01B_心象の足跡

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2012年5月19日 (土)

心象の足跡:吉田松陰、楫取素彦、高山彦九郎をつなぐ見えない糸

2012/5/19(土)
昨日は早朝にかけて雨。その後雨が止み、畑に出たが、雷鳴と雷雨があり退散。しばらくして晴れ間が出てきて、不安定な天気だった。寒気のいたずらのようだ。サツマの苗を植え終わった。手抜きにしようとしたが、シャベルでヤブガラシの根などを堀上げて植え付けた。5/19のGoogleのTOP画面は「南方熊楠 誕生145 周年」だった。

「南方熊楠;。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%96%B9%E7%86%8A%E6%A5%A0。」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。(最終更新 2012年5月17日 (木) 18:16 )(http://ja.wikipedia.org/)の一部引用=「南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日(慶応3年4月15日) - 1941年(昭和16年)12月29日)は、日本の博物学者、生物学者(特に菌類学)、民俗学者である 菌類学者としては粘菌の研究で知られている。主著『十二支考』『南方随筆』など。投稿論文や書簡が主な執筆対象であったため、平凡社編集による全集が刊行された。「歩く百科事典」と呼ばれ、彼の言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している。~南方熊楠は和歌山県に生まれ、東京での学生生活の後に渡米、後にイギリスに渡って大英博物館にはいる。後に日本に戻って、和歌山県田辺市に居を定めた。多くの論文を著し、大学者として名を知られたが、その生涯を在野で過ごした。 概説 [編集]:彼の学問は博物学、特に植物学を基礎とするが、熊楠の学風は、ひとつの分野に関連性のある全ての学問を知ろうとする膨大なものであり、土蔵や那智山中にこもっていそしんだ研究からは、曼荼羅にもなぞらえられる知識の網が産まれた。 1892年(明治25年)にはイギリスにわたって、ロンドンの天文学会の懸賞論文に1位で入選した。大英博物館東洋調査部に入り、資料整理に尽くし、人類学・考古学・宗教学などを独学するとともに、世界各地で発見、採集した地衣・菌類に関する記事を、科学雑誌『ネイチャー』などに次々と寄稿した。 帰国後は、和歌山県田辺町(現、田辺市)に居住し、柳田國男らと交流しながら、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗、伝説、宗教を、広範な世界の事例と比較して論じ、当時としては早い段階での比較人類文化学を展開した。菌類の研究では新しい種70種を発見し、また、自宅の柿の木では新しく属となった粘菌を発見した。民俗学の研究では、『人類雑誌』『郷土研究』『太陽』『日本及日本人』などの雑誌に数多くの論文を発表した。」。

Google日本版のTOP画面は「南方熊楠 誕生145 周年」だったが、英語版はいつもの検索画面と同じであった。という事はGoogle日本版従事者に、「南方熊楠 誕生145 周年」を出すセンスの人がいるのだろう。南方熊楠という人物は、日本人にとってはよほど捉えがたい人物のようだ。南方熊楠の研究を始めてしまうと、その業績を消化するだけで、その人の一生が消えてしまうほどの知の巨人らしい。一人でだめなら、百人と言う具合に大勢でも結構、南方熊楠をもっと身近な人物にしてもらいたいものだ。Googleはこの世のあらゆる事柄(データ)をコンピュータにのせる野望を持っているという。Googleが南方熊楠に挑戦を始めたという事か。

2012/5/18(金)の天気

TAVE= 17.1
TMAX= 21.7 最高気温(℃)  22.1  12:37
TMIN= 13.8 最低気温(℃)  13.8  24:00
DIFF= 7.9
WMAX= 9.7 最大瞬間風速(m/s)  16.4(北西)  13:30
SUNS= 7.8
RAIN= 15

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心象の足跡:吉田松陰、楫取素彦、高山彦九郎をつなぐ見えない糸

渋川市の御蔭松の碑について調べ始めたが、思うように進まない。楫取素彦の碑文解明の話をある人にしたら、その人の知り合いがさっそくその碑のある場所までゆき、碑の調査をして碑文の解読までしてくれたそうだ。ただそれを公開するつもりは無いとの事だ。残念。是非公開して頂きたいとお願いした。更に、別ルートで調べて頂いたところ、「『伊香保誌』伊香保町教育委員会編 p.743 「英照皇太后の行啓」の項」に関連事項の記載があるとの事だ。

グーグルで、吉田松陰(約 298,000 件)、楫取素彦(約 17,100 件)、高山彦九郎(約 61,800 件)のヒット数(かっこ内に記入)を調べた。楫取素彦のヒット件数はかなり低い。楫取素彦の件数を1とすれば吉田松陰17.4倍、高山彦九郎3.6倍となる。歴史上の人物の評価もなかなか定まり難いのが現実かもしれない。先日、出かけたついでに、生品神社と高山神社へ行った。高山神社は初めての訪問だった。来訪者は数人だけ。中には運動で坂を上り下りしているような人もいた。高山彦九郎の歌碑の説明をしていた年配の女性がいた。遠来の短歌関係の人ですかと聞くといや近所の者だとの事。高山彦九郎は「寛政の三奇人」の一人と言われるが「偉人」ですと言い直して説明していた。目的もなくぶらりと訪問すると、色々な巡り会いとともに歴史の寂寥感を味わえる。生品神社には神代木として櫟(くぬぎ)の大木が保存されている。新田義貞の銅像が盗難に遭い、新しい銅像の除幕式前だった。高山神社は、社殿等は立派だが、ひっそりと佇んでいるようにみえる。

「高山神社 (太田市);。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE_%28%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%B8%82%29。」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。(最終更新 2011年11月6日 (日) 13:27 )(http://ja.wikipedia.org/)の一部引用=「歴史 [編集]:明治時代に創建された比較的新しい神社である。 明治6年(1873年)に県の許可を得て高山彦九郎の生誕地細谷村に石祠が設けられた。地元民が政府に神社創建を願い出たことから明治11年(1878年)内務卿の認可された。明治天皇、各皇族の下付金、一般の寄付を得て社地を金山丘陵の支脈の小丘である天神山中腹に社殿が造営され、明治12年(1879年)鎮座を行った。 明治13年(1880年)3月県社に列格。昭和7年(1932年)に現在地の山頂に遷座された。」。

渋川市の御蔭松の碑を通して、吉田松陰、楫取素彦、高山彦九郎をつなぐ見えない糸を探そうとしているのだが。御蔭松の碑の建立が明治12年。上記、WIKIPEDIAの高山神社 (太田市)によれば、「明治天皇、各皇族の下付金、一般の寄付を得て社地を金山丘陵の支脈の小丘である天神山中腹に社殿が造営され、明治12年(1879年)鎮座を行った。 明治13年(1880年)3月県社に列格。昭和7年(1932年)に現在地の山頂に遷座された。」とある。高山神社 (太田市)の、明治12年~13年の動向を見ると、その期間は、楫取素彦が群馬県令の現職期間と重なり、見えない糸の存在の可能性は大きいのではないか。

一方、「松陰神社;。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E9%99%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE。」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。(最終更新 2012年2月4日 (土) 18:56)(http://ja.wikipedia.org/)の一部引用=「東京都世田谷区若林に所在する。旧社格は府社。また、付近には国士舘大学(世田谷キャンパス)や世田谷区役所がある。東急世田谷線松陰神社前駅下車。
 鎮座地にはかつて長州藩主の別邸があった。松陰が安政の大獄で刑死した4年後の文久3年(1863年)、高杉晋作など松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓が当地に改葬された。明治15年(1882年)11月21日、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。現在の社殿は昭和2年から3年にかけて造営されたものである。」。

高山彦九郎と吉田松陰は、その志操の高さと非業な死に方に共通点がある。更に、神として祭られた点まで類似している。梅原猛の「怨霊史観」を思い出す。その点、楫取素彦は異なる。大正元年(1912年)8月14日、山口県の三田尻(現・防府市)で死去。84歳。時の官界に出仕し、功成り名遂げて天寿を全うしたと言えるだろう。「怨霊史観」から見ると、楫取素彦は神には成りうる立場はないようだ。神として祭り上げる立場になったのだろうか。

Ikusina_jinja_and_takayama_j_s

2012年4月27日 (金)

心象の足跡:たまには、ハクシデント(H’accident?)も良いものだ。20120427。

2012/4/27(金)
昨日は曇り一時小雨。低気圧の影響で天気が崩れ、寒暖の差が大きい。体調管理が必要だ。接木。イチジクのカミキリムシを調べた。夜会合。今回の接木は食品用のポリラップを二枚に畳んで、穂木を挟むようにして使用してみた。発芽後、ポリラップを除去しやすくする実験。ポリラップは一般名称と思っていたが、特許電子図書館で商標を調べると、「ポリラップ」での検索結果で 34件ヒット。宇部フィルム株式会社の「家庭用食品包装フィルム 」もその一つ。実際使ったのは、「サランラップ」であった。切り口がカッターからそれて直線上に切れない場合もあった。「食品用ラップフィルム」は類似品が多く、性質、素材も微妙に異なるようだ。下記WIKIPEDIAにあるよう、接木で使用するのは「フィルム同士を接触させると接着性」という性質や「厚さは十数μm程度だが耐熱性・耐水性に富み、透明軽量で柔軟な膜状素材」という性質。作業中静電気を帯びるようで、張り合わせが難しい。屋外で1~2ヶ月程度接着性が維持できるかは確認が必要。藤の蕾が開いて咲き始めている。ヤマブキは満開に近くなった。リンゴの花も咲いているが、カミキリムシの食害がひどい。なんとかしなければ。

