01B_心象の足跡

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2015年9月 2日 (水)

老人の寝言:ハトよ 泣いておくれ:伊勢崎駅市営駐輪場の変遷;さあ来いと 青田の稲穂 首を出す。1509。

2015年9月2日(水)
昨日は曇り時々雨。最高気温(℃)     26.2 15:17。最低気温(℃) 21.1 06:49。ざっそう句;さあ来いと 青田の稲穂 首を出す。宅内閑居。雨が途切れたところで老人モードで配り物。そのついでに近場を巡る。田圃では稲の穂が出て、米の収量と品質を決める一番大切な時を迎えている。二百十日が昔から厄日と言われた意味も理解できる。この時期に台風が来ればひとたまりもない。一方、人生におけるこのような時期は、学生時代と言えるのではないか。安保関連法制の成立を阻止するために立ち上がった学生たちの姿が、安保反対のデモに参加した学生たちの姿に重なる。振り返ると、当時の学生たちと今の学生たちも、この国の平和が損なわれる事の無いよう立ち上がったのではないか。昨日は防災の日でもあった。防災服に身を包んだ総理大臣が、自民党総裁選挙に出馬する事を表明した。あの防災服が軍服に見えた人がいただろうか。オリンピック組織委員会は、幾多の疑惑にまみれた2020年オリンピック・パラリンピックのエンブレムの使用を中止すると決定した。維新の党の分裂もこの日のニュースになった。株価は又も大幅下落。積もり積もった何かが耐えきれなくなってムクムクといろいろな現象が現れるのだろうか。後手、後手で、事態を先送りする体質に自然災害が重なると、膨大な人災になる事を福島原発事故が教えている。日本は今後人災大国になろうとしているのか。

2015年9月1日の天気(AMEDAS)

TAVE= 22.7 NO DATA
TMAX= 25.7 最高気温(℃) 26.2 15:17
TMIN= 21.2 最低気温(℃) 21.1 06:49
DIFF= 4.5 NO DATA
WMAX= 2 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 4.1(西南西) 19:28
SUNS= 0.6 NO DATA
RAIN= 6 NO DATA


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老人の寝言:ハトよ 泣いておくれ:伊勢崎駅市営駐輪場の変遷

先日、駅前某スーパーで買い物をした時、スーパー建物内部で営業をするコンビニ店周辺をデジカメで撮影した。夕方頃で、店舗の看板が明るく目立つ頃の時刻であった。

コンビニ店前に駐輪している自転車が多かった。自転車を多用する中・高校生がコンビニを利用している訳だ。自転車が並んだ列の奥の方を、画像ソフトで拡大して見ると、どうも駐輪場の看板が建っているようだ。ともかく、これだけ自転車が並んでいれば、駅前に人がいるのは一目瞭然だ。

Iob_isesakistcyuurinn
伊勢崎駅の新駅舎を建設中は、市営の駐輪場は、二三回場所が変わったと思う。雨除けは無かったが、駅前で、利用者の姿がよく見えた。老人モードで出かけて、電車を利用する時、露天駐輪場で、学生達と良く出会った。ああ、俺の学生時代と余り変わっていないなと妙に感慨を覚えた。また、駅前には、多分市営の駐車場もあったと思う。これも、いつの間にか無くなってしまった。伊勢崎駅南口は、駅の玄関だ。やはり、駅前は、千客万来で賑わって貰いたいと思うのだ。その利用客のほとんどが、学生やサラリーマンだ。このような利用者こそが、大手を振って、駅の表玄関から出入りして貰いたいのだ。

伊勢崎駅の新駅舎と高架化が完成後、市営の駐輪場はJR両毛線の駅西側の高架下に移設されたようだ。伊勢崎市のホームページによると「伊勢崎駅高架下駐輪場」として24時間無料で利用できるようだ。写真中央は高架下駐輪場を利用して、夜の帰宅時に撮影したものである。カメラの感度設定が不適切だったのか、照明灯しか写っていなかった。ソフトで明るさを増大させた。この高架下駐輪場は、夜間の人影は少なくなり、少し治安上の不安を感じた。

鉄道利用者で、駅まで自転車を使う人は、経済的にも身体的にも弱者の比率が多いと思う。だが、駅利用者としては料金を支払って、駅の経営を支えている事実は無視できない。物は見方だが、駐輪場を駅玄関から見える所に設置して、駅利用者が胸を張って利用できるようにした場合の方が、長期的には周辺を含めた駅利用のBENEFIT/COSTという点で、より大きな効果が期待できるのではないかと常々思わされるのだ。

駅前が、綺麗に整備されればされるほど、利用者が少なく見えるようでは、巨額のインフラ投資がどれほど有効だったのか分からなくなる。駐輪場が、高架下ではなく、野ざらしだったが駅南口にあった時の方が、利用者の姿が多く見えたとすると、なんとなく寂しい。あの、駅前某スーパーの敷地のほぼ半分が、市有地だとはどう考えても気付かないのだ。

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2015年4月16日 (木)

心象の足跡:琵琶湖疎水見学の思い出(京都のベンチャー精神の源泉はどこにあるのか?);腕試し ちょっと暴れる 春の雷。

2015年4月16日(木)
昨日は晴れ後雷雨。最高気温(℃) 20.7 11:13。最低気温(℃) 10.3 24:00。ざっそう句;腕試し ちょっと暴れる 春の雷。午前中は晴れた。百均のキャベツの種を蒔いた。下仁田ネギの苗床は猫のトイレになり荒らされた。露を払って花が咲きそうなかき菜を収穫。タマネギを初収穫。玉はらっきょう程度でネギの代用。貰い物の種生姜を掘り出した。トタン板をかけたがかなり水浸しになり腐りかけが多い。腐った部分を除去して植え付ける積もりだ。空が曇り雷鳴がしてきたので屋内へ退去。落雷が心配でモデムのコネクターを外した。雷が去りコネクタを挿入したが電話は通じない。調べたら遊んでいるコネクタを刺していた。再度外に出て、残っていた台木と穂木を使いミカンを接ぎ木。圃場に仮植え。不安定な天気であった。畑の桜は葉桜になった。ふと見るとカラタチの白い花が咲いている(P=S)。

2015年4月15日の天気(AMEDAS)

TAVE= 14.0 NO DATA
TMAX= 20.5 最高気温(℃) 20.7 11:13 
TMIN= 10.4 最低気温(℃) 10.3 24:00 
DIFF= 10.1  
WMAX= 7.9 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 16.4(西)   14:57 
SUNS= 5.7 NO DATA
RAIN= 3.5  

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心象の足跡:琵琶湖疎水見学の思い出(京都のベンチャー精神の源泉はどこにあるのか?)

