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2010年12月

2010年12月31日 (金)

身辺雑記:もちつき

2010/12/31

身辺雑記:もちつき

昨日、恒例のもちつきが無事終わった。杵と臼でつくくのでどうしても屋外作業となる。過去を振り返ってみると屋内で餅つきをした記憶もない。そこで伊勢崎のアメダスのデータがある1977~2009年の恒例の餅つき日の天気を調べてみた。一回だけ1mmの雨があったが、それ以外は日照があった。この時期は冬型の天気が安定しているようだ。恒例と言っても年々状況は変わる。餅つきというイベントを通して人が集まり会話が生まれる。最近は餅つきができるのもあと何年云々と冗談とも言えない話が出てくるがそれくらいは続くと思っている。ともかく一年も無事終わり、新しい年を迎えられそうだ。感謝。

追記:一回だけの雨の日の餅つきの記録をたどって見た。大した雨ではなかったので、臼を楠の下に移して続行してその日の餅つきも無事終わっていた。こんな時も、いつもは邪魔者扱いの楠が役立っていたのだ。2010/12/30のアメダスデータが揃った。暇つぶしにアメダスのデータをグラフにしてみた。昨日は終日曇りで日照時間はゼロでこういう天気もこの特定日では珍しいようだ。気温は24Hの平均。日照が無く寒い一日であった。
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2010年12月30日 (木)

雑草句録:年賀状

2010/12/30
年賀状も何とか投函した。

雑草句録:年賀状

■年賀状買えども書けぬ年の暮れ
■年賀状手書きすれば筆滑る
■紅白もお預けにして年賀状

寒さのためかCRTディスプレーの画面が歪み、中央部が少し細まった。これを前面の調整ボタンを押して直線に補正した。垂直信号が画面の中央近くまで来た頃に水平ドライブ振幅が小さくなったのが原因と思う。昔の会社の同僚にはこの偏向系の集積回路の専門家がいた。偏向系の集積回路はTVだけでなく、パソコンのモニタ用にも使われた筈だ。来年アナログTVは終焉するが、コンバータを付ければアナログTVもまだ使えるということは、デジタルTVと言えどもアナログ信号の骨格をまだ残しているのであろう。まさにアナログな世界であるが、素人が簡単に調整できるというのも技術の進歩の一段階を示している。液晶ディスプレーならばそんな調整は不要かもしれない。しかし、毎日使っていると愛着が湧いてくるのも事実だ。このディスプレー(調べてみるとDell E551a [15" CRT] と出てきた  )はパソコン本体とセットであったが、故障したディスプレーの後がまとして頑張っている。今年の年賀状も、一部はパソコンを使い、宛名、消息等は手書きにしたいと考えている。アナログな生活の復活である。2010/12/15。

2010年12月29日 (水)

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(14)。101229。

2010/12/29
PARTⅡ

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(14)