「食品用ラップフィルム;。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9F%E5%93%81%E7%94%A8%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%A0。」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。(最終更新 2011年10月18日 (火) 11:44 )(http://ja.wikipedia.org/)の一部引用=「概要 [編集]:

食品用ラップフィルムは、食材や料理を包んだり、皿など食器を料理ごと包む際に用いられる樹脂フィルムで、その厚さは十数μm程度だが耐熱性・耐水性に富み、透明軽量で柔軟な膜状素材である。大抵は30cmか22cmの幅、30m~50mの長さで紙筒を芯として巻かれて紙箱に収められたものが販売されている。ただし業務用のものでは、45cm幅のものが筒状のまま厚手の樹脂フィルムに包まれた状態でも販売されている。また、業務用では多くの量を使用するため、専用のホルダーに詰め替えて用いることで紙箱や紙芯を省いた製品もある。

これらのフィルムはマイナス60度(摂氏)からプラス150度前後(製品や樹脂の種類により、やや違いがある)まで対応し、家庭では冷凍庫の中から沸騰した熱湯が直接触れるような状況までは問題なく利用できる。電子レンジでは油の多い食品(フライなど)が直接触れる使用状況には向かないものの、スープが沸騰するような温度に加熱する際の蓋として使っても問題ない。ただしオーブンには利用できない。

日本では1960年に、呉羽化学工業(現クレハ)がクレラップを、続いてダウケミカルと旭化成の合弁会社である旭ダウ(現在は旭化成と合併)がサランラップを販売したが、当時は冷蔵庫や電子レンジの普及率が低かったため、売り上げは伸びなかった。電子レンジの普及にも伴って、料理を加熱する際の食器の蓋として利用されるようになっていった。

フィルム同士を接触させると接着性を示すほか、熱を加えると収縮して接着性が増す性質があり、いわゆる食品トレー(→ポリスチレンペーパー)を使って食品を包装する際にも頻繁に用いられている。」。とある。

2012/4/26(木)の天気

TAVE= 16.9  
TMAX= 19.6 最高気温(℃)  19.8  15:50
TMIN= 15 最低気温(℃)  14.8  00:46
DIFF= 4.6  
WMAX= 5.9 最大瞬間風速(m/s)   11.5(南東)  11:36
SUNS= 0  
RAIN= 0.5  


心象の足跡:たまには、ハクシデント(H’accident?)も良いものだ

先日、ラワーパークへ行った。好天に恵まれ、チューリップも見頃であった。それは後の楽しみとして、最初に五代目 堀込小源太の八木節を観賞。堀込流の本部は足利、前橋にその支部があるのだそうだ。堀込小源太ご一同の公演の後に、沢田知佳の歌があるとの事で全部まるまる聞いた。堀込小源太氏が歌の司会もこなしローカル色満点。恥ずかしながら握手をして頂いたので、最後に手帳にサインまでお願いした。どういう成り行きか記念撮影となった。沢田知佳が歌った歌に「谷地沼」が出てきた。どこかで聞いた沼だと思い出し、デジカメのシャッターを押してくれたおじさんに聞いてみた。何とそのおじさんが「谷地沼ざくら」の作詞、作曲をしたとの事であった。

47NEWS >  共同ニュース >  写真ニュースによれば、「地元の谷地沼を題材に作詞作曲。http://www.47news.jp/photo/45349.php(2010/3/04 07:11)」というタイトルで、「歌は親子の支え合いなどがテーマで、同市在住の歌手、沢田知佳さんが歌い、CD100枚を制作した。14日の発表会で披露する。」と報じた。同氏によれば、この歌は農林水産庁が募集した「ため池百選」がきっかけになったとの事だ。丁度その頃、同じ目的で、地元の八幡沼をため池百選に応募していたので、何とも楽しい偶然が重なった出来事になる。良い記念になるので沢田知佳のCD一枚を購入。このCDには「谷地沼ざくら」の歌は入っていないとの事であったが、それをじっくり聞いたり、「谷地沼ざくら(下記の写真参照:農林水産庁HPからの引用)」を見るのは別の機会にしたい。

アクシデントという言葉は偶然の出来事を意味する。事故などで使われる。悲惨なアクシデントはご免だが、今回は楽しいアクシデントなのでハクシデント(H’accident=Happy accident)という新造語を作ってみた。地域興しは、地元の価値を発見することから始まるのではないかと常々思っている。偶然にもそういう人々と巡り会えるとなんとなく浮き浮きしてくる。
Numa_no_omoide
沼の写真はurl=http://www.maff.go.jp/j/nousin/bousai/tameike/t_tohyo/pdf/010_gunma.pdfより。
左端が八幡沼。右端が谷地沼。群馬県で一次予選に入ったのが、太田市の妙参寺沼、伊勢崎市の八幡沼、前橋市の谷地沼の三つであった。目出度く、ため池百選に選ばれたのは太田市の妙参寺沼であった。

尚、農林水産庁の「ため池百選」のホームページはurl=http://www.maff.go.jp/j/nousin/bousai/tameike/。アクセスは「url=」を削除してコピペ。

参考:06B1_ため池百選候補になった八幡沼(伊勢崎市)http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/06b1_HACHIMAN_NUMA.html

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追記(2023/05/14):タイトル最後に投稿期日を追加。現在アクセスランキング7位。投稿以来11年以上経過した。八幡沼のほとりにあった松の大木も切り倒され風景が変わった。養鯉の餌小屋はまだ残っている。八幡沼の「ため池百選」入選活動をした仲間も少なくなった。読者に感謝。


2012年4月19日 (木)

心象の足跡:子供の頃育てたおじぎそう

2012/4/19(木)
昨日は晴れ。春眠暁を覚えず。朝からウグイスが鳴いていた。鳴き方も上達して、ついつい耳を傾ける。オジギソウとカモミールの種子を播いた。苗を堀上げて移植。夜は座談会。移植元からワラビの根が、移植先から黒竹の根が沢山出てきた。黒竹は大きな菊鉢から根を地下に広げて、元気良く陣地を広げてしまった。知人が水仙を貰いに来た。今を盛りに咲いている水仙を堀上げて植えても、しおれて見る影もないだろう。ワラビをつんでもらった。ついでに、堀上げたワラビの根を献上。後で困っても知らね~ヨと断って。オジギソウとカモミールは、某コンビニ雑貨店の二袋@105円というもの。オジギソウの種子は、園芸コーナーでも余り見あたらない。意外な所に列んでいた。追記:種子の袋のDSC。
Ojigisou_and_kamomiru

2012/4/18(水)の天気

TAVE= 14.4
TMAX= 21.4 最高気温(℃)  6.8  05:33
TMIN= 7 最低気温(℃)  6.8  05:33
DIFF= 14.4
WMAX= 5.5 最大瞬間風速(m/s)  10.6(東南東)  17:52
SUNS= 11.2
RAIN= 0

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心象の足跡:子供の頃育てたおじぎそう

植物は自分から動かないと思いこんでしまう。幼少の頃、オジギソウを育て、その葉を触り、葉が閉じるのを不思議に思った。自分の幼少の頃を思い出させてくれる、草花としては、アネモネ、ヒナギク、オジギソウ等々がある。現代では、地味すぎてこれらの花も余り人気がないのではと思う。オジギソウが葉を閉じる動きが早いので、好奇心旺盛な子供にとっては特別に興味があった。

WIKIPEDIAによれば、「オジギソウ(お辞儀草、含羞草、学名:Mimosa pudica)とはネムノキ科(新エングラー体系とAPG植物分類体系ではマメ科に含めてネムノキ亜科とする)の植物の一種。別名ネムリグサ(眠り草)、ミモザ。」。WIKIPEDIAにも、オジギソウが葉を閉じるメカニズムについては説明がなかった。植物も竹の根を見ると、長い目では、動いている。それはワラビも同じ。植物も、動物も、より良い生存環境を求めて、動く。どうも我々は、動物を「動」物と思い込み、植物は、「動」物以外の生物と思いこんでしまう。

幼少時代に遊んだ自分だけの小さな庭、遊び疲れた物を入れておく箱(ジャンクボックス)等々は子供の成長に大きな影響を与えているように感じる。「箱庭:いとしきもの(2010年4月14日 (水))。http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2010/04/post-049c.html」。多分、オジギソウを育てたのも庭の一角だったと思う。それ以来、半世紀程経て、幼い頃に退行したい願望があるようだ。でも、そういう体験があればこそ、老後はそれなりの彩りがあるのではないか。

オジギソウの種子の大きさは大根と菜種の種子の中間くらい、一方のカモミールの種子の大きさは砂粒ほどであった。ひとつまみの種子が全部育ったら、植える場所も足らなくなりそうだ。雑草対策のグランドカバーとして使えるかもしれない。ハーブとして香りも楽しめそうだ。雑草の事を考えると、昔の夢が、現実味を帯びてしまう。幼少時の記憶には、雑草というやっかいなものは一切登場しない。あの、アメリカセンダングサの実も焼き饅頭を食べる竹のフォークのようで、魚捕りの網にへばりついたのを取り除いている光景さえなつかしく思出される。