現役時代、大阪に単身赴任していた。居住していたのが、男子用の社宅であった。大阪にいたので、休日には観光ができた筈だと今になって振り返るが、休日に合わせて帰宅して元の職場に出張するような変則的な生活をしていたので、観光はほとんどしなかった。情報収集や買い物を兼ねて大阪の電気街は比較的良く通った。

一度だけだが、南紀や比叡山を巡った。比叡山から見た琵琶湖のデジタル画像が残っている。当時の画像データには、詳しい撮影データは付与されていなかったようだ。JEIDA-49-2-1998(カメラファイルシステム規格)VER1.0以降にに普及したのだろう。退職後は、京都方面の団体旅行に出かけた事があった。その時撮影した、琵琶湖疎水の画像があった。この画像は、SANYOのSX112で撮影したようだ。琵琶湖疎水の事は、旅行で見たので、うすうす覚えている。

Iob_biwakososui 
サイト内でキーワード「八坂用水」を検索(https://www.google.co.jp/webhp?tab=ww#q=%E5%85%AB%E5%9D%82%E7%94%A8%E6%B0%B4%E3%80%80site:http:%2F%2Faf06.kazelog.jp%2F)。色々な縁で、農業用水、溜め池等の歴史を調べてきて、琵琶湖疎水の歴史にも興味を覚えた。調べて見るとこの琵琶湖疎水は南禅寺の見学のついでに見たものらしい。哲学の道も近くにあるらしい。

京都市ホームページ:「琵琶湖疏水のご紹介(http://www.city.kyoto.lg.jp/suido/page/0000007153.html)。」

琵琶湖の写真は、比叡山の山頂近くのバス亭から、山が開けた方角を見た時に写したような記憶が残っている。画像検索して、同じような画像を探した。遠方に橋がかかっている画像があった。よく見ると残っていた画像にもうっすらとそれが写っていた。琵琶湖大橋らしい。

京都市HPの琵琶湖疎水の歴史によれば、明治18年起工、明治23年竣工との事だ。日本で最初にコンクリートの焼成に成功したのが1875年(明治8年)との事で、当時の橋の素材としてはまだ煉瓦が主役だったように見える。両毛線の全線開通が1889年(明治22年)でほぼ、琵琶湖疎水の工事時期と重なる。当地の両毛線にも、レンガをアーチ状に積んだ鉄道橋が現役で使われているが、南禅寺水路閣から見れば比較にならない。

水路に水を流すには、必ず勾配を確保する必要があり、水路を交差させる方法が重要になる。八坂用水の場合は、水路橋やサイフォンが利用されてきた。尚、南禅寺のレンガ水路は、寺院という周辺環境・景観に合わせて、南禅寺水路閣として設計され、平成8(1996)年に国の史跡に指定されたとの事だ。そのような視点で見ると、確かにそういう配慮が無ければ、もっと貧弱な構造物になっていただろうと思われる。

京都市ホームページによると、明治維新により、明治2年に都が東京に移り、「産業も急激に衰退し,人口も急減」して、京都の復興、産業の振興を目的に疎水事業が計画されたとの事だ。明治24年,蹴上に日本最初の商業用水力発電所が稼働した。琵琶湖疎水は、多目的水利用水として今日の京都市にインフラになっているわけだ。また、「当時,市の年間予算の十数倍という膨大な費用を投入した大事業の主任技師として北垣知事に選ばれたのが,工部大学校(現在の東京大学)を卒業したばかりの青年技師田邉朔郎(採用当時は満21才)でした。」との事だ。

八坂用水の開削も、天水場と言われ、十分な水利が得られない地域に利根川の水を導き、安定した稲作地域に改良するという当時の藩が計画した大事業であり、その推進者として小畠武堯が任命された。事業のスケールや時代は少し異なるが、八坂用水も琵琶湖疎水も都市や地域の発展に先駆的な取り組みが成功した例といえるのだろう。

開発品の売り込みで訪問した京都に本社がある企業には、オムロン、村田製作所、日本電産等があった。また、集積回路を共同開発したベンチャー企業も京都にあった。

「会社生活断面記:日本電産へのホールIC売り込み(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2013/01/ic-caf7.html)。(2013年1月 4日 (金))」

「会社生活断面記:日本電産訪問の思い出(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2013/03/post-53dd.html)。(2013年3月14日 (木))」

京都には比類の無い歴史の長さがある。一方、新しい事へ挑戦する気風でも有名だ。ノーベル賞受賞者に京大の研究者が多いのもその例になるのだろう。電子産業分野で新しい事業を開拓したキョウセラや上記の電子部品メーカーもその例かもしれない。その歴史を遡ると、市民が一体となって立ち向かった明治初期の琵琶湖疎水事業もそのような土壌作りに大きく影響しているように見えてくるのも不思議だ。

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2015年3月13日 (金)

心象の足跡:楫取素彦が書いた渋川市の御蔭松の碑文から何が見えるか?;うきうきと 下手なウグイス 鳴き始め。

2015年3月13日(金)
昨日は晴れ。最高気温(℃) 13.2 14:42。最低気温(℃) -0.8 05:04。ざっそう句;うきうきと 下手なウグイス 鳴き始め。昼過ぎから、男爵とメイクィーンの種ジャガイモを植え付けた。昨年より早いので霜対策でやや深植えにした。また、イモの下に空洞が出来ないよう移植ゴテでで穴底を埋めた。草ゴミが残っているようすなので無肥料。畝作りの時、ヤブガラシやカナムグラの根を掘り出した。雑草対策で少しは効果がでるかも知れない。今年は種芋以上の収穫を目指す。夕方から、二回目の麦踏み。半世紀前のリバイバル。草丈は伸びているがまだ麦踏みの効果はありそうだ。白菜とふきのとうを収穫。ふきのとうはもう花が開きそう。かみさん曰く、ふきのとうには発がん物質がある云々。ふきのとうは季節の希少品に近いので、発がんに到るほど食べたくとも食べられないだろう。菜の花が咲き始めた。いつのまにかミニスイセンやヒヤシンスも咲いている。杉花粉は昨年の同時期より多く飛散中のようだ。ユズジャム茶効果が出るか?やや風が強かったが、夕方頃静かにになった。ウグイスの初鳴きが聞こえてきたので耳を疑った。野良仕事の余禄か。

2015年3月12日の天気(AMEDAS)

TAVE= 6.8 NO DATA
TMAX= 12.7 最高気温(℃) 13.2 14:42
TMIN= -0.6 最低気温(℃) -0.8 05:04
DIFF= 13.3
WMAX= 7.7 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 14.4(西北西) 13:23
SUNS= 11.1 NO DATA
RAIN= 0

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心象の足跡:楫取素彦が書いた渋川市の御蔭松の碑文から何が見えるか?

