222_ツルよ 飛んでおくれ

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2012年11月 2日 (金)

ツルよ 飛んでおくれ(愛しき古里):甘楽町が復元した楽山園=江戸初期有数の日本庭園を見る

2012年11月2日金曜日
昨日は曇り後晴れ。最低気温(℃) 5.3 03:08 。冬に向かい寒さの記録を更新。ざっそう句:霜月や 小菊ちらほら 畑のすみ。霜月11月。そろそろ初霜が心配となる。落花生を収穫。高枝切りで柿を取る。放置したナスの株にナスが実を付けていたので種子を採取。山東菜移植。

2012年11月の天気(AMEDAS)

TAVE= 11.9
TMAX= 16.4 最高気温(℃) 17.2 14:07
TMIN= 5.6 最低気温(℃) 5.3 03:08
DIFF= 10.8
WMAX= 5.3 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 10.2(西) 23:51
SUNS= 5.1
RAIN= 0

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ツルよ 飛んでおくれ(愛しき古里):甘楽町が復元した楽山園=江戸初期有数の日本庭園を見る

先日、「国指定名勝 楽山園」を見学した。その概要は甘楽町のホームページ(url=http://www.town.kanra.gunma.jp/kyouiku/bunkazai/map/20120330191558.html)には、「楽山園は、小幡藩二万石の藩邸に付属する群馬県内唯一の大名庭園です。織田氏により築庭され、複数の茶屋を設け、「庭園と茶事」を巧みに演出しています。 心やすらぐ庭で、西や南の山々を借景とした広がりのある空間構成は、まさしく「庭園美」の極みといえます。」と紹介されている。開園年月日は、平成24年(2012)3月24日とある。まだ開園後、半年余であるが、そのすばらしさは十分名勝に値するだろう。

Googleによる「国指定名勝 楽山園」の検索(http://www.google.co.jp/#hl=ja&site=&source=hp&q=%E5%9B%BD%E6%8C%87%E5%AE%9A%E5%90%8D%E5%8B%9D%E3%80%80%E6%A5%BD%E5%B1%B1%E5%9C%92)。

この、楽山園を周遊し、庭園と周囲の山川草木が一体となっている風景を見ると、「借景」を取り入れた設計であることはすぐに理解できた。そこで庭園の設計にどのような流れがあるか気になった。調べたり、ガイドさんに聞いたりしたが、設計者の名前はハッキリしなかった。京都方面から作庭の専門家を招いて作成させたらしい。

「小堀政一。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%A0%80%E6%94%BF%E4%B8%80。」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「小堀 政一(こぼり まさかず)(天正7年(1579年)~正保4年2月6日(1647年3月12日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家。備中松山藩2代藩主、のち近江小室藩初代藩主。一般には小堀 遠州(こぼり えんしゅう)の名で知られる(「遠州」は武家官位の遠江守に由来する)。幼名は作助、元服後は、正一、政一と改める。道号に大有宗甫、庵号に孤篷庵がある。」とある。

WEB情報によれば、「楽山園」は、1621年(元和7年)から織田信雄により作庭が開始されたと伝えられてるとの事で、小堀 遠州の活躍していた時代と重なるようだ。小堀 遠州が大名・武士と知って、「武」の時代から「文」の時代へという時代の流れの中で、「楽山園」の茶室の意味もなんとなく理解できた。

以前、京都方面の旅行で、借景のある寺を拝観した事を思い出して、その画像を探した。それらしい画像があった。天竜寺ホームページ(http://www.tenryuji.com/)によると、「曹源池庭園(そうげんちていえん):約700年前の夢窓国師作庭当時の面影をとどめており、わが国最初の史跡・特別名勝指定。中央の曹源池を巡る池泉回遊式庭園で、大堰川を隔てた嵐山や庭園西に位置する亀山を取り込んだ借景式庭園でもある。」と紹介記事がある。

「夢窓疎石。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A2%E7%AA%93%E7%96%8E%E7%9F%B3。」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に、「夢窓疎石設計による庭園 」が紹介されている。天竜寺の庭園は室町時代初期、「楽山園」は江戸時代初期に遡るらしいので、県内で借景を使った日本庭園を鑑賞するには最適ではないかと思った。

「楽山園」は、江戸時代末から明治にかけて、荒れてしまったのを、復元したらしい。写真を比較すると、「楽山園」は整備直後なので、園内の樹木は少なく広々としている。長い歴史を経て、地域住民の手元に帰ってきた「楽山園」が、今後どのように活用されるか注目したい。Rakusanen_vs_tenryuuji_syakkei_moji
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2012年10月29日 (月)

ツルよ 飛んでおくれ:榛名山を遠望する保渡田古墳群周辺の田園風景

2012年10月29日月曜日
昨日は終日しとしとと降雨。最低気温(℃) 11.5 00:21 。温度差も少なく寒い一日だった。ざっそう句:秋の蚊や 忍者もどきの 羽音かな。昨日10月28日は群馬県民の日。農業技術センターでも見学しようかと思ったが、宅内閑居。

群馬県のホームページによると、「群馬県民の日は「郷土の歴史を知り、郷土についての理解と関心を深め、自治の意識を高めるとともに、より豊かな郷土を築きあげることを期する日」として昭和60年に制定されました。平成24年で28回目の県民の日を迎えます。 10月28日が県民の日とされたのは、明治4年のこの日、廃藩置県によって設置された八県が統合され、初めて「群馬県」の名称が使用されたことにちなんでいます。」との事。

富岡製糸場・世界遺産推進ホームページ(http://www.tomioka-silk.jp/hp/index.html)によると、富岡製糸場の「工場建設は明治4年(1871年)から始まり、翌年の明治5年(1872年)7月に完成、10月4日には歴史的な 操業(そうぎょう)が開始されました。」とある。

富岡製糸場建設が群馬県の発足と同時に始まっていた事は興味深い。今年が富岡製糸場操業開始以来140年の節目の年だが、絹産業の衰退には一抹の寂しさを感じる。尚、「農業技術センターは工事中のため、今年度の公開は行いません。」との事。

2012年10月28日の天気(AMEDAS)

TAVE= 13.1
TMAX= 13.9 最高気温(℃) 14.2 10:45
TMIN= 12 最低気温(℃) 11.5 00:21
DIFF= 1.9
WMAX= 2.4 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 4.6(西北西) 08:07
SUNS= 0
RAIN= 14

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ツルよ 飛んでおくれ:榛名山を遠望する保渡田古墳群周辺の田園風景

先日、古代東国文化サミット見学のため、会場に向かう途中で、予想もしない田園風景に出会った。市街地を一歩踏み出すと、田圃が広がり視界が開けた遠方に榛名山が見えた。田圃の稲は刈り取りが終わり、藁ぼっちが一列だけ並んでいた。空には雲一つもなく、心和ませる田園風景である。古代の人々も同じような風景をみて、同じような感傷に浸ったのか。改めて、そのデジカメ画像の様子を眺めると、地面が黒く浮き上がって見える部分があるのに気付いた。その部分は発掘の跡なのか。それとも地下に何かが眠っているのか気になった。以前読んだ古代道路に関する本に、道路遺跡の存在が地表からも推測される場合があると述べられていたのを思い出した。
Harunasan_denen_fuukei_121020
harunasan_denen_fuukei_121020.jpg

2012年10月 7日 (日)

ツルよ 飛んでおくれ(愛しき古里):「鶴舞う 形の 群馬県」のルーツを探る。121007。

2012年10月7日日曜日
昨日は曇り時々晴れ。夜雨。最高気温(℃) 26.2 14:59。夏日。ざっそう句:雨恨み 夜の刈田に ペダル漕ぐ。朝、先日の作業の後かたづけ。その後、大根と赤蕪を間引いた。運良く食卓に上がる。用事外出。駅の駐輪場に自転車を止めた。その隣接地が工事中で、作業員が立っていたので何の工事かと聞いたら、何と顔見知りの人だった。作業服にヘルメット姿で誰かと分からなかったのでびっくりした。駅周辺の区画整理で、水道管、ガス管等の埋設工事をしているとの事。自転車外出の楽しいハプニングだ。帰路は書店で週刊誌立ち読み、文庫本一冊。外は暗くなり雨がパラパラと降り出していた。傘もささず、最初は気楽だったが、雨粒が少しずつ大きくなった。車の少ないたんぼ道を走ったが、車とすれ違う時は危険を感じる。帰宅時は肌まで濡れた。だが、荷カゴの文庫本はレジ袋無しでも無事だった。いつもは、カバーは不要と言っているが、今回はカバーを付けてもらった。運が良い。夜間、雨の中の自転車走行も、道草を食わなければ起きないハプニングなのだが。

