2013年6月29日(土)
昨日は朝雨後晴れ。最高気温(℃) 25.4 16:29。ざっそう句:あの店の 看板いつか 外国語。朝飯前にタマリュウの改植続行。まだ終わらない。朝飯後に定例の仕事。ついでにP区画の除草。背が高くなるヒメジョオン等を抜く。それから用事外出。用事の前後に買い物やタウンウォッチング。昔馴染みの店に入ったらブラジル食品店に衣替えしていた。外国送金を手伝う窓口があった。BANKかと聞いたが言葉が通じない。ブラジルはポルトガル語。ペルーはスペイン語との事。ペルーと言えば日本人の大統領がいたっけと聞くと、フジモリさんネ、病気で刑務所らしいとの事。時代の流れを感じた一時。無料の外国語新聞や雑誌を貰う。おみやげに原産国ブラジルと記された乾パンのような物を買った。ワードが暴走。安定度が良くない。再入力。WZエディターは一度も暴走していない。
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Q:ダミースペース(画像に文字が回り込む)
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Q:ダミースペース(画像に文字が回り込む)
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2013年6月28日の天気(AMEDAS)
TAVE= |
21.7 |
NO DATA |
TMAX= |
25 |
最高気温(℃) 25.4 16:29 |
TMIN= |
18 |
最低気温(℃) 18.0 05:01 |
DIFF= |
7 |
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WMAX= |
2.9 |
最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 6.5(東南東) 00:46 |
SUNS= |
0 |
NO DATA |
RAIN= |
0 |
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ハトよ 鳴いておくれ(愛しき古里):お富士山古墳の石棺を見て広がるイメージ
先日、富士山と美保の松原がユネスコの文化遺産に登録された。富士は日本一の山と親しまれ、昔の銭湯には決まって富士山が描かれていたようだ。まさに、銭湯に入って富士山を眺めいい気分になるのが庶民の楽しみだったのかもしれない。
古墳を見ると、色々なイメージが湧いてくる。WIKIPEDIA「古墳。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%A2%B3)」によれば、「古墳(こふん)とは、一般に日本史上、3世紀後半から7世紀前半に築造された墳丘を持つ古い墓である。古代の東洋では位の高い者や権力者の墓として盛んに築造された。 日本史では、墳丘を持つ墓は墳丘墓と呼んでいるが、この内、3世紀後半から7世紀前半に築造されたものを特に「古墳」と呼んで区別している。」。
古墳が築造された時代が、丁度日本という国が形を持ち始めた時期に重なるため、日本、日本の歴史とも関係して多くの人の関心を集めるのではないかと思う。そういう点で、古墳の見方感じ方は時代と共に変わっているのだろう。
「ざっそう句:古代へのロマン 伊勢崎の古墳群(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2012/02/post-930a.html)。(2012/2/12(日))」
古墳の謎の多くは、それを文字で記録した証拠が無いことによるのだろう。その記録も、色々な人が色々な観点から記録していれば、それだけ記録の精度は向上する。しかし、古墳築造の時代は、まだ漢字も十分普及していなかった時代のようで、古墳を読み解くには古墳に聞く以外に方法が無いのが現実のようだ。
今年の春、殖蓮史談会の史跡巡りで、「埼玉県立さきたま史跡の博物館 (http://www.sakitama-muse.spec.ed.jp/)」を見学した。お目当ては、「埼玉の国宝の1つ「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」」であった。出土した鉄剣から古墳の被葬者が特定された極めて珍しい例がここに展示されている。早速、説明員にその古墳が出来た頃はまだ漢字が伝わっていなかったのではないかと聞くと、その刀剣を作った人の中に漢字が分かる渡来人がいたのだろうという回答をしてくれた。