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の効果か、楫取素彦への関心は高まっているようだ。そのためか、「楫取素彦伝 耕堂楫取男爵伝記」(発行者 山口県萩市 群馬県前橋市)が平成26年3月20日に発行された。やや高価だったが、書店に並んでいたのを買った。買った日が発行日前だったので、不思議な感じがした。

その本もしばらくツンドクであった。上記、楫取素彦伝をぱらぱらめくると、当時の様子がわかりそうだが、じっくり読むのは大変そうだ。「御蔭松の碑」を解読したかったが、挫折中だった。運良く、その碑文が掲載されていた。どうも、その碑文は群馬県史 第四巻(群馬県教育会 編 昭和2出版)から転記された資料に基づいているようだ。デジカメの碑文との相違もありそうだ。ともかく、つまみ食いならぬつまみ読みした。

「御蔭松の碑」は一種の歌碑のようでもあり、碑の表側に歌が彫られ、裏側にその歌に関する由来を記しているように思われるが、歌の方は文字が崩してあり、何が書かれているか皆目分からなかった。上記伝記には、この歌がカタカナ交じりで記載されていた。

そこで、とりあえず、碑文と歌を並べてみた。碑の解釈・理解等々は歴史的背景があると思われるので、以下はすべて参考資料としての扱いに限定する。現地へ出向いてこの碑と保存されている「御蔭松の碑」に対面して貰うのが良いのでは思う。

WIKIPEDIA「楫取素彦。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AB%E5%8F%96%E7%B4%A0%E5%BD%A6)」によれば、「維新後、いったん帰国して藩に出仕、明治5年(1872年)に足柄県参事となり、明治7年(1874年)に熊谷県権令、明治9年(1876年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県の県令となった。」とある。

最近、高浜公園から前橋公園に移設された「前群馬縣令楫取君功徳之碑」はWEB情報によれば明治23年の建碑との事だ。「御蔭松の碑」は楫取素彦が、群馬県縣令になって数年後の明治12年の現職知事の時に建てた碑として注目できるのではないか。以下の「御蔭松の碑」に関しては、上記伝記の楫取素彦事績の項に掲載されている。

*************************

碑の表面(皇太后大夫万里小路慱房卿の歌):(楫取素彦伝より引用)          

      芝中の松のやどりに千代かけて      
      残るは君が御蔭なりけり

御蔭松の碑の碑文(句読点は自己流で付加):碑の裏面

是歳巳卯。 皇太后宮 行啓於伊香保之温泉。 七月十七日。 車駕発京。 往返由此道。 時属盛夏。 掃松下、以休車駕矣。 既而土人建石。 命松曰御蔭。 

請慱房卿之詠。 属余書題額。 慱房卿以本官従駕。 余則管地方卿。 之詠余之題皆不可辭者。 碑成矣併記其事於碑陰。 亦出土人之意云。

明治十二年 秋九月   群馬縣令  楫取素彦  撰並書

*************************

前段に、英照皇太后の伊香保行啓が述べられている。後段は、「御蔭松の碑」を建立した時の様子が述べられているようだが、主語を慱房卿にとるのか楫取素彦にとるかにより、若干解釈が変わるかもしれない。ただ、楫取素彦は縣令という地方長官として皇太后をお迎えできた事、その行幸を記念碑に残せた事を遠慮がちに喜んでいるように感じる。

この道端にある小さな碑の表の上部に「御蔭松」と彫られている。以下は、碑文解釈の参考資料としてまとめてみた。まだ全体の状況が把握できず、想像の部分もある。主語、述語、区切り方等々、しっくりしない所がある。

超訳的碑文読解(試訳)

是の歳、巳(み)卯(う)。 皇太后宮(様)は、伊香保之温泉(於)に行啓された。 (時は、)七月十七日。 車駕は京を発(おたちになり)。 往返ともに、此の道に由った。 時(節)は盛夏に属し。 松の下を掃し、以って、車駕を休(まされた)。 既而(すでに)、土人は石(いしぶみ)を建つ。 松を命じて、御蔭の(松)と曰(いう)。 

慱房卿に之(この)詠を請う。 余に題額を書くを属(しょくす)。 慱房卿を以って本官は従駕す。 余は則(すなわち)管地方卿(地方担当長官)。 之の詠、余之(の)題、皆辭す不可(べからず)。 碑成りて、併(あわせて)其の事を碑陰に(於)記す。 亦(また)土人之(の)意に出ずると。

明治十二年 秋九月   群馬縣令  楫取素彦  撰並書

「御蔭松の碑」と保存されている「御蔭松」を見ると、いろいろな感慨に浸れるだろう。碑文を彫った人の名前は不明だ。「群馬縣令  楫取素彦  撰並書」とあるので、この碑には楫取素彦の思いが込められているのではないか。それならば、御蔭松を下から読んで蔭松から松陰を連想するのは行き過ぎなのか。

尚、「御蔭松の碑」が記載されている原典は「群馬縣史 第四卷 」のようである。この資料は国立国会図書館デジタルコレクションに画像データとして掲載されている(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258769)。画像データでは検索が出来ないので該当部分を探すのを断念した。

一方、キーワード「群馬縣史 第4卷 」でGoogle検索すると、「Full text of "Gumma-ken shi" - Internet Archive(https://www.google.co.jp/webhp?tab=ww#q=%E7%BE%A4%E9%A6%AC%E7%B8%A3%E5%8F%B2+%E7%AC%AC4%E5%8D%B7+&btnK=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2)」がヒットした。何と、こちらでは、原本をスキャンして日本語認識によりテキストに変換されているのだ。漢字の「御蔭」で検索をかけると歌の部分がヒットする。こちらは、ひらがな交じりである。スキャンが正確で無く行が入れ替わっているが。

この事実から、まさに黒船到来のような衝撃を受けた。吉田松陰や楫取素彦がこれを知ったら、さぞびっくりするのではないか。

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2015年1月26日 (月)