○「辞世の歌に見る気概」の章

■枯れ果てて身は土となり墓なくも 心は国を守らむものを
■松崎の駅(うまや)の長に問ひて知れ 心づくしの旅のあらまし

「これは自刃の場に残されたものというから正に辞世の歌である。」、初めの歌は「彦九郎の心を率直に述べている。」、『「墓なくも国を守らむ」は「山行ば草むす屍」の古歌の気概そのものである。』と著者は記す。また「二首目は前年五月に『酌みかはす今日の別れの盃のめぐるがごとにまたも相見む』と歌って別れた碩学の友、赤崎貞幹と再び会い、そして最後の別れとなった歌である。」とその背景を解説している。そうして、「高山彦九郎正之の没後二百年、余りにも純粋であった行動の人、時代変革への先覚者、心深き歌の人、この稀なる奇傑に、われわれは一掬(いっきく)の涙を注ぎたい。」と締めくくっている。
本書が高山彦九郎没後200年を記念して出版(平成5/1993年)されてより、もうじきに没後220年を迎える。自分が高山彦九郎に関心をもつようになったのは、八幡沼開鑿の指導者である川端宇兵衛(川端宇兵衛隆久)を知ってからである。その父、川端宇兵衛広光は高山彦九郎の次の世代の人物だが、高山彦九郎自刃の頃丁度青年期にあり、その優秀な資質を認められ、川端幾右衛門広忠のむこ養子に迎えられ、学習塾の経営を任されている。川端宇兵衛広光は父は地域の有力者で年貢の減免を領主に訴えて所払いとなり一家が離散している。従って、この川端宇兵衛の三代には農民の窮状を救わねばならぬというDNAが流れているように感じる。川端幾右衛門の後裔に話を聞くと元々は武家であったとの事。家業として寺子屋を経営していた。彦九郎の師は伊勢崎藩校学習堂の命名者である伊勢崎藩儒の村士玉水といわれる。また年表によると、宝暦11(1761)年彦九郎15才の時、伊勢崎藩の松本晩翠の塾に通うという記事がある。それから時代をたどると、丁度川端幾右衛門も塾を経営していたので、同業者として松本晩翠との交流もあったと推定される。従ってなんらかの形で高山彦九郎と川端宇兵衛の間に塾を通して思想的な交流があった可能性があると推定している。更に、国定忠次に関しては新井雀里が忠次の墓碑銘を書いているが、新井雀里は伊勢崎藩儒であり、幕府から蝦夷地に派遣されていると聞いた。ここにも高山彦九郎と関連する流れがあるように感じている。断片的であり、点と点を結ぶ線ははっきりしないが今後、過去であっても未知なる出来事に光があたる事に期待したい。

追記1:歌人須永義夫の「彦九郎 歌と生涯」を拾い読みしてようやく最後まで到達できた。なにか重苦しさを感じたのも事実であった。短歌文学に母の歌を見つけてそれをまとめたのがきっかけでここまで来てしまった。もし気付かなければ数十冊にもなる冊子も処分して、自分の興味も他に向かっていたかもしれない。最近、断捨離という言葉を耳にした。物あまりの時代の苦し紛れの現象のように思えてしまう。祇園精舎の~諸行無常~と時の流れに何事も断捨離は自然に進行してしまう。あえて断捨離に翻弄される必要はあるまい。断捨離の逆は継拾接となろうか。継拾接は自然の流れに逆らってエネルギーを必要とする。身軽になるのは結構だ。高山彦九郎の旅も身軽だったのだろうか。何か押しつぶされそうな重さに耐えつつ旅をせざるを得なかったようにも感じる。軽薄短小ではなく重厚長大の世界もあるようだ。

追記2:高山彦九郎記念館の「高山彦九郎ゆかりの藩校・郷校・私塾等」の資料によると、
伊勢崎藩が安永4(1775) 年に設立した藩校学習堂の項で、「新井雀里の著「高山芳躅誌」には、伊勢崎藩校学習堂の村士玉水・浦野神村・関重嶷との交遊があったことが記されている。」とある。最近古書市で閉店間際に「高山芳躅誌」を発見。中をちょと拝見しただけで終わり、残念。「芳躅=ほうどく?」「躅」は「あと」の意味がある。高山彦九郎先生伝記というような内容に思えた。

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追記(2018/06/04):「芳躅=ほうたく(顕彰の意味)」と読むらしい。ランキング6位に入っているので再読。タイトルに日付追加。