2012年4月 7日 (土)

心象の足跡:新田荘遺跡明王院内の木魚寝そべり小僧の石像

2012/4/7(土)
昨日は曇り時々晴れ。日照時間は:SUNS=4.3H。播種。先ず播き床作り。ノビルを堀上げて移植。次ぎに、シャベルで畑土を天地返し。ヤブガラシ、スギナ、シノの根が地下30センチほどをはい回っている。畑の嫌われ者のビッグ3かも知れないが、深く根を張れ!という根性を改めて見習う。地上で多少のいじめにあっても生きのびるのだ。褐変して死んだヤブガラシの根もあった。ともかく地下なら、エネルギー消費も少なく、温度も安定しており、水分もあるので、根だけでも数年以上は生き延びる。復活のチャンスを待っているのだ。そのチャンスが人間の怠慢。

2012/4/6(金)の天気

TAVE= 6.7
TMAX= 12.5 最高気温(℃)  14.0  10:49
TMIN= 2 最低気温(℃)  1.6  23:48
DIFF= 10.5
WMAX= 8.5 最大瞬間風速(m/s)  15.4(北北西)  11:03
SUNS= 4.3
RAIN= 0

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心象の足跡:新田荘遺跡明王院内の木魚寝そべり小僧の石像

明王院は上武国道を降りてすぐの県道354の南側にある。現役時代はよくそこを通り、なにか寺らしいのがあるので気にかけていた。思い立ったが吉日。最近出かけてみた。合併前は新田郡新田町。現在は太田市。太田市のHPには、「新田荘遺跡(明王院境内);。http://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/bunmazai/nittanosyoiseki_myooin.html。」というタイトルで、「明王院(みょうおういん)は、2町四方(一辺200m)の規模を有した、鎌倉時代の総領家(そうりょうけ)クラスの安養寺館跡に建てられた寺です。呑嶺山明王院安養寺といいます。
 不動堂には、二対の不動明王が納められており、そのひとつは1寸8分(約5.5cm)の白金製で、伝説では元弘3年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの際、山伏(やまぶし)に化身(けしん)して越後方面の新田一族に一夜にして触れ回ったと伝えられ、「新田触不動(にったふれふどう)」として知られています。」とある。

Myoouin_anyouji

正式名が呑嶺山明王院安養寺。国指定史跡となっている。安養寺は町名になっていて通称は明王院か。不動明王が主仏か。じっくり見れば色々勉強になりそうだ。歴史は新しいが、デジカメに納めた印象に残った画像を3枚連結画像にした。実は、もう少し撮影しようと思っていたが電池切れ。ズームが出たまま電池切れになり困った。「延命水子地蔵尊」はこの世に生まれてはかなくもほどなくあの世に行ってしまった嬰児を供養するもの。縄文時代の土偶とも関係するのではないかと思う。このような人間の念願を表す「子待」塔?というのが、建物の裏にひっそりと立っていた。「子持」ではなく「子待」。子供が産まれて欲しいと念願して立てられたのではないか。傑作なのが、「明王院内の木魚寝そべり小僧の石像」。その由来を詮索するのも気が引けるが、人生修行は読経だけでなく、木魚に寝そべって瞑想(居眠り)も結構だと問わず語りしているようでもある。塾通いで頭が一杯の親子で拝観したら面白そうだ。不動明王はあの姿で慈悲の心を現している。
説明力より感じ取る力が大切なのだろう。

2012年3月23日 (金)

心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(6)

2012/3/23(金)
昨日は曇り一時晴れ間。用事外出。ついでに工作に使うため強力マグネットを百円ショップで調べた。磁力の強さは数十ミリテスラとあった。http://staff.aist.go.jp/nakashima.yoshito/nouzei/magnet.htmによると、地磁気:0.3-0.5ガウス=0.00003-0.00005テスラ、磁気ネックレス:0.13テスラ、病院の超伝導磁石を用いたMRI:1.0-1.5テスラ(1T=10000G)との事だ。この磁気というのも、人間は見ることも感じることもできない。以前、脳ドッグを受けたとき、MRI装置の磁力は1.5テスラとの表示があった。検査が終わって担当員に1.5テスラという磁気の強さはどの位か聞いてみた。ボールペンをその装置の上で離すと浮いてしまった。一目瞭然とはこのこと。あの、ガンガンという音を検査の内容毎に変えているのだそうだ。

「核磁気共鳴画像法;。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E7%A3%81%E6%B0%97%E5%85%B1%E9%B3%B4%E7%94%BB%E5%83%8F%E6%B3%95。」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。(最終更新 2012年3月20日 (火) 10:09)(http://ja.wikipedia.org/)の一部引用=「核磁気共鳴画像法(かくじききょうめいがぞうほう、英語: magnetic resonance imaging, MRI)とは、核磁気共鳴 (nuclear magnetic resonance, NMR) 現象を利用して生体内の内部の情報を画像にする方法である。断層画像という点ではX線CTと一見よく似た画像が得られるが、CTとは全く異なる物質の物理的性質に着目した撮影法であるゆえに、CTで得られない三次元的な情報等(最近のCTでも得られるようになってきている)が多く得られる。また、2003年にはMRIの医学におけるその重要性と応用性が認められ、"核磁気共鳴画像法に関する発見"に対して、ポール・ラウターバーとピーター・マンスフィールドにノーベル生理学・医学賞が与えられた。」。

2012/3/22(木)の天気

TAVE= 6.9
TMAX= 14.2 最高気温(℃)  14.6  16:38
TMIN= -1.1 最低気温(℃)   -1.4  05:10
DIFF= 15.3
WMAX= 5.3 最大瞬間風速(m/s)  10.4(北西)  17:15
SUNS= 1.3
RAIN= 0

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心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(6)

吉田松陰の名前の名乗りの理由を推測してみたが、楫取素彦の場合はどうかと推測してみた。既に、どこかに正解があるのかも知れないし無いのかもしれない。

高山彦九郎が自ら名乗った名前があるか知らないが、IKIPEDIAによると、「高山彦九郎http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B9%9D%E9%83%8E」に、「上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)の郷士高山良左衛門正教の二男として生まれ、諱を正之という。」とある。「正之」とは「正しい道を行く」の意味にとれるだろう。そこで、WIKIPEDIAで「諱(いみな)」を調べた。

「諱;。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B1。」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。(最終更新 2012年2月9日 (木) 15:23)(http://ja.wikipedia.org/)の一部引用=「概要 [編集]:諱という漢字は、日本語では「いむ」と訓ぜられるように、本来は口に出すことがはばかられることを意味する動詞である。 この漢字は、古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣があったことから、転じて人の本名(名)のことを指すようになった。諱に対して普段人を呼ぶときに使う名称のことを、字(あざな)といい、時代が下ると多くの人々が諱と字を持つようになった。 諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が諱で呼びかけることは極めて無礼であると考えられた(詳細は、実名敬避俗(じつめいけいひぞく)及び避諱を参照)。 また、僧侶が受戒するときに受ける法名のことを、仏弟子として新たに身につける真の名前という意義から諱(厳密には法諱(ほうい、ほうき))といった。 日本では時代が下ると、僧侶の受戒が、俗人の葬式で死者に授戒し戒名として諱を与える儀礼として取り入れられた。このため、現在では諱は諡と混同され、現代日本語ではしばしばほとんど同義に使われることもある。」。

高山彦九郎が存命中の当時は、親や自分は本名「正之」を使ったのではないか。松本淳氏のホームページに、頼山陽の「高山彦九郎傳」の原文と現代語訳が紹介されている(http://kambun.jp/kambun/rai-takayama-yaku.htm)。この、「高山彦九郎傳」で頼山陽は高山彦九郎を「正之」と記している。この訳文を読むと上州人気質の義理人情ぶりが高山彦九郎の中にも流れている事を感じる。更に、自刃の様子も活写されているが、その自刃の理由については「正之はこうして死んだ。彼の死は、京都、江戸、大阪の三都に伝わったが、誰も彼が自殺した理由を知るものはなかった。」と記し当時から謎であったようだ。その訳文の結語に、「父は正之の伝記を作ろうとしていたが、果たさぬうちに亡くなってしまった。私は最近、ある人が正之のことを書いた記事を読んだのだが、それには正之のことをまるで叛徒のように書いてあった。これはまったくの濡れ衣である。そこで、私は父から聞いたことを書いたのだ。」とある。頼山陽(WIKIPEDIA:頼 山陽(らい さんよう、安永9年12月27日(1781年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日))は江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人である。幼名は久太郎(ひさたろう)、名は襄(のぼる)、字は子成。山陽は号である。)がこの「高山彦九郎傳」を後世に残そうとした理由もやはり高山彦九郎のDNAを温存させることにあったのではないか。高山彦九郎の自刃の理由は謎とされている。その謎を解く鍵の一つに、「松陰以白居士」があるのかも知れない。高山彦九郎は自分をどのように名乗ったか分からないが、その志を継いだ人が「松陰以白居士」という戒名を以てその理想を名乗らせてやったように感じてしまう。