ハトよ 鳴いておくれ:心象の足跡:矢島保治郎の墓で出会ったお供え物;得意技 油断の果ての 久米仙人。

2015年1月26日(月)
昨日は晴れ時々曇り。最高気温(℃) 11.0 13:35。最低気温(℃) -2.3 07:02。ざっそう句;得意技 油断の果ての 久米仙人。庭の手入れの続き。リュウノヒゲ、ヤブラン、マンリョウ?、オモト等を移植。手抜きのため植栽部分と通路部分を区画。リュウノヒゲは日陰に強い方だが、日陰では生育が遅い。日陰のグランドカバーとして期待したが、十分ではない。ヤブランはリュウノヒゲより耐陰性があるようだ。キウイフルーツの棚の下にヤブランが生えており増殖している。キウイフルーツは落葉樹で、落葉期間は日光が入る。日当たりの悪い場所に植えるときは、育成後の大きな株を植えた方が良さそうだ。かみさんが「花燃ゆ」を見ていた。うとうとしていて、吉田松陰ではなく、吉田兼好の事を思い出した。徒然草は、高校の古文の授業で習ったようだ。昔も今も、空中浮揚は不思議な現象だ。神通力も修業の賜だが、欲に迷うとその効果が出ないのは当然と兼好法師の常識眼だ。「松岡正剛の千夜千冊」の「吉田松陰遺文集」の記事は教科書的でなく面白い。

「徒然草 第八段(http://www.tsurezuregusa.com/index.php?title=%E5%BE%92%E7%84%B6%E8%8D%89%E3%80%80%E7%AC%AC%E5%85%AB%E6%AE%B5)。」の原文「世の人の心惑はす事、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳に薫物すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。九米の仙人の、物洗ふ女の脛の白きを見て、通を失ひけんは、まことに、手足・はだへなどのきよらに、肥え、あぶらづきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし。 」

WIKIPEDIA「空中浮揚。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E4%B8%AD%E6%B5%AE%E6%8F%9A)」

「松岡正剛の千夜千冊」:「吉田松陰遺文集(http://1000ya.isis.ne.jp/0553.html)。」

2015年1月25日の天気(AMEDAS)

TAVE= 4.4 NO DATA
TMAX= 10.7 最高気温(℃) 11.0 13:35
TMIN= -2 最低気温(℃) -2.3 07:02
DIFF= 12.7
WMAX= 3 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 6.0(東南東) 14:34
SUNS= 5.8 NO DATA
RAIN= 0

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ハトよ 鳴いておくれ:心象の足跡:矢島保治郎の墓で出会ったお供え物

たまたま超老人モードで出かけたついでに、矢島保治郎の墓に立ち寄った。2014年に国道462号の本関町周辺は四車線に整備され、以前と比べると風景が大きく変わった。フェンスの外側のコンクリート側道の下に、関掘りと呼ばれた水路が通っている。

Iob_yajimayasujirouhaka2015 
田圃への通水が不要になる夏の終わり頃だったか、この水路の水を止めて堀払いをした。水位が下がるので、魚捕りをする人が大勢集まった。自分も、関掘りで魚捕りをした、かすかな記憶がある。八幡沼から水が流出する堰にはカワエビが這い上っていた。エビや小魚はテンプラにしてもらい、よく食べた。

「矢島保治郎。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E5%B3%B6%E4%BF%9D%E6%B2%BB%E9%83%8E。(最終更新 2013年12月13日 (金) 07:18 )」『ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に、「矢島 保治郎(やじま やすじろう、1882年(明治15年)8月23日 - 1963年(昭和38年)2月13日)は日本の探検家、軍人。四川省からのルートで初めてチベット入りした人物であり、ダライ・ラマ13世の厚遇を受けてチベットの軍事顧問に就任した。」とある。

矢島保治郎は、自分が幼少の頃はまだ健在であった筈だが、その名前も知らなかった。関掘りの東岸に矢島保治郎の墓があるのを知ったのもそれほど古い事でも無く、偶然の事であった。矢島保治郎生誕130年を機会に、矢島保治郎の顕彰行事等が行われ、ようやく地域の偉人に脚光が当たり始めた。

キーワード「矢島保治郎」でGoogleサイト内検索(https://www.google.co.jp/?hl=ja&gws_rd=cr&ei=CPHCVKLqCobxmAWI4oLgAw#hl=ja&q=%E7%9F%A2%E5%B3%B6%E4%BF%9D%E6%B2%BB%E9%83%8E%E3%80%80site:http:%2F%2Faf06.kazelog.jp%2Fitoshikimono%2F)。

今回見ると、墓前の錆びた鉄の取手らしい物に、何か新しい紐のような物が結わえてあった。とりあえずデジカメに納めた。何かなと思って、WEB検索するとチベットのお守りかも知れないと思われた。古いデジカメ画像を探すと、「遙かなる夢 冒険を求めて未知の世界へ」という看板を背景にした集合写真があった。矢島保治郎の娘さんを囲んで行われた座談会の時の写真のようだ。

ふと通り過ぎようとしたが、たまたま見かけた一本の組紐のようなお供え物に尽きない願い事が込められているのかも知れないと感じた。

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2015年1月24日 (土)

心象の足跡:身辺雑記・田舎老人徒然草:無残にも思い出が潰えた日;異次元の 悪夢に消える したり顔。

2015年1月24日(土)
昨日は曇り後晴れ。最高気温(℃) 10.1 11:05。最低気温(℃) 2.3 23:52。ざっそう句;異次元の 悪夢に消える したり顔。強風。宅内閑居。午後、車のバッテリー充電のため充電器持参で応援に駆け付ける。いざ、急用で車のエンジンをかけようとしたらかからない場合はパニックになるだろう。充電器の接続を終えて満タンになるまで一晩待つことにした。ついでに、昭和の末頃作成された人気シリーズ映画第一作をビデオで鑑賞させて頂いた。役者が若い!風景や器物がレトロ!まだ携帯は無く、自動車電話が登場していた。懐かしいが、自分の歳も否応と無く感じてしまう。国家にしろ企業にしろ、その車の本体がマサカというサカでエンストを起こせば、今まで蓄積してきた有形無形の膨大な資産や利益を一瞬にして失う事もあり得る。車の運転手・整備士の責任は重大だ。バッテリーは冬季に性能が落ちるのは常識なのだが。

2015年1月23日の天気(AMEDAS)

TAVE= 6.2 NO DATA
TMAX= 9.4 最高気温(℃) 10.1 11:05
TMIN= 2.7 最低気温(℃) 2.3 23:52
DIFF= 6.7
WMAX= 9.3 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 17.9(北北西) 13:15
SUNS= 6.8 NO DATA
RAIN= 0

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心象の足跡:身辺雑記・田舎老人徒然草:無残にも思い出が潰えた日