Googleでキーワード「高山芳躅誌」を検索


下記の 国立国会図書館デジタルコレクション で読める。

高山芳躅誌

新井, 雀里, 1813-1900,新井雀里 編 雀里会 1926

新しいウインドウが開きます 国立国会図書館デジタルコレクション

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追記3:高山彦九郎記念館の「高山彦九郎ゆかりの藩校・郷校・私塾等」の資料によると、「伊勢崎藩儒であった新井雀里が著した「高山芳躅誌」(雀里会刊 大正15年)はきんからの聞き書きが元になっている。」とある。また、殖蓮公民館だより(H21/04)連載のENJOYウォーキング~ 殖蓮歴史散歩(執筆:殖蓮史談会 星野正明氏) 第69回 殖蓮 川と橋と水辺の風土記⑨宗高橋の記事に以下のように新井雀里の事が述べられている。「橋の西側、宗高町に明治維新の廃藩置県で武士に家が与えられたお建屋(おたてや)が、12 軒ありました。その1軒に江戸時代に有名な学者、新井雀里(あらいじゃくり)先生の教授する南淵塾(なんえんじゅく)がありました。この塾に学んだ人達から、伊勢崎の明治大正時代に活躍した人達を輩出しました。伊与久の細谷はま子(関東学園経営・現在の館林市にある関東短大)、星野源左衛門(伊勢崎町長)相川之賀(あいかわしが、郵便局長、相川考古館創立者)黒崎弁之助(桐生市、名校長)高柳裕五郎(国領町、岩見沢市長)矢島屯次郎(上植木、殖蓮村の実力者)等々、多くの名士を誕生させました。また、名筆の聞こえが高く、当時の名筆家、下植木の長尾慥二郎(現在の東本町)と並ぶ文化人で、文章や漢詩に長けて、多くの墓碑銘を残しています。中でも知られているのが、国定忠治の墓碑銘です。雀里先生は、国定忠治より3歳年下の同じ時代の人で、忠治の33 回忌に建てられた墓碑銘を頼まれて書いています。知識人である雀里先生による墓碑銘は、次の如く記してあります。『君ノ氏ハ長岡、通称ハ忠次郎、上野国佐位郡ノ産、頗ル遊侠ヲ好ミ、遂ニ博徒数百ノ魁ト為ル。然レドモ恒ニ剛ヲ砕キテ弱ヲ右ケ、豪ヲ挫キテ貧ヲ賑ワスヲ以テ心ト為ス、(以下、略)』と刻んであります。」新井雀里という当時の地域有数の知識人において、高山彦九郎と国定忠次の接点があったことがはっきりした。ところで、新井雀里は死ぬ前に、潔く資料や記録を処分してしまったとある人から聞いた事がある。新井雀里(文化11(1814)年~明治33(1900)年)を通して高山彦九郎や国定忠次を見直すことが可能かもしれない。

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(13)

2010/12/29

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(13)

○「消えた”九州日記”」の章

著者は「彦九郎は自刃の前日に、手許にあった日記、書類の類を尽く破棄している。」、「同志に犠牲者が出るのを怖れたのである。」と述べてから、彦九郎自刃の様子を記す。

■ことし八つと聞くにぞいとど覚ほゆる 我が子も同じ年と見るにも
■我を思ふ人は有りともあらずとも 恋しかりける故郷のそら
■酌みかはす今日の別れの盃の めぐるがごとにまたも相見む

著者は「彦九郎は妻子のことをほとんど省みない如くだが、熊本を出た菖蒲池村ではわが子と同年配の子を見て心揺らいでいる。子については普段口を噤んでいるだけにその心中が思われる。」と「筑紫日記」の中の歌を記す。「最後の歌は鹿児島県の加治木で心許した同志赤崎貞幹と別れを惜しむところである。彦九郎として天下回天の思想を説いて経めぐる旅であったろうが、歌だけはその心情に幾ばくかの距離を置いている。それが歌の道であったろうが、彦九郎の衝迫した心を救っていたとも言えるだろう。」と締めくくる。ここで著者で歌人である須永義夫の歌に対する考え方の一端が現れているように思える。短歌文学の歌の講評で歌は心情の告白とか述べていたのを思い出す。しかし、心情が歌になるまでには、脳内では色々な作業が行われる訳で、心情そのものではない作品として形を得る。やはり、歌に詠うと時には客観的な分析等も行われる。そう言う点で、歌を作るという行為が感情や心情と理性をバランスさせる働きがあるのかもしれない。

2010年12月28日 (火)

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(12)

2010/12/28
PARTⅡ

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(12)

○「尊王から倒幕への転機」の章

この章では、著者は「これについてやはり定説に近いものに尊号事件がある。」とのべて、彦九郎の転機と死の理由解明に入っているように感じる。この章には歌は無く、論述には著者の心情が溢れているように感じる。詳細は本文を参照したい。そうして著者は、「彦九郎は自らの使命も時代も終わったのだと考えたのだろう。」して、彦九郎の自刃の理由を「自らの死をもって起爆剤とすることと判じたのだろう。」と述べている。彦九郎の広い交友関係、学識、行動等があって初めてその自刃による死が、それに続こうとする人々の号砲になったと読めるのではないか。

