04A_寝言老人が幼少の頃

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2008年12月23日 (火)

こうせんの香り

2008/12/23

こうせんの香り

こうせんは大麦をいって粉にした食べ物で、地方により麦こがし、はったい粉とも呼ぶらし

い。こうせんを固めたような菓子に麦らくがんがありこれは今日でも お目にかかる。こうせん

は幼少時のちょっと上等のおやつの一つである。ひなびた香ばしさがなつかしい。しかし、子

供にとっては香りよりまぶした砂糖の方がお目当てではなかったかと思う。遊びで飛び回った

後の甘い物の味は格別である。空腹時の砂糖掛けご飯も忘れられない。

今では、実際に「こうせん」を作っている現場を思い出せないが、ものを煎る「ほうろく」という

鋳物の道具や粉をつくる石臼もあった。こういう道具を使って冬の農閑期や正月頃に祖母等

が作ってくれたのだと思う。今でも作ろうと思えばつくれるだろう。こうせんを食べている姿を

思い出す。新聞の切れ端にスプーンで2~3杯すくってもらう。それをペロペロとなめる。

これだけで、フケツー、ギョギワルイになってしまいそうである。現代人は完全に商魂の奴隷

になりはてたようだ。こうせんは素性の分かっている素材を使ってお母さんや、おばあさんが

愛情をもって作ってくれた、本当に安全で有り難いおやつであった。

2008年12月18日 (木)

日光写真

2008/12/18

日光写真

子供の遊びで日光写真はひと味違う面白さがあった。ネガ画像の下に感光紙を置き、透明

ガラスの箱の表面を通して日光で感光しポシ画像を出す遊びである。基本は普通の写真と

共通する所があり、画面が浮き出るという神秘感を味わえるのがうれしかった。画像の題材

は当時の俳優など子供が興味を持つものであった。似たような遊びに移し絵というのがあっ

た。これは図柄を塗料で印刷して作った紙を切り取って、自分の好きな場所に塗料を転写す

る遊びである。図柄はカラーであったが、単色の日光写真程の面白さがなかった。日光写真

は化学変化というやや不安定な要素が有る分、良い写真を作る技術が必要になり、日光の

状態、現像時間等工夫する面白さがあったのだろう。小学中学年頃の遊びだったと思う。

2008年12月14日 (日)

幼稚園の思い出(改題):寝言老人が幼少の頃:幼児教育の重要性とその原点。081214。

2008年12月14日 (日)

幼稚園の思い出(改題):寝言老人が幼少の頃:幼児教育の重要性とその原点

幼稚園のことになると記憶は曖昧である。小学校の中にあった、古い木造の講堂の一角にあったような覚えがする。その後、校内に新しい園舎が建てられそちらに移ったのではないか。

現在は小学校から出て単独の幼稚園になっている。覚えているのは、登校拒否ならぬ、登園拒否。これで両親を悩ませたのではなかったかと思う。登園拒否の理由も定かでないが、農家なので衣服がみすぼらしいことなども影響していたかもしれない。

制服・制帽があったのかも覚えていない。先生は黒っぽいめがねをしていた女の先生だったように思う。童謡の切れ端を覚えているので先生が弾くオルガンで遊戯をしたりしていたのであろう。

講堂の前には二宮金次郎の像が立っていた。白っぽいので石かコンクリート製であったように思う。

今日では幼児教育の重要性は認識されているが当時は労働力を確保する為の保育園的な機能もあったのかもしれない。

ともかく幼稚園生活を無事送れたので小学1年生の生活はスムーズであったと思う。


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2008/12/14

幼稚園の思い出

幼稚園のことになると記憶は曖昧である。小学校の中にあった、古い木造の講堂の一角に

あったような覚えがする。その後、校内に新しい園舎が建てられそちらに移ったのではない

か。現在は小学校から出て単独の幼稚園になっている。覚えているのは、登校拒否ならぬ、

登園拒否。これで両親を悩ませたのではなかったかと思う。登園拒否の理由も定かでない

が、農家なので衣服がみすぼらしいことなども影響していたかもしれない。制服・制帽があっ

たのかも覚えていない。先生は黒っぽいめがねをしていた女の先生だったように思う。童謡

の切れ端を覚えているので先生が弾くオルガンで遊戯をしたりしていたのであろう。講堂の

前には二宮金次郎の像が立っていた。白っぽいので石かコンクリート製であったように思う。

今日では幼児教育の重要性は認識されているが当時は労働力を確保する為の保育園的な

機能もあったのかもしれない。ともかく幼稚園生活を無事送れたので小学1年生の生活はス

ムーズであったと思う。

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追記(2017/12/04):記事整形、過去BLOG再読、印象・コメント等
タイトル等を変更。

