2014年4月5日(土)
昨日は曇り時々晴れ一時雨。最高気温(℃) 20.7 13:54。最低気温(℃) 8.2 24:00。ざっそう句:我が思い 適えて咲くや ハナダイコン。不安定な天気。宅内閑居。メール応募。勧誘電話。最近はそれと分かるとすぐに受話器を置いて切れるのを待つ。昔は撃退電話とか相手を退散させる音を発信する機能を持った電話機があったと思う。それに代わったのが番号通知機能か。多機能電話にしようと思うこともあるが、ほとんど昔風のスタイルで電話を使っている。最近はケイタイの比重が高くなり、有線の電話利用は激減している。それでも、黒電話撤去は社会への窓を閉じるような感じもする。公衆電話も同じ傾向だろう。無用の用みたいだが、インフラとしては欠かせない。最近選挙カーの音が聞こえるようになった。上毛新聞を見ていると、新聞の折り線の部分に記事がかからにように配置されていた。これは読み易くする対策か。
2014年4月4日の天気(AMEDAS)
TAVE= |
14.0 |
NO DATA |
TMAX= |
20.3 |
最高気温(℃) 20.7 13:54 |
TMIN= |
8.2 |
最低気温(℃) 8.2 24:00 |
DIFF= |
12.1 |
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WMAX= |
8.7 |
最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 17.3(北西) 19:41 |
SUNS= |
4.5 |
NO DATA |
RAIN= |
5 |
NO DATA |
Q
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読みかじりの記:失敗学のすすめ 畑村洋太郎 著 (2000年 株式会社講談社)
「失敗」が特に気になるには、社会的な大きな事件や問題が起きた時である。それが、単に失敗で片付けられるべき事象か議論のある所だろうが、やはり、失敗は永久に悩ましい問題なのかもしれない。失敗の様相は多様であり、ある失敗は別のチャレンジの動機となり、成功の始まりにもなる。
本書が出版された当時の事故・社会問題(JCOの臨界事故等)も本書で取り上げられている。本書の出版から十数年経ているが、内容の古さは感じない。すでに類似の事件や問題が起きていても、現実には忘れた頃に再発している例が多いように感じる。本書では、「人間が関わって行うひとつの行為が、はじめに定めた目的を達成できないこと」を「失敗」と定義して、失敗の本質に迫り、それを体系化して、失敗を有用な技術・ノウハウに転換しようという試みのように見える。それを推し進めたのが、失敗に賭けるコストを利益に転じるという著者の「潜在失敗」という経済的視点ではないかと感じる。ただ、「失敗」対する評価やリスク評価が客観的に可能にならないとこのアイデアも絵に描いた餅に近いのかもしれない。
本書を手にした背景には、東京電力福島原発事故がある。投げ売り価格の古本を買っておいたが、かみさんからはぼろくそな事を言われていた。また読みもしない古本を買ってきて部屋が狭くなる一方だとクレームを受ける。捨てる神があれば、拾う神もあるのがこの世の慰みだ。最近、STAP細胞という日本の科学界を揺るがす大問題が生じている。もしや、これも失敗の範疇かもしれないと思い、がらくたの中から探し出したのが本書であった。
一読して、本書も玉石混淆という印象もないではなかった。しかし、大学の先生だって、失敗していると知ると大いに元気づけられる。自分も、現役時代、当時の最新鋭のカラーテレビ工場を一時ストップさせると言う失敗をした苦い経験を持っている。新しく開発したVIF集積回路が量産に入り、華々しく市場に出ようとする直前の出来事であった。チャンネルを回すと今まで綺麗に映っていた画像がぱっと消えて、ノイズだけの画面になってしまう現象が起きたのだ。確かに、こういう経験は言いにくいし伝えにくい。現象自体未経験なのだ。その時は、緊急的な対策で市場不良を出さずに済んで、何とか技術者の首はつながった。現在でも、真の原因は確定できないが、集積回路内部の製造パラメータのバラツキが原因だろうと推定している。当然製造現場にも責任はあるが、技術者としても設計責任を感じた。ともかく、量産初期は、工程の管理データも少なく、管理も安定しないのは当たり前なのだが。起こった問題は解決しない限り、生産計画は大きく狂い、多大な損害が生まれるところだった。