追記:自刃は自刃した本人の全ての価値観を表す行為ともとれるであろう。高山彦九郎は切腹したが死にきれず、絶命したのは翌日であったようだ。著者の記述より凄惨な様子が目に浮かぶ。政界を引退すると公言した人がとるにたらない理由を挙げて前言を翻すような行為があたりまえになってしまった。政治家にとって政界からの引退はまさに自刃であろう。その波紋が広がり新しい波が生まれる。
著者は戦前に当時の細谷村にある彦九郎の生家を訪れ、
■ここの家に生(あ)れし正之(まさゆき)先生が国憂ひ世を嘆きとどまり難かりき
と詠んでいる。

 著者が戦前、細谷村 高山彦九郎生家跡で詠んだ歌へ

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(11)

2010/12/28

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(11)

○「役人の追求のてが」の章

「緑亀を献上した四ヶ月後に彦九郎は九州遊歴の旅にでた。」著者はその足跡と交遊状況を要約し、「だがこうして休む間もなく奔走する彦九郎を、役人等が危険人物として注目しない訳がない。」としつつ、「彦九郎の死はその理由が計り難く、さまざまに憶測されているが、この情熱的憂国士の心情を思えば、その理由も明らかにしたい感がある。」とこの章を結んでいる。いわば、この章は次の章への導入のように見える。

追記:江戸時代とはいえ旅にでれば路銀がいる。旅に明け暮れた彦九郎はその費用をどのように確保したのか気になる。「高山彦九郎の実像」の中の別の記事を読むと彦九郎の経済的な支援者もいたようだ。また、祖父が母方の高山の姓を名乗り蓮沼家より隠居分家した時相当な財産を引き継いだらしい。その金は祖父、父の思想・理想というDNAを実現するために必要になった時だけ使えと代々伝えられてきた基金のようであったらしい。彦九郎と交流した人達は最新のニュースや学問に関心が深い当時の知識人が多く、人物ネットワークがあった。そういう人々に対して出張講師、ニュースキャスターのような役回りで路銀を工面していたかもしれない。しかし、経済的にはやがて破綻してしまったのが現実であったようだ。渡良瀬川公害の解決に一生を捧げた田中正造も亡くなった時には身の回りのものしか残っていなかったようだ。

2010年12月27日 (月)

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(10)

2010/12/27
PARTⅡ

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(10)

○「純粋な皇室観を」の章

■君が代の栄えもさそな緑なる 亀の尾長き春をためしに
■玉鉾の道の栄えやよろづ世に 亀も緑の色を見すらし

著者は「彦九郎が緑亀を入手して、これこそ天皇の徳本政治の行われる瑞兆なりとし、これを叡覧に供したというのである。」と記す。これは、白亀が現れて、神亀と改元した故事にならったようだ。彦九郎がその亀を入手した説を示した後に、「然しこの数日こそが彦九郎にとって最良の時で、間もなくきびしい波乱の時が迫っていたのである」とこの章を結んでいる。改元が行われるには大きな理由・必然性が必要だろう。彦九郎がどんな目的で緑亀を献上したか定かではないが、変化が起こるエネルギーが不足していたのであろう。

追記:当地伊勢崎の八幡沼開鑿の指導者・二代目川端宇兵衛も高山彦九郎の後を追うように江戸やその他の地方を遊学したようだ。江戸行き定兵衛というあだ名があり、隣家に行くように気楽に長い旅に出てしまったという話が後裔に伝わっているとの事だ。残念ながらその記録は残っていないようだ。しかし、当時の土木技術集団の黒鍬が八幡沼開鑿に関係したのは確実なようで、四国の宇和島と関係がありそうだと、当地の郷土史家が語ってくれた。振り返ってみると、高山彦九郎は四国へ足を踏み入れていないようだ。四国の溜め池作りは空海以来、技術が高いのを知って、二代目川端宇兵衛は四国を訪問して人脈作りをしていたのではないかと推測される。一度先方の図書館に問い合わせをしたが、該当する記録は得られず以後調査は頓挫しているが、四国、高山彦九郎、川端宇兵衛という点が線で結ばれる可能性はゼロではないだろう。

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(9)

2010/12/27

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(9)