BLOGを本格的に書き始めた初期の頃の記事である。9年程前の記事でこの間の社会の変化も大きい。「保育園落ちた日本死ね」という言葉にも社会の大きな反響があった。既に、幼児の段階から、日本人は選別される危機に直面しているのが現実なのかも知れない。

The Huffington Postは、「NEWS 「保育園落ちた日本死ね」ブログの本人がいま伝えたいこと「どの党に所属していようが関係ない」(このサイトへのリンク);http://www.huffingtonpost.jp/2016/03/14/hoikuenochita-blog-_n_9457648.html( 笹川かおり:2016年03月14日 19時17分 JST | 更新 2016年03月15日 16時24分 JST )」というタイトルで、「「保育園落ちた日本死ね!!!」と題した匿名のブログが大きな注目を集めている。政府の「1億総活躍社会」のかけ声とは裏腹に、なかなか解消しない待機児童の問題を指摘する内容で、ネット上には同じ境遇の人たちから共感の声が相次いだ。ハフポスト日本版は3月中旬、30代前半の女性というブログを書いた「保育園落ちた人」に、いま、何を思っているのかメールで話を聞いた。 匿名ブログが投稿されたのは、2月15日だった。」と報じた。

この記事を再読しつつ、幼稚園の担任は女性のA先生、小学校一年の担任も女性のS先生と、担任の先生を思い出しているが、明らかに男性の担任が少ないのに気付いた。これは、幼児を扱うのに女性が適しているからと言う配慮の故か。

実は、男性教員が少なかった理由に、徴兵されて戦死した教員が多かったのではないかと今になって感じている。これは終戦直後に生まれたというヒガミの反映か。クラスを受け持つ担任には気力・体力と経験が不可欠だ。そういう年齢層の教員は、徴兵年齢と重なる。真相は不明だが、幼稚園~小学校の担任に男性が少なかったという記憶が蘇って来た。

「平成26年度 伊勢崎市の教育(伊勢崎市教育委員会)」によると、「1890(M23. 5.12) 伊勢崎尋常小学校に予修科付設(幼稚園のはじまり)。」とあり、伊勢崎市の幼児教育が明治の中頃まで遡るのが分かる。

古い木造の講堂は撤去され、その南方に新しい講堂が建てられている。本記事以後の発掘調査で、三軒屋遺跡の一部である旧講堂跡地かその周辺から、儀式に使ったと推測される幢竿(どうかん)と呼ばれる旗を立てるための斜め向きの穴が検出されている。

自分がお世話になった幼稚園の正確な歴史は知らないが、多数の卒園生を世に送り出している筈だ。

当BLOGのサブタイトルは、「失われた時を求めて | 遠くはるかな記憶と共に | いとしきものを訪ねる | 果てしのない心の旅 | 」である。記憶を遡ろうとあがいても、精々幼稚園頃までが限界である。記憶を及び戻す、記録や遺品・遺物があると実に有り難く感じる。

前記、「平成26年度 伊勢崎市の教育(伊勢崎市教育委員会)」は参考になった。伊勢崎市のHPからDL可能である。

2008年12月13日 (土)

桑繊維の着物

2008/12/13

桑繊維の着物

桑の皮剥ぎは終戦後の物資の欠乏を思い出させる手仕事であった。蚕が大きくなると桑の

枝に葉が付いたままで餌にする。上簇後に枝と蚕の糞等が残る。この桑の枝から糞等を振

り落としてから桑の皮剥ぎをする。子供だったので皮を何に使うか分からなかった。聞くとこ

ろによると、その皮をたたいて軟らい繊維にして布に織り上げるとのことであった。そう言え

ば、なにかゴワゴワとした着物を着せられた記憶がある。桑の繊維で作られた衣服を着るほ

ど物資が不足していた時代があったのだ。しかし、貧しいという感覚は無かった。貧しいとい

う感覚は相対的なもので、まわりが皆同じ状況なのでそれがあたりまえであったわけだろう。

2008年12月11日 (木)