我がBLOGのTOPにシンボル画像を貼り付けている。雨蛙、猫、屋台を牽いたトラクターは既に過去の物になった。多分、水子地蔵尊のような石仏はまだ残っているだろう。

Iob_koinumakoboku2014 
鯉沼の堰堤に立っている二本の古木と赤城山を配置した一枚の絵のような写真は、自分の望郷の原点と感じる風景であった。それ故、セピア色に変換していた。

「ハトよ 泣いておくれ:ツルよ 跳んでおくれ:2014(平成26)年に鯉沼の古木二本が絶滅!気がつけば どこへ行っても ミニ八ッ場。 (http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2014/12/201426-6583.html)。(2014年12月30日 (火))」

2014年という年は、あの鯉沼の古木二本が絶滅した年である。当BLOGのシンボル画像のほとんどが大きな変化を受けてしまった。そこで、その前後を並べて比較してみた。東側の古木が倒されるのを見たのは、作業者と見物人を含めてわずか数人だ。かくて、思い出は更に遠くかすかになってゆく。

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2014年4月22日 (火)

半端道楽:写真で俳句る:自働蒔き大根の成果?(ひね大根 お前が食わにゃ 俺が食う。)

2014年4月22日(火)
昨日は曇り。最高気温(℃) 13.7 14:53。最低気温(℃) 9.1 03:10。ざっそう句:妖艶に 夕日に冴える 花水木。宅内閑居。午後用事外出。市議会議員選挙が告示され、選挙カーが活動開始。数台会ったが、まだ調子が出ていないようだ。ウグイスの初鳴きのよう。桜が過ぎて、今は花水木が最盛期。花水木は日米友好の象徴花木とされているようだ。オバマ米大統領が国賓として23日より、訪日するようだが、花水木は話題にならないようだ。両国首脳の肌が合わないので、友好という演出も不要なほど、実務面の交渉が進捗していないのが実状のようだ。肌が合わないと言うような感覚的表現でしか両国関係を述べられないのは両国にとって不幸なことなのか。ともかく異例が多い今回のオバマ米大統領訪日は日米外交力の実力を知る良い機会かもしれない。

2014年4月21日の天気(AMEDAS)

TAVE= 11.6 NO DATA
TMAX= 13.4 最高気温(℃) 13.7 14:53
TMIN= 9.2 最低気温(℃) 9.1 03:10
DIFF= 4.2
WMAX= 2.6 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 4.9(西) 23:10
SUNS= 0 NO DATA
RAIN= 0 NO DATA

Q
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半端道楽:写真で俳句る:自働蒔き大根の成果?(ひね大根 お前が食わにゃ 俺が食う。)

手抜きで、こぼれ種から生えた大根を作っているが、そのDNAも絶滅寸前。収穫した大根のスタイルも何となく雑種じみてきた。無肥料、無農薬。左の聖護院大根と普通の大根の合いの子のような大根のクビの部分には虫食いの穴があった。ダンゴムシが一匹台所まで付いてきた。

Iob_photo_hikuling_hinedaikon

最近、どこかの先生らしい方のBLOGに、子供達が虫を異常に怖がると書かれていて、気になった。ダンゴムシが大根に付いて台所まで来たらパニックが起こるのではないか。マッチが使えないというのも昔では考えられない。今だから、白状するが、昔の子供は、マッチを使って火遊びをした経験はだれでもあると思う。それを、大人に見つけられて、叱られて、一歩大人に近づくのだ。

このひね大根を食べた結果は既に書いた。戦後の食糧難時代を生き抜いてきた者にとっては、食材を見ると、勿体ない、それ食べられるよと最初に色々考える。畑のノビルもいつか食べたいと思っている。最近、田圃周辺に車を乗り付けて、なにやら捜し物をしている人がいた。どうもセリ摘みらしい。多分、野生のセリは、香りが良いのではないか。結局、ひね大根の煮物は俺が一人で食うはめになった。

サイト内でキーワード「大根 煮物」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=%E5%A4%A7%E6%A0%B9%E3%80%80%E7%85%AE%E7%89%A9%E3%80%80site:http:%2F%2Faf06.kazelog.jp%2Fitoshikimono%2F)。
 

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2014年3月18日 (火)

心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(7)

2014年3月18日(火)
昨日は晴れ。最高気温(℃) 16.9 15:45。最低気温(℃) 2.6 06:03。ざっそう句:ああこの世 知らぬも仏 知りたがる。宅内閑居。玄関の百均店で買った12Wの折り曲がった蛍光ランプが暗く感じるようになったので、6.9Wの電球型LEDランプに変更した。こちらは百均価格の4倍程度の値段だった。約5Wの節電になるが、明るさは向上したようだ。明るさ向上、省エネ、電気料低減と総合的な効果が出ると期待したい。明るさは、485ルーメンで、箱には40Wの白熱電球相当と記されている。電力会社の検針員が来た。電力計の数字が異常に低かったので、家の外から声がかかった。閉めた窓越しに大声で対話。先の大雪で停電してまだ工事が済んでいませんと話すと、了解となり帰ったようだ。後になって、ひょっとすると、独居老人がいて、何か異常がありそうで確認されたのかと思った。半独居老人だと悟った。世の中の動きから隔絶されると、気楽で良いのかも知れないが、その結果はどうなるのか。脳天気になって惚けが早く進むのか、ストレスが少なくなり、健康で長生きするのか。ともかく、何事も知ろうとするのは人間の基本的欲求のようだ。ところが、物事の裏表がすべて知られてしまうと何をするにもやりにくくなる。疑心暗鬼、日本人は知ろうとする習性では世界的にレベルが高いのか。それだけ悪事もそれほどスケールも大きくならずに済んでいるように思える。もうそろそろ、「知らぬも仏」という身分になりたいものだ。ところで、嘘で固めてノーベル賞を貰えれば、それこそマジックの天才になれる。世の中は、それほど甘くはなさそうだ。ネット情報はピンキリだが、まさにいろいろな神が見張っているように感じる昨今だ。ブログタイトルを「いとしきもの 自分のための子守歌 Beloved Ones A lullaby for myself」に変更した。

2014年3月17日の天気(AMEDAS)

TAVE= 10.3 NO DATA
TMAX= 16.7 最高気温(℃) 16.9 15:45
TMIN= 2.7 最低気温(℃) 2.6 06:03
DIFF= 14
WMAX= 3.2 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 7.0(西) 00:02
SUNS= 10.7 NO DATA
RAIN= 0 NO DATA

Q
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心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(7)

「心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(6)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2012/03/post-a33c.html)。(2012年3月23日 (金))」の記事からほぼ二年が過ぎた。