○「純粋な皇室観を」の章

18歳の彦九郎が上京して見た皇居は荒廃の極みであった。また、天明八(1788)年の京都の大火で皇居も炎上した。著者須永義夫は、「幕府は松平定信に禁裏修復を命じ、寛政二年の十一月にほぼその造営を終える。彦九郎はその造営完了と共に上京して新居を拝したのだから、その心情は輝いている。」と述べる。

■そらにきる衣やけさはほのぼのと 霞ぞかかる九重の春
■野辺に出てみればや四方の山々も 雪とけそめて緑をぞ見す
■花や人や花とも見え分かぬ 都の春は錦なりけり
■われをわれとしろしめすそや皇(すめろき)の 玉の御こゑのかかる嬉しさ

著者は、「始めの歌は明けて寛政三年の元旦に岩倉三位具選卿へ新年の賀詞として捧げたものである。次の二首は雪解けが始まって緑してくる山々、都の花時の賑わいを御代の春の晴れがましさとして描いている。彦九郎の純粋な皇室観が直接に伝わってくる歌だ。最後の歌は彦九郎の最も代表的な歌とされている。」「~、直接御声をかけられたように感激し、恐懼してこの歌を詠んだのである。」と続ける。光格天皇が公卿に高山彦九郎の事をお尋ねになったのを知ってこれほどの喜びようであたので、まさに「感激・恐懼」としか言いようがないようだ。最後の歌は太田市の高山彦九郎神社社務所近くに歌碑となって建っているとの事だ。「彦九郎四十五歳、久留米で自刃する二年前の歌である。」

追記:最後の一首は伝聞の形式であり、直接のお声掛けはなかったようだ。やはり、どこかに見えざる大きな溝があったのだろうか。何とか年内にこの読みかじりを終了したい。本日、:(高山)彦九郎 歌と生涯(10)も投稿する。

2010年12月26日 (日)

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(8)

2010/12/26

最近は温暖化が問題になっているが、冷戦時代には「核の冬」が本気で議論されていた。これはなぜ恐竜が滅びたかという問題にも通じる。核戦争、小惑星の地球への衝突、火山の噴火等で微細な粉塵が巻き上がり大気を覆うと相当長い期間空中を浮遊し太陽光を遮り地球は急激に寒冷化する。江戸時代後期の飢饉の多発もこの気候の変動の要因が大きかったようだ。今年の夏の猛暑で群馬県の稲作も品質低下と価格の低下で大きな影響を受けた。技術が高度化すればするほど想定外の問題が起きやすくなる可能性もある。稲の品種改良も食味とか良いものが残される。気候変動に強い品種は可能なのか。こしひかりは倒れやすく、倒れれば収穫の作業が難しく手間もかかり、品質も低下する。そこで、群馬県ではゴロピカリが推奨されてきたようだ。今年の猛暑ではこのゴロピカリの被害が大きかったようだ。大きな気候変動は避けられない。コメの収量が減れば米価も上がる。歌人須永義夫氏は「彦九郎 歌と生涯」の中で「八戸二万石の藩下だけの餓死者でも六万人であった。」と書いている。江戸時代、地域により飢饉に備えるための食料蓄備の郷倉が建てられていたようだ。危機管理の知恵といえるだろう。しかし、飢饉の時高値で売れる米は、貧困者の方に回ってこない。これは、江戸時代も現代も変わりがない現実だ。昨日も寒波到来で寒い一日であった。その寒さを手がかりにもう一度、高山彦九郎の歌を味わってみたい。今日風に言えば、高山彦九郎はリスクマネイジメント思想の創始者だったのかも知れない。国定忠次、西野目宇右衛門、川端宇兵衛もそういう流れで見直してみたい。

TAVE= 3.2
TMAX= 8.5
TMIN= -1.7
DIFF= 10.2
WMAX= 6
SUNS= 8.6
RAIN= 0

以下本題。

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(8)

○「飢餓と、生への執着」の章

著者須永義夫はこの章を「この北国行の中で彦九郎の心底を動揺させたのは数年前の天明の大飢饉と、人間の生への執着の恐ろしさであった。」と始めて、「村人らは野草鶏犬牛馬を食い尽くし人を食う。」と彦九郎が見聞して残した記録を述べる。その悲惨さには目を覆うばかりである。高山彦九郎 記念館の高山彦九郎日記一覧表によると、この章の内容は「北行日記」(寛政2年(1790)6月7日~11月30日)に記され、この時彦九郎44歳である。彦九郎をこの旅に駆り立てた物は何か。永遠に解けない謎かもしれないが、どうしても知りたくなる。