紙芝居屋さんの思い出

2008/12/11

紙芝居屋さんの思い出

昔の子供達の楽しみは主に屋外の遊びであった。紙芝居はプロの紙芝居屋が来て見せてく

れるので、遊び以上の楽しみであった。大体、紙芝居をする場所と時間は決まっているの

で、その時刻になると子供達が集まり始める。紙芝居屋は紙芝居や太鼓や売り物を積んだ

自転車でやってくる。そうして、来たぞーという合図に、ドンガラカッカ、ドンガラ、ドンガラと

太鼓を叩いて回る。子供達が集まると、水飴やべっこう飴を売る。子供達は順番がくるまで

並んで待っている。そうして、最後の子供が買い終わるといよいよ紙芝居が始まる。子供達

は二本の棒で水飴をこねたり、べっこう飴を舐めながら紙芝居をみる。紙芝居屋は活弁の弁

士のように流ちょうに話を進め、紙芝居が見せ場に来るとドドドドドーンと太鼓を打つ。これで

子供達は紙芝居に引き込まれ、劇中の人物になりきってしまう。そうして、続きは次回のお楽

しみということになる。もう一つ子供達が楽しみにしている仕掛けがあった。水飴はこね回す

と透明から白色に色が変わる。べっこう飴には小さな図形の押し形が付いていて上手に舐め

るとその図形がきれいに取り出せる。紙芝居屋さんはそういうこねたり、舐めたりする子供達

の技術を査定して上位のものに努力賞のようなものをくれた。さて、演目は何であったか良く

思い出せない。多分、黄金バットのようなものであったと思う。紙芝居屋という仕事も終戦後

の職を失った人の知恵であったようだ。母はよくこう言った。お前達が紙芝居を見に行くとき

は芋を持って行ったんだよと。お前は芋で育ったんだ。こういわれると次の言葉が無い。確か

に俺の背は低いなー。さすがに芋を持って紙芝居を見に行った記憶は無かったが、そういう

時期が実際にあった。穴あきの五円硬貨が製造されたのが昭和24との事である。多分自分

が思い出した紙芝居は五円硬貨を握りしめて見に行った頃の情景であろう。

数人でお茶のみ話をしたときに出た事を以下に記しておく。紙芝居屋は人集めに拍子木も使

ってカチカチと触れ回ったとの事だ。太鼓や拍子木を子供に叩かせることもあったらしい。お

礼に水飴などもらえたので俺も俺もと手を挙げる者が沢山いたとか。買わない者は見ちゃ駄

目だよと言われたこともあるらしい。でもそういう人は後列で黙って見ていたようだ。やはり、

先輩が見ていた事は詳しい。

2008年12月 8日 (月)

藁葺き屋根の臭い虫

2008/12/8

藁葺き屋根の臭い虫

自分が生まれ育ったのは築百年程度の藁葺きの家であった。間取り、様式等は養蚕地帯の

民家の典型的なものだったように思う。屋根葺き材料としては茅と藁があるがどちらであった

かはっきりしない。屋根葺きは一家のみで出来る仕事ではないので近所の人が手伝った。い

わゆる結いという習慣があったようだ。屋根葺き時期が近づくと茅を刈り集めて貯めたのだと

思う。段々良質な茅がとれなくなるとその代用で麦藁が使われてきたのであろう。当時はまだ

屋根葺き職人も健在であった。少しの雨漏りならば、部分的な修理で済むが、本格的に漏れ

始めると大変である。雨受けの容器が足りない位になり、ついに改築することになった。

藁屋根で雨漏り意外に困ったのは<臭い虫>と呼んでいた虫である。2㎝前後のムカデの

ような多足類でこれが屋根にすんでいたようだ。この虫の臭いがまた大変いやなにおいがす

る。見つけると新聞紙でつかんで捨てたりしたが、鍋にはいると鍋は全滅であった。ともかく

改築時には、この古屋の柱等は新屋の建材の一部として再利用された。

2008年12月 7日 (日)

馬小屋から兎小屋へ

2008/12/7

馬小屋から兎小屋へ

藁葺きの納屋の南東の一角に馬小屋があった。馬は農家では家族の一員という位大事にさ

れていた。当地にもお馬の親子の愛情話を伝える記念碑がある。また、馬頭観世音というの

が祭られている。父が復員する時に馬を一頭連れてきたらしいが、その馬がいなくなった後

は馬小屋は風呂場と兎小屋になった。兎はリンゴ箱程度の金網を張った箱で飼った。小家

畜として育てて大きくなると兎屋さんが回ってきて買ってくれた。小遣い銭程度であったが貴

重な収入源で、兎を飼うのは老人や子供の仕事であった。かごを持って兎の餌取りも当然

子供の仕事であった。友達と連れ合って畑や田んぼで草取りをした。当時はまだ害獣である

イタチが周辺に棲息していた。油断すると鶏や兎はイタチが小屋に入り込み被害を受ける。

馬小屋で兎を飼ったのは人の行き来の多い場所なのでイタチ対策もあったかもしれない。

2008年12月 4日 (木)