御蔭松の石碑に刻まれた明治十二年において、明治維新という激動は治まり、社会はその歴史を回顧できる状況になってきたと思われる。その年は、吉田松陰没後20年でもある。吉田松陰の獄死は、その時点では、いわば二昔前の事になる。世間では、吉田松陰の名前も忘れられかけていたかもしれない。加藤健太郎氏の記事にある、楫取素彦は「歴史の仲介役」という指摘は的を射ていると思われる。更に、上記の記事に、「そんな人物の墓が、山口県防府市にある。かつては三田尻の地名で知られたこの街は、ちょうど同県の中央、瀬戸内海側に位置し、幕末長州藩が慶応3年末に朝敵の汚名を返上すべく王政復古・討幕を期して上京する際の出発地となった場所である。そこに諸隊参謀として楫取素彦の姿があった。この年まで楫取は小田村素太郎を名のっていた。」と記している。

WIKIPEDIAによると、小田村素太郎が楫取素彦を名乗ったのが慶応3年(1867年)9月との事。その翌年、明治元年(慶応4年)明治天皇が即位し、明治維新となる。三省堂 大辞林:「楫取」には、「かとり 【楫取】:姓氏の一。」、「かじとり(舵取:「かじとり(舵取)」の転。[日葡])」とある。「彦」:男子の美称、才徳のすぐれたひと。水をかいて船を漕ぐ具で、櫂は長い、楫は短いものを意味するとの事だ。小田村素太郎から楫取素彦への改名の正確な由来は知らないが、この激動の時代に身を処す決意を込めた改名(名乗り)に思われる。この時、楫取素彦38歳である。尚、名乗りには、武士が戦場で名や素性を告げる意味があるとの事。名に命と名誉をかけた武士の真剣勝負を思い起こす。

以上のような経緯を見た上で、我々現代人は、楫取素彦が渋川市の御蔭松の碑文に託したメッセージを読み解く以外にないのだろう。今、正に吉田松陰が志した夢は実現し、自分が県令であるこの地の、この御蔭松の下に、皇太后をお迎えできた。松陰が生きていれば...。楫取素彦の碑文は吉田松陰については黙して語らないように見える。それは、高山彦九郎の戒名「松陰以白居士」と同様に永遠の黙示録かも知れない。

渋川市の「御蔭松」と「御蔭松の碑」に出合ったのは2012/3/6の午後であった。前日、雪が降り、翌日その雪が解けて、碑面の苔が濡れていた。その苔を指で撫でて、浮かび上がった幾つかの文字を手帳に書き残しただけだった。改めてその碑の写真を見ると漢文のようである。碑文の解釈や理解はその場では不可能であった。碑文を読めば理解は進むだろう。是非誰かに解読をお願いしたいところだ。WEB上の色々な情報を参照させていただき空想を広げてこの記事を私的メモとして書いた。渋川市の「御蔭松」と「御蔭松の碑」に関してはどこかに正確な記録があるかも知れない。行政上の「御蔭」という住所は既に町村合併等で消滅しているが、「御蔭地区」という、呼び名はまだ残っているようだ。手帳のメモによると碑があるのは、県道南側の小さな公園で御蔭公園とあった。また、ゴミ出し場所のような看板には御蔭自治会とあった。地元では地名の由来も伝承されていると思う。ともかく、地名に「御蔭」が残っているので、歴史を辿ればその由来はある程度解明できるだろう。御蔭公園には、もう一つ、角形のより大きな石碑があった。この碑に、関連の情報が記されていたかもしれないが、確認のゆとりもなかった。更にもう一つ、道路面に向いた石碑らしいものがあった。標識的な石造物かもしれない。高山彦九郎が明治維新のさきがけとなる人物である事には間違いないだろう。平成24年は楫取素彦没後100年、平成25年は高山彦九郎没後220年の節目の年となる。歴史を辿れば、群馬県は高山彦九郎、吉田松陰、楫取素彦という見えない線で結ばれているようだ。伊香保から県道33号線を下り渋川に向かう小さな徒歩の旅で、渋川市の御蔭松と楫取素彦の名が刻まれた石碑に出会い、それをきっかけに始まった歴史上のヴァーチャルの旅が思わぬ方向に進んでしまったが、思い出に残る寄り道になった。

2012年3月22日 (木)

心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(5)

2012/3/22(木)
昨日は晴れ。風が強くスギ花粉が飛んだようだ。ポット苗の除草と灌水。ようやく一巡。マスクをせずに屋外作業をしたので、眼が痒くなり、くしゃみが出た。花粉症の症状だ。蕗の薹が出ていた。一握り収穫。煮込みうどんの上にほぐした蕗の薹をばらまいて食べる。独特な苦みに春を感じる。この苦みは外敵から花を守るためなのかと思う。

2012/3/21(水)の天気

TAVE= 5.9
TMAX= 10.5 最高気温(℃)  11.1  14:55
TMIN= 1.5 最低気温(℃)   1.2  06:12
DIFF= 9
WMAX= 9.5 最大瞬間風速(m/s)  16.6(北西)  09:39
SUNS= 10.5
RAIN= 0

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心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(5)

楫取素彦は初代群馬県令を経て、大正元年(1912年)8月14日没(享年83歳)。吉田松陰の夢も明治維新として実現された。吉田松陰は高山彦九郎と同様、生きてその志は果たせなかったが、高山彦九郎生地の群馬県令在職中に、皇太后の群馬県行啓があり、感無量の境地にあったのかも知れない。「御蔭松の碑」に記された群馬縣令楫取素彦という文字には、この「御蔭松の碑」は楫取素彦や吉田松陰の気持を御蔭松に託した後世へのメッセージであると語っているように感じられた。「御蔭松」こそ、「松陰」の名前を密かに盛り込んでいるのではないかと謎のように思われるのだ。楫取素彦がそれ以外の理由でそこに碑を建てる理由があったのか。御蔭松こそ松陰のシンボルに見えるのだ。現在では、高山彦九郎、吉田松陰、楫取素彦も、既に過去の人物になってしまい、ほとんど脚光を浴びていない。

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楫取素彦の名がある石碑(DSC=2012/3/6)

上毛新聞ニュースは、「;url=http://www.raijin.com/news/a/2012/01/22/news02.htm(更新日時: 2012年1月22日(日) AM 07:11)」というタイトルで、「本県近代化の礎を築きながら、県民にあまり知られていない初代群馬県令、楫取素彦(かとり・もとひこ、1829~1912年)。今年が没後100年となるのを記念して功績を再評価し、顕彰する動きが活発化している。県民有志が近く「楫取素彦顕彰会」を立ち上げ、胸像や足跡を記した顕彰板設置に向けて活動開始。出身地の山口県萩市と友好都市提携している前橋市は、市制施行120周年の一環としてパネル展を計画している。
 楫取は1876(明治9)年に成立した第2次群馬県の初代県令。養蚕・製糸業振興に尽力し、小学校就学率を向上させるなどで本県を全国有数の教育県に押し上げた。廃娼(はいしょう)運動に力を入れたことでも知られている。 こうした功績をより多くの県民に知ってもらおうと有志が顕彰会を発足し、県庁北西の高浜公園に新年度、功績を紹介する顕彰板を建てるほか、胸像を造る募金活動を始める。将来は県庁前や臨江閣など目立つ場所に碑を移設することも検討する。 前橋市は萩市と2002年に友好都市となり、今年で10周年。萩市が9~10月にパネル展を開いた後、前橋市も11月に資料展示を予定している。 前橋市は楫取について「前橋への県庁移転を決定付け、その後の市の発展に大きな影響を与えた。市民にもっと知ってほしい」と期待。萩市は「吉田松陰、高杉晋作に比べると楫取の知名度は低い。前橋市とともに再評価する機運を盛り上げたい」としている。 県議会は新年度、議会棟展示ホールを移設するのに伴い、廃娼運動を推し進めた2代目議長、湯浅治郎とともに楫取の資料も展示する方向で調整している。 楫取に詳しい中村紀雄県議は、楫取の妻の寿(ひさ)と、寿の死後に妻となった美和子がともに楫取と親交が深かった吉田松陰の妹だったことに着目。「松陰と楫取の2人にスポットを当てる企画展などを開けば、観光や地域振興につながるのではないか」と期待する。 県立歴史博物館の学芸員、手島仁さんは「楫取は生涯の中で県令時代が最も輝いていた。功績は語り継がれるべき」と話している。」と報じた。

楫取素彦とゆかりの深い山口県では、昨年の百回忌を迎えて顕彰の動きがあったようだが、群馬県では、最近ようやく、その動きが出てきた段階のようだ。

「幕末掃苔屋」サイトで、加藤健太郎氏は、「楫取素彦夫妻の墓―山口県防府市桑山大楽寺墓地―http://kawachisoutai.chu.jp/tanboko2.html」というタイトルで、以下のように書いている。楫取素彦夫妻や関係者の墓参拝を通して、貴重な見解を述べている。掃苔という活動は、墓の持つ歴史性・人物性・メッセージ性を除去しては成立しないだろうと感じた。以前、歴史人物に興味を持つ人の後について、墓巡りした経験があるが、それに傾倒しなければ長続きはしないと思った。