2012年10月6日の天気(AMEDAS)

TAVE= 21.9  
TMAX= 26 最高気温(℃) 26.2 14:59
TMIN= 17.9 最低気温(℃) 17.9 24:00
DIFF= 8.1  
WMAX= 5.6 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 11.5(西北西) 23:31
SUNS= 2.3  
RAIN= 8.5  

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ツルよ 飛んでおくれ(愛しき古里):「鶴舞う 形の 群馬県」のルーツを探る

群馬県人ならば、上毛カルタの「鶴舞う 形の 群馬県」に愛着を感じている人が多いと思う。群馬県をツルが舞う姿に見立てたルーツはどこにあるか気になっていた。鶴と亀は日本人にはなじみ深い。一昔前なら、ツルとかカメが名前の一部であった人名も多かった。そこで、WEB調査をすると、石原和三郎の「上野唱歌」に出会った。

Googleによる「石原和三郎 上野唱歌」の検索(http://www.google.co.jp/#hl=ja&site=&source=hp&q=%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E5%92%8C%E4%B8%89%E9%83%8E%E3%80%80%E4%B8%8A%E9%87%8E%E5%94%B1%E6%AD%8C)。検索結果:約 823 件 (0.12 秒)。

以上の検索で、かなりの情報は得られる。そこで、国会図書館の「近代デジタルライブラリー - 上野唱歌」を見ると、「上野唱歌」という本の画像情報が得られる。

以下の記事は、この近代デジタルライブラリー の「上野唱歌」を参照して書いた。

見開き
東京音楽学校講師   田村 虎蔵 作曲
前高等師範学校訓導  いしはら わさぶろう 作歌

奥付
発行:明治33年11月16日
発行者:合資会社 冨山房
定価:6銭

石原和三郎について知るには、「石原 和三郎 - 群馬県立図書館ポータル。http://www.library.pref.gunma.jp/index.php?page_id=251。」が役立つ。このサイトでは、「石原和三郎略歴 慶応元年(1865)~大正11年(1922) もしもし亀よ亀さんよの「兎と亀」をはじめ、「金太郎」、「花咲爺」、「大黒様」など、誰もが知っている名唱歌を残した作詞家、教育者。勢多郡東村花輪生まれ。明治24年(1891)群馬師範学校を卒業し、郷里の花輪小学校訓導兼校長に就任すると直ぐに、当時としては珍しいオルガンを導入している。 この頃の唱歌は旧弊な美文調で児童には難解だったため『小学唱歌集注解』を刊行。東京高等師範学校附属小学校に招かれて音楽教諭の田村虎蔵に出会うと、小学唱歌革新に意気投合し、子どもの歌は子どもの言葉で、と画期的な言文一致唱歌を創始し全国で大人気を博す。 『国語読本』編纂のため招かれて冨山房に入社後も作詞を続け、明治33年刊行の『教科適用幼年唱歌』掲載作品の半分は、和三郎作の親しみ易い歌が占め、児童の心を潤した。石原作品は百数十曲を数え、郷土を歌った『上野唱歌』『上毛の歌』は県民に愛唱された。短歌、日本画、書道にも優れ、万岳または翠江と号す。 平成元年、郷里のみどり市東町に彼の生い立ちや写真、自筆原稿、書や絵画等の資料を集めた「童謡ふるさと館」が開館。 旧花輪小学校記念館と群馬大学教育学部には、「童謡の父 石原和三郎先生」の碑が建てられている。」と紹介されている。

「上野唱歌」が、「冨山房」より発行されているのも上記の記事で納得できる。「上野唱歌」の第一番が、
『 晴れたる空に舞ふ鶴の、
    姿に似たる上野は、
  下野、武蔵、岩代や、
    越後、信濃に境ひして』
である。

各ページの上部の欄に注意書きがあり、このページには、下野(東)、武蔵(南)、岩代越後(北)、信濃(西)と注意が記されている。この歌詞は単に上野の国の外形だけを述べているのではなく、その四方の隣接地域名も盛り込んでいる。驚いた事には、本の最初のページに、群馬県を鳥瞰したような「上野国略図」が添えられている。まさに、歌を覚えれば、地理も自然と覚えるような教育的な配慮がされているのに気付いた。この地図がまさに、「鶴舞う 形の 群馬県」のように、飛んでいるツルの姿を表すように描かれているのだ。ツルの口の部分に「板倉沼」、目の部分に「城沼」が描かれている。山々は、ツルの羽ねのようでもあり、上空から見た立体図のようにも見える。この地図にも石原和三郎の創作者魂が読みとれるのではないか。

実は、もっと驚いたのは「上野唱歌」の表紙であった。「上野唱歌」という文字の背景になっている黒いヒョウタンのような図柄は、桑の葉だろうとすぐ気付いた。右上のラベルの脇は白くなっており、最初にちょっと見ただけでは紙が破れているのか、汚れか何だか分からなかった。よくよく見ると、それは蚕の蛹が羽化した蛾の姿であった。この表紙を見て思い出すのは、小学生中学年の頃、担任のO先生から蚕のように変身して立派な人間になりなさいというような趣旨の年賀状を貰った事である。

石原和三郎が教育者として、「上野唱歌」を教育的配慮で作ったとすれば、その表紙には、石原和三郎が願うメッセージが込められているのではないか。群馬県の養蚕は、江戸時代から終戦後まで盛んであった。凡人には、養蚕と言えば、蚕と繭が頭に浮かぶだろう。なぜ、「上野唱歌」では、蚕と繭が表紙に登場しないで、桑の葉と蚕の蛾が登場するのか。石原和三郎は教育者的な信条から、蚕の前には桑がある、繭の後には蛾(蚕種の元)が生まれる、もっと全体を見よと、教育を養蚕になぞらえて、総合的・体系的にとらえ、教育の理想を「上野唱歌」の表紙として表現したようにも見える。

従って、「上野唱歌」の表紙は、我が担任のO先生のように生徒や読者に向けた学業勉励に対するメッセージともとれるし、もっと広く、群馬が、蚕が蛾に変身するように、大きく発展する事を願ったものともとれるのではないだろうか。「上野唱歌」は第49番まである。

49番が、
『 ことに帝都に近ければ、
    人の知識は日に進み、
  文化は月に開け行く、
    めでたき国よ、よき国よ』
で終わりとなる。

まさに、「上野唱歌」は、石原和三郎が心に描いた、わが古里への賛歌である。群馬県人が、「鶴舞う 形の 群馬県」という、上毛カルタの一札から思い出す物事は、石原和三郎の創作の世界に通じているのではないか。このWEB版「上野唱歌」には曲も掲載されているが、楽譜が読めないのでその曲をイメージできない。是非聞いてみたいものだ。
Ishiharawasaburou_kozuke_syouka_hyo
「上野唱歌」の表紙(左)と掲載の群馬県地図(右)。

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追記(2017/11/12):記事整形、過去BLOG再読、印象・コメント等
この記事は現在アクセスランキング第6位に入っている。上毛かるたは、現在でも群馬県民の意識のどこかに潜んでいる言えるだろう。だが、余りにも画一的になると、効果より弊害が目立つような事にならないか心配だ。上毛新聞社は今年、創刊以来130年を迎えるに当たって、新しい切り口で、現代版上毛かるたを作ったらどんなものが出来るか、読者からその作品を募集した。結構ユニークな作品があって、画一化を危惧する心配もなさそうだ。それでは、「鶴舞う 形の 群馬県」に代わりうる、群馬県を一口に表現できるかるたはあるのか、出来る可能性はあるのか。すぐには、思いつかないが、群馬県が飛躍的に発展すれば、その可能性は、ゼロでは無いはずだ。一時、首都移転論が盛んになった頃があった。群馬県も首都の候補にはなり得る。それが、実現すれば、「日本の中心 群馬県」と読んでも、良いわけだ。「上野唱歌」は第49番まであり、第49番の内容は前記の通り、壮大である。石原和三郎は、群馬県が帝都に隠れて沈没する姿では無く、帝都に比肩できる輝きが持てるのだと言っているように読める。「鶴舞う 形の 群馬県」から、鶴が飛んでいる姿を連想するだけでは、石原和三郎の描いた群馬県のイメージにはまだ遠いのかも知れない。

2012年10月 6日 (土)