東京電力福島原発事故も発生以来すでに三年以上過ぎたが、問題が解決の方に進むかと期待しているが、現実はますます混迷を深めているように感じる。本書では失敗の階層性を三角形のモデルで表示している。三角形の底辺が個々に責任がある失敗、その上に、組織運営不良、企業経営不良、行政・政治の怠慢、社会システム不適合、最上部に未知への遭遇を配置している。失敗は、階層の各レベルで起こるが、社会性を帯びる上位の失敗が大きな影響を持つことを指摘している。
自分も、東京電力福島原発事故の時は、経営論、リーダー論等の本を読んだ記憶がある。改めて、東京電力歴代社長の略歴を調べてみた。東京電力は技術系の企業なのか。技術系の経営者が、トップに立っていれば東京電力福島原発事故は、未然に防げたのか。また、今回の理化学研究所を中心にしたSTAP細胞問題は、組織的な観点から防止出来たのか。現代の、組織・社会レベルの失敗の背景には、専門化、分業化、組織の業績管理と組織の人事管理等々が、現実に追いついていなかったのも一因のように見える。本書でも組織の問題を指摘しているが、現代文明の欠点である、専門化、分業化の弊害に関する指摘は少ないように感じる。一部、「全体を理解することの大切さ」の項で述べているが。また、組織が分業化の象徴でもあるのだが。このような、社会の基層・基盤部分に関係する失敗要因は、単なる失敗とは異なるだろう。そもそも、「人間が関わって行うひとつの行為が、はじめに定めた目的を達成できないこと」を「失敗」と定義する限り、失敗の記述は容易だが、組織等のバーチャルな存在は個人という仮面をかぶって動くのだ。
WIKIPEDIA「歴代の東京電力社長。(http://ja.wikipedia.org/wiki/Template:%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%9B%BB%E5%8A%9B%E7%A4%BE%E9%95%B7)」
以下の各代東京電力社長の略歴は上記のリンク先から引用した。
初代 安蔵弥輔 :1912年東京帝国大学電気工学科を卒業、猪苗代水力電気に入社。同社は1923年東京電燈に合併される。戦後日本発送電副総裁を経て1951年に東京電力初代社長。1年で退任後は同社会長、顧問、日本電力調査委員会委員長などを歴任。1955年、電力事業功労者として藍綬褒章をうけた。
2代 高井亮太郎 :新潟県加茂市出身。1920年(大正9年)、東京帝国大学電気工学科を出て猪苗代水力電気入社。東京電燈、関東配電と技術畑で育ち、1946年に関東配電社長[1]。1952年に東京電力社長。1958年、社員が収賄罪で起訴され引責辞任。
3代 青木均一 :旧制京城中学校を経て、 1922年3月東京商科大学高等商業科(現一橋大学)卒業[6]。~1922年4月東京毛織入社、5月日本陶管入社[6]。1926年9月同社取締役[6]。~1951年5月東京電力株式会社取締役[6]。1952年3月国家公安委員会委員長に互選さる(1954年6月廃職)[6]。1954年7月国家公安委員会委員(任期1年)[6]。1957年6月雇用者議会委員(任期2年)[6]。1958年12月東京電力取締役社長[6]。1959年1月品川白煉瓦取締役会長[6]。5月日本電気協会会長[6]。
4代 木川田一隆 :福島県伊達郡梁川町(現伊達市梁川町)生まれ。旧制角田中学(現:宮城県角田高等学校)、旧制山形高校(現:山形大学)を経て、1926年東京帝国大学経済学部を卒業、東京電燈に入社する。東大時代は河合栄治郎の講義を最前列で聴き、河合の唱える理想主義的自由主義に傾倒した。社会に出てからは「電力の鬼」松永安左ヱ門に師事し、民間企業人としての闘魂を学ぶ。戦後の1951年、電力業界再編で誕生した東京電力で常務、1954年副社長となるが、部下の汚職事件の責任を取って1958年常務に降格する。ほどなくして1959年副社長に返り咲き、1961年青木均一の後を継いで社長に就任した。
5代 水野久男 :愛知県名古屋市出身。第八高等学校 (旧制)を経て、東京大学法学部を卒業。1928年(昭和3年)、東京電燈入社。木川田一隆は浅草営業所時代の上司であり以後親交を持つようになる。1971年に社長に就任、5年務めた。ちなみに社長退任時の退職金6億円は当時の経済界史上最高額[1]。