以下上記よりの引用
*********************************************
「楫取は確かに歴史上の人物ではあるが、我々と歴史の仲介役であると思う。なぜなら、生前の吉田松陰と親密な交流があったことはもとより、松陰の文章が他人の良き教訓となるからと、松陰が生きているうちから世に紹介しようとしたことによる。松陰没後もその遺墨が翻刻されるや序文や解説文を送り、顕彰に余念がなかった。松陰の実兄杉民治と提携して、群馬県令という職務の合間にそのような活動を積極的に行ったのである。これが実に松陰と我々を繋ぐ梯子役になっているという意味で、筆者は楫取を歴史の仲介役と称しているのである。  楫取は激動の幕末にあって、元号が慶応ともなると、松陰のみならず、義弟である久坂玄瑞、実兄松島剛蔵や従兄弟の玉木彦助が戦争や内乱などで相次いで亡くなることに、何処か置き去りにされた観があった。それは次の詩によって心情が読み取れる。

うとまれて物のかずにもあらぬ身を
            うとまぬ人は君ならで誰ぞ

これは「物のかず」の部分が南北朝時代南朝方の楠木正行の詩に

  かへらじとかねて思へば梓弓
            なき数に入る名をぞとどむる

とあるのによく似ている。幕末に相当もてはやされた楠木正成の影響を楫取も例外でなく受けていたように筆者には思われる。  長州藩の尊王攘夷派として決して派手ではないが、楫取も自宅に幽閉される憂き目に遭った。その時、禍を畏れて親類縁者も見舞いをはばかる中にあって、楫取の心が折れなかったのは、妻ヒサの母、即ち松陰の母による「うとまぬ」励ましのおかげであった。そしてその傍らには松陰の講義を親身に聞いていた妹の妻としての支えがあったのである。妻ヒサは、残念ながら明治一四年(1881)一月一三日、帰らぬ人となった。彼女の生涯は、楫取自身が青山霊園の墓碑に「君」として事績を刻んでいる。その後、楫取は松陰の三妹で久坂玄瑞未亡人の文(美和子と改名)を後妻に迎えたことは、松陰一家と楫取の一体感をよく示している。
  楫取は、群馬県令を十数年の長きにわたり勤め、教育や生糸を中心とした産業振興に尽くし、同県の発展の基礎を築いた。その後元老院議官、貴族院議員、宮中顧問官などを歴任し、大正元年(1912)八月一四日、八四歳の天寿を全うしたのである。ちなみに生年は文政一二年三月一五日(1829・4・18)である。」
*********************************************以上引用終わり

上記の加藤健太郎氏の記事を読むと渋川市の御蔭松とそこにある楫取素彦の石碑の謎が少し解けてくるように感じる。同氏は「楫取は確かに歴史上の人物ではあるが、我々と歴史の仲介役であると思う。」と述べている。また、「松陰の実兄杉民治と提携して、群馬県令という職務の合間にそのような活動を積極的に行ったのである。これが実に松陰と我々を繋ぐ梯子役になっているという意味で、筆者は楫取を歴史の仲介役と称しているのである。」とも述べている。渋川市の「御蔭松」と「御蔭松の碑」は、吉田松陰の蔭(かげ:影響、関わり等の総称として)を背負って、日本の近代化に身を投じてきた楫取素彦が、吉田松陰の志を顕彰しようとしているのではないかと感じる。楫取素彦が群馬県で活躍したのが50歳前後で、時代の舵取り役として、最も充実した仕事ができた年齢であったように思われる。そういう意味で、渋川市の「御蔭松」と「御蔭松の碑」は、吉田松陰と強く・太い絆で結ばれ、吉田松陰の志を密かに背負って、日本の近代化に邁進した楫取素彦自身が直接関与して、吉田松陰を顕彰した貴重な歴史資産ではなかと思われる。碑文の全文が読めないのが残念だ。

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追記(2014/2/16): 記事=「心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(5)」が当ブログのランキングに入ったので関連記事を追記しておく。

「0017_「楫取素彦」関係記事(目次)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/0017_KATORI_MOTOHIKO_KIJI_MOKUJI.html)。」 関連記事へのリンク。

サイト内でキーワード「高山彦九郎OR吉田松陰OR楫取素彦」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B9%9D%E9%83%8EOR%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0OR%E6%A5%AB%E5%8F%96%E7%B4%A0%E5%BD%A6+site%3Ahttp%3A%2F%2Faf06.kazelog.jp%2Fitoshikimono%2F)。

追記2(2014/3/17):
現在ランキング:上位8位。
関連記事(御蔭松とその碑の画像は)は下記に掲載。
「半端道楽:写真で俳句る:渋川の御蔭松には深い謎が?(畏くも 松陰語る 御蔭松。)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2014/03/post-ed95.html)。(2014年3月16日(日))」

追記3(2014/3/18):
現在ランキング:上位6位。
関連記事(御蔭松とその碑、書き出した碑文は)は下記に掲載。
「心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(7)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2014/03/post-9850.html)。(2014年3月18日(火) )」

追記(2014/10/2):本記事がランキング10位に入った。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」効果なのか。前人気も上昇中のようだ。しかし、よく考えると、受信料を取って公共の電波を使って、大金をかけた娯楽番組を流すのも、勿体ないように感じる。ともかく、一時のフィーバーで歴史が洗い流されるような事態にならないよう願うばかりだ。

WIKIPEDIA「花燃ゆ。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E7%87%83%E3%82%86)」。

自分が、「高山彦九郎」を知ったのは、偶然に高山彦九郎記念館を訪問した事による。ここで、「高山彦九郎の実像 維新を呼んだ 旅の思想家」という冊子を購入した。没後200年を記念して編集されたようだ。

太田市立 高山彦九郎記念館のホームページ:http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/

その中に、「(高山)彦九郎 歌と生涯」須永 義夫(歌人)という記事を見付けた。須永義夫氏が主催していた短歌会に母が通っていたので、同氏の歌集が数冊あった。そこで、高山彦九郎の歌を鑑賞してみようという気持ちになった。

サイト内でキーワード「高山彦九郎 歌と生涯」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B9%9D%E9%83%8E%E3%80%80%E6%AD%8C%E3%81%A8%E7%94%9F%E6%B6%AF%E3%80%80site:http:%2F%2Faf06.kazelog.jp%2Fitoshikimono%2F)。

サイト内でキーワード「高山彦九郎 AND 吉田松陰 AND 楫取素彦」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B9%9D%E9%83%8E%E3%80%80AND%E3%80%80%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0%E3%80%80AND%E3%80%80%E6%A5%AB%E5%8F%96%E7%B4%A0%E5%BD%A6%E3%80%80+site%3Ahttp%3A%2F%2Faf06.kazelog.jp%2Fitoshikimono%2F)。

これも、偶然だが、楫取素彦の名前が刻まれた記念碑に遭遇した。殖蓮史談会の会長は、高山彦九郎の通った道を探索した事があったそうだ。戦前は、高山彦九郎は地域の偉人として顕彰されたが、戦後は一転して、疎んじられているようだ。

色々な縁で、高山彦九郎、吉田松陰、楫取素彦の関係を調べているが、そこで遭遇した謎が、「御蔭松の碑」ではあった。最近、「楫取素彦伝 -耕堂楫取素彦男爵伝記-」が発行された。この中に、「御蔭松の碑」の碑文も掲載されている。煥乎堂で購入したがまだツンドク状態である。

以下に「御蔭松の碑」の表面に書かれた和歌を上記伝記より以下に引用しておく。崩し文字なので全く読めなかった歌だ。

「芝中ノ松ノヤドリニ千代カケテ残ルハ君ガ御蔭ナリケリ」。

追記(2014/10/3):「御蔭松の碑」周辺MAPを追加。

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2012年3月21日 (水)

心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(4)。20120321。

 2012/3/21(水)
昨日は晴れ。最高気温(℃) = 14.2  14:24となり、穏やかで暖かい日であった。墓参。花は周辺に咲いている水仙、菜の花、ハナダイコンを摘んで供えた。今年の寒波で枯れた蜜柑樹の手入れをした。枯葉や枯れ枝を除去。新しい目を出して復活して欲しいところだ。丸ごと枯れた蜜柑樹も多い。枯れ方のひどい蜜柑樹はやはり、寒風を受けたり、実を付けたまま放置した株が多い。植物も外部からのストレスと内部からのストレスが生死に関係するようだ。今年は特記すべき寒さのようだ。梅園の観光客にも影響が多いらしい。

2012/3/20(火)の天気

TAVE= 6.7  
TMAX= 13 最高気温(℃)  14.2  14:24
TMIN= 0.3 最低気温(℃)   -0.2  06:15
DIFF= 12.7  
WMAX= 6.7 最大瞬間風速(m/s)  12.9(西北西)  22:25
SUNS= 11  
RAIN= 0  

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心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(4)

高山彦九郎の戒名の解釈で、前回『高山彦九郎の心の叫び「~以て、自分は潔白であると申す」という意味にとれるのではないか。謎は、「~以て」の部分だろう。』と書いた。戒名「以白」には謎が多い。しかし、「以白」の部分が別の名前であった場合、吉田寅次郎がどれほど、「松陰」という名前に共鳴したか分からない。この部分に、吉田寅次郎が自分の運命を重ねる事ができたから、高山彦九郎への共感が高まったのではないか。以上は「以」の扱いが中途半端かもしれない。「松陰」と「以白」を別々に解釈する事も可能だろうし、「松陰」と「以白」を関連づけて「松陰を以て自ら潔白を申す」ともとれるし、「以」を「~して、~にして」と接続詞のようにもとれそうだ。その場合「松陰にして、あきらか」というような常識的な解釈も可能だろう。通称吉田寅次郎が吉田松陰を名乗る事になった真の理由は、今となっては知る由もないのかもしれない。