ツルよ 飛んでおくれ(愛しきもの 花と実):この木何の木古墳の木

2012年10月6日土曜日
昨日は晴れ。最高気温(℃) 29.4 14:44。真夏日に近い暑さ。ざっそう句:ひ弱くも カヤツリグサの ド根性。自転車で恒例の地区巡回。ニンジン区画の草むしり。カヤツリグサもニンジンと大きさが同じくらいだと区別がつきにくい。大小のカヤツリグサが繁茂して一斉に実を付けようとしている。数㎝の草丈でも頑張っている。見習いたいド根性さだ。これも花成ホルモンのいたずらなのか。成長が止まり老化したオクラとミニトマトを抜いて片づけた。種子用のオクラの房は、カラカラになっていた。一本だけ確保。リスク分散・回避の点からは、数株から種子を採種して、健全な種子を選別後、混合した種子を蒔いた方が、リスクが平均化して良いのかもしれない。

2012年10月5日の天気(AMEDAS)

TAVE= 22.9
TMAX= 29.1 最高気温(℃) 29.4 14:44 
TMIN= 17.2 最低気温(℃) 17.0 05:52 
DIFF= 11.9
WMAX= 3.2 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 5.7(南東) 20:57 
SUNS= 10.1
RAIN= 3

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ツルよ 飛んでおくれ(愛しきもの 花と実):この木何の木古墳の木

先日の所用の前に、下調べをしたコースを外れて、細い道に足を踏み入れた。公園らしいが、どちらかと言えば、自然公園に近い感じがして、所々に曼珠沙華が咲いていた。整備された階段があり、刈払いした跡が新しかった。その階段を上り詰めると視界が開け、古墳があった。右手の古墳の頂上には高い木が一本そびえていた。葉の色がやや白みがかって他の樹木と違っているように感じた。

残念だが、方向音痴で、初めての場所の方向がつかめない。左手の古墳に上り、下界の方を見回すと古墳時代の被葬者になった気持ちがする。説明板や周辺の様子をデジカメに収め、元のコースを下り始めると、下からおじさんが上ってきた。デジカメをぶら下げていたので、写真ですかと声をかけてくれた。話が進むと、このおじさんは地域の有力者か、古墳の近くに住んで、区長もしたとか。最初は、おまえさん何してるんだなどと言われないかと、内心びくびくしていたが、色々な事を教えてくれた。

気になっていたのが、あの古墳の頂上に立つ一本の木。さまになるので、写真家の定点撮影の対象でもあるとの事。古墳とその高木が画面に収まる位置の頭上に垂れ下がっている木の枝を指さして、この枝を入れると構図が決まると説明してくれた。ところで、あの一本の木は何ですかと聞くと、「こぶなし」と聞こえた。秋に実が生り、食べられるそうだ。その木の下まで行って説明してくれたが、まだ実が落ちておらず、その味を確かめる事はできなかった。古墳整備の時に一本だけ植えたような話だった。

更に、古墳といえばあちらの七興山古墳も是非見て下さいと指さして教えてくれた。春の桜がすばらしいとの事だ。桜の樹種を聞くと、ソメイヨシノとの事。これら、古墳のメンテナンスの事も話した。シルバーや地区住民が除草等をしているとか。面積が広いから除草剤の量も多いとか。そんな話をしていて、別れようとすると、自分は散歩中だから、是非藤岡歴史館も見学したらと入り口の前まで案内してくれて、そこで別れた。感謝。

後で調べると、頂上に一本だけ植樹された古墳が平井地区1号墳、その隣が皇子塚古墳古墳であった。「こぶなし」を調べたが、まだよく分からない。幼少の頃、小さな梨のような果物を食べたかすかな記憶があるが、それも何か分からない。今では多分、「ケンポナシ」ではないかと、推測しているのだが、その現物を見たり味わったりした事がまだない。更に調べてみると「やまなし」を「こぶなし」と呼んでいる例があるようだ。これは樹皮が瘤のようだかららしい。「山梨」は県名でもあるが、その語源が気になる。「やまなし」は、梨の原種?実は小さく食用向きではないようだ。とりあえず、この木何の木古墳の木で我慢しよう。ふらりと、気まぐれで横道にそれたが、貴重な体験が出来た。
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左から:古墳への階段、この木何の木(平井地区1号墳)、その幹、皇子塚古墳から平井地区1号墳方向を見る、両古墳の遠景。

2012年10月 5日 (金)

ツルよ 飛んでおくれ(愛しき古里):田島弥平旧宅近くに立つ田島弥平顕彰碑

 

2012年10月5日金曜日
昨日は曇りのち晴れ。最高気温(℃) 29.3 12:48 。夏日。ざっそう句:早熟の 柿は虫食い 食える味。汗ばむ程度の暑さが復活。利根川の貯水量が回復して取水制限は解除されたようだ。二年子大根とキャベツの播種。前者は直播き、後者はセルトレーに蒔いた。時期が遅いと思うが、試しに蒔いた。モロヘイアの株は種子採取用を残して堀上げ。ジニアの花殻を採取。乾燥させて種子をとる予定。マリーゴールドは特有のニオイがある。これが防虫効果を発揮するのか。

WIKIPEDIA:マリーゴールド(最終更新 2012年8月7日 (火) 19:42 )(。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89。)によると、「性状 [編集]:~観賞目的の栽培が普通であるが、根に線虫の防除効果があるので作物の間などに植えられることもある。線虫の防除効果は、植物自身の合成するα-terthienylをはじめとした化合物によるものとの説が有力だが、共生する線虫捕食菌の働きのためだという説も浮上している。異臭が激しく、有毒植物と誤解されていた時期もある。」とある。

更に驚いたのは、上記記事に「成分 [編集]:この花の花びらから抽出されたキサントフィル脂肪酸エステル混合物に含まれるヘレニエンという色素は暗順応改善薬の原料として用いられている。第二次世界大戦中にイギリス軍が「ブルーベリーのおかげで目が良くなった」という嘘の宣伝を流し、これを信じたドイツのバイエル社がブルーベリーを上回る効果を持つものを探したところ、マリーゴールドの花びらから抽出した脂肪酸エステル混合物に高い効果があることを発見し、ヘレニエンを有効成分とする暗順応改善薬「アダプチノール」が作られた。この薬は現在でも目の薬として使用されている。」とある事。「ブルーベリーは目に良い」というのはウソ?暗順応とは、明る状況から暗い状況になった時に目が慣れる事。この反応が遅いと時には軍事行動の障害になるのだろう。この宣伝が、イギリス軍に有利に働くためには、ブルーベリーはイギリスにあり、ドイツにはない事だろうが、本当か?

2012年10月4日の天気(AMEDAS)

TAVE= 22.9
TMAX= 28.8 最高気温(℃) 29.3 12:48
TMIN= 18.2 最低気温(℃) 18.0 01:22
DIFF= 10.6
WMAX= 6.4 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 11.7(北北西) 13:07
SUNS= 5.9
RAIN= 3.5

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ツルよ 飛んでおくれ(愛しき古里):田島弥平旧宅近くに立つ田島弥平顕彰碑

たまたま縁あって、富岡製糸場と絹産業遺産群の一つに指定された田島弥平旧宅を二度見学させていただいた。見学も時間が限られると、つい駆け足にならざるをえない。じっくり予習をしてから見学するのがベストかもしれないが、見学を学習の契機とするのも良いと思う。

初回の見学では、田島弥平旧宅へ向かう途中にある、田島弥平顕彰碑と「養蚕新論版木」とある標識をデジカメに収めた。何となく、連想では結びつくが、この二つから何が学べるか、空想してみた。明治初期の出版は、活字ではなく版木で行った。相当しっかりした目的と覚悟がなければ、出版事業は出来なかっただろう。「養蚕新論」はまさに、「最新養蚕技術論」という意味と思われる。幼少の頃、養蚕の手伝いをしたが、相手が蚕という昆虫の幼虫なのだから、それを品質の高い繭を作るまで育てる技術に尽きるだろう。途中で蚕が死んだり弱まってしまえば、大きな損害を生じることになる。「清涼育」とは、養蚕の品質と生産高を高める技術・ノウハウだったろう。出版により、技術の内容や思想が間違いなく正確に広範に行き渡るのだ。WIKIPEDIA(特許法。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E8%A8%B1%E6%B3%95。)によれば、「現在まで続く、日本の特許制度の基となったのは、1885年(明治18年)4月18日公布の「専売特許条例」である。」との事だ。苦労して開発した養蚕技術を独占せずに公開したという事も産業の近代化の促進と言う点で見逃せないと思われる。
Tajimayahei_kennsyouhi_hyousiki_2pi