6代 平岩外四 :6歳で父親を亡くし、母親に育てられる。愛知七中入学祝に母親から夏目漱石全集を贈られる。一族から大学進学を反対されるが、母親が反対を押し切り、旧制第八高等学校を経て、東京帝国大学法学部へと進学させた。1939年(昭和14年)に大学を卒業。東京電灯(現在の東京電力)に入社した。1941年(昭和16年)太平洋戦争で陸軍に召集される。配属されたニューギニア戦線でジャングルを敗走し、飢えと熱病のため、平岩のいた隊は107名中、最後には生存者7名という地獄の体験をする。この体験は、平岩に人生を達観させる契機となった。終戦後会社に戻り、そこで木川田一隆の目にとまり、平岩は木川田を「経営についても人生についても終生の師」と尊敬するようになる。1971年(昭和46年)常務、1974年(昭和49年)副社長を経て、1976年(昭和51年)10月東京電力社長に就任する。1984年(昭和59年)6月社長を退き、会長に就任した。1993年(平成5年)に相談役に就く。
7代 那須翔 :1924年(大正13年)、宮城県仙台市出身。旧制仙台第二中学校、旧制第二高等学校を経て1948年東京大学法学部政治学科卒業、関東配電(東京電力の前身)入社[1]。。1984年社長就任。「家庭用時間帯別料金制度」を試験導入するなどの実績を残した。その後は会長や相談役を歴任したが、2002年の原発データ改竄事件を受け、当時の南直哉社長らとともに引責辞任した。
8代 荒木浩:東京都出身。旧制成蹊高校を経て、1954年東京大学法学部卒業、東京電力入社。1993年に社長昇進。1999年から会長。2002年に原発データ改竄事件を受け引責辞任し同社顧問。
9代 南直哉 :三重県出身。三重県立上野高等学校を経て1958年、東京大学法学部を卒業し東京電力入社。取締役を経て1999年に東京電力社長。しかし原子力発電所の点検記録の改竄事件の責任をとって、2002年に辞任した。
10代勝俣恒久:東京府出身。のちに代々木ゼミナール創設者の一人となる勝俣久作の四男である。世田谷区立太子堂中学校[1]、東京都立新宿高等学校、東京大学経済学部卒業。1963年、東京電力入社[2]。企画部・営業部などを経て[1]、1996年6月に取締役企画部長、1998年6月に常務取締役、1999年6月に取締役副社長に就任する。2002年10月、原発データ改竄事件で引責辞任した南直哉の後任として東京電力社長に就任する[3]。
11代 清水正孝:大学は慶應義塾大学経済学部に進んだ。~1995年、資材部長に就任する[6]。取締役副社長就任後は企画・広報を担当した。 2001年、取締役に就任する[5]。
12代 西沢俊夫:長野県大町市出身。1975年京都大学経済学部卒業後、東京電力に入社する。企画部長、常務取締役などを歴任。
13代 廣瀬直己:東京都出身。東京都立新宿高等学校を経て、1976年に一橋大学社会学部を卒業し、東京電力に入社。~2012年5月、次期会長に内定した弁護士の下河辺和彦から東京電力入社の志望理由などを尋ねる面談を受け、勝俣恒久会長及び西沢俊夫社長から次期社長就任を打診され受諾。5月8日の臨時取締役会で第13代表執行役社長に内定し、6月27日の株主総会後の取締役会で代表執行役社長に選出された。
東京電力福島原発事故の時、東京電力が、「ISO9001」を福島原発まで横展開していたら、ひょっとして原発事故が防げていたのではないかと感じた。同様に、理化学研究所には、立派な研究管理規定があると思われる。それは、見方を変えれば危機管理マニュアルでもあるだろう。報道陣の前で、一斉に経営者が頭を下げるパフォーマンスは福島原発事故でいやというほど見させられた。その繰り返しが、今でも延々と行われようとしているのか。
「出番無きマニュアル(老人の寝言):福島原発事故から22ヶ月 大本営は抜け殻だったのか(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2013/01/22-da9f.html)。(2013年1月11日金曜日)」
ともかく、大きな不祥事や失敗に遭遇した経営者が本書を読めば、大いに参考になるだろう。逆に、修羅場を切り抜けるための、隠しマニュアルとしても役立つかもしれない。しかし、インターネット時代になり、世界は狭くなった。今回のSTAP細胞問題も、当局の思うつぼののように進んでいるようにも見える。でも、失敗は失敗として前向きに評価すべきであるという見解も少数ながらある。科学において、仮説を提示して、それを実証するチャレンジ精神が失われたら科学は進まない。技術も同様であろう。ただ、技術の進歩が、偽装・捏造を身近にしているのも事実だ。技術者や科学者はそのような誘惑に勝てるのか。STAP細胞問題に関しては、動機解明が不十分という指摘が多い。動機解明が出来ていないのに、再発防止策が出来るのかという指摘もある。ともかく、現代はNET上の意見の品質レベルも向上しているようだ。理化学研究所が重い尻を動かしたのも、科学的に妥当な意見は無視できないからであろう。やはり、匿名で発言している専門家がいるのだろう。