広辞苑によると「御蔭」には、「太陽を避けて、蔭となる所、殿舎の意味と恩恵の尊敬語という意味がある。「御蔭松」とは、「太陽を避けて、蔭となる松の木で、殿舎の代用」という意味になるだろう。渋川市の「御蔭松の碑」は皇太后が伊香保に向かう途中休憩された松とその事跡記念するために建立されたものと思われる。楫取素彦が作成した碑文の解明が待たれる。
Mikage_matu
渋川市の御蔭松(DSC=2012/3/6)

伊香保凌雲閣 ホームページには、「凌雲閣 当館の由来;url=http://www.ikaho-ryounkaku.com/onsen.stm」というタイトルで、「この伊香保の地に、明治12年7月、明治天皇の御母君にあせられる英照皇太后陛下(考明天皇の皇后)が親しく行啓せられました。この行啓は、伊香保が保養地として全国から注目されるようになり、皇族として最初のことであり歴史的な出来事でありました。当時を物語る記録では、行啓は、大夫・書記官・侍医等150名からなる従官を伴って御馬車に乗り、途中大宮・熊谷・高崎に泊まり、山道に入ってからは御興しに乗り換えこの地に辿り着いたと言われ、陛下の御座所にこの「楽山館」を当て、他は隣接6件の館を当て、7月17日から8月2日まで滞在したとのことであります。 こうしたことから現凌雲閣の位置は、歴史に残る由緒ある場所であります。」とう記事がある。この記事の内容は、「御蔭松の碑」と対応するようだ。皇太后の行啓が7月とすれば、その暑さは推測ができる。途中の休憩に松陰が使われてたという事は、行程に人家もなく、当時の旅の事情が推察される。

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追記(2014/3/27): 現在ランキング10位に、「心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(4)(2012/3/21(水))」の記事が入った。一応、その事実だけでも記録に残して起きたい。実は、この「松陰」というキーワードを通して、高山彦九郎、吉田松陰、楫取素彦、さらには地元の先覚者川端宇兵衛をつなぐ何かを探っているのだが、自分が自由にイメージを膨らませるだけの自由度があるのだろう。最近、「心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(7)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2014/03/post-9850.html)。(2014年3月18日(火) )」を書いたが、謎はまだ謎のままだ。

昔の人名に関しては、出世魚の鰤のように、いくつもの名前を持つ人物が多かった。こういう複数の自称を許す社会だから、いろいろな人物が生まれたのかもしれない。人は自分を名乗る事によって生まれ変わるのではないか。現代では、人名は完全に個人特定ツールに成り下がって、国家に従属している。傑作な人物が出ない理由かもしれない。

高山彦九郎は自分から、院号を「松陰以白居士」と名乗った訳ではなさそうだが、高山彦九郎の自刃を受けて、この院号を高山彦九郎に授けた僧(誰かは知らないが)もまた、歴史を見抜いていた人物だったように感じる。「松」は文法的には名詞だが、その植物の性質からいろいろな象徴的な意味を持つ。「陰」は光とそれを遮る障害物があって初めて現れる現象で、もの自体ではない。象徴性は松以上に広く深い。そのような二つの漢字を合体させて、「松陰」を「以て、白す」と高山彦九郎の生涯と事績を見事一つの戒名にまとめた。

吉田寅次郎は、「松陰以白居士」という戒名から、100万ボルト以上の衝撃を受けたのではないか。吉田寅次郎が吉田松陰を名乗る事により、どれほどの変化が起きたのか。それは歴史が語るだけだろう。これは、車寅次郎では起こりえなかった事かもしれない。

自分の人生で、楫取素彦という人名を知ったのはつい数年前だった。調べてみると、本ブログで楫取素彦が最初に出てくるのが「読みかじりの記:帝王学 「貞観政要」の読み方 山本七平 著 (1983年 日本経済新聞社)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2011/07/1983-5736.html)。(2011/7/21)」であった。その翌年3月に何かの縁で、渋川市の御蔭松に遭遇する。そこに立っている、御蔭松の碑の撰文と書を楫取素彦がしているので、御蔭松は、その裏に松陰が潜んでいるのではないかと妄想するようになった。この「草冠のある陰」もまた象徴性が強い。この妄想の効果を、最高に享受するには、「松陰以白」というキーワードだと思うが、今ひとつ切り札不足だ。「白」は動詞にとる。電子辞書の漢字源によれば、「申す」に通じる。Google翻訳で「以」は英語で「With」になった。「白」は英語で「White」になったがまだ不十分。「字源」によれば「申す」で建白、敬白の例がある。

高山彦九郎が何故自刃したかを語るような院号にしたら、自刃に追い込まれる人物が続々出るのではないかという、配慮もこの院号には込められているのではないか。それを読んで理解できる人が理解した通りに受け取れば良い。吉田寅次郎は「松陰以白」という暗号めいた院号から一瞬にしてその意味を悟った。楫取素彦は当然、義兄吉田松陰の名前が、高山彦九郎の「松陰以白」から出ていることを知っているだろう。それでは、楫取素彦は「御蔭松」という暗号をどのように解いたか。この愚問にも正解はないかも知れない。

御蔭松の碑の表は「御蔭松」という碑題が書かれている。その碑の裏側(碑陰)にこそ楫取素彦が撰んだ碑文がある。多分、義兄吉田松陰の御蔭で、現在があるのだという雰囲気を感じるのが、現在では精一杯なのだが。

WIKIPEDIA「吉田松陰(生涯)。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0#.E7.94.9F.E6.B6.AF)」

そういえば、高山彦九郎も吉田松陰も、その志を遂げずに無残に果てたが、その志が順次志士達に引き継がれて、理想が実現されて行く。このような歴日本の中に、「松陰以白」という一つの旋律が流れているようにも感じる。「松」とは歴史の主体であり、「陰」とは歴史の主体が作る影即ち歴史状況そのもの。楫取素彦は御蔭松を松陰の如く見ていたのかもしれない。その歴史ドラマと共に。

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追記1(2015/1/13):「心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(4)」の記事がランキング3位に入った。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」効果かも知れない。歴代大河ドラマの視聴率調査を比較すると低調な出だしのようだ。NHKは当然、制作企画を立てて放映していると思うが、全然別の見方もできるのかも知れない。かみさんに気兼ねして濡れ落ち葉的付き合いで見ているが、どうも味付けが甘すぎるように感じる。今は故人となった歴史愛好家が、俺は家族をほっぽり出して諸国を歩いた高山彦九郎は嫌いだと言った事を今も覚えている。高山彦九郎と吉田松陰の行動パターンにどこか似た所があるように感じている。

「身辺雑記・田舎老人徒然草:太田の高山神社と高山彦九郎遺髪塚で出会った紋章は?;嘘始め 元旦と書く 年賀状。 (http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2015/01/post-0e28.html)。(2015年1月 4日 (日))」

「09D1_群馬県令楫取素彦がつなぐ吉田松陰と高山彦九郎(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/09D1_KATORI_MOTOHIKO_CTNG_SYOIN_AND_HIKOKUROU.html)。」

「09D2 初代群馬県令 楫取素彦 没後100年記念(2012年)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/09d2_KATORI_MOTOHIKO_MEMORIAL.html)。」

県庁近くの公園にあった、楫取素彦の記念碑が最近移設されたようだ(http://www.oknst.jp/2014/11/17/%EF%BD%8E%EF%BD%88%EF%BD%8B%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E-%E8%8A%B1%E7%87%83%E3%82%86-%E6%A5%AB%E5%8F%96%E7%B4%A0%E5%BD%A6%E7%A7%98%E8%B7%A1%E7%A7%BB%E8%A8%AD%E5%B7%A5%E4%BA%8B/)。

萩市から贈られた、ナツミカンの木も移植されたようだ。参考に高浜公園に植えられていた時の画像を掲載しておく。

Iob_natumikantakahamap 

追記2(2015/2/22):「心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(4)」の記事がランキング10位に入った。当BLOGで楫取素彦を取り上げているのは「花燃ゆ」以外の関心がある事による。そこに登場するのが、高山彦九郎だ。

キーワード「高山彦九郎」でGoogleサイト内検索(https://www.google.co.jp/webhp?tab=ww#q=%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B9%9D%E9%83%8E%E3%80%80site:http:%2F%2Faf06.kazelog.jp%2F)。

高山彦九郎は戦前には、持て囃されたようだ。戦後は、その反動なのか無視されているようにも感じる。吉田松陰が高山彦九郎からどのような影響を受けたのか、歴史家も余り関心を示していないようだ。関心があっても、つきつめると何かを感じてしまうのか。

吉田松陰と二宮尊徳に関して、教科書的には二宮尊徳が無難なようだ。今後、国定道徳教科書で、吉田松陰を教えるようになるのだろうか。

「読みかじりの記:二宮尊徳の仕法と仕分(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2010/11/post-37c9.html)。(2010年11月 5日 (金))」

追記3(2015/5/28):

Iob_natumikanmaebaship 萩市から贈られたナツミカンの株。かなり幹も太ってきたようだ。2013年の画像でも結実しているので、こちらの方が陽当たりも良いので、今後も実が楽しめそうだ。