県道33号線の伊香保と渋川の中間にある御蔭地区のバス停の近くに、小さな公園のような区画に、御蔭松を保存しているアズマヤの様な建物がある。そこに初代群馬縣令であった楫取素彦の撰並書と書かれた御蔭松の碑がある。更に、同じ区画に御蔭松の経緯を記したやや大きな碑と標識のような碑もある。楫取素彦の撰並書とあるので、その碑を通すと、御蔭松がレンズのような役割をしてくれるかもしれないと思った。

Iob_mikagematunohi_matunoki
碑文解読向け大画像
IOB_MIKAGEMATUNOHI_MATU_LL.jpgをダウンロード

ともかく、風が吹けば桶屋がもうかると云うような因果関係を日本の近代史に当てはめ、伊勢崎が明治維新のルーツの一つかもしれないと想像して楽しんでいる所に、楫取素彦の碑に出会ったので、何とか碑文を読み解いて見たいと思っていた。人物と地理の関係では、高山彦九郎が伊勢崎で学んでいる。高山彦九郎の影響を強く受けたのが吉田松陰。その吉田松陰と深い関係があるのが楫取素彦。その楫取素彦が高山彦九郎の生誕地の群馬県縣令として群馬縣で活躍したという不思議な縁で歴史がつながっているように感じるのだ。伊勢崎だって文化の程度が高いんだと自己満足で終わるだけかも知れないが。

先日、老人モードで出かけて、目的地に向かう道のりを伊香保町ビジターセンターで尋ねた。若い職員が対応してくれた。旧伊香保町は現在では渋川市に合併しているようだ。ついでなので、「御蔭」という地名の由来を聞いてみたが、今ひとつはっきりしなかった。とりあえず、インターネットで調べた結果をプリントしてくれた。

Googleでキーワード「NHK大河ドラマ2015」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=NHK%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E2015)。

その若い職員と雑談して、来年の大河ドラマの影響で、楫取素彦の御蔭松の碑が脚光を浴びるかも知れないと冗談を話した。御蔭松を逆から読むと松陰ですかと少し納得した様子であった。実は、まだ自分では御蔭松の碑の碑文を解読していない。楫取素彦撰並書という部分を確認しただけで、いろいろ想像をしてきただけだった。

用事が終わって、帰路は一人弥次喜多道中。今度は、少しだけましなデジカメも持ってきて、碑や碑文を撮影した。現場の碑の前にはまだ雪が少し残っていた。樹木の影が碑面に当たり、撮影が難しかった。角度と時間を変え何度も同じ対象を撮影して文字を読み易い画像を選んだ。解読困難な文字もいくつかあった。ヒマに任せてその碑文から漢字を拾った。とりあえず、その漢字を並べてみよう。実は、御蔭松の碑の話をしたら早速そこへ出向いて調査した人がいたそうだ。ともかく、現物を自分の目で確認するのが理想だろう。その碑が語る事もその碑をどう読むかもその人次第だろう。それは、歴史との関わりすべてに通じるだろう。以下はまとまった意味を持つだろうと感じたところで語列を切った。別の区切り方もあると思う。

是歳巳卯
皇太后宮
行啓於伊香保之温泉
七月十七日
車駕発京
往返由此道
時属盛夏
掃松下以
休車駕矣
既而土人建石
命松曰御蔭  

請慱房卿詠属
余書題額
慱房卿以本官従駕
余即管地方卿之詠
余之題皆不可
辭者碑成矣 併記其??(事?検?)碑陰
亦出土人之意云

明治十二年 秋九月   群馬縣令  楫取素彦  撰並書

碑文は前半と後半に分かれると思われる。前半には「御蔭松」のいわれが記されているようだ。後半は「御蔭松の碑」を建てた経緯が記されているように感じる。英照皇太后の行啓と碑が建てられるまでの期間は二ヶ月ほどしかないようだ。「御蔭松の碑」の建設は周到に準備されていたように感じられるのだ。そうして、楫取素彦が最もアピールしたい部分は、最後の二行だと思われる。大変残念な事だが、?部分の漢字と意味がとれないのだ。ただ、ここに「碑陰」という「御蔭松の碑」の謎を解読する重要なキーワードが刻まれているのも動かしがたい事実ではないか。更に、想像を逞しくすると、碑の表が「御蔭松」という碑題が付けられてる。当時の事、中央から見れば楫取素彦といえども、一地方の行政官だろう。慱房卿とは英照皇太后の侍従なのだろうか。「碑陰」の「碑」を「御蔭松」の「碑」と解釈して、そこに「松」を代入すれば、「松陰」という名前が浮き上がってくるのだが、その結論はこの碑文を読む人に任せたい。まだまだ途中のようだ。

碑文の読み下しも考えてみたが確信が持てない。この御蔭松の碑文からは、楫取素彦が、晴れがましくも、少し寛いだ気分をもってこの碑を建てたというよう全体な雰囲気が漂ってくるように感じる。侍従はちゃんと和歌を詠んだが、自分が作った和歌の詞書きはうまく出来ずに、碑文になってしまったというような雰囲気に思われた。あまり、こだわりを見せずに、ぽろりとこの碑ができた、そんな意図も感じられなくもない。もっとも、碑を作っているのだから、和歌は添え物かもしれないのだ。今度は碑の表の和歌も読みたくなった。

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2014年2月20日 (木)

心象の足跡:国定忠治義人説は立証できるか?:大塚政義氏の講演を聞いて感じた事

2014年2月20日(木)
昨日は晴れ。最高気温(℃) 5.4 14:27。最低気温(℃) -2.0 06:43。ざっそう句:雪の後 何とか来たよ 引き売り屋。本日の定例行事は雪という予報で早々に中止。落雪で軒下に積みあがった雪を除去した。雪の高さは60㎝ほどだったが、量は相当多かった。一輪車で運んだが、適当な運搬先がない。なんとか全部終了した。暗くなってから馴染みの引き売り屋さんが来た。あちこちから情報も仕入れてくるので話題に事欠かない。契約栽培をしている農家の倒壊ハウスを購入業者が検分に来ていたというような話をして帰った。ハウスは保険に入っているのかね~と心配げだった。農家の損害はその購入業者にも及んでくるわけだ。現役時代、契約業務にも従事した事があるが、大抵、天変地異による損害賠償は不可抗力として免除されるという条項が盛り込まれていた。ただ、天変地異に関しては、具体的な内容は規定されていなかったように記憶している。そういう点では、日本の契約は性善説に立って、おおらかな面があるようだ。実際に「天変地異」条項があてはまる事例に遭遇した事はなかった。