二回目の見学では、顕彰碑の篆額部分(碑名)もデジカメに収めた。顕彰碑を理解するとき、誰が立てたか、誰が書と文を受け持ったか等の碑の関係者も関心の対象になるからだ。なんと、そこには島村の文化人・書家として著名な金井之恭の名が刻まれていた。群馬県庁近くの長浜公園にある「前群馬県令楫取君功徳之碑」の書を担当していたのも金井之恭であった。金井之恭は群馬県令楫取素彦と同様に田島弥平の業績に深甚なる敬意をいだいて書を成したと想像されるのだ。楫取素彦と田島弥平の両顕彰碑は生前中に建立されている。

〔群馬のシルクロード ~人物編~。http://www.manabi.pref.gunma.jp/kinu/jinbutu/gunma/sansyu-yosan/sansyu-yosan.htm。〕の記事によると、「明治27年、田島弥平の娘たみが父の功績をたたえ、養蚕興業碑を田島家の入口に建てました。」とある。尚、この碑が立てられたのは、田島弥平生存中であり、死後に評価が定まってから碑がたてられたものでないと知ると、田島弥平の娘も立派だったと思わざるをえない。まさに娘が父の業績を理解し顕彰するという事は、並の女性には不可能で、田島弥平にとってもそれが最大の精神的な支援になったのではないか。

その碑の篆額部には、「南畬田島翁養蚕興業碑」と記されている。最初は、「南畬」が「難よ!」だった。コトバンク「田島弥平 とは - 」によれば、「田島弥平。http://kotobank.jp/word/%E7%94%B0%E5%B3%B6%E5%BC%A5%E5%B9%B3/%E7%94%B0%E5%B3%B6%E5%BC%A5%E5%B9%B3。」の記事に、「1822-1898 江戸後期-明治時代の養蚕家。 文政5年生まれ。上野(こうずけ)(群馬県)佐波郡島村の人。家業をついで養蚕と蚕種を研究,清涼育とよばれる新技術を開発しその普及につとめた。明治5年島村勧業会社を設立し,渋沢栄一らの協力で蚕種の輸出を成功させた。明治31年2月死去。77歳。名は邦寧。字(あざな)は子寧。号は南畬(なんよ)。著作に「養蚕新論」」とある。

南畬(なんよ)とは田島弥平の号との事だ。「養蚕新論版木」という標識だけでは、なかなか碑が発信しようとしているメッセージが読みとれない。それでは、「南畬田島翁養蚕興業碑」を読み解くとどうだろうか。この碑が建てられてからもうじき120年になる。建碑後120年になっても色あせず、むしろ輝きを増す碑名ではないか。今日の、「富岡製糸場と絹産業遺産群」を予想したかのような碑名ではないか。

「南畬」を直訳すると南の畑。漢字の「畬」が難解でかつ扱いにくい。「南?」では先に進まない。漢字源によれば「畬」は新たに開拓した畑の意味がある。「畑」には更に焼き畑の意味があるそうだ。当世でも、自分が打ち込んだ専門の仕事の対象を畑とも言う。「南畬」にも、気合いを入れ苦心の末開拓した事業分野という深い意味がありそうだ。自分の号なので謙遜の意味も込めているかもしれない。俺の事は「南畬(なんよ)」と呼んでくれれば良いのだというのが号の意味だろう。「翁」は親称・尊称。現代風に超訳すれば、総合養蚕事業のパイオニア田島弥平じいさんの意味にとれる。最大のキーワードが「養蚕興業」だ。

尚、コトバンクによれば田島弥平は「明治5年島村勧業会社を設立」とある。この設立時期は、以下のWIKIPEDIAの記事と比較しても、日本の経営史上からもかなり早い時期ではないかと思う。

「丸善。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%96%84。(最終更新 2012年8月8日 (水) 04:49 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「社史概要創業創業は、明治2年1月1日(1869年2月11日)。創業時の社名は「丸屋商社」その登記簿に、代表者として「丸屋善八」という架空の人物を記載したことから丸善の名が生まれることになった。創業者は福澤諭吉の門人・早矢仕有的(はやしゆうてき)である。設立当初から、世襲が基本だった当時の商習慣を廃し、所有と経営を分離するなど、事実上日本初の近代的会社として知られる。」とある。

新しい事業を開拓するための近代的会社組織の設立も「養蚕興業」の要であったと思われる。若い頃は、田舎住まいで余り東京に出なかったが、東京に出たときは、丸善書店に寄り、洋書を見るのが楽しみだった。もっとも、買えるのは、安いペーパーバック程度だったが。そんなわけで、丸善が日本の最初の近代的会社だったというのをどこかで知ったようだ。田島弥平が明治5年に島村勧業会社を設立したのも、東京の丸善の創業時期にさほど遅れていなかったのだから、群馬が会社組織という点でも先進地だったと自信が持てるのではないか。

まさに、この碑のタイトルには、「富岡製糸場と絹産業遺産群」に連なる産業を興したという気概が溢れているのではないか。結局、この碑のタイトルから「近代養蚕のパイオニア田島弥平じいさんの養蚕(絹)産業興業を顕彰する碑」という意味にとれそうだ。でも、娘が父の存命中に建てた碑なので、碑名には色々気を使ったと思われる。碑は後生に残る。威厳と共に親しみも込めたい。「父ちゃん、碑の名前はこれでいいかい(娘)。」「はは、おまえに任せるよ(父)。」こんな、会話が聞こえてきそうだ。是非、この「南畬田島翁養蚕興業碑」という碑名が普及するように願いたいものだ。
Tajimayahei_kennsyouhi_and_tengaku_

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追記(2014/6/2):
「ツルよ 飛んでおくれ(愛しき古里):田島弥平旧宅近くに立つ田島弥平顕彰碑(2012年10月 5日 (金))」の記事がいきなりランキング8位に入った。富岡製糸場と絹産業遺産群のユネスコ世界遺産登録の期待が実現しようとしている時で率直にうれしい出来事だ。昨日の暑さで、室内で気ままに手に取った冊子がある。「温故知新 伊勢崎市郷土文化研究会連絡協議会 20周年記念誌(平成18(2006)年3月15日発行)」である。この協議会は伊勢崎市市内の歴史研究会の横の連携をする為に発足したようだ。本誌のなかで、境史談会会長の田島健一氏が境史談会発足の経緯と事業を紹介している。郷土史家の篠木弘明氏が中心になって境町地方研究会が発足し、郷土史の調査研究を行い、篠木氏が亡くなられてから、境史談会がその事業を受け継いでいるとの事である。本誌の中で境史談会の事務局長斎藤進一氏が「境の漢文碑を訪ねて」の②で、「田島南畬碑」を紹介している。是非、本文を直接参照して頂きたい。

以下、便宜のためその項を引用させて頂く。

「② 田島南畬碑   境島村の県道中瀬・牧西線沿いに所在。題額、大日本農会頭陸軍大将彰仁親王。撰文、勅撰議員川田剛。書、勅撰議員金井之恭。川田は号甕江(おうこう)、国学・文章に通じ明治漢文学会泰斗。建立は明治二十七年(1894)。碑の最後に、「夫れ生我より先んずる之を長者と謂ひ、徳厚く行修まる之を長者と謂ひ、而して多財多福を俚俗之を長者と謂ふ。今翁は此の三者を兼ぬれば、是も亦(ま)た云ふ可(べ)きなり」と刻む。翁とは郷人に養蚕長者と称せられた島村新地の田島弥平(1822~98)である。養蚕の清涼法、『養蚕新論』の著作、吹上御所に招かれて蚕婦を率いて皇后の養蚕に従事、島村勧業会社を設立し社長になる。渡海して蚕種の海外販売等を行う。南畬号で、利根川の南の新しく開墾した土地という意味である。」

尚、上毛新聞は、「世界遺産候補 弥平旧宅所有 田島健一さん死去。;http://www.jomo-news.co.jp/ns/7213914754599085/news.html。(更新日時:2014年2月4日(火) AM 09:00)」」というタイトルで、「江戸末期から明治にかけ日本の蚕種業の発展に貢献した田島弥平(1822~98年)の子孫で、島村蚕種株式会社専務を務めた田島健一(たじま・けんいち)氏=写真=が3日午前11時52分、大腸がんのため群馬県太田市内の病院で死去した。84歳。伊勢崎市境島村の自宅は、世界文化遺産候補「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産で、国史跡の「田島弥平旧宅」。世界遺産登録を前にしての訃報に悲しみの声が上がった。」と報じた。