竹馬遊び

2008/12/4

竹馬遊び

最初に竹馬に乗り始めた頃は10~20㎝ほどの高さしかなかったっと思う。父が青竹を切っ

て作ってくれた。竹馬は重心のバランスの取り方が大切だ。最初は倒れずに立つ事を覚え

る必要がある。次ぎに一歩を踏み出すこと。右左が交互に踏み出せれば基本はマスターで

きたことになる。竹馬を自分で作る事ができる年齢になると高さも高い竹馬を作れる。これを

友達と一緒に乗り回すのだ。乗り場所を見つけないと乗れないくらいの1~2m位の高さの

竹馬にも乗った。高い竹馬に乗ると歩幅が広くなり、視点も高くなるので何か人間離れした感

覚を味わった。遊び道具を自分で作ると楽しみは更に広がるようだ。      

2008年12月 3日 (水)

水が氷った金魚鉢

2008/12/3

水が氷った金魚鉢

幼少時代の冬の暖房と言えばコタツ、練炭コンロや火鉢、囲炉裏程度であったように思う。

また、寒さも今日に比べると大分寒かった。自分は魚を飼う事などが好きであったので、金

魚も飼った事がある。金魚鉢をヒモで客間の天井からつるして下から見ている。金魚が動く

度に形が歪んで見えるので時には飽きずに見ていたようだ。寒くなると金魚の動きも鈍くな

る。真冬の寒い日、金魚は全く動かない。よく見ると金魚鉢の水が氷っていた。当時の寒さを

思い出させる現象として沼一面の結氷、軒下のつらら、長く伸びた霜柱などを思い出す。手

足にはあかぎれができた。

2008年12月 2日 (火)

お金の使い始め

2008/12/2

お金の使い始め

いつ頃からお金を使うことを覚えたのかははっきりしていない。幼少の時でも、母親は忙しい

のでちょっとしたお使いは子供にさせた。行き先は近所のしもたやであった。雑貨、食品等の

日用品を扱っていた。お使いに行くと店のおばさんがちょっとしたおまけを付けてくれた。これ

がおつかいの楽しみであった。家の手伝いをしてお駄賃を貰ったのは小学校入学以前であ

ったので、お金を使い始めたのもそのころであったと思われる。今の子供達のようにお金を

銀行等に貯金するほど貰った覚えはない。竹筒で作った小遣い入れに硬貨を貯めるくらいで

あった。その竹筒も一杯にならないうちに割ってしまったのが実状であった。ともかく、お金は

幼いながら労働の対価であった。お金の大切さはお手伝い等の仕事を通して実感していた。

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ISESAKI  有情1

嗚呼 伊勢崎 非情

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  • 橋本 英文: 刃物雑学事典 図解・刃物のすべて(1986年 株式会社 講談社 ブルーバックス B-659)
    刃物という視点で多くの事例が取り上げられている。刃のある道具の理解にも役立つ。類書が少なく貴重な一冊。「すべり変形が切断の原理」という考え方で説明している。
  • 沼田 真   : 植物たちの生( 1972年 岩波新書(青版 833))
    「ご要望にお応えしてアンコール復刊(1988年岩波新書50年記念復刊) 地球生態系の中で自然を見直す」(腰巻きのフレーズ)。植物の知恵と戦略に人類は勝てるのか。
  • 出町 誠: 14_NHK趣味の園芸:よく分かる栽培12ヶ月  カキ(NHK出版2007年)
    初心者向け柿栽培参考書(新版)。旧版と比較すると楽しい。
  • 中村三夫: 13_NHK趣味の園芸:作業12ヶ月  カキ(NHK出版1996年)
    初心者向け柿栽培参考書(旧版)。新版と比較すると楽しい。
  • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
    細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
  • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
    著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
  • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
    ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
  • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
    やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
  • ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫訳): 08_サイバネティックスはいかにして生まれたか(みすず書房1956)
    情報と通信という現代社会に不可欠の基礎的な学問を作った著者の自伝とそれを通した科学史
  • 沼田 真(編): 07_雑草の科学(研成社1979)
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    POST IT :ブログ画面への張り紙に使える。
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    2010/8/4:MEMO等の表示に使える。 農作業で気になる自戒の言葉 ■畑の石ころはいつまで経ってもても石ころ(早く拾って片づけよという意味か)。 ■同じ石を二度拾うな(やってみると難しい)。 ■手ぶらで歩くな。 ■三つ先のことを読め。 ■適当な観察。 ■空を見よ(気分転換、休憩、天気を読む、腰曲がり防止)