2014年2月19日

TAVE= 1.6 NO DATA
TMAX= 5.3 最高気温(℃) 5.4 14:27
TMIN= -1.6 最低気温(℃) -2.0 06:43
DIFF= 6.9
WMAX= 7 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 11.9(西北西) 22:33
SUNS= 9.4 NO DATA
RAIN= 0 NO DATA

Q
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心象の足跡:国定忠治義人説は立証できるか?:大塚政義氏の講演を聞いて感じた事

最近、WEB情報として、群馬県の郷土史家として活躍されていた大塚政義氏の死亡記事に出合った。振り返えると、2010年に土屋文明記念館で国定忠治のイベントがあり、その時同氏の講演を聞いた記憶がある。更に、2011年に殖蓮公民館で行われた講演を聞いた。当時のデジカメ画像から、講演のタイトルは「赤城の子守歌のふるさと  上州の風土と人間  忠治 浅太郎の時代」だったようだ。国定忠治に関してては、善人説と悪人説があるが、同氏は国定忠治が二足のわらじをはかなかったという点から善人・義人説を支持しているような印象を受けた。

大塚政義氏は歴史研究家として、自説を述べるだけでなく、ひょっとしたら、自説を裏付ける記録がどこかに眠っているのではないか。ぜひ、皆さんも自分の周辺にある記録に注意して欲しいというような事を講演の最後の方で語っていたのを思い出した。歴史は客観的な資料に語らせるべきだという考えを述べたのかもしれない。

Iob_kouenkai_uehasukouminkan_2011 
今年は、当地の八幡沼開鑿150年になる。この八幡沼開削の指導者の川端宇兵衛は国定忠治より一年年長で、明治の前半頃まで存命であった。当地の、郷土史家が川端宇兵衛の子孫のお宅へ、何か当時の記録が残っているか調査に行ったそうだが、当主からは一度火事にあったので焼けてしまった筈だという回答があったとか。その話を聞いていた娘さんがこれは何かと持って来たのが、当時の八幡沼開削に関する詳細な記録だったとか。火事に会っても無事救出されていたのだが、その事実が正確に伝わっていなかったようだ。現在、この資料の控えが伊勢崎市図書館に保管されているとの事だ。幾つかの偶然が重ならなければ、この記録が世に出る事はなかったのかもしれない。

同じような話だが、最近おきりこみが群馬県の無形民俗文化財に答申されたとの事だ。今まで、おきりこみが何時頃まで遡れるか歴史がはっきりしなかったようだが、当地伊勢崎で活躍した栗庵似鳩という俳人が残した乙卯之日記に「煮ホウトウ」として記載されているとの事で、その日記が書かれた時期まで遡れる事がはっきりしたようだ。この乙卯之日記も旧家の古文書として残されていたが、幸い伊勢崎市の資料として出版されていた。俳句と余り関係が無いが当時の俳人が残した食事の記録が日記に記載されていた事により、食文化の理解の上でも役立ったようだ。

このように記録として残された資料も、その価値が判らなければ、保管されたまま傷んだり、焼却されたり、ゴミで出されたりという運命を辿ったかもしれない。大塚政義氏が国定忠治の記録や資料がまだどこかに残っているのではないかという言葉の中に、記録を求めかつ自説をより確実にしたいという歴史家の夢を感じるこの頃ではある。

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2013年11月22日 (金)

心象の足跡:こりゃなんじゃ(昔は目から発光していた謎の構造物)(改題):なぜ消えたパチンコ店SPHINXⅡ?131122。

2013年11月22日(金)
昨日は晴れ。最高気温(℃) 16.8 13:50。最低気温(℃) 5.5 06:50。ざっそう句:干しいもの 具合を見つつ つまみ食い。町内行事。乾燥中の干しいもの天地返し。庭の片隅にサザンカの花が咲いている。WIKIPEDIA「サザンカ。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%82%AB)」畑ではナズナ、ホトケノザ等々が育っている。

Iob_sazankasiro

冬は花も少なくなるが、ピラカンサや南天の実が楽しめる。南天の実を綺麗に付けるにはどうすればよいのか。WIKIPEDIA「ナンテン。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%B3)」。躾で箸の上げ下げ云々が言われる。小笠原流を習ったのか、幼少時に母から箸の持ち方が悪いと度々注意された。親の躾が悪いと言い返したのだが。運動神経や器用さも関係するのだろう。漆塗りの箸等のすべり易い箸は苦手だ。そこで、役に立つのが、塗りのないナンテンの白木の箸。これなら安心してつまめる。まさに難転の日用品。ふと思うのだが、この箸を取り出すナンテンの材木の太さはどの程度なのか。

2013年11月21日の天気(AMEDAS)

TAVE= 10.4 NO DATA
TMAX= 16.2 最高気温(℃) 16.8 13:50
TMIN= 5.9 最低気温(℃) 5.5 06:50
DIFF= 10.3  
WMAX= 4.7 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 9.0(西北西) 02:36
SUNS= 9.5 NO DATA
RAIN= 0 NO DATA

Q
Q

心象の足跡:こりゃなんじゃ(昔は目から発光していた謎の構造物)(改題):なぜ消えたパチンコ店SPHINXⅡ?

先日、老人モードで出かけて、もう一度じっくり見たいと思い出して、その構造物に向かった。確か、昔は目から発光していた謎の構造物で、通勤帰りに、こりゃなんじゃとちらりと見過ごしてきた。目からサーチライトのように発光していたのだ。

Iob_sphinxnazo

「がんばれ! ふくしま:大スフィンクス の謎は解ける(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/06/post-0364.html)。(2011/6/28)」

WIKIPEDIA「スフィンクス。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%82%B9)」

自転車で、その構造物をぐるりと回ったが、特別変わった印象は受けず、普通の建物に見えた。この構造物が投げかける謎も色々ありそうだ。ともかく、ここに、この構造物を作るという発想はユニークではないか。画像の中にはめ込んだ画像は上記WIKIPEDIA「スフィンクス」 からの引用。左右の狛犬の画像は上植木神社のもの。

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追記(2017/11/17):記事整形、過去BLOG再読、印象・コメント等
タイトルの文字サイズ、色を変更。
所在地は群馬県伊勢崎市八寸町。店舗名は上図のSPHINXの胸の部分にあるようにSPHINXⅡらしい。一度、店舗の入り口まで行ったが入る勇気が無かった。その時はまだ営業をしていた。その後、近くを通った時には、SPHINXも建物も無かった。

Googleでキーワード「パチンコ業界 業況 展望」を検索

遊びが多様化して、所得は増えず、遊戯者数が減少するという、マクロ的な現象が進んでいるのが現実だろう。そのしわ寄せが、弱いところへ忍び寄ってゆくのも、否定できない現実だ。パチンコ依存症に近い高齢者がいるという話も聞く。遊戯者が生き残るのか、業界が生き残るのか。業界だけが、生き残る事はあり得ないも当然だろう。

追記(2017/12/03):記事整形、過去BLOG再読、印象・コメント等
近くに出かけたついでにSPHINXⅡの跡地に行ってみた。太陽光発電パネルが並んでいた。

Iob_2017_atochi_sphinx20171130
原ファイル名=「IOB_2017_ATOCHI_SPHINXⅡ=跡地20171130.jpg」
IOB=IMAGES ON Beloved Ones

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2012年6月22日 (金)

心象の足跡:台風で被害を受けた蚕屋の記憶

2012年6月22日金曜日
昨日は曇り一時晴れ。朝方は草むしりやジャガイモの収穫。昼前後は町内行事。助っ人にタケノコを取ってもらう。その後一緒に草むしり。夕方は倒れかかったポポーを立て直して支柱を立てた。収穫したジャガイモは種芋との収穫作物の重量比(R)で約7倍の増量であった。電気ではこの電力増量比10*log(R)をパワーゲインと呼びdbで表示していた。7倍のパワーゲインを計算すると8.5db程度。入社初期の頃、TVチューナー用のシリコンRFトランジスタの評価等の仕事をしたが、そのトランジスタのパワーゲインが丁度この程度であった。このパワーゲインだけに注目すると大きいほど良いのだが、現実はNFや安定度という別な重要な要素もあり、妥協/トレードオフが必要であった。

2012年6月21日の天気

TAVE= 24.6
TMAX= 28 最高気温(℃) 28.6 14:44 
TMIN= 21.1 最低気温(℃) 20.9 04:44 
DIFF= 6.9
WMAX= 2 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 4.8(西南西) 12:03 
SUNS= 1
RAIN= 1

Q
Q

心象の足跡:台風で被害を受けた蚕屋の記憶

群馬県の養蚕をユネスコの世界遺産に登録すべく活動が盛り上がっている。その重要な段階として、伊勢崎の島村にある「田島弥平旧宅」を国重要文化財に指定するよう申請書が提出されたらしい。既に群馬県の養蚕も風前の灯火のようで、かつて栄えた産業を後世に語り継ぐ重要性を痛感している。

最近、当地区の葬儀で、寺の住職が家族に亡くなったおばあちゃんの生前の様子を伺ったところ、おばあちゃんは養蚕の仕事を熱心にやったとの事で、戒名の中に「蚕」という文字を入れましたと法話の中で話された。振り返って見ると、我が家でも、祖母や母も例外ではなく、蚕を飼っている時は、昼夜の区別無く良く働いた。戒名と共に養蚕の事も語り継がれるだろう。

また、かつて当地では有数の養蚕農家であった家が、空き家になった大きな二階建ての家を取り壊した話を聞いた。この家には仕事の最盛期には10人前後の手伝い人が宿泊もしたそうだ。当主も今まで空き家でも持ちこたえてきたがもう限界だと話していた。そのような気持ちは我が家でも同じ。新しい方の蚕屋は住居兼用で作られているようだ。我が家を建てた大工さんの親が建てたとの事。こちらは物置として使っている。もう一つの蚕屋の築年ははっきり分かっていないが古い建物のようだ。そのわけは、不要になった醤油か何かを作る建物を分解移設したと聞いているので、当世風に言えばリユースハウスだったようだ。今は、資材や作物置き場に使っている。終戦直後は、東京から疎開してきた家族がそこに住んでいた。昭和30年代、藁葺きの家を建て直す時に、自分もその家に仮住まいした。あばら屋だがそこに色々な記憶が残っている。

本来はこの蚕屋では蚕種のはきたてや稚蚕飼育を主にしていた。その後は、稚蚕飼育は共同の稚蚕飼育所で行うようになった。当時、蚕室は蚕の病気予防の為か、新聞紙を貼り巡らして隙間を無くし、ホルマリン蒸気で殺菌をしていたようだ。このホルマリン蒸気を吸うと吐き気が起きて、くらくらとしてきたのを思い出す。こういう、細々とした仕事は多分女性の仕事だったろう。また、桑が足りなくなると、遠くの方の余っている農家までリヤカーを引いて買いに行ったという話を聞いたこともある。このような力仕事は男の仕事だった。このような、思い出が一杯詰まった蚕屋もまだ当地では残っているのを散見するが、養蚕を体験したことがない世代に代わると無用の長物に過ぎなくなるだろう。

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ISESAKI  有情1

嗚呼 伊勢崎 非情

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  • 橋本 英文: 刃物雑学事典 図解・刃物のすべて(1986年 株式会社 講談社 ブルーバックス B-659)
    刃物という視点で多くの事例が取り上げられている。刃のある道具の理解にも役立つ。類書が少なく貴重な一冊。「すべり変形が切断の原理」という考え方で説明している。
  • 沼田 真   : 植物たちの生( 1972年 岩波新書(青版 833))
    「ご要望にお応えしてアンコール復刊(1988年岩波新書50年記念復刊) 地球生態系の中で自然を見直す」(腰巻きのフレーズ)。植物の知恵と戦略に人類は勝てるのか。
  • 出町 誠: 14_NHK趣味の園芸:よく分かる栽培12ヶ月  カキ(NHK出版2007年)
    初心者向け柿栽培参考書(新版)。旧版と比較すると楽しい。
  • 中村三夫: 13_NHK趣味の園芸:作業12ヶ月  カキ(NHK出版1996年)
    初心者向け柿栽培参考書(旧版)。新版と比較すると楽しい。
  • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
    細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
  • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
    著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
  • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
    ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
  • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
    やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
  • ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫訳): 08_サイバネティックスはいかにして生まれたか(みすず書房1956)
    情報と通信という現代社会に不可欠の基礎的な学問を作った著者の自伝とそれを通した科学史
  • 沼田 真(編): 07_雑草の科学(研成社1979)
    雑草を多面的に解説し防除の基礎も述べる

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    2010/8/4:MEMO等の表示に使える。 農作業で気になる自戒の言葉 ■畑の石ころはいつまで経ってもても石ころ(早く拾って片づけよという意味か)。 ■同じ石を二度拾うな(やってみると難しい)。 ■手ぶらで歩くな。 ■三つ先のことを読め。 ■適当な観察。 ■空を見よ(気分転換、休憩、天気を読む、腰曲がり防止)