■降りしめる雨さえいとど侘びしきに 枕に通ふ棹鹿の声
■雨に行き旅には何も詠ふべき もの荒磯の波ぞ烈しき
■身におほふものもあらぬとみちのくの 道なき民のこころさぶしも

「村々での話に彦九郎の心は押しつぶされほどであったろうが、歌ではわずかに心中の苦しさを述べるにとどまっている。だが、その抑制された心に一層歌の心を推量することができる。」と著者はこの章を終えている。第一首、「棹鹿」は「さ(接頭語)+牡鹿」の意味。著者は彦九郎が聞いた飢饉の時の様子を、人の死骸があちこちに散乱していただけではなく、「この話を聞かされた宿でも布団衣類はなく、すでに晩秋の夜に纏ったのは薄い藁畳であった。」と記している。それに加えて、雨がふりしきるのでは侘びしさもますますつのるであろう。そんな侘びしい宿でいざ眠ろうとすると牡鹿の鳴き声が枕元に聞こえてくる。彦九郎の事である、この牡鹿の声に単に哀感を味わっているだけではなく、なにか深く感じる所があったと思う。第二首は、旅に出たが、見聞きしたのは歌に読めないほど悲惨な現実だった事を示している。第三首、「道なき民」とは生きる道を失った民ととれるだろう。食だけではなく衣も欠いていたのである。人間の尊厳を全て失った民を見て彦九郎は何を感じたか。彦九郎の師は伊勢崎藩校学習堂の命名者である伊勢崎藩儒の村士玉水といわれる。青年時代には儒学等を学んでいたであろう。彦九郎にとってこの旅は儒教の経世済民の理想を確信させたのではないか。WIKIPEDIA儒教の項(最終更新 2010年11月30日 (火) 13:11 )を以下に示す。
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儒教(じゅきょう)とは、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上に渡って強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学(中国語: Ruxue(ヘルプ・ファイル))、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。

東周春秋時代、魯の孔子によって体系化され、堯・舜、文武周公の古えの君子の政治を理想の時代として祖述し、仁義の道を実践し、上下秩序の弁別を唱えた。その教団は諸子百家の一家となって儒家となり、徳による王道で天下を治めるべきであり、同時代の武力による覇道を批判し、事実、そのように歴史が推移してきたとする徳治主義を主張した。その儒家思想が漢代、国家の教学として認定されたことによって成立した。

儒教の特徴は簡潔に述べるならば、「修己治人」あるいは、『大学』にある「修身、斉家、治国、平天下」であり、「経世済民」の教えである。
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2010年12月25日 (土)

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(7)

20010/12/25

クリスマスは無縁のものと思っていたが、ケーキとチキンが巡ってきた。感謝。寒いが、外に新聞を取りに出たついでに温度計を見ら-4℃であった。同じ時間帯のアメダスの今朝7時の気温は-1.7℃であった。気象予報で山間部は雪と伝えていた通り寒い朝となった。気温の違いは我が家の温度計がXなのか?この温度計は養蚕をしていた時に使用した湿度計付きの物だが湿球は割れていて年代物だ。大体の気温を知るためにずっとぶら下げている。

以下本題。

読みかじりの記:(高山)彦九郎 歌と生涯(7)

○「林子平との出会い」の章

彦九郎は祖母の喪が終わると上京し、この翌年の寛政二年の夏に、ロシア船のしばしば侵すことのあるという蝦夷地踏査の旅に上った。著者須永義夫は「この旅は長途の旅であったが、蝦夷地への渡航は禁止され、空しく引き上げる途中で同じく外夷侵略の危機を訴えていた林子平に逢う。」記し、「子平は寛政五年不遇のうちに没したが、この年は彦九郎自刃の年でもあったのである。」と振り返る。蝦夷地へ入ることが出来なかったが、岐路仙台の林子平の家に十日程泊まり親交を深めた時の歌が「北行日記」見えると、その歌を引用している。彦九郎と林子平は互いに共鳴する思想を持って行動したのでだろうが、十一月下旬雪籠もりして、酒を酌み交わしつつ何を語り合ったのか知りたい所である。