改めて、田島健一氏が、境史談会会長として、郷土の歴史理解と継承に尽力されていた事を知った次第である。同氏のご冥福をお祈りすると共に「富岡製糸場と絹産業遺産群」の末永い保存活用を期待したい。

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追記(2014/6/4): 本記事のランキングが5位に上昇した。多分、「富岡製糸場と絹産業遺産群」のユネスコ遺産登録確定が間近に迫って、関心を持っている人々が検索をかけているのではないかと思う。アクセス数の絶対値は不明だが、ともかくランキングの行方に、間接的に世の中の動向が反映されているのかもしれない。最近、「富岡製糸場と絹産業遺産群」と関連して、以下の論文に遭遇して読ませて頂いた。改めて、事業は人なりという感慨を覚えた。

「明治期の群馬県藤岡地区におけるキリストと養蚕業の関係-緑野教会と高山社蚕業学校を中心に-(https://gair.media.gunma-u.ac.jp/dspace/bitstream/10087/7000/1/%e7%b4%80%e8%a6%81Vol1No1_%e8%aa%bf%e6%9f%bb%e5%a0%b1%e5%91%8a%ef%bc%88%e8%8d%bb%e9%87%8e%ef%bc%89.pdf)」(著者:荻野基行;東京福祉大学 社会福祉学部(伊勢崎キャンパス)。

この論文は、「富岡製糸場と絹産業遺産群」をより深く理解するために大変参考になると感じた。是非本文にあたって頂きたい。以下にその抄録部分を引用させて頂く。

「抄録:明治期、群馬県にキリスト教が拡大した背景には欧米諸国との蚕糸を中心とする取引による影響が大きい。また新島襄の影響により県西部を中心に組合教会が多く設立されたが、この地域は組合製糸が盛んな土地でもあった。その中で藤岡地区には組合教会に属した緑野教会があり、養蚕関係では組合方式による高山社蚕業学校が存在した。両者は少なからぬ人的交流があり、高山社分教場当主の中には有力蚕種家や地域の政治家とともに信徒もいた。緑野教会創設期はこのような上昇的生産者によって支えられた。しかし多数の信徒が小生産者層であった農村教会にとって農繁期におけるキリスト教活動の減退や社会的にもキリスト教への理解が浅い時代であり、創設期は苦難の時期であった。研究対象は緑野教会の創設期を中心にそれを支えた人々と、高山社蚕業学校、特に分教場を対象に、文献をもとに研究した。」

自分なりに、明治初期の社会組織として、組合方式が盛んになったものと理解した。教会も蚕種・蚕糸の生産も組合方式。このような新しい方式を受け入れるのも社会や人心の変化がなければ実現しない。田島弥平の活躍した島村にも島村教会があり、本論文にも田島弥平はキリスト教徒であったと述べている。信仰と事業が個人の頭脳の中では融合しており、同志が同じ精神をもって、共同してお互いのための事業を行うという姿が見えてきた。

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2012年10月 4日 (木)

ツルよ 飛んでおくれ(目に留まった風景):富士重工業伊勢崎工場の謎の煙突

2012年10月4日木曜日
昨日は曇り。最高気温(℃) 24.0 13:59 。夏日を脱して涼しい位。ざっそう句:食卓や 猫が丸まる 亭主の座。朝方は子供会も参加して定例の仕事。その後、遅い朝食。今まで、床にふんぞり返って寝ていた猫が、最近では亭主の座を占拠して丸くなっている。猫も気温に合わせて行動している。それも、悠々自適でうらやましい。最近、民家の空屋が目立つが、地域の工場などの稼働状況はどうなのだろう。農業(一次産業)、工業(二次産業)は縮小の時代に入ったのか。残念だが一般人が、工場の中を覗く機会はほとんどない。自分も、現役時代は家族に職場を見せた事は一度もない。もっとも、見学コース等はあったと思うが。産業の発展も現物を見ることから始まるのではないか。群馬の工場が、第二、第三の富岡製糸場になるだけでは勿体ない。

2012年10月3日の天気(AMEDAS)

TAVE= 21.2
TMAX= 23.8 最高気温(℃) 24.0 13:59
TMIN= 19.1 最低気温(℃) 19.1 24:00
DIFF= 4.7
WMAX= 2.1 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 6.5(南東) 16:19
SUNS= 0.1
RAIN= 2.5

Q
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ツルよ 飛んでおくれ(目に留まった風景):富士重工業伊勢崎工場の謎の煙突

この道は、まだ自動車を持てない若いサラリーマンの頃、駅まで自転車で良く通った道だ。この工場の構内には一度も入った事がないと思う。最初に買った車が中古のスバル1000だったような記憶がある。雪が降って、駐車場で後輪にチェーンを装着しようとしていると、スバルは前輪に巻くんじゃネンと会社の見知らぬ従業員が一言注意してくれた。ああ、顔見知りでなくて良かったと胸をなで下ろした。当時、前輪駆動が富士重工業の誇るべき技術だとは知らなかった。

この煙突の写真は、サンデン本社の西側の道から、その西方で、朝陽を浴びて白く輝いている煙突をみて、自転車を止めて撮影した。懐かしい風景だが、ほとんど何の印象もなく今まで通り過ごしてきた風景だ。富士重工業株式会社伊勢崎工場。所在地は、群馬県伊勢崎市末広町100。富士重工業の創立は1953年(昭和28年)7月15日(創業:1917年(大正6年5月))。創業者は中島知久平。戦前軍用機を作った中島飛行機がその母体で、群馬の名門企業といえるだろう。

富士重工業ホームページによれば、現在の伊勢崎工場は従業員数(人)75 、主な生産品目は自動車用部品 となっている。かつてはこの工場で大型バスが作られていたと思う。サンデンの主力工場が、本社を残して粕川へ移転し、伊勢崎駅の北側にあった、東京アイシーの敷地も更地になり、栄枯盛衰という時代の変化をまざまざと感じる。多分、かつては、朝夕の通勤時間帯は伊勢崎駅からこの周辺までは活気に満ちていたのではないか。

「中島知久平。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E7%9F%A5%E4%B9%85%E5%B9%B3。(最終更新 2012年9月22日 (土) 14:19 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「生涯 [編集]:群馬県新田郡尾島村字押切(現在の群馬県太田市押切町)出身。「飛行機報国」の信念から、慣例をやぶって海軍を中途で退役し、兄弟で飛行機製作所(のちの中島飛行機株式会社)を創設した。 その後立憲政友会所属の代議士となり、1939年(昭和14年)には政友会革新同盟の総裁となっている。 アメリカの国力を知るところから、当初は日米戦争には消極的だったが、開戦後は「米軍の大型爆撃機が量産に入れば日本は焼け野原になる」と連戦連勝の日本軍部を批判し、ガダルカナルの争奪戦では日本の敗戦を予想して、敗勢挽回策としてZ飛行機(いわゆる「富嶽」)を提言するが44年まで無視され、時期に遅れて計画は放棄された。 近衛内閣の組閣3ヶ月後発足した「大政翼賛会」は幕府的、ファッショ的で立憲政治を侵すとして、強力な政党を作ろうとしたが、終戦まで果たせなかった。」とある。

ペンシルロケットの開発者であり、「日本の宇宙開発・ロケット開発の父」と呼ばれる糸川英夫が、中島飛行機の技術者だった事も思い出す。糸川英夫は、「中島飛行機に入社し、帝国陸軍の九七式戦闘機、一式戦闘機 隼、二式単座戦闘機 鍾馗などの設計に関わった。(WIKIPEDIA記事)」