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追記(2023/09/15):タイトルの後に投稿期日を追加。本日のランキングは5位。楫取素彦に関して渋川市の御蔭松は素晴らしい素材だと感じて色々な記事を書いたのを思い出す。明治維新とは、吉田松陰とはと色々考えたが、未だ十分咀嚼出来ていない。自分が開いた記事でもランキングが変動するが、読者がいてランキングに入ったのは確かなようだ。少ないながら読者はいるようだ。読者に感謝。

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2012年3月20日 (火)

心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(3)

2012/3/20(火)
昨日は晴れ。早朝大風:最大瞬間風速(m/s)  17.2(北西)  04:20。まだ寒い。ポット苗の除草と灌水。知人がまた、件のノートパソコンを持ってきた。DOSの一太郎が立ち上がってうれしいらしい。次は富士通のワープロファイルをテキストファイルに変換したいらしい。「どすこい」というソフトを持ってきたがDUAL FLOPPY対応らしくお手上げ。ファイル操作もファイルの場所も分からないらしいので付き合いきれない。昔、懐かしいFDというファイルマネジャーがインストールしてあったので、それを起動する、たった2行のバッチファイルを作って渡した。これだけでも頭がくらくら。キー配列が違い、リセットの方法が分からないのでイライラ。携帯のマイクロSDカードからDSCデータを取り出した。ついでに、青空文庫の銀河鉄道の夜100K程度のファイルを11分割して入れた。ファイルが大きいと重すぎて動きが鈍い。暇つぶしの時間に読むため。スマホならラクチンかも。

2012/3/19(月)の天気

TAVE= 6.2
TMAX= 8.8 最高気温(℃)   10.1  00:13
TMIN= 2.6 最低気温(℃)   2.6  24:00
DIFF= 6.2
WMAX= 11 最大瞬間風速(m/s)  17.2(北西)  04:20
SUNS= 10.2
RAIN= 0

Q
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心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(3)

もう一度、戒名の構成に立ち返ると、広義の戒名は、「院号」+「道号」+「戒名」+「位号」という僅かな文字数でその人物が生まれて死ぬまでのドラマを語っているように思われる。「白」は白黒という色。黒は光を吸収するが、白は光を反射する。これから、「しらむ」、「しろくなる」、「夜が明ける」の意味になり、更に「いさぎよい(潔白)」、「あきらか(明白)」と自然現象から人事現象に意味を広げている。それが更に意味を転じて、「もうす(敬白、建白)」につながる。従って、「以白」の「白」も多義的であり、高山彦九郎の心の叫び「~以て、自分は潔白であると申す」という意味にとれるのではないか。謎は、「~以て」の部分だろう。高山彦九郎の自刃から戒名の授かるまでの流れから「~」は自刃ともとれる。狭義の戒名「以白」は正に、高山彦九郎の人生の総仕上げのドラマを漢字二語に集約しているようだ。道号の「松陰」は正に、高山彦九郎が生前辿ってきた数々のドラマを漢字二語に集約しているようだ。

自分が高山彦九郎に興味を持つのは、その時代の閉塞感を感じ取り、それをあるべき方向に正そうとして、旅を続け、人と知識のネットワークを広げた先覚者の姿をそこに見るからだ。このような、行動のパターンは郷土の指導者川端宇兵衛にも共通に見られるのだ。高山彦九郎が東北の旅で何を見たか、歌人須永義夫は「高山彦九郎 歌と生涯」でそれを解説している。幕藩体制が弱体化して、地方が疲弊し、困民救済という重い課題に気付き、その旅で新しい時代の実現を胸に刻んだのではないか。奇しくも、吉田寅次郎も嘉永4(1851、松陰21歳)年、東北の旅に出て、水戸の会沢正志斎を訪問して、彦九郎の存在知ったとされる。この時、またはその前後に高山彦九郎の戒名「松陰以白居士」を知り、その意味を一瞬に覚ったのではないか。吉田松陰が刑死したのが安政6(1859)年、享年29歳。高山彦九郎が「松陰以白居士」として発信していたメッセージを正確に受け止め、それを骨肉としたのが吉田松陰ではなかった。それにしても、吉田松陰が吉田松陰という名前で活躍した期間は10年足らずのようで、改めて激動の時代を生きていた姿を見る思いがする。

2012年3月19日 (月)

心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(2)

2012/3/19(月)
昨日は曇り一時雨。平均温度は高くなっているが体感的には寒い日だった。町内行事。夜、知人が98ノートを持って遊びに来た。カラーノートパソコンの初期の製品らしくHDDは100M以下でOSはDOS。CPUはインテルの486クラスのようだ。一太郎V6程度が起動して感激していた。当時は自動車一台分位高価だったとか。自分はデスクトップはエプソンの98互換機を使っていた。自宅で仕事をするためNECのモノクロPC98ノートに外付けHDDをつないで使った。主に使ったソフトはマイクロソフトのワークスだった。その後はDOS/Vの自作機を主に使った。CPUは安価なインテル互換のサイリックス製を使った。古いパソコンを引っぱり出して使ってみるのも遊びとしては面白そうだ。

2012/3/18(日)の天気

TAVE= 8.3
TMAX= 10.3 最高気温(℃)   10.5  13:15
TMIN= 3.8 最低気温(℃)   3.6  05:07
DIFF= 6.5
WMAX= 4 最大瞬間風速(m/s)  7.9(西北西)  23:58
SUNS= 0
RAIN= 1

Q
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心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(2)

高山彦九郎については、伊勢崎の歌人須永義夫の「高山彦九郎 歌と生涯」という著作を読んでそれを記事にした事がある。その最終回が、「読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(14)http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2010/12/post-64fd.html」である。高山彦九郎の辞世の歌は、

■枯れ果てて身は土となり墓なくも 心は国を守らむものを
■松崎の駅(うまや)の長に問ひて知れ 心づくしの旅のあらまし

須永義夫は、「二首目は前年五月に『酌みかはす今日の別れの盃のめぐるがごとにまたも相見む』と歌って別れた碩学の友、赤崎貞幹と再び会い、そして最後の別れとなった歌である。」とその背景を解説している、調べてみると松崎の駅(うまや)とは、筑後松崎宿の事のようだ。筑後松崎のホームページに筑後松崎宿への歴史上の来訪人物が紹介されているhttp://matuzaki.orz.ne.jp/yado.files/06main.htm。。高山彦九郎は「寛政5年(1793)6月13日、死の2週間前に松崎宿の旅籠柳川屋に来ている。http://matuzaki.orz.ne.jp/turu_siryo/matu_isin.html」との事だ。改めて、辞世の第二首目を読んでみると、旅に生きた思想家高山彦九郎は、その最後の旅の目的を、あえて残さないと述べているかのような印象を受ける。自刃の意味も語られていない。見方によれば、それは高山彦九郎の自刃の影響力を最大かつ最長に保つ唯一残された方法であったようにも思われる。高山彦九郎の自刃の衝撃は、高山彦九郎の周辺から、徐々に広く深く伝わったのではないだろうか。

吉田松陰に関しては、キーワードの「松」のイメージが強い。「松下村塾 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%9D%91%E5%A1%BE」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。(最終更新 2012年2月13日 (月) 07:54 )(http://ja.wikipedia.org/)の一部引用=「松下村塾(しょうかそんじゅく)は、江戸時代末期(幕末)に長州藩士の吉田松陰が講義した私塾である。長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に、松陰の叔父である玉木文之進が1842年(天保13年)に設立し、松陰も学んでいる。」。「松下村塾」の「松下」も、「松本村」の「松本」も意味としては極めて近いと感じる。吉田松陰の名前は、幼名:虎之助→吉田家に養子入り後:大次郎→通称:寅次郎と変わっている。名前を変える毎に、自己のアイデンティティも形成されてきたのではないか。一方、「字源(大正12年初版)」によれば、「松:まつの木の長寿にして歳寒にも色を変えへざるより、節操・長寿などの譬に用いふ。」とある。松竹梅も冬の寒さに耐える姿から目出度い意味を持つようになっている。松竹梅=「松竹梅:【意味】 松竹梅とは、松と竹と梅。めでたいものとして祝い事の景物などに使われる。品物などを三階級に分けた際の等級の呼称。一般的には松が一番で竹、梅の順となる。url=http://gogen-allguide.com/si/syouchikubai.html」。

吉田松陰は「松陰」という号を、高山彦九郎の戒名「松陰以白居士」よりとっているという説がある(太田市立 高山彦九郎記念館 http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/8sho-tenmatu.htm)。そこには、『嘉永4年(1851)江戸遊学中の長州藩吉田松陰は水戸の会沢常蔵(正志斎)が著した「高山彦九郎伝」で彦九郎の存在を知り、「武士たるものの亀鑑このことと存じ奉り候」と兄に書き送っています。松陰はその後も彦九郎への思索を深めていきます。松陰の辞世「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置きまし大和魂」と、彦九郎の辞世「朽ち果てて身は土となり墓なくも心は国を守らんものを」との呼応は彦九郎の影響が大きかったことを物語っています。また、吉田松陰の号の由来はこれまで「出典不明」とされ、松陰の出生地松本村にちなんでいるとの説が示されてきましたが、彦九郎の諡(おくりな)の「松陰以白居士」との関連が指摘できます。』と記されている。同サイトには、「幕末の志士に高山彦九郎が与えた影響http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/ataetaeikyou.htm」」の中に、高山彦九郎自刃後の様子は、『寛政5年、1793年:6月27日、高山彦九郎は筑後国久留米城下、森嘉膳宅で謎の自刃、28日朝8時過ぎ没する。6月29日、高山彦九郎の遺骸を森嘉膳の宅庭に仮埋葬する。8月29日、自刃した家の主人森嘉膳から唐崎士愛宛ての返事の手紙に高山彦九郎の戒名について回答している。11月11日、彦九郎の遺骸を高山家と同宗旨の真言宗寺院、寺町の遍照院内に改葬する。戒名は「松陰以白居士」』と記されている。