■陸奥の林に生ひし三国草 いつか雲井に実を結びけり
■伝へては我が日の本の兵(つはもの)の 法の花さけ五百年の後
■五百年の末の松山外(そと)の浜 波風立たじ蝦夷か千島も

著者は「一首目は子平の家に集まる志を持った幾人かの友が、結束固く実を結んだことを賞賛しているのだろう。」と述べている。広辞苑によると林子平は江戸の人、仙台に移住、長崎に遊学、海外事情に注目、海防に心を注ぐ云々とある。WIKIPEDIAによると「元文3年(1738年)、幕臣岡村良通の次男として江戸に生まれる。宝暦7年(1757年)、姉が仙台藩主伊達宗村の側室に上がった縁で兄とともに仙台藩の禄を受ける。」とある。「陸奥の林」と、江戸から仙台に居を移した林子平を喩え、「生ひし三国草」とは子平を慕ってあちこちから(三国)集まったきた門下生を表しているようだ。「雲井」も空高いさまとして林子平の志が実を結んだ事を感嘆しているのだろう。
「次の歌は林子平の書『海国兵談』の草稿を見ての感慨である。この啓蒙の書によって日本の目途が明らかになり、この国に花咲く後の世を願っている。」と著者は記す。別記のWIKIPEDIA記載の『海国兵談』上梓の経過を見ると、高山彦九郎に五百年後の日本の姿を思い起こさせるのに十分な衝撃を与えたと思われる。「法の花さけ五百年の後」とは何となく意味は理解はできる。しかし、なぜ五百年後なのか。彦九郎が「法」で何を意味したか定かではないが、道理、人道というような広い意味を考えていたのであろう。その対局が、非法、不法、非道理、非人道という事になるのではないか。「伝へては我が日の本の兵(つはもの)の」解釈は難しい。どこにかかるのだろうか。「我が日の本の兵(つはもの)の 法」と繋がるように思われる。それでは、「伝へては」とはどんな意味か。「伝へては、伝え、...、伝へては、伝え、...」と次から次へと伝える様が思い出される。WIKIPEDIAによると、林子平は幕臣岡村良通の次男とあり、高山彦九郎もその血筋を辿ると数百年前の武士の血を引いている。高山彦九郎も林子平も「我が日の本の兵(つはもの)」という本来の武士精神の自覚の点では共通した意識があったのではないかと思う。武士とは、その発生から武力集団として地位を築いてきた。その支配体制がほころびて来たのが彦九郎の生きてきた時代であった。高山彦九郎も林子平も近世的なな日本という国家と日本人という認識を当時の世界情勢から形成しつつあったように感じる。「また一首は、その五百年を待つ間に、蝦夷、千島に波風の立つことを憂いているのである。こうして二人が願った新しい国家体制が生まれる明治までまだ七十八年を要したのである。」と著者は述べる。三首目は法の花がさいた時を詠ったが、ようだが、彦九郎や林子平の思想が実現されれば、五百年後には波風が立つまいと詠っているようにも思える。「波風立たじ蝦夷か千島も」の「か」については意味がよくとれない。「も」の誤植か。その場合は、内陸の「松山」と沿海部の「外(そと)の浜」という対比と、「蝦夷」と「千島」の対比として理解しやすいと思うが。最近の国境問題を見るにつけ、五百年後に法の花が咲くのか。「伝へては、伝え、...、伝へては、伝え、...」と次から次へ努力を重ねて行かない限りついにその花を咲かせるDNAはとぎれてしまうのではないか。改めて、高山彦九郎の時間スケール感覚を見直した。因縁を辿ると、この世界には新しいことは無いようにも見えてしまう。
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尚、WIKIPEDIAの林子平の行を以下に引用しておく(最終更新 2010年11月2日 (火) 06:56 )。:林 子平(はやし しへい、元文3年6月21日(1738年8月6日) - 寛政5年6月21日(1793年7月28日))は、江戸時代後期の経世論家。