一方サンデンは、創業者牛久保海平の織物関係の起業から始まり、部品、自転車用発電ランプ、ショーケース、カーエアコン等に業績を伸ばし、現在に至っている。確か、著書に「海平なり (海穏やかなりと読むらしい)参考:http://motozaemon.blogzine.jp/chek1/cat2806473/」があり、読みかじった記憶がある。自分の周辺にもサンデン関係者は多数おり、有力企業として地域に貢献してきた。サンデンのホームページの沿革記事によれば、「1940年代:1943年(昭和18年)7月、戦争中の日本。民間工場は、軍需産業に移行するか廃業するかの二者択一を迫られ、織物工場を営んでいた牛久保海平は通信機用部品やマイカコンデンサーの製造を開始。ここにサンデンの前身である三共電器株式会社は産声をあげました(資本金198千円)。終戦後、自転車で通勤してくる社員たちにヒントを得、自転車用発電ランプの開発に業種転換。闇を照らす“ふくろう”のマークや“夜の千里眼”“明るさ満月の1000倍”といったキャッチフレーズによる販売促進活動も展開、1953年(昭和28年)には月産3万台に達し、発電ランプ業界に不動の地位を築きました。」(http://www.sanden.co.jp/company/history.html)とあり、地域産業の発展に織物産業が寄与して来たことが理解でき大変参考になる。ところで、あの煙突は何に使われてていたのだろうか。事業が盛況であった往事を語る偉容には違いないだろうが。
Fujijyuukou_isesaki_entotu_120929
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追記(2014/2/19): 「ツルよ 飛んでおくれ(目に留まった風景):富士重工業伊勢崎工場の謎の煙突(2012年10月4日木曜日)」が当サイトのランキングに入ったのでメモしておく。

サイト内でキーワード「富士重工OR中島飛行機」を検索(https://www.google.com/?hl=ja#hl=ja&q=%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E9%87%8D%E5%B7%A5OR%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E6%A9%9F++site%3Ahttp%3A%2F%2Faf06.kazelog.jp%2Fitoshikimono%2F)。

追記(2014/5/17):
現在この記事のランキングは6位。先日、初めてこの煙突がよく見える付近にあるサンデンの構内に闖入。その時の記事「半端道楽:写真で俳句る:このタンポポって外来種?(タンポポよ 綿毛飛ばせよ 荒れ地にも。)(http://af06.kazelog.jp/itoshikimono/2014/05/post-b10f.html)。(2014年5月14日(水))」。入った近代的建物は道路の東側。展示室は西側の本館らし建物にあった。

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追記(2014/6/22):本記事のランキングは現在10位。以前、富士重工に勤めていた同級生に聞いた時は輸出用のバスを生産してとの事であった。現在も、輸出用の乗用車は好調のようだ。日本における3Cブームの先駆けになったのが、スバル360。その発祥の地を記念するモニュメントが、三角屋根の旧工場の煉瓦側壁という形でひっそりと展示されている。場所はとりせん平和町店東側駐車場の向かい側である。道を隔てて南側に伊勢崎工業高校がある。

「伊勢崎工業高等学校ホームページ(学校概要)(http://www.iko-hs.gsn.ed.jp/)」によれば、「群馬県立伊勢崎工業高等学校は、地域の方々の大きな期待と熱意を受けて、県内で最初に誕生した工業高校です。その後、明治、大正、昭和、平成と時代の移り変わりとともに、幾多の変遷を経ながら発展し、現在は全日制が機械科(2クラス)・電子機械科・電気科・工業化学科の4学科5クラス、定時制には工業技術科1クラスを設置する工業技術を専門的に学ぶ高校です。」とある。

その沿革によれば、「伊勢崎織物業組合立染織講習所開講これが本校の前身となりました。」とあり、伊勢崎市の絹産業と深い係わりがある。染色技術に関しては定評があった。絹産業の衰退に伴い、電気、機械学科等が人気学科になったようだ。群馬県の自動車産業や電機産業も、絹産業という先行産業の上に成り立っているのだろう。

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追記(2014/7/22):
本記事が現在ランキング3位に入っている。どこからこのサイトへ来ているのか皆目分からない。アクセス解析をすれば分かるだろうが、そういう趣味はない。というより、それを行っても何のメリットも無いのが実情だ。ランキング情報を見るのも面白い。想像では、「富士重工」単独のGoogle検索では、ちょっと無理のようだ。Googleでキーワード「富士重工 伊勢崎」を検索(https://www.google.com/?hl=ja&gws_rd=ssl#hl=ja&q=%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E9%87%8D%E5%B7%A5%E3%80%80%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%B4%8E&start=10)。で検索すると本記事が16/約 74,700 件でヒットした。富士重工単独では約 2,230,000 件 (0.25 秒)と表示されるので、かなり富士重工に関して詳しい情報を求めているのか?あの煙突がある工場敷地の直ぐ東側の道路を通ったので、煙突の近景が撮影できた。やはり、近くで見ると迫力がある。時刻は15時頃で、丁度チャイムが鳴った。休憩時刻か。

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追記2(2015/11/30):いつも近くを通ると気になる富士重工の煙突。実は、何に使われたのか、現在も使われているのかわからないもどかしさがある。この工場も、時代の流れにそって色々変貌してきた。いつか聞けるチャンスがあるかもと考えているが、その時は煙突の話題も出てこない。日常の風景は、見てないようだが、無意識に見てもいる。何か意識していると見えてくる、そん存在のようだ。ある人に聞いたら、ボイラーじゃないかと言っていたが、ピント来なかった。今まで、塗装は剥げ掛かっていたが、今年の夏頃、再塗装されたようだ。大きな構造物は、それを作るのも壊すのも容易ではない。従って、ランドマークとして末永くそこにあってもらいたいと思う。再塗装は、まだまだ、地域の産業遺産としてこの煙突を守ってゆくというメッセージではないかと感じる。

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2012年10月 3日 (水)

ツルよ 飛んでおくれ(愛しきもの 生き物);藤岡の鮎川にアユでなくサケがが遡上?

2012年10月3日水曜日
昨日は曇り一時晴れ。ざっそう句:ため息と 出涸れ麦茶の 秋の宵。最高気温(℃) 26.3 13:42。夏日。ニンジン区画の草むしり。買い物。野菜種子3種。山東菜の播種。直接筋蒔き。中国みやげの豆の支柱修理。気が付くと台風17号の強風で南西方向に倒れていた。9/30:最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 21.2(南東) 21:32 頃の強風が原因か。莢の幅と長さが大きくなっていた。どうもナタマメの種類らしい。殺虫剤で蜂の巣2個を駆除。多分アシナガバチ。D社のカ・ハエ用殺虫剤の有効成分はピレスロイド(d-T80-フタルスリン、d-T80-レスメトリン)とある。I社の スズメバチ用殺虫剤の有効成分は、メトフルトリン、d-T80-フタルスリンとある。後者が前者より3倍程値段が高かったので前者を購入。ピレスロイドは昆虫の神経伝達機構を攪乱する薬剤との事だ(ピレスロイドの作用機序。http://ci.nii.ac.jp/els/110000978622.pdf?id=ART0001155228&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1349189189&cp=)。スプレーを噴射すると蜂はケイレンを起こして落下。薬の威力は効果覿面だったが、本心はそこまでしたくはない。周りが騒ぎすぎ、責任論が出てくる。責任論と言っても、責任はとりたくないという無責任論がその背後にある。WEB情報では、スズメバチは危険を伴(自治体として苦情に対応)うが、足長バチは共存(自治体として苦情に対応しない)というのがある。中国みやげの豆の葉に、電気ムシのような虫がいて、刺された。こちらは自己責任だ。

2012年10月2日の天気(AMEDAS)

TAVE= 22.4
TMAX= 25.8 最高気温(℃) 26.3 13:42 
TMIN= 20.8 最低気温(℃) 20.6 08:50 
DIFF= 5
WMAX= 4.3 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 8.9(南東) 17:56 
SUNS= 1.3
RAIN= 1

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ツルよ 飛んでおくれ(愛しきもの 生き物);藤岡の鮎川にアユでなくサケがが遡上?

