我が家は農家であったので古い倉がある。いつ建てられたか築年は不明である。推測で

は150年程度経ていると思われる。漆喰にひびが入り、壁が落ちている部分も少しあった

が、壁らしい姿は保っていた。昨年の台風9号でこの壁のかなり広い部部が落下した。気象

庁の台風データを調べてみると9月6日から7日にかけて上陸して、北上を続けていた。9月

6日当地の最大風速は、22:40に東北東 11 m/s。最多風向は東。7日は、2:50に東北

東 10 m/S。最多風向は東北東。尚、平成19年の各月の最大風速は10、13、14、11、

12、11、7、9、11、8、10、10m/s。台風当時の11 m/sという風速は年間でも数回出現するの

でまれな風速ではない。9月6日夜の雨量は20 =4 、21 =5 、22= 10 、23= 16 、 24=

12mm であった。以上のデータから推測すると台風通過時に雨交じりの東北東の風が倉の

壁面に打ち付け、壁の亀裂に浸水して、壁土が吸水して重量を増し、更に強風で叩かれ続

けた事によりついに壁が落下したものとおもわれる。別棟のトタン屋根のトタンが強風で吹き

飛んだので瞬間風速はかなり大きかった可能性もある。残骸を調べると骨材の竹も少なく

、竹の肉には虫食いのあともあった。鼠の穴もあちこちにあった。全体に老朽化が限界まで

進んでいた事は確かである。しかし、壁が落下するにはそれ相当の条件が必要であったのも

確かである。

2008年12月 5日 (金)

灯火親しむ人の姿

2008/12/5

灯火親しむ人の姿

日が短くなると灯火が恋しくなる。ガス灯が明治初年頃、電灯が明治末から大正の初年頃に

使用され始めている。電灯が無い時の照明は、行灯やランプだったのだろう。行灯の燃料と

してはいわしから採った安価な魚油が広く使われていたようだ。煤の少ない菜種油は高価だ

たらしい。ともかく百年前はそういう時代であった。戦後の家電時代が到来する以前は電気と

言えば電灯の利用がほとんどであったろう。夕方になると各家庭に電灯の光がともってゆく。

そうして深夜になるに従って電灯の光が消えて行く。これが電気が大切であった時代の光景

であった。深夜になってもポツンと電灯が点いている窓辺を見ると、灯火親しむ人の姿が思

い浮かんでくる。きっと真剣に読書や勉強にいそしんでいるのではないかと思いを馳せ、他

山の石にしようと感じる。今日では灯火が余りにも軽いものになってしまっている。もう一度

灯火親しむ頃の感覚を取り戻したいものである。ある日のお茶時の雑談で伯母さん達が勉

強の時に使ったのはランプだったと聞いたよという話があった。ランプの火屋にたまった煤を

落とすと明るくなった。これも当時の子供の仕事であったらしい。

2008年12月 4日 (木)

竹馬遊び

2008/12/4

竹馬遊び

最初に竹馬に乗り始めた頃は10~20㎝ほどの高さしかなかったっと思う。父が青竹を切っ

て作ってくれた。竹馬は重心のバランスの取り方が大切だ。最初は倒れずに立つ事を覚え

る必要がある。次ぎに一歩を踏み出すこと。右左が交互に踏み出せれば基本はマスターで

きたことになる。竹馬を自分で作る事ができる年齢になると高さも高い竹馬を作れる。これを

友達と一緒に乗り回すのだ。乗り場所を見つけないと乗れないくらいの1~2m位の高さの

竹馬にも乗った。高い竹馬に乗ると歩幅が広くなり、視点も高くなるので何か人間離れした感

覚を味わった。遊び道具を自分で作ると楽しみは更に広がるようだ。      

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    University of Wisconsin-Madison Chemistry Professor Bassam Z. Shakhashiri のサイト

みかん栽培関係情報

公開資料

ISESAKI  有情1

嗚呼 伊勢崎 非情

BOOKS

  • 橋本 英文: 刃物雑学事典 図解・刃物のすべて(1986年 株式会社 講談社 ブルーバックス B-659)
    刃物という視点で多くの事例が取り上げられている。刃のある道具の理解にも役立つ。類書が少なく貴重な一冊。「すべり変形が切断の原理」という考え方で説明している。
  • 沼田 真   : 植物たちの生( 1972年 岩波新書(青版 833))
    「ご要望にお応えしてアンコール復刊(1988年岩波新書50年記念復刊) 地球生態系の中で自然を見直す」(腰巻きのフレーズ)。植物の知恵と戦略に人類は勝てるのか。
  • 出町 誠: 14_NHK趣味の園芸:よく分かる栽培12ヶ月  カキ(NHK出版2007年)
    初心者向け柿栽培参考書(新版)。旧版と比較すると楽しい。
  • 中村三夫: 13_NHK趣味の園芸:作業12ヶ月  カキ(NHK出版1996年)
    初心者向け柿栽培参考書(旧版)。新版と比較すると楽しい。
  • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
    細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
  • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
    著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
  • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
    ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
  • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
    やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
  • ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫訳): 08_サイバネティックスはいかにして生まれたか(みすず書房1956)
    情報と通信という現代社会に不可欠の基礎的な学問を作った著者の自伝とそれを通した科学史
  • 沼田 真(編): 07_雑草の科学(研成社1979)
    雑草を多面的に解説し防除の基礎も述べる

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    POST IT :ブログ画面への張り紙に使える。
  • TYPE LIST事始め
    2010/8/4:MEMO等の表示に使える。 農作業で気になる自戒の言葉 ■畑の石ころはいつまで経ってもても石ころ(早く拾って片づけよという意味か)。 ■同じ石を二度拾うな(やってみると難しい)。 ■手ぶらで歩くな。 ■三つ先のことを読め。 ■適当な観察。 ■空を見よ(気分転換、休憩、天気を読む、腰曲がり防止)