高山彦九郎・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人。名は友直。のちに六無齋主人と号した。

経歴・人物
元文3年(1738年)、幕臣岡村良通の次男として江戸に生まれる。宝暦7年(1757年)、姉が仙台藩主伊達宗村の側室に上がった縁で兄とともに仙台藩の禄を受ける。

仙台藩でみずからの教育政策や経済政策を進言するも聞き入れられず、禄を返上して藩医であった兄の部屋住みとなり、北は松前から南は長崎まで全国を行脚する。長崎や江戸で学び、大槻玄沢、宇田川玄随(げんすい)、桂川甫周(ほしゅう)、工藤平助らと交友する。ロシアの脅威(きょうい)を説き、『三国通覧図説』『海国兵談』などの著作を著す。『海国兵談』の序を書いたのは、仙台藩医工藤平助であった。また『富国策』では藩の家老佐藤伊賀にあて藩政について説いたが、採用はされなかった。

『海国兵談』は海防の必要性を説く軍事書であったため、出版に協力してくれる版元を見つけることができなかった。そこで子平は、16巻・3分冊もの大著を自ら版木を彫っての自費出版にて世に問う決意をする。『海国兵談』は寛政3年(1791年)、仙台で上梓された。しかし、老中松平定信の寛政の改革がはじまると政治への口出しを嫌い、消極的外交策に立つ幕閣に目を付けられ、『三国通覧図説』も幕府の危険視するところとなり、両著はともに発禁処分が下され、『海国兵談』は版木没収の処分を受けることとなった。しかしその後も自ら書写本を作り、それがさらに書写本を生むなどして後に伝えられた。

最終的に、仙台の兄の下へと強制的に帰郷させられた上に禁固刑(蟄居・ちっきょ)に処され、そのまま死去する。蟄居中、その心境を「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」と嘆き、自ら六無斎(ろくむさい)と号した。

『三国通覧図説』はその後、長崎よりオランダ、ドイツへと渡り、ロシアでヨーロッパ各国語版に翻訳された。それは地図の正確性には乏しく、特に本州・四国・九州以外の地域はかなり杜撰に描かれているものであったが、後にペリー提督との小笠原諸島領有に関する日米交渉の際に、同諸島の日本領有権を示す証拠となった。

林子平の墓は仙台市青葉区にある龍雲院にあるが、その龍雲院の所在地は1967年(昭和42年)の住居表示の際にそれまでの半子町から、墓があることに因み子平町と改称されている。

高山彦九郎・蒲生君平ともに「寛政の三奇人」と称された。
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    初心者向け柿栽培参考書(旧版)。新版と比較すると楽しい。
  • 山科正平: 12_細胞を読む   電子顕微鏡で見る生命の姿
    細胞はどんな部品からできているのか。そんな疑問に答えてくれる一冊。何事も形を見るのが第一歩。μからÅオーダーの世界で、細胞をメスで解剖するように、電子顕微鏡というメスで解剖して見せてくれるので興味が尽きない。
  • 柳田充弘: 11_細胞から生命が見える
    著者の専門は分子生物学、細胞生物学。普段生物を考えても細胞レベルで止まってしまう。その細胞の中で色々な分子が働いている。細胞こそ生命の基礎だが、その細胞の中の動きを知るのに最適な一冊。疑問の発端はなぜ発根剤が効くのかということ。薬剤が細胞膜を通過して細胞内で分子と分子が作用するイメージができた。本書でできた細胞のイメージは小さな無数の穴が空いた水分が充満したヨーヨーのようなもの。そのヨーヨーの中に分子部品が詰まっている。細胞自体もタライの中のヨーヨーのように浮かんでいる。細胞図面の空白部は真空でなく水分だ。細胞の内外に水がないと細胞は生きられない。水が生命のゆりかごだ!
  • 野口悠紀雄: 10_ホームページにオフィスを作る(2001年 光文社)
    ITが輝いた時代の作品。HPの活用法は参考になる。参考:url=http://www.noguchi.co.jp/(野口悠紀雄 ONLINE)
  • 小池洋男 編著: 09_果樹の接ぎ木・さし木・とり木(農文協:2007/3/31第1刷)
    やや専門的であるが、実務専門化が分担執筆しており、その場で役に立つ一冊。
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