先日、所用の帰りに藤岡市の鮎川の鮎川橋の欄干から、川の中を覗いた。一人弥次喜多道中のように、何となく気ままに水の流れを眺めた。流れている川は鮎川なのだが、道標に「あいがわばし」という表示があった。行きに同じ場所に通りかかった時は、「藤」と「鮎」の図柄が橋の側面に埋め込まれているので、さすが藤岡の鮎川かと漠然とデジカメのシャッターを押した。

ゆっくり歩いていると、橋や道路等に、その地に関係する図柄がそれとなく埋め込まれている場合が多々あり、誰がどういう意図で行っているのか分からないが、そういう図柄を発見する楽しみを与えてくれる。初めて行った場所でそのような図柄に出会うのは何となく楽しい。初めての行程だったので、WEB地図で調べた。鮎川は鏑川に合流するのだが、東毛地方の地図を見慣れているので、鏑川から鮎川が分流するような勘違いをしてしまった。

鮎川は「あゆかわ」と読むのか、「あいがわ」と読むのかも、漠然と気になった。その後、調べてみると、昔は「あいがわ」と呼(読んで)んでいたようだ。漢字の読みを統一するようになってから、「あゆかわ」になったらしい。どちらが正しいという問題ではなく、どちらも使われたというのが実状のようだ。そうなら、「あいがわばし」という道標には、古来の地域の名前を残そうとする意図があるように感じて、愛着を覚えるような気になった。

鮎川の岸側の河床には、雑木が繁茂していたが、中央部の川筋にはゆったりと水が流れていた。最初は「あいがわばし」から上流方面を眺めていた。車列が切れた所で、橋の向かい側に渉って、ぼんやりと水面を眺めた。しばらくすると、なにやら魚が泳いでいるのに気付いた。その魚影は、橋に向かって近づいてきた。鯉かなと思ったが、鯉よりスマートに見えた。さっそくデジカメを取り出して、シャッターを切った。魚影が写ったのはたったの二枚。その魚は、やがて橋の下に消えた。その魚は鯉や鮭以外の魚だと言われても、否定のしようもない。

その後、自宅でWEB調査すると、鏑川や鮎川に鮭が遡上する事は確認されているらしい。遡上が始まるのが10月頃との事で、一応先日の体験とは辻褄はあっているようだ。鏑川橋のすぐ下に、中村堰があり、鏑川の水はほとんどが、堰のゲート部に流れていた。地図を見ると、鮎川はその堰の下流で鏑川と合流している。そうすると、自分が見た魚は、利根川、烏川、鏑川、鮎川と順々に遡上してきたのだろうかと想像したくなる。中村堰に魚道があるのか知らないが、鮭からみると、中村堰を通過して遡上するより、鮎川を遡上する方が楽そうに見える。あの魚は鮭だったのか。

「サケ。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%B1#.E3.82.A2.E3.82.A4.E3.83.8C.E3.81.A8.E3.82.B5.E3.82.B1。(最終更新 2012年9月23日 (日) 06:31 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「アイヌとサケ [編集]:北海道のアイヌ民族は鮭をカムイチェプ(神の魚)、またシペ(本当の食べ物)と呼び、生活の大半をその恵みに依存していた[5]。」とある。

実は、この鏑川と鮎川で挟まれた丘陵地帯は古墳の密集地帯で、古来から文明が栄えてきたのだそうだ。今から、千数百年前の古墳時代は、サケの乱獲などはなっかったろうから、鏑川や鮎川にも鮭が多数遡上してきたのではないかと空想する。古墳時代は、石器時代の狩猟・採取という移動中心の生活から、栽培・飼育・農耕という定住生活になる。古墳時代ではまだ、サケがアイヌの生活を支えたように、当時の人々にとって重要な食料だったかもしれない。海の恵みが、サケの遡上という形で内陸まで及んでいたとなると夢は大きくなる。
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左から:藤、鮎、道標、合流部地図(国土地理院)、魚影。

2012年10月 2日 (火)

ツルよ 飛んでおくれ(老人の寝言):群馬県の魅力度ランキングが最下位とは本当か?

2012年10月2日
昨日は晴れ。台風一過の晴天。最高気温(℃) 32.8 14:19 。真夏日になった。ざっそう句:殺虫剤! 足長蜂は 知らず飛ぶ。朝飯前に、圃場の様子等を見る。大きな異常は無い。強風で、松葉が多数落葉、タオル等が飛ばされていた。朝飯前にサツマイモを掘る。ポポーの木の下を見ると、ポポーも数個落果していたので収穫。昼前まで来客対応。秋の果物の収穫シーズンになってきたが、群馬県の代表果物は何だろうかと思う。ガラパゴスのように、群馬にはうまい果物が色々あって、天国のようだ。都会から遠い果物産地は、地元消費量が限られているので、地産地消等は、夢のまた夢と思われる。従って、売り込みのために必死にブランド向上の努力を計り、全国出荷を目指す。群馬の場合は、販売方法も、立地条件も多様。そこそこの地域ブランドで何とかやって行けるのだろうか。全国的なブランドが少ないように感じる。果物だけでなく、何事も、意識すら準都会的なあなたまかせのようにもみえる。ダサいが、ダンベー語も使い方次第でブランドになるのではないか。

2012年10月1日の天気(AMEDAS)

TAVE= 26.0
TMAX= 31.9 最高気温(℃) 32.8 14:19 
TMIN= 20.9 最低気温(℃) 20.8 23:56 
DIFF= 11
WMAX= 5 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 10.8(北西) 19:15 
SUNS= 8.9
RAIN= 2.5

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ツルよ 飛んでおくれ(老人の寝言):群馬県の魅力度ランキングが最下位とは本当か?

上毛新聞の記事を読んでいたら、「群馬県の魅力度ランキング」は全国で最低というような記事に出会ってショック。ところで、現在は情報戦国時代。下手に怪しそうな情報に手を出すとそのしっぺ返しが来る。民間会社が調査して、その結果を売ったり、関連サービスを売ったりしているような例は、業界毎に多数の例があるようだ。試しに、Googleで以下の検索をしてみた。

(1)Googleによる「都道府県 魅力度 ランキング 民間シンクタンク ブランド総合研究所」の検索。
⇒Googleによる「都道府県 魅力度 ランキング 民間シンクタンク ブランド総合研究所」の検索。
⇒約 4,210 件(0.11 秒)/(2012/09/30)。
このGoogle検索のトップに『都道府県「魅力度」、最下位は群馬 民間調査 朝日新聞- 3 日前』と表示された(念のため再検索:2012年10月2日)。

asahi.comは、『都道府県「魅力度」、最下位は群馬 民間調査。http://www.asahi.com/national/update/0928/TKY201209280583.html。(2012年9月28日22時8分))」というタイトルで、「都道府県の「魅力度」で群馬は最下位の47位――。民間シンクタンク「ブランド総合研究所」(東京都港区)が発表した「地域ブランド調査」で、こんな結果が出た。茨城県46位、栃木県44位と、北関東の低さが目立つ。  同調査は今年7月、47都道府県や1千の市区町村の認知度や魅力度、イメージなど72項目について、インターネットで全国の約3万人から回答を得た。  都道府県の魅力度ランキングで、群馬県は昨年の44位から最下位へ。昨年最下位の茨城県が46位、46位だった佐賀県が45位となり、昨年42位だった栃木県も44位に後退した。上位3位は前年に続いて北海道、京都府、沖縄県の順だった。 』と報じた。

(2)Googleによる「ブランド総合研究所 ホームページ」の検索。
⇒Googleによる「ブランド総合研究所 ホームページ」の検索。
⇒約 1,680,000 件(0.09 秒)/(2012/09/30)。

○上記サイトの中で「最下位」を検索。
⇒Googleによる「最下位 site:http://www.brandri.co.jp/」の検索。
⇒1 件 (0.07 秒)/(2012/09/30)。潜在顧客に配慮した結果?

○上記サイトの中で「一位」を検索。
⇒Googleによる「一位 site:http://www.brandri.co.jp/」の検索。>
⇒7 件(0.07 秒)/(2012/09/30)。自社売り物のランキングデータは安易に公表していない?

言える事は、どんな外部データも、参考値に過ぎない事だろう。ただ、誰でも最下位と名指されると、心臓に響いてくる。できる事なら挽回しようと、微妙に動揺する可能性もある。そこが、商売の付け目。群馬県は、全県のなかで唯一のツルだという自信があれば、それだけで何も怖くない筈だ。群の中で沈むより、孤高のツルでいてもらいたいところだ。

現役時代、半導体の生産計画を立てる時など、各社の生産量、生産能力、在庫等を業界団体で検討していたようだ。このような統計資料で、自社のランキングは大体把握できたと思う。ところが、いわゆる「人気」は、「人」+「気」で、両方とも最も流れやすいものだ。そんなものを調査しても、結果は天気予報以下ではないか。両毛新聞の記者氏が、ユトリをもって、「群馬県の魅力度ランキング」は全国で最低というような記事を書いているので、その辺は先刻承知の事なのだろうが、群馬県人らしく、ビリッケツは一番と紙一重だという位の啖呵をきってもらえば、ワサビが利いてくる。不思議なのは、「群馬県の魅力度ランキング」は全国で最低というような情報がなぜ氾濫しているかだ。新聞のネタ切れ、取材力低下の兆候でないことを願いたい。

2012年9月24日 (月)