パソコンに蓄積してあるデジカメ画像も徐々に記憶が薄れてどのような機会に撮影したのかはっきりしなくなる。残っていたお富士山古墳の写真はたった3枚。2009/11/9のタイムスタンプがあった。同じ日付の八坂用水の画像もあるので、八坂用水を見てから、偶然お富士山古墳へ回ったようだ。古墳の周辺は畑や水田であった。いわば低地にぽつんとある古墳である。水田開発は比較的新しく、昔は里山の風景があったのだろうかと想像した。そうすると、お富士山古墳の周辺には小さな古墳があったかもしれないと想像が膨らむ。
伊勢崎市ホームページには、「お富士山古墳。http://www.city.isesaki.lg.jp/www/contents/1355363671957/index.html(2013年1月4日更新))」というタイトルで、「お富士山古墳は全長125メートルの5世紀中頃の前方後円墳である。両毛線により前方部の一部が切断されているが、前方後円墳の形状をよくとどめている。昭和38年(1963年)群馬大学の学術調査で、墳丘は3段築造され、葺石が巡り、大型円筒埴輪の配列が確認された。後円部頂上の富士神社そばに砂岩製で縄掛突起をもつ県指定重要文化財の長持形石棺がある。」と紹介している。
更に同市は、「お富士山古墳所在長持形石棺http://www.city.isesaki.lg.jp/www/contents/1354006355686/index.html(2013年2月5日更新))」というタイトルで、「長持形石棺は古墳の後円部に置かれる。砂岩製で、全長285センチメートル、幅121センチメートル、重さ6.8トン。長持形石棺は5世紀に畿内の大型前方後円墳にみられ、県内ではお富士山古墳と太田市の天神山古墳で確認されているだけである。形態や制作技法が畿内の石棺と共通し、畿内の工人が東国へ派遣されて製作したと考えられている。」と紹介している。
そこで、国土地理院のウォッチズでその周辺の地形を調べた。その一部をお富士山古墳の石棺写真と連結して引用しておく。ウォッチズは表示した画面にリンク情報(http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=139.17184963728&latitude=36.336920281549)が示されるので、そのリンクから閲覧した方が便利だろう。
その地図をみると、オートレース場の北側で広瀬川と神沢川が合流する地点の数百m北東にあるのが分かる。市の説明に「墳丘は3段築造され、葺石が巡り」とあり、広瀬川の川原石を使うのには最適な場所のようだ。地図の等高線からみるとかなりの平坦地である。平坦地に山が一つだけ見えるという構図はまさに富士山が醸し出す風景に重なるのである。説明板によると、お富士山には富士神社があると記されている。
尚、群馬県埋蔵文化財調査事業団ホームページには、「群馬の遺跡・出土品群馬の遺跡案内 中毛地区お富士山古墳。http://www.gunmaibun.org/remain/guide/tyumo/ohujiyama.html())」というタイトルで、「もっと知りたい!の項で、お富士山古墳のある周辺は、本古墳を中心に市内でも有数の古墳群を形成していました。しかし、現在では開墾されてしまい確認できません。 1981年に国立歴史民俗博物館で石棺のレプリカ制作に伴う型取り作業に際して調査を行い、古墳が作られた年代と、石棺の年代がほぼ一致することから、お富士山の石棺である可能性が極めて高いと報告されています。」と紹介している。
文化庁は「「富士山」の世界遺産一覧表への記載決定について(PDF形式(260KB))(http://www.bunka.go.jp/ima/press_release/)(2013年6月22日)」として、報道発表している。ユネスコに評価されたのは「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」という側面もあると思うが、信教の自由という観点か、「信仰の対象」は余り脚光を浴びていないように感じる。
多分、お富士山古墳と日本一の富士山も何かの関係があるのかもしれないと思った。その接点に信仰があったのではないか。古墳自体、仏教という外来思想が広まる前後の日本人の精神世界を現しているのかも知れない。それにしても、石棺に埋葬された被葬者は、自分の墓が暴かれ、遺骸を収容した黄泉の国に通じる頑強な石棺が、展示物件になってされているのを見たらびくり仰天するのではないか。
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IOI=IMAGES ON ITOSHIKIMONO
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