自分も、かつて技術部門の管理職として、部下に10回近い試作をさせた経験がある。集積回路をマスク変更をして一回試作するだけでも相当大きな費用を要する。その試作を10回近く行ってようやく量産にこぎ着けた。フルカスタムICで、その集積回路の供給にはメーカーとしての責任がかかっていたのだ。試作に失敗すれば多大な損害賠償要求に直面するリスクがあった。上司の査定は赤点評価に近かったが、チャレンジ精神は認めてもらったようで、それでも何とかクビにならなかった。新しいプロセス開発もできて、おまけの効果もあった。時代と上司に恵まれたと思う。退職時、後からゼロスピン大賞とよばれた表彰システムの原型を置き土産にしてきた。ゴルフのホールインワン賞のように一発の試作で量産にこぎ着けた技術チームを表彰しようとするものであった。やはり、成功に対するインセンティブも必要だと認識されるようになったのだと思う。
今日、日本における技術環境も激変しているようだ。半導体や液晶のハイテク分野も活況を失っている。その次の期待がバイオテクノロジーや先進医療の分野だろう。この分野の失敗が、日本の前途を遮らない事を切に願いたいものだ。
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追記(2014/6/3): 「読みかじりの記:失敗学のすすめ 畑村洋太郎 著 (2000年 株式会社講談社)(2014年4月5日(土) )」の記事がランキング10位に入った(6/2)。これを機会に再読してみた。著者の失敗の定義が、「人間が関わって行うひとつの行為が、はじめに定めた目的を達成できないこと」とあるが、「はじめに定めた目的」がふと引っかかった。STAP細胞捏造事件(?:もうそろそろ事件の名前が付く頃か?)の「悪意ある」改竄とかが問題になった。犯罪には動機が問題となる。その前提として、犯罪という罪に対して、その対価としての罰の大きさを定めるという下心が働くためだろう。ともかく、犯罪は行ってはならないという前提が付く。改竄、捏造も同様な範疇にあるだろう。STAP細胞論文問題も、当初の目的が正当なものであれば、それが真実に反しても、捨て石としての価値はある。ところが、事実として無い事をあると主張する事は、特にその影響が広範に及ぶ事象に関してそういう事を行う事は、それこそあってはならない犯罪に近いのではないか。失敗学がいかに無力であるか、今回のSTAP細胞論文問題が明らかにしたのではないか。「悪意ある」という条件を付けると、それこそ論理と倫理が混交して示しが付かなくなる。悪意ある目的もあるし、悪意ある失敗もある。悪意ある目的が失敗することは、その関係者以外にとっては善であり成功だ。悪意ある失敗が成功すると失敗した本人を含むその関係者には者に有利に働くが、それ以外に対しては結果としては有害の作用を及ぼすのではないか。
NHKは、「STAP細胞の新たな疑義「理研は調査を」。;http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140602/k10014919201000.html。(6月2日 19時32分))」というタイトルで、「STAP細胞の論文に見つかった新たな疑義について、理化学研究所は先週、調査しないことを決めましたが、これについて、外部の有識者でつくる改革委員会は2日、研究所に対し、調査を行うよう改めて求めることを決めました。 STAP細胞の論文について理化学研究所は、小保方晴子研究ユニットリーダーが不正行為を行ったと認定して調査を終了し、これを基に関係者の処分の検討を進めています。 こうしたなか、STAP細胞の論文には、画像やグラフに新たな疑義が指摘されていましたが、理化学研究所は先週、一部の著者から論文を取り下げる意向が示されていることを理由に、調査は行わないことを明らかにしました。 これについて、外部の有識者でつくる理化学研究所の改革委員会は2日、都内で開かれた会合で、「内容に区切りがついていない時は、調査は継続しなければならない」として、研究所に対し、調査を行うよう改めて求めることを決めました。」と報じた。
事実が藪の中で、問題の処理だけが独善的に行われれて冤罪につながった例は、過去に無数にあったのではないか。理化学研究所の改革委員会の忠言は、科学の信頼性を維持する最低限の良心だ。理化学研究所は本来率先してそれを行うべきではないか。
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