愛しき古里:養蚕の先進地だった島村生まれの文化人「金井烏洲」記念碑を華蔵寺公園に見る。20120924。

2012年9月24日月曜日
昨日は夕方まで強弱を繰り返しつつ雨が降った。ざっそう句:お萩食い くつろぎ語る 農の慈雨。最高気温(℃) 21.8 00:08。最低気温(℃) 17.7 24:00 。雨量94.5㎜。夏日も脱して、肌寒い一日だった。クシャミ連発。午後彼岸の来客。たっぷりの雨でゆったりと雑談。この雨で、今度は秋の雑草が元気付く。多めの降雨は、「前線を伴った低気圧」が北東に向け通過したお陰らしい。昨日はひまに任せて「ツルよ 飛んでおくれ」というカテゴリーを作った。生物の歴史の中で、空中を飛ぶ、虫類と鳥類は、最大の傑作のように見える。並の努力ではその機能を実現できない。何億年、何千万年という試行錯誤の連続の末に今の姿がある。群馬県へ、いつ頃まで、ツルの飛来があったのかWEB調査したが手がかりなし。

2012年9月23日の天気(AMEDAS)

TAVE= 18.9  
TMAX= 20.1 最高気温(℃) 21.8 00:08
TMIN= 17.8 最低気温(℃) 17.7 24:00
DIFF= 2.3  
WMAX= 2.8 最大瞬間風速(m/s)(風向(16方位)) 5.6(西北西) 13:16
SUNS= 0  
RAIN= 94.5  

Kouu_ryou_120923_2

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愛しき古里:養蚕の先進地だった島村生まれの文化人「金井烏洲」記念碑を華蔵寺公園に見る

国が、富岡製糸場と絹産業遺産群をユネスコ世界遺産に推薦することが決まり、絹産業遺産群の一つである、田島弥平旧宅も脚光を浴びている(伊勢崎市ホームページhttp://www.city.isesaki.lg.jp/pcp_portal/PortalServlet?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=12795)参照。

先日、たまたま用事外出のついでに華蔵寺公園に寄った。遊園地は開園前で、観覧車の試運転をしていた。散歩人がちらほら。華蔵寺丘陵部の中腹に、いくつかの碑や像が並ぶ、例えれば、記念碑ゾーンがある。碑を見るヒマ人はワレ一人。今まで、それらの碑の存在には気付いていたが、何の碑か余り興味がなかった。年のせいか、最近そういう古い物に興味がわいてきた。

記念碑ゾーンとは言え、余り手入れされておらず少なからず失望感が漂う。説明板も読む気がしないほどのものもある。自分のデジカメも10年前の代物。ともかく、金井烏洲の記念碑だと言うことは分かっていた。余りに碑の高さが高いので、篆額の部分が読めない。碑の上部をデジカメに納め、帰宅後画像処理すると「烏洲 金井先生碑」とあるらしい。「先生」とは尊称。現代の感覚では誤読になりかねな。この「烏洲 金井先生碑」こそ、島村に田島弥平が生まれ、蚕種産業が発達する先がけとしての金井烏洲の偉大さを伝えるものではないか。石碑も読まなきゃ只の石に過ぎない。

前橋の高浜公園にある、「前群馬県令楫取君功徳之碑」の書は金井烏洲の子息である金井 之恭(ゆきやす)が手がけている。あちこちに散在する碑をつないでみると意外な発見がある。その圧巻が、この碑の文と書を、日本の産業近代化に邁進した渋澤栄一が手がけていることである。

「渋沢栄一。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80。(最終更新 2012年8月31日 (金) 04:26 )」『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。の記事に「渋沢栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 1931年(昭和6年)11月11日)は、幕末から大正初期に活躍した日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父といわれる。正二位勲一等子爵。雅号に青淵(せいえん)。」とある。

「烏洲 金井先生碑」建碑後、渋沢栄一は91才の天寿を全うしているので、90才と記されているこの碑は、渋沢栄一最晩年に近い事業だったと思われる。その碑の裏面には、地域の発展にゆかりのある多数の協賛者の名前が記載されており、その人名を辿れば往事の地方の文化や産業のありさまが浮かんでくるだろう。

現役時代に、渋沢栄一の「論語と算盤」という本を古本で買って拾い読みした記憶がある。二松学舎から出ていた枕になるくらいの厚い本だった。本記事作成に際して、「二松学舎列伝 第3代舎長 渋沢 栄一 (http://www.nishogakusha-u.ac.jp/retuden.htm)」を読んで、なぜ二松学舎から出ていたのかその謎が解けた。

当時は、中国では毛沢東の衛兵を使った文化大革命(WIKIPEDIA。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E9%9D%A9%E5%91%BD)が起こり、「批孔批林」が叫ばれていた。林彪は政敵として論外だが、孔子や論語すら反革命の象徴になっていた。本書を読んだ印象は、「論語」とは人間としての行動規範、算盤とは経済規範(経済合理性)を象徴していると思った。当時は、北京週報等を購読して、文化革命もむべなるかなと思ったが、「論語と算盤」にも新鮮な印象をうけた。従来の日本の論語(儒学)には算盤が欠けていたのだから。この二つの規範を結ぶのが「と」であり、その重心に渋沢栄一が立ち、行動と経済を車の両輪の如くうまくバランスさせて、日本の近代化を推進したんだなと今になって思う。

バランス感覚が崩れ、どちらかに傾きすぎると、方向が狂ってしまう。いわば、この本は、天秤の重心に自分を置き、常にバランスをとれと教えているように思えるのだ。歴史の中で、中国も日本も天秤が揺れるが、その揺れ方は異なる。中国はいまだ文化大革命を集約しきっていない。文化大革命の影響は今も続いている。中国の歴史の揺れは、地震に例えれば、長周期成分のように、長くかつその振幅も大きいのだろう。

金井烏洲のような文化人が出るためには、それなりの生活や精神の豊かさとユトリ、地域の歴史・文化が必要になる。中でも経済的な基盤として養蚕があった事は疑いがない。渋沢栄一が金井烏洲の碑を華蔵寺公園に残した理由は、謎でもあるが、伊勢崎に養蚕が栄え、金井烏洲に関わる人脈が豊富にあった事を物語っているのではなかろうか。日本も近代化の歴史の中で、大きな揺れを体験しつつあるように感じる。近代化の成功と挫折。今、興味があるのは近代化の挫折からの回復だが、その切り札が見えない。石碑をかじって、先人達の苦労を偲ぶ中で少しでもその手がかりが掴めれば良いと思うのだが。
Kanai_ujyuu_sibusawa_eiichi_2pix
左:碑の上部を見上げる。右:文字強調(カラー反転:渋澤榮一撰并書と見える)。

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追記(2020/07/01):アクセスランキング2位に入っている。記事タイトルに投稿期日を追加。ついでに記事を再読した。気ままにアクセスランキングを記録しているが、アクセス数は数十回/日程度で、本日で累積アクセス数は34089となった。このカウンターは自分のアクセスも数えているので外部アクセス数はその半分程度と見ている。読者に感謝。多分、検索エンジン経由アクセスしていると思われる。この記事が読まれるのも渋沢栄一の万札効果なのだろうか。想像するに渋沢栄一も現在の日本の状況を見れば苦笑いする以外に無さそうだ。この碑の裏面には、当時の地方の有力者の名前が刻まれているがこれを書き出した資料はあるのか。

碑文やこの碑の解説はこちらを参照:Go!伊勢崎:

https://www.go-isesaki.com/hist/syosi/hibun/70geijut/72nihonga/72-1ujuu/72-ujuu.htm







2012年9月23日 (日)

TEST0923=ツルよ 飛んでおくれ

  • 2012年9月23日日曜日
    TEST120923
  • 新カテゴリー:222_ツルよ 飛んでおくれ
  • MEMO=
    群馬県の地図作製:
    http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/map/map.html
  • 222_ツルよ 飛んでおくれ

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      「ご要望にお応えしてアンコール復刊(1988年岩波新書50年記念復刊) 地球生態系の中で自然を見直す」(腰巻きのフレーズ)。植物の知恵と戦略に人類は勝てるのか。
    • 出町 誠: 14_NHK趣味の園芸:よく分かる栽培12ヶ月  カキ(NHK出版2007年)
      初心者向け柿栽培参考書(新版)。旧版と比較すると楽しい。
    • 中村三夫: 13_NHK趣味の園芸:作業12ヶ月  カキ(NHK出版1996年)
      初心者向け柿栽培参考書(旧版)。新版と比較すると楽しい。
    • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
      細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
    • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
      著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
    • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
      ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
    • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
      やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
    • ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫訳): 08_サイバネティックスはいかにして生まれたか(みすず書房1956)
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