調べると、真言宗の戒名は戒名(広義)=道号2字+戒名2字(狭義)+位号2字との事。高山彦九郎の場合、位号の「居士」は、広辞苑の「学徳が高くて仕官しない人。」という、原義がぴったりあてはまるように感じる。それでは、「松陰以白」が伝えようとしているメッセージは何か。これは、道号=松陰と戒名=以白に分解されるだろう。「字源」には、「松影=ショウエイ(まつのかげ)」、「松下=ショウカ(松の木のした)」という類語がある。従って、「松陰=ショウイン(松の木の木陰)」と解釈できる。更に詳しくは、松の木が投影された形のある影ではなく、松の木に覆われた形のない日陰が「松陰」の意味だろう。和英・英和辞典で調べると「陰=shade」、「影=light 、reflection」で、「陰」には光の量は少なく色も形も定かでないが、「影」には光の量は多く、色も形もあるとみなせる。ところで、道号は仏道に入った後の号との事だ。戒名は、本来は受戒の際に与えられる名前だが、後に死者に与えられるようになった。高山彦九郎の場合の戒名「松陰以白」、まさに、辞世の歌「松崎の駅(うまや)の長に問ひて知れ 心づくしの旅のあらまし」を受けて与えられたように感じられる。

WEB上で遍照院のイメージを検索すると、その庭園や境内には松の木らしい木が見える。高山彦九郎記念館サイトの記事から、高山彦九郎関係者で、戒名の相談や確認があった事が想像される。寛政5(1793)年、高山彦九郎自刃享年47歳。高山彦九郎の志操の高さを松の古木に喩えたのではないか。広辞苑によると、「陰」には、「物の後の、暗いまたは隠れた所、それから転じて、『他の者をおおうように及ぶ、その恩恵・庇護』」という意味があり、その時は「陰」「蔭」を使うとある。高山彦九郎が自刃で、後世に伝えようとしたメッセージがこの「松陰」という戒名に込められているように感じる。それでは「以白」の意味は?ここで、また思考が止まった。

2012年3月18日 (日)

心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(1)

2012/3/18(日)
昨日は曇り一時雨。用事外出。ミニスイセン、ヒヤシンス、小梅、紅梅が一斉に咲き出していた。自分の花暦には、梅の花:2月11~15日とあった。ミニスイセンは3月6~10日であった。早咲きの梅の開花はかなり遅く、ミニスイセンも一週間以上遅れているようだ。以前一人で県道33号線を下った時、色々な歴史的な遺産にであった。そのなかで、渋川市の御蔭松は印象に残っているが、まだその謎が解けない。いつの間にか忘れてしまいそうだ。ともかく、自分の想像としてメモにしてみた。

2012/3/17(土)の天気

TAVE= 6.7
TMAX= 10.2 最高気温(℃)   10.8  15:39
TMIN= 3.6 最低気温(℃)  3.4  01:25
DIFF= 6.6
WMAX= 3.2 最大瞬間風速(m/s)   6.4(西北西)  11:45
SUNS= 0.2
RAIN= 0.5

Q
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心象の足跡:吉田松陰を彷彿とさせる渋川市の御蔭松と楫取素彦(1)

歴史上の人物は何か見えない線で結ばれているのではないかと感じる事がある。それも、確実性より予感、希望にすぎない場合もあるだろう。人間の思考や行動も、ある人物からある人物に伝えられる何物かが影響しているのではないか。すでに過去となってしまった歴史的な事実に関して、その真偽を証明する事は非常に難しいだろう。歴史の楽しさは真偽とは別に空想や思い込みにもあるのではないか。それは一つの仮説といってよいのかも知れない。吉田松陰と高山彦九郎も深い関係がある。当地の八幡沼開鑿の指導者川端宇兵衛も、新井雀里等を介して高山彦九郎に繋がる線があるように感じている。

先日、伊香保から渋川に向かって県道33号線を下った。伊香保町から旧渋川市に入った頃か、県道南側に小さな公園があった。ゴミ出し場所のような看板とトイレらしい家屋があって、何となく通り過ぎようとしていたが、碑のような物が目に入ったのでふらりと中に入った。碑は2~3基あって、どうも「御蔭松」に関するものらしかった。よく見ると、松の大木の幹の下方だろうか、屋根のある建物の中に保存されていた。やや丸みをおびた碑の後面を見ると、何と「明治十二年 九月 群馬縣令 楫取素彦 撰並書」と刻まれていた。残念ながら、碑文の内容はよく分からない。どうも、皇太后が伊香保に向かう途中、この松の木の下で休憩をとられたことを記念している碑のようだ。WEB情報では楫取素彦を顕彰した碑は存在するようだが、楫取素彦が直接関与した碑の存在は未だ見ていない。楫取素彦はこの碑で、何を後世に残そうとしたのか。それが、謎のように頭の隅にあった。

吉田松陰と楫取素彦の関係も並々ならぬものがある。WEB情報では、楫取素彦は吉田松陰の妹を妻に迎え、義弟と述べられているが、年齢を調べてみると、楫取素彦は吉田松陰より一年長じている。昔のこと、長幼の序は、今より人間関係に重くのしかかっていたのではないか。それなのに、楫取素彦は吉田松陰に兄事しているように感じる。楫取素彦は、明治9年(1876年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県令となり群馬県と関係が生まれた。「御蔭松」の碑は明治12年。吉田松陰没後20年の時だ。この時、楫取素彦は50歳。吉田松陰が29歳で斬刑に処されなければ、49歳の吉田松陰が生きていたはずだ。楫取素彦は生涯、吉田松陰と心の中で深く・強く結ばれていたのではないかと思う。そうであれば、吉田松陰が私淑した高山彦九郎の戒名を引き継ぎ、自ら自分の号として「松陰」を名乗った事も、楫取素彦が高山彦九郎生誕地である群馬県の初代県令として赴任してきた事も因縁浅からぬものがあるように感じるのである。

それでは、楫取素彦と「御蔭松」の関係は? 直感的だが、「蔭松」と「松蔭」と「松陰」はその意味において、全く同じだと感じた。この碑には、楫取素彦の吉田松陰に対する思いがこめられているのではないかと思った。なぜ、「御蔭」という場所に、楫取素彦撰並書の「御蔭松」の碑があるのか。大きな謎に突き当たった。

更に、県道を下ると、庭掃きしている年輩の男性がいたので、「御蔭」という地名には何かいわれがあるのですかと尋ねた。実は、自分は何十年かここで暮らしているが、この地の生まれでないので、地元の歴史は詳しくは分からない。長老に聞けば分かるかもしれないという事だった。その男性は、渋川の歴史の本も持っているので、後で調べてみたいとも話した。いつ頃か忘れたが、昔はここから、あそこま辺までの人家の数はたった30戸程度だった話してくれて、郷土史も勉強しているようであった。軽率なことは話したくないという様子も窺えた。携帯のデジカメで碑を写したがそのデータはまだ取り出していない。今年、楫取素彦没後百年になるので、この碑の存在と由来が解明されれば意義深いと思われる。楫取素彦という人物は未だ十分評価されていないようだが、吉田松陰と重ねて見ると興味深い。

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    刃物という視点で多くの事例が取り上げられている。刃のある道具の理解にも役立つ。類書が少なく貴重な一冊。「すべり変形が切断の原理」という考え方で説明している。
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    「ご要望にお応えしてアンコール復刊(1988年岩波新書50年記念復刊) 地球生態系の中で自然を見直す」(腰巻きのフレーズ)。植物の知恵と戦略に人類は勝てるのか。
  • 出町 誠: 14_NHK趣味の園芸:よく分かる栽培12ヶ月  カキ(NHK出版2007年)
    初心者向け柿栽培参考書(新版)。旧版と比較すると楽しい。
  • 中村三夫: 13_NHK趣味の園芸:作業12ヶ月  カキ(NHK出版1996年)
    初心者向け柿栽培参考書(旧版)。新版と比較すると楽しい。
  • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
    細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
  • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
    著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
  • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
    ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
  • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
    やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
  • ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫訳): 08_サイバネティックスはいかにして生まれたか(みすず書房1956)
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MEMO 海外の博物館・美術館

  • https://www.artic.edu/collection?place_ids=Japan&page=6
  • 項目のタイトル2
    POST IT :ブログ画面への張り紙に使える。
  • TYPE LIST事始め
    2010/8/4:MEMO等の表示に使える。 農作業で気になる自戒の言葉 ■畑の石ころはいつまで経ってもても石ころ(早く拾って片づけよという意味か)。 ■同じ石を二度拾うな(やってみると難しい)。 ■手ぶらで歩くな。 ■三つ先のことを読め。 ■適当な観察。 ■空を見よ(気分転換、休憩、天気を読む、腰